I believe

間違いに気づいたから、やり直そうと思います。

述懐22

2012年11月03日 | 40代の出来事
約7年ぶりに再会した友人は、以前接していた時より遥かに元気そうだった。
(お子さんの病気が快方に向かっている事も大きいと思う)

最初は少しだけ緊張したが、話しはじめると7年間会わなかったのが嘘みたいに
お互いの家族の話、共通の友人の話、趣味や健康など、次から次へと話題がでてきて
時間を忘れてしゃべっていた。

彼女は話の終わりごろになって「しょうらんは幸せそうでいいな」と言うので、驚いた。
確かに不幸では無かったが、幸せ自慢をしたつもりも無かったのに。
なんでそう思うの?と聞いたら、彼女は「主人とうまくいっていない」と悩みを打ち明け始めた。
そう深刻でもない、よくある「心がすれ違っているかも?」「価値観が違う」というエピソード。
誰にでもあるよ、ウチだってこうだよ、と自分の事を話したが、彼女は真面目な顔で
「今日は”祈れば?”って勧めないんだ。信心の話しないね」と言った。
私は、ええーっ?と驚いて聞き返し、それが面白かったのか彼女は爆笑した。
私って、そんなに会うたんび言ってたっけ?と聞くと
「毎回ではなかったけど、悩み話したらいっつも良い言葉いってくれて、祈っていこう・
 私も一緒に祈るからね、って言ってたよ」と言われた。
しばらく気恥かしくて、苦笑いが止まらなかった。

女子部時代は会うたびに御書の一節やら、なにかしら励ましの言葉を準備して行ったことを思い出す。
「今日はこれを言う」的なノルマを自分に課して外部の友人と接していたバリ活時代。
アンチの友人がいう「不幸は蜜の味」ではないが、一瞬の隙(悩みや心の闇を打ち明けてくれる瞬間)
を窺い狙っていた面は確実にあったと思う。
でもそれを(結果は別として)「組織の会員数を増やす為」とは全く思っていなかった。
あくまでも、相手を救いたい・悩みから解放してあげたいという「純粋なる慈悲の行動」だと信じていたからこそ
真面目にも、一生懸命にも行動できたのだ。

だけど今(2012年11月現在)はこう思う。
単純に「題目を唱えてみて、心が軽くなるよ」って言うだけ・そこどまりだったら
ぎりぎり慈悲の行動として許される(と思いたい)。
それが「入会して。一緒に同志として頑張っていこうよ」となったらもうそれは異質のものになる。
私がどんなに心から相手を幸せにしたい・ひとつの曇りも無く純粋にそう願ったとしても
「組織に入会して」と言った時点で、無意識のうちに「純粋な思い」と反した行動に変わっているのだ。
この、純粋なる相手を救いたいという慈悲の心・折伏という行動に「組織入会」をもってくる時点で
大きな間違いを犯している事・未必の故意であるということに気付くのに、20年もかかってしまった。

彼女は私の折伏時期、同時に会社の先輩(女子部)からも折伏を受けており、その方との
対話は継続中だった。
で、(その方を「親」として)入会する気ある?と私が聞くと
「無理無理!主人は(組織)大嫌いだもん。そこまで(反対を押し切ってまで)出来ないよ」と。
「でも、しょうらんと先輩が教えてくれたお祈りはいつもやってるよ。
心の中で3回唱えるやつね。
腹が立ったとき、泣きたいとき、むなしいとき、寝る前、いつもやってる。
それでもいいよねぇ?」と彼女が聞くので、私は「うん、それで十分だよ」と答えた。

このとき(約2年前)そう答えた背景には、自分が全くやろうと思わない婦人部の活動を
彼女に強いるような事は絶対に出来ない。
信心(御本尊様に祈ること)はやったらいいけど、入会まではしなくていいと思ったからだった。
何かがおかしい、組織って。
信心て、もっとシンプルでいいはず。日々の祈りを大切にすること・日蓮大聖人の教えを御書を拝して
学ぶこと。悩める人がいれば教えてあげて、共に祈っていく。それだけでいいじゃないか。
どうして組織に加入させて新聞とらせて年会費(財務)おさめさせて選挙の応援させるの?
むだに毎週集まるの?いろんな敵と闘わなきゃいけないの?
怒られるからこんなことは組織の誰にも言わなかったが、
私は組織につくことも・誰かを折伏(入会目的で)することも、もう絶対しないとこのとき思った。

