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明主様の御垂示 (神慈秀明会会員の通勤カレッジ)

明主様・岡田茂吉師の御垂示を通勤途中の電車内で学ぶためのブログです。

「浄霊力と想念」 3

2021年02月28日 17時20分00秒 | 昭和28年7月・8月・9月

明主様御垂示 「浄霊力と想念」 3 (昭和28年8月1日)

信者の発言
「だいたい信仰が深いからお蔭をいただいたというのは、実はそうではなくて、神様のお蔭をいただけたから信仰が深くなるということでございますから」

信者の発言
「信ずるから治る、信じないから治らないというのではございませんから」

明主様御垂示
「いや、信じなくても治ります。

ところが神様のほうは、信仰にはいらないうちは信じなくても治るわけです。

ところがだいたい分かってきても信じないと、そこにちょっとくい違いがあるのです。」


信者の発言
「私はこう言うのです。同じ御浄霊をお受けしても、その人が本当にありがたいというときと、馬鹿にしているときとは自ずとお蔭をいただく程度に差があるというのです」

明主様御垂示
「ところが一概にいかないので、何も知らない人は最初は、こんなことで治るものかということは、それはそれで、理屈に合っているのです。

それから奇跡を見せて、なお疑うということは、人間のほうが間違っています。

だからそこにおいて結果に違いが出て来ます。

だから再浄化というのはやっぱりそういうわけです。

一旦治ったのですから、そうすれば絶対だから、これはたいしたものだと思えばよいのですが、治ってもまだグズグズしているから、そこで正守護神が怒ってしまうのです。

そこでもう一度苦しめてやろうということになるのです。」


信者の質問
「お光をいただき病気が治りながら、想念が感謝を伴っていないというときに再浄化の可能が多くなるわけで・・・」

明主様御垂示
「そうです。神様のほうは寸分違わないので、理屈に合っているのです。

それで今言う屋根に上がって樋を直すということは立派なものですから、そのくらいで神様がけしからんと言うわけがありません。

もしそうなら神様くらい気のきかないのはないということになります。

神様はそのくらいお許しになるのが本当だと思うのが本当ですが、

それを御無礼になると考えるのは、神様は「樋を直すのが本当なのだから、オレをそんなに見ているのか」となります。

そこに神様と人間のほうとの考えが違うのです。」


「浄霊力と想念」 2

2021年02月27日 17時20分00秒 | 昭和28年7月・8月・9月

明主様御垂示 「浄霊力と想念」 2 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「講演会で千篇一律だと話しますと、想念の・・・感謝ということを説く道がなくなりますが、そこで想念の並行という点を説くと」

明主様御垂示
「それは説かなければよいです。

しかし想念がなければ御利益がないと言うと、それは強制されたもので、想念でないのです。

想念というのはわき起こるものです。

だから千篇一律と思っても、自分だけはどうしてもそう思えないという、それが本当の想念で、これが大乗的なものです。

想念を説くのもよいのですが、それもときと質問によってです。

ですから私は普段は言いません。

さっきの質問によって、そう言わなければならないからそう言ったのです。」


信者の質問
「御守をいただくことによって想念が浄められてゆくということは」

明主様御垂示
「お守をいただけば想念が浄まることも事実であり、

また想念のいかんによってますますお蔭をこうむることも事実で、一方的には決められないものです。

これは真理ですから、真理は決められないものです。」


信者の発言
「木原さんが言わんとしているのは、木原さんは御守中心主義ですから、御守をいただいた以上、想念によってお光の威力に増減はないというのです」

信者の発言
「私は根本原則を言い、松井さんは想念によってと言うのです」

明主様御垂示
「ですからどっちも合っているのです。」


信者の質問
「結局身魂が浄まって上がって行くほど、光は強くなって行くというわけでございますので」

明主様御垂示
「そうです。だからそこで決められないというのはそこです。

理屈は両方にあるのです。ちょうど十の字です。

緯のほうは緯ばかり言っていて、経のほうは経ばかり言ってます。

ところがやっぱり真ん中に行くのですから同じです。」


信者の質問
「ですから木原さんと私と合せて一本というわけですか」

明主様御垂示
「まあ、そうも言えます。」 つづく


「浄霊力と想念」 1

2021年02月26日 17時20分00秒 | 昭和28年7月・8月・9月
明主様御垂示 「浄霊力と想念」 1 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「レントゲンの光より御守様の光のほうが強いとの御教えをいただいておりますが、

先日御守様をおかけいたしてレントゲンが写りましたことがありましたが、これは相手の信者に分からせるためでございましょうか」

明主様御垂示
「それもあるし、同じ御守によっても、かける人によって光の強いこともあるし弱いこともあります。

信仰の強い人は光も強いのです。

それから扱い方によっても違いますし、それから普段の扱い方考え方によっても光は強くなったり弱くなったり、絶えず動揺しているのです。

だからだいたいは無論強いのですが、その場合によっては、以上のこともあり得るのです。

それで一番影響するのは、その人の信仰的な想念が非常に影響するのです。」 (中略)


信者の質問
「想念の問題ですが、お守をいただけば皆一様に効果が同じだという考えを持っている信者が多いのですが、

そこにレントゲンの光がお守を通ったり通らなかったりするときに疑問があるということになりますが」

明主様御垂示
「ところが想念の問題はこうだと思うと窮屈になるのです。

だからそれは自分みずからわく気持ちでよいのです。

だからその人がたいして思ってない、あるいはありがたくてありがたくてしようがないという、それでよいのです。感謝です。」 つづく

「明主様御写真も家屋の大きさに相応すべき」

2021年02月25日 17時20分00秒 | 昭和28年7月・8月・9月
明主様御垂示 「明主様御写真も家屋の大きさに相応すべき」 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「光明如来様を御奉斎いたし、大光明如来様は家が粗末なために御奉斎いたしておりませんが、

その場合に明主様のお写真を御奉斎するのは御無礼になりますのでしょうか」


明主様御垂示
「それは構いません。私の写真も大きい小さいがありますから、小さいのをすればよいです。」

「御神体のお供えも臨機応変」

2021年02月24日 17時20分00秒 | 昭和28年7月・8月・9月
明主様御垂示 「御神体のお供えも臨機応変」 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「出張所の場合でお膳をお供えすることができかねます場合にはお茶とお菓子でよろしゅうございましょうか」


明主様御垂示
「それはよいです。それはその家とその状態によって臨機応変でよいです。

それから御神体も、小さな家に大きな御神体はいけません。

と言っても今は「大光明如来」と「光明如来」だけですが、

それも大光明如来様がよいと思って小さな家にするのはいけません。

それは光明如来様のほうがよいです。

ちょうど合ったのが本当なのです。」