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移転しました(2014/1/1)

京都ぶらぶら歩き2/青蓮院門跡

2008-08-24 | 歴史の小旅
昨日の続き。
京国博で坂本龍馬展を見学してからまたぼちぼちと歩いてスタート地点あたりまで戻る(笑)
目的はこちらでした。
私がなっがいこと「すえん」だと思っていた(笑)、「栖園(せいえん)」の琥珀流し。

 

私の大好きな冷菓です(笑顔)
左側が琥珀流し。蜜に寒天が浮かんでいるのですが、これがもうふるっふるです。
寒天だけど口の中に入れるとほどける感じ?そんで加糖されてないんだと思う…
蜜の甘さで食べます。京都らしいなあという上品な甘さ。
この蜜が月替わりになってます。8月は冷し飴かな、多分。あの味は(笑)
何月までやってるのかな。冬場はやって無かった気が。
わらび餅も捨てがたかったので、ミニセットを頼む。うまスー
夏場は鍵善のくずきりか栖園の琥珀流しっすね。

 坪庭もステキ。いかにも京都(笑

栖園を出てぼちぼちと青蓮院門跡へ。



青蓮院は格式の高い門跡寺院です。
門跡寺院というのは、皇族や摂関家の子弟が出家して入る寺院の事。
真言宗では仁和寺、天台宗では青蓮院が筆頭に上げられる事が多いのかな?
よく分かりませんが。
青蓮院には法親王が入る事が多かったようで、幕末には中川宮朝彦親王が門主として入られていました。門主であった頃は青蓮院宮と呼ばれていた。

 

宮は公武合体の立場に立って孝明天皇の信頼がとても厚かった人物で、文久3年8月18日のクーデターの立役者のひとりともなっている。
そう言う係わりから薩摩藩が青蓮院の護衛的役割をしていた時期がありました。
中村半次郎、後の桐野利秋ですが、上京したての彼はここで守衛を務めていたんですな。
また薩摩藩家老小松帯刀に見出されたのもこの頃とされ、他藩人との交流もこの頃に一気に広がります。中村が後に西郷・大久保に多く用いられることになる一因はこの頃に広げた人脈があるという話も有る。
鹿児島での西郷との出会いは、中村の人生を変えたと言って過言ではないと思いますが、実際の所中村に目を付けて個人で動けるまでに引きたててやったのは小松ではないかという気はしますな。

 
本堂への渡廊と客間から見た庭(小堀遠州らしい)

京都時代の中村というと「人斬り半次郎」という通り名?が有名ですが、史料的に残っている中村の「人斬り」はたった1件。
それも一時期流行った天誅とは違いこちらは藩絡みと言っていいようなもんです。
決して中村個人の判断で殺せるような人物ではなかった。
残っていないから他は斬っていないなんてよう言いませんが、卑賤とはいえ当時の中村の"位置"というか"立場"を考えると「人斬り」と称される程人を斬ってはいなかったんではないかと思います。

 
客間から出た所の廊下と客間の襖(綺麗だった)

彼に関しては色々と疑問があるのですが、その内のひとつがその「人斬り」の呼称です。
普通に人斬り半次郎と言いはしますが、コレっていつ頃から言われ始めた事なんですかね?幕末からじゃないような気がしますな~…
調べていないので何とも言えませんが。案外戦後からじゃね?(^^A
なんというか中村半次郎に関しては桐野利秋期(?)の、一般に流布している西南戦争期のイメージが悪すぎる気がします。あーそれに西郷隆盛を庇いたいという心情もプラスされてるよな、たぶん。
それに「人斬りだから」という先入観が加わると、色々な所が中々修正されにくいのかなーと。

 

今年は百日紅の表年?なんでしょうか。色んな所で見ますが、綺麗ですね。

御本堂で大分長い事居座ってしまいました。
…いやー初めはお寺の方と天気等の世間話をしてたんですが、桐野の話になり歴史の話になり、宗教信仰心云々の話になり最後の方なんか人生相談入ってた…(笑)
気が付いたら1時間半程話し込んでました。
帰る時に「これあげるよ」ってみかん貰う。青不動さんのお下がりでした。ええんか。




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