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明主様の御垂示 (神慈秀明会会員の通勤カレッジ)

明主様・岡田茂吉師の御垂示を通勤途中の電車内で学ぶためのブログです。

「自殺は神様に対する反逆」

2013年08月05日 17時20分00秒 | 昭和23年10月・11月・12月
明主様御垂示 「自殺は神様に対する反逆」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「ソクラテスが、獄中でみずから毒杯を仰いで死についたことも、不正に対する抗議かと存じますがいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「さあこれは・・・賞めていいかけなしていいか判りませんね。

いかなるときでも自殺はいけない。これは神様に対する反逆になるから。

彼は教育家であって宗教家ではなかったから、自殺がいけないということは知らなかったのでしょう。」


信者の質問
「ガンジーの断食も不義への抗議とみられますが・・・」

明主様御垂示
「あれは「無抵抗の抵抗」といわれるもので、インドではしかたのないことでしょうね。

イギリスもインドに対してはひどいこともしている。

あるときなど、何千人というインド人を虐殺したこともあるのです。

しかしガンジーがこの前ピストルで撃たれて死んだのは御守護がなかったんですね。

御守護があればあんなことにならずに難を避けられたでしょう。

観音教の信者になってたらよかったのですよ・・・」

「神様が人を使って教団の悪宣伝をさせることもある」

2013年08月04日 17時20分00秒 | 昭和23年10月・11月・12月
明主様御垂示 「神様が人を使って教団の悪宣伝をさせることもある」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「利己的な人が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやってはその人に対し無慈悲でもあり、また一面社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、これはいかがいたすべきでしょうか。」


明主様御垂示
「悪宣伝と言っても、神様が人を使って悪宣伝をさせているのかもしれないのです。

今度の税金問題でも、私は邪神の働きかと思って調べたところそうではなくて神様がやっておられることが判りました。

だからあれによりかえっていい影響があっちこっちで起きてきてるんです。・・・

だから信仰が深まるにつれてむしろ反対になってくるべきです。


また悪を助長すると言っても、それを人間が抑えたりすることはできないんです。

それよりも自分の悪、自分の間違いを訂正することです。

他人の悪を訂正することなんかできない。

人をどうしたいと希望することはいいが、行為によってどうする、ということはできないのです。・・・

物事にはやるべきこととやってはいけないこととがあるのですが、ふつうはやれと言うとやりすぎるし、やってはいけないと言うとぜんぜんやらない。


食物の味でもそうです。甘みが少ないというと甘くしすぎてしまい、甘すぎるというと今度はからくしすぎてしまう。ちょうどよくするのは難しいのです。

だからその物事の程度を考えてすることが大切なのです。それが智慧です。


神様にお任せするといってもやはり程度がある。

「人事を尽して天命を待つ」との諺(ことわざ)があるがこれがいいことです。

人間としてできること、すべきことをやってその先は神様にお任せすべきです。

だからそれは時所位に応じて変わってくるべきものです。

やはり実篤(さねあつ)の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」とありますがいい言葉ですね。

神様だって強い場合もあり弱い場合もある。

観音様でも馬頭観世音は口から火焔を吹き目はランランと輝いてます。

が、これは畜生道を救うお働きを表わしているのです。

いろいろなことをうまく使うところに智慧があるんです。

一番効果のある方法がいいのであって、これをみつけるのが智慧です。」

「自己を滅してしまってはオジャン」

2013年08月03日 17時20分00秒 | 昭和23年10月・11月・12月
明主様御垂示 「自己を滅してしまってはオジャン」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「慈悲は正義の裏づけが必要と存じますが、左の項目において慈悲と正義との関連につき御指示をお願い申し上げます。

キリストの「人若(も)し汝の右の頬を打たば左をも向けよ」との無抵抗主義に・・・」


明主様御垂示
「これはいいでしょう、これくらいの心持ちなら間違いはない。

これがいいんだがなかなかできないんですよ。

大本教祖の出口なお刀自は人が金を貸してくれと言えばすぐに貸してやる。

先方が借金を返す人かどうかには頓着せず、また金を貸したことも忘れてしまう人でした。

しかしこんなことは現実問題としては無理です。

個人ならまだいいが、殊に国家の間では成り立たない。

領土を半分とられて、「ではこっちも差し上げます」・・・というわけには行きませんから。

だから、キリストが言ったような心持ちでいて、臨機応変にやって行けばよろしい。

戦時中、滅私奉公ということがよく言われたが、これは嘘で、私を滅してしまってはオジャンです。

滅するのではなく犠牲にするのならいいですが」

「女にふられたら身を引け」

2013年08月02日 17時20分00秒 | 昭和23年10月・11月・12月
明主様御垂示 「女にふられたら身を引け」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「自分の恋人と他の人との間に縁談や恋愛が起り、自分にもその縁がまとまったほうが恋人のために幸福だと思われる場合は身を引くべきでしょうか。」

