明主様御垂示 「運命と宿命」 (昭和28年9月1日)
信者の質問
「人間の宿命は上中下のうち一段で、その上にも下にも行けないということでございますが、
地獄的苦しみから天国的状態に変わることがありますが、そこに矛盾を感じます」
明主様御垂示
「それは違います。
宿命といっても、地獄の宿命、天国の宿命というのはないのです。
今の宿命、運命というのは階級です。
天国、地獄ということとは関係ありません。
例えてみれば、人の上に立つ人間、親分とか首脳者になる者はもう決まっているのです。
それで親分になる人は必ず良くなります。
乞食になっても、そういうのは乞食の親分になります。
それからどんなに偉い人でも、親分になれない人は、番頭とか支配人になります。
そういうように決まっているので、これが宿命です。
またそれでなければその人としての本当の発揮ができないのです。
植物でいえば蔓性植物と言ってからむのがありますが、人間でも同じで、竹なら竹がなければ、それに巻きつけないから生存ができないのです。
それと同じで、誰かに頼らなければ生きて行けないのがあります。
それからまた痩せても枯れても親分にならなければならない人があります。
からませるほうですが、それはその人の宿命です。
ですからそういう宿命がない人が無理に親分になろうとすると失敗するのです。
私は昔からどこに行っても、乾分(こぶん)はできるのですが、決して私を引き立てるとか、私が助けられるという場合はないのです。
私は、私には助けられるという性能はないと思って諦めていました。
何かにすがることはできないのです。
ですから最初は親しくしていても、後になると先方で相談にくるようになるのです。
私は信仰にはいる前から、誰かに相談するということはできなかったのです。
どうも後になると先のほうが下になってしまうのです。
それは私が大木のような宿命だからなのです。
それが宿命というものです。
それは生まれながらにしてそういうようにできているのです。
労働者などでたまたま出世しても、宿命が相応しないのは、やっぱり落ちてしまいます。
それからまた少し出世した人が、労働者とかを見て、なぜ一生懸命にやって出世しないのだろうと思うことがありますが、
それはそうではないので、その人はそれで満足しているので、それが宿命です。
ただその宿命の中で上になったり下になったりするのは自由で、それが運命です。
ですから運命は自分で変えることはできますが、宿命を破ることはできません。
宿命というのは限定したものです。
しかし運命というのは宿命の最高にまではなれるのです。
ですから人に使われる者としての最高になるのは、店の番頭とか支配人とかですが、それは親分に使われる者の中では最高のものです。
その最高のところまでは行けるのが運命です。
ですから運命は変えられるが、宿命は変えられないのです。」
信者の質問
「商売人に向くとか農業に向いているという、人間の職業も宿命に関係があるものでございましょうか」
明主様御垂示
「それが宿命です。
それで同じ農家になっても、上になったり下になったりします。
小作になったり自作になったりするのは運命です。」
信者の質問
「宿命ということと幸福とは関係がありますでしょうか」
明主様御垂示
「あります。
例えてみれば、生まれながらにして非常に良い所に生まれて、一生身分が良いということは、苦しまずに済んでいるから幸福です。
それは幸福の宿命を持っているわけです。
また同じ幸福でも、身分だけが良くて、あとがはなはだよろしくないということもありますが、それは運命が悪いのです。」
信者の質問
「人間の宿命は上中下のうち一段で、その上にも下にも行けないということでございますが、
地獄的苦しみから天国的状態に変わることがありますが、そこに矛盾を感じます」
明主様御垂示
「それは違います。
宿命といっても、地獄の宿命、天国の宿命というのはないのです。
今の宿命、運命というのは階級です。
天国、地獄ということとは関係ありません。
例えてみれば、人の上に立つ人間、親分とか首脳者になる者はもう決まっているのです。
それで親分になる人は必ず良くなります。
乞食になっても、そういうのは乞食の親分になります。
それからどんなに偉い人でも、親分になれない人は、番頭とか支配人になります。
そういうように決まっているので、これが宿命です。
またそれでなければその人としての本当の発揮ができないのです。
植物でいえば蔓性植物と言ってからむのがありますが、人間でも同じで、竹なら竹がなければ、それに巻きつけないから生存ができないのです。
それと同じで、誰かに頼らなければ生きて行けないのがあります。
それからまた痩せても枯れても親分にならなければならない人があります。
からませるほうですが、それはその人の宿命です。
ですからそういう宿命がない人が無理に親分になろうとすると失敗するのです。
私は昔からどこに行っても、乾分(こぶん)はできるのですが、決して私を引き立てるとか、私が助けられるという場合はないのです。
私は、私には助けられるという性能はないと思って諦めていました。
何かにすがることはできないのです。
ですから最初は親しくしていても、後になると先方で相談にくるようになるのです。
私は信仰にはいる前から、誰かに相談するということはできなかったのです。
どうも後になると先のほうが下になってしまうのです。
それは私が大木のような宿命だからなのです。
それが宿命というものです。
それは生まれながらにしてそういうようにできているのです。
労働者などでたまたま出世しても、宿命が相応しないのは、やっぱり落ちてしまいます。
それからまた少し出世した人が、労働者とかを見て、なぜ一生懸命にやって出世しないのだろうと思うことがありますが、
それはそうではないので、その人はそれで満足しているので、それが宿命です。
ただその宿命の中で上になったり下になったりするのは自由で、それが運命です。
ですから運命は自分で変えることはできますが、宿命を破ることはできません。
宿命というのは限定したものです。
しかし運命というのは宿命の最高にまではなれるのです。
ですから人に使われる者としての最高になるのは、店の番頭とか支配人とかですが、それは親分に使われる者の中では最高のものです。
その最高のところまでは行けるのが運命です。
ですから運命は変えられるが、宿命は変えられないのです。」
信者の質問
「商売人に向くとか農業に向いているという、人間の職業も宿命に関係があるものでございましょうか」
明主様御垂示
「それが宿命です。
それで同じ農家になっても、上になったり下になったりします。
小作になったり自作になったりするのは運命です。」
信者の質問
「宿命ということと幸福とは関係がありますでしょうか」
明主様御垂示
「あります。
例えてみれば、生まれながらにして非常に良い所に生まれて、一生身分が良いということは、苦しまずに済んでいるから幸福です。
それは幸福の宿命を持っているわけです。
また同じ幸福でも、身分だけが良くて、あとがはなはだよろしくないということもありますが、それは運命が悪いのです。」