結婚と転居から6年が経過しており、この間「友人」といえばこっちの職場で出来た友達と・
子供がらみで出会ったママ友たち。 みんな素敵な人ばかりで人間的に尊敬できる人たちだった。
私は組織のことは一切話さないようにし・そのことを隠していたが、この6年間はある意味「リハビリ」期間。
誰かを救わなきゃ、なんて思わなくて良かった。というよりも、皆、幸せだった。
悩みを耳にしなかったわけじゃないけど、こんなことがあったよーとぼやく程度で
「あるある」「自分はこうだった、友人がこうした」等、直接の問題解決にはならなくても
話を聞いてもらうだけで気持ちが落ち着いたり、誰かの別の視点からの指摘で気づきがあったりと
前向きな人達の集い語らいで消化される主婦の悩み。(そこに組織は不要)これで十分な気がした。
私の中から「誰かを救わなきゃ!」を毒抜きしてくれたこちらで出会った友人たちと
子供と主人とその家族に深く感謝している。

こちらでの生活が平凡でも充実していたぶん、地元の外部の友人に連絡を取ったり・
会う機会は激減していた。
(相手が望まない仏法対話する事も・選挙のお願いをする必要もなかったので、なんとも現金な話だけど)
そんな折、友人のひとりが40婚を果たすことになって私は単独で帰省。お祝いの会に出た。
2次会、3次会と久しぶりに会う友人たちとおしゃべりを楽しんだが、その中にアンチの友人がおり
帰り際私に言った「(性格)すっごく丸くなったね。ママになると変わるもんだね」と。
意外な指摘だった。私ってそんなにきつかった?変わったかな?と聞くと
「前は結構、人の事容赦なく否定してたよ」と(笑)。
組織についてる・ついてないという話題は一切しなかったが、私は久しぶりに会った友人たちから
バリ活当時の自分がどうだったかを知らされて、我がことながら怖いと思った。
そして、当時きっと沢山いやな思いをさせただろうに、こうして集まりに声をかけてくれて
これを機にまた集おうとなり、以降同窓会が継続している事に感謝している。
嫌われて、切り捨てられてもよさそうなものなのに。
しかし、私がいまだバリ活で婦人でゴリゴリ頑張っていたら、きっとこの輪に入れてもらえなかっただろう(笑)。
それだけはハッキリと解る。

女子時代の、外部友人への対応。悔やんでも悔やみきれないが、言い訳が許されるなら、
私は「それ(折伏=入会)が幸福への連帯」って子供のころから、三つ子の魂百までも状態で、
教え込まれてきたのだ。疑う余地など無いくらいに。
まさかその「外部の友人を幸せにしたいから入会させる」が、搾取システムに友人を巻きこむ事に
なるなんて、想像だにしなかった。
そして親や自分がその搾取システムにがっちりはまり込んでいるなんてことも、気付きようもないほど
組織の数ある様々な打ちだしにイヤイヤでも従い、外部を折伏入会させること
その行動全てが「功徳」を得られる仏道修行なのだと信じて疑わない、それが常識な世界の住人だった。

ちなみに組織が搾取システムだと「自分で」気がついたのは今年(2012年)の9月だった。
ネットで得た情報では無い。
自分がやっと、自分の感覚で気付く事が出来たのだ(後日記)。

巧妙に飴とムチで懐柔されていることに気付く為には、その世界から隔離され・平常心を保ち
落ち着いた普通の暮らしを「あたりまえ」に、長期間続ける必要がある。
周囲からあれこれ言われて気づくのではない。
自分が暮らしの中で、生活感覚として「おかしい」と気づかなければ、マインドコントロールは絶対に解けない。
その意味で私は(20年かかってしまったけど)この地に来れた事は、幸運だったと思っている。