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ソ連はポツダム宣言、降伏文書、そして極東国際軍事裁判の受益国である

2020-09-08 16:10:06 | 近現代史関連
忘れている人も多いようですけど、第二次世界大戦の初期において、ソ連はそもそも枢軸国側でした。

1939年9月1日にナチス・ドイツ軍、及びその影響下にあったスロバキア軍がグライヴィッツ事件などを口実としてポーランドに侵攻を開始したのが一般的には第二次世界大戦のはじまりとされています。

二日後の9月3日に、ポーランドと相互防衛条約を結んでいたイギリス、フランスは、ドイツ軍のポーランドからの即時無条件撤退を要求した最後通牒にドイツが回答しなかったことによりドイツに宣戦布告することとなります。

が、その直後ともいえる1939年9月17日、ソ連軍もまた、ポーランド東部に侵攻を開始しています。

これは既に締結されていた独ソ不可侵条約の秘密議定書
に基づくものであり、ソ連はドイツとポーランドを分割併合し、さらにはバルト三国、フィンランドなどへの侵略もそこには盛り込まれていました。

その後、ソ連は実際にバルト三国を強制的に併合し、1939年11月にはフィンランドに対する侵略戦争(冬戦争)も行っています。

この結果、ソ連はひとたびは加盟した国際連盟からもフィンランドの提訴により追放されています。

こうした大戦初期のソ連による戦争は、明らかに周辺国に対する侵略戦争そのものであり、またドイツとの不可侵条約を通じた「事実上の同盟」によりこれらがなされたのは疑う余地のまったくない事実です。

にもかかわらず

その後のソ連は不可侵条約を一方的に破棄したドイツとの戦争を機に連合国側となり、アメリカからもレンドリースなどによる援助を受けています。

前置きが長くなりましたが

以上の点だけ見ても、大戦初期のソ連は枢軸国側、少なくとも国際秩序を無視した侵略国家だったことは疑う余地のまったくない事実です。

さて、ここから話をドイツ降伏後の日本についてのものとします。

まず前提として、こちらにもあるように、大戦末期のソ連による対日戦争は、日ソ中立条約を違法に破棄したものです。

にもかかわらず、ソ連は連合国の有力な一員としてポツダム宣言の署名国となり、日本側が署名した降伏文書においても戦勝国となり、そして極東国際軍事裁判にもイワン・M・ザリヤノフ少将を判事に送り込むなど、影響力を行使し、それどころか日ソ中立条約を先に破棄したのは日本側であるなどのソ連にとって一方的に有利な判決を押しつけることに成功しました。

大戦初期において、明白な侵略国家だったソ連はドイツ、日本両国の敗北と、ニュルンベルク裁判、極東国際軍事裁判において自国に有利な判決を押しつけたことにより、大きな利益を得ることが出来ました。

どう考えてもソ連は、ポツダム宣言、降伏文書、そして極東国際軍事裁判の受益国であると評するしかないでしょう。

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