I believe

間違いに気づいたから、やり直そうと思います。

厄年

2013年02月05日 | 四方山話
節分でふと思い出したが、厄払いを私はしたことがない。
厄年のとき、周囲の友人(外部)はこぞって神社へお祓いを受けに行っていた。
一番最近の厄は36歳前後だが、このときは未活ではあったがマインドコントロール下にあり
まったく御払いに行く気なんてなかった。
組織では、厄なんて気にしないし、厄年という言葉じたい聞く機会もなかった。
厄払いなんてものは神社や寺の金儲けにすぎない!私たちは妙法を受持しているのだから
厄なんて無いのだ! くらいの感覚だったのか。

同時期、夫も厄年だったが、こちらも特に何もしなくていいよと私は夫に伝えていた。
だが、夫の両親はひそかに厄除け饅頭を親戚に配っていたと、最近聞かされて驚いた。
そして夫も仕事の合間に神社でお祓いを受けていたそう。私には内緒で。
私に言ってもどうしようもないので、こっそりやっていたらしい。

幸いにも、厄年だからって私の身には特に何も起こらなかった。

夫で言えば、厄のときに義父が大病を患って入院手術をするという心配ごとがおこった。
幸い、手術も成功し予後も良く、今はいたって健康で元気に暮らしている。

ふと、日蓮大聖人は「厄年」についてどういったお考えを持っておられたんだろうと気になって
調べてみた。

「やくと申すは譬へばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし、方には四維の如し」(日眼女釈迦仏供養事)

「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。
年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事)

「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」
「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」(太田左衛門尉御返事)

年齢的な節目があることは意識しつつも、厄は転じて幸いとならせ給うべしと、なんとも前向き。
そして厄年の災難を払う秘法は法華経だよと。なんともありがたい。
大厄は日蓮に任せなさいって、それもいいなうらやましい(太田殿が・笑)。

次の厄は61歳と少し先の事だが、それまでに子供たちの厄年がやってくる。
そのとき私は子供にどう対応するのか。
友人同士で御払いにどこかの神社に言って来る、と言いだしても、止めなさい!とは
言わないでおこうと思う。なんとなく。
悪鬼魔神とかは言いたくない。 
気持ちの問題ですっきりしたいっていうんなら、許そうかな。
気分転換で、髪の毛を切るのと同じ感覚だと受け止めたい。
ご祈祷を受けたことで安心しきってしまうんでなく、油断してはならない年なのだと気持ちを
引き締める、ひとつの「儀式」だったら、無問題じゃないのか。
それにそれなりの費用が発生するのも、まぁ仕方のない事。資本主義社会なのだし。 
そこにまつられた神様に「帰依」するのでなければ別にいいんじゃないのかと。
まぁ、最悪帰依しても子供の自由・・・?

しゃかりきに正法誹謗・謗法だと言われてきたアレルギーが出ている今日このごろ(笑)。
なんでも躍起になって排除しようとする組織は馬鹿だなって思い。
私はその中で育ってきちゃったんで、それが肌感覚で当たり前になっているけれども
子供や周囲に押し付けるのはよくないと認識を改めた。


そしてそれらのすべて(神社や寺に行くな・厄払いなんて不要だ!)のアナウンスが、
結局は集金のため。お金を組織に一極集中させるための詭弁だったんじゃ?と
最近はそんな風に考えている。

かといって、自分が神社へお祓い受けに行くつもりは今のところないけどね。
主人や子供の行動を制するような事はしないでおきたいと思う。

本日の所感

2013年02月04日 | 現在進行形
今年に入ってから、一日一御書を読み、勤行唱題をリビングの壁に向かって(遥拝)している。
週末とか、忙しかった日はどちらかできなかったり・どちらもできなかったりするのだけど
そのことに「罪悪感」なんてない。
活動家の頃は罪悪感をおぼえた。
休む事をよしとしない空気があった、組織に居たころは。会合も含め。