明主様御垂示
「これは身を引いたほうがいいですね。

自分の恋人だったらよけいその人を幸福にしてあげるべきです。」


信者の質問
「身を引いては淋しいと思われますが?」

明主様御垂示
「ええ、それは淋しいですよ。

しかし代わりのを見つけるんですね。

女なんか世の中にたくさんあるから、むしろそれ以上の人が見つかるかもしれませんよ。」

「芸術家の人格について」

2013年08月01日 17時20分00秒 | 昭和23年10月・11月・12月
明主様御垂示 「芸術家の人格について」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「レオナルド・ダ・ヴインチはいかがでしょうか?」

明主様御垂示
「偉いですね、あの人はちょっと違いますね。日本で言えば聖徳太子です。

しかしあの人はそれほど不幸ではないでしょう?

たいへんな宗教家であり、芸術家、預言者、発明家ですね。

私はあれに似てるところがあるようにときどき思います。

ダ・ヴインチの絵だって立派なもので、「最後の晩餐」や「マリア」は実によく描けてますね。

飛行機の原型や潜水艦なんかも、あの人が発明してますが、ともかくすばらしい天才ですね。

アメリカで言えばエジソンみたいな人ですね。・・・

芸術家はなかなか複雑で、その性格なんかこうとはっきりは言えません。

北斎は貧乏していたし、尾形光琳は金持ちの息子で、その作品にも豪奢(ごうしゃ)な風が現われてますからね。


芸術家は人格的にどうかと思われることはありますよ。

雲右衛門は「浪花節」を今日のようにした人ですが、ところがあれくらい不道徳な人はない。

あれの師匠は浪花亭重吉といったが雲右衛門は重苦の細君と関係して二人で逃げたのだが、これは不道徳極まりないことです。

弟子が師匠の細君をとってしまうのですから。

で、東京にいられずに大阪へ行き、それから九州へ行って琵琶をとり入れて雲右衛門節というのを作ったのですが、三河家梅車が死んだので東京へ帰って来たのです。

だからこのように、人格と芸術とは伴わないことはあります。

雲右衛門の節はうまいが私は大嫌いです。

おもしろいことは、ほかの人の「浪花節」は私は大好きです。

というのは人格が芸術を通してみんなに働きかけるからで、雲右衛門を好む人は人格が堕落します。

それは声により霊線がみんなに働くからです。

下村観山から聞いたのですが、「絵は人格を筆と絵具で表わすものである」と言ってましたがその通りです。

いままでは本当に人格を通して芸術をみんなに伝えることがなかった。

これから人格者が出るわけです。

観音教団からすぐれた芸術家が出ることでしょう。・・・


しかし、なんですね、人格者というとふつうは道学者流に一夫一婦で酒も飲まぬ人というふうに考えがちですが、この考えは小乗であり、大乗的に見ればダラシのないような人でも人格者はいます。

武者小路実篤なんかは妻がありながら地方から出てきた娘を愛し本妻を不遇にした人です。

また島村抱月も人格者ですが、ただ単に表面だけ見ると不道徳者です。

抱月の奥さんは私も知ってますが、いわゆるオカミさん型で、芸術や文学なんかにはまったく理解がなく、主人がきちんきちんと月給でももらってくるような平凡な生活を喜ぶ人なんです。

だから抱月とは丸っきり合いっこない。

これでは二人が一緒にいては両方ともに不幸です。

そこへたまたま松井須磨子が現われて二人が共鳴してしまったのはやむを得ないことです。

「真実一路」の映画を見ましたが、あれにもそんなのが出てますね。・・・

一番いけないのは女さえ見れば手を出して享楽の道具にすることです。

これが非常にいけないのです。

が、抱月や実篤の場合はそうは言えない。これが大乗なんです。」


信者の質問
「そういう場合、罪になることはいかがでしょうか?」

明主様御垂示
「須磨子は罪が軽いですね、主人もないのだから。

その代わり抱月は罪になりますが、しかしそれを償うことをすればいい。・・・

政治でもそうです。小菅(こすげ)へ行ってる代議士でも大臣になるためには金も使わねばならない。清廉潔白では当選はしませんよ。

いま、本当に道徳的に罪を作らぬような生活をするためには山奥へ行って木の実か草の根でも食ってなければなりません。

いまの世の中はそういうものなのです。汚れきっている。

だから、私がやってきれいにするのです。そしてそのために宗教が必要なんです。

世の中がよくなったら宗教もいらない。」