お曼荼羅をみない唱題でも、何の問題もない。
以前はこだわっていた。 どこのお曼荼羅が正しいのだろうとずっと考えていた。
最近の答えは「自分自身がこれと思えたものが正しい」となった。
誰が決めるでもなく、どこかの組織や寺に押し付けられるのでもない、自分自身が決めれば
いいこと。
まだまだ勉強が浅いので、私の考えはどんどん変わって行くだろうけど。

そういえば思いだしたが、青年部の頃に幹部の指導で
「お題目をあげるときは、池田先生にリズムを合わせなさい」というものがあった。
先生の唱題は宇宙のリズムと合致するのだ、と(笑)。
目を輝かせながら、皆聞いて!いいこと教えてあげる!と笑顔で語っていた幹部。
”なんじゃそりゃ?!”と、内心思いながら聞いていた。
私は、同中でたびたびテンテーと「お題目三唱」するたび、なんちゅうダミ声であげるんだ?
もっと綺麗な声ではっきり発声してほしいと、思っていた。
勿論そんなこと、今まで誰にも言った事はない。
あれが宇宙のリズムとかいわれても・・・・・。
いま思いだすと、ほんとうにおかしなことが、いっぱいあったなぁ。
組織ぐるみのテンテー本尊化は、明らかだった。

御書を読み始めて私のご祈念内容も明らかに変化した。
以前は、自分や家族や身の回りの人の事がらに限定されていた。現実問題の克服。
でも今は違う。
一番最初に祈念しているのは「国の安泰」
日蓮大聖人が、国家鎮護を命題としていたのも、国が平らかで豊かでなければ、その国の民が
幸せであるはずはない、というお考えだったのではないかと思った。
大聖人と思いを同じくするなら、まず祈念すべきはそのことだろう。
こんなこと、組織じゃ教えてくれ無かったよね。
すごく大事なところだとおもうんだけど。
実家の仏壇の前に置いてある、組織が配っていると思われるご祈念立て(?)にも
「大勝利」だの「先生奥さまの健康長寿」だの書いてあるだけで、国家鎮護的なフレーズは
一回も見たこと無い。
なんだよ、大勝利って(笑)。
組織さえ・自分たちさえよければそれでイイっておかしいんだよ。

国の平和、安泰をまず祈願し、その次に個人的なお願いもしている。
残念ながら俗な願い事・・・まだ欲しいもの(完売した限定品)は入手できていないんだけど、
ご祈念に入れていなかった事柄で、先月半ばにちょっと困った出来事が起きて、
その結果が月末にくるということだったが、これが見事に思い通りの・私にとって良い結果になった。
(どうしても間に合わないといわれていたものが、手元に届き「間に合った」)
これを「功徳」っていうんだろうなと、しみじみと感じ、ありがたかった。

もし組織に疑問や不満をもっていて、活動を辞めたい組織から離れたい・でも罰が当たるんじゃ?と
怖がっている人がいるならば、安心してほしい。 
組織の人がいうような脅し文句には怯えないで欲しい。大丈夫だから。新聞やめても、財務やめても、
会合に出なくても、選挙活動しなくても、みんなの党や維新に投票しても、仏罰なんか当たりません。
全然大丈夫です。
ただ、組織を遠ざけても、信心までは失わないで欲しいなって思う。
せっかく大聖人様に出会えたのに、勿体無いから。
組織が教えている事と、大聖人が真に言わんとされてきた事は、残念ながらだいぶんずれがある。
御書は難しいけど、私もわからないなりに読んでいる。その中で、気づかされることが山ほどある。

大聖人様の御心を知りたい。そうやって勉強して行くこと、自分で意味を考える事。
組織はそれを「我見に陥った解釈になる」と阻止して、あくまでも組織の幹部から講義を受けろと
言っていた。
本当の事に気付かれたら困るからそうしてたんだね。矛盾点、突かれちゃうもんね。

最近バリ活ちゃんのメールが諸事情で途切れてるんだけど、
今度メールが来たら、国家観に就いて尋ねてやろうと思う。
どんな珍回答が飛び出すか楽しみだ(笑)。