日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

真実の歴史を記録せよ(ユネスコ問題) シベリア抑留・核投下・通州事件・竹島侵略・拉致

2015年10月19日 23時51分06秒 | 歴史
南京大虐殺、記憶遺産に ユネスコが登録発表 慰安婦は見送り

2015/10/10 2:17 (2015/10/10 2:44更新) 日本経済新聞

 【上海=共同】国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、旧日本軍による南京大虐殺に関する資料を世界記憶遺産に登録したと発表した。中国が登録を申請した。中国は従軍慰安婦問題の資料も登録申請していたが、見送られた。

 中国が「旧日本軍の犯罪」の記録と主張する歴史資料がユネスコによって「世界的に重要」と認定されたことになり、習近平指導部は今後、歴史問題をめぐる対日攻勢を一層強めそうだ。

 日本が申請した第2次大戦後のシベリア抑留資料と国宝「東寺百合文書」も登録した。

 中国は「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年」と位置付ける今年の登録を目指し、昨年申請した。日本政府は「ユネスコの場を政治的に利用している」と批判し、中国に抗議。申請の取り下げを求めたが、中国は拒否していた。

 各国からの申請案件について、アラブ首長国連邦のアブダビで開かれた国際諮問委員会が審査し、ユネスコのボコバ事務局長が登録を決定した。

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「シベリア抑留」記憶遺産、露が取り下げ要請

読売新聞 2015年10月17日 20時13分

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアの国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)委員会のグリゴリー・オルジェニキーゼ書記は16日、シベリア抑留に関する資料の世界記憶遺産への登録について、露外務省でモスクワの日本大使館幹部と会談し、登録申請を取り下げるよう求めた。

 日本側は要請を受け入れない姿勢を示した。

 会談で同書記は「申請はユネスコの政治利用につながりかねないので見直してほしい」と語った。日本側は、「政治利用する意図は全くない」と強調した。

 世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長は「世界自然遺産・文化遺産では登録後の抹消が2例あるが、世界記憶遺産では聞いたことがない」と話した。

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 日本政府は資料について「ユネスコが求める『真正性』を完全に満たしている」(外務省幹部)との立場だ。ロシア側の抗議は当たらないとし、申請の取り下げには応じない方針だ。

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ユネスコ「記憶遺産」は歴史認識の問題です。

この問題において譲歩や妥協は決して許されません。
相手が支那だろうとロシアだろうと韓国だろうと、絶対に引き下がってはいけません。

もっとも、嘘が真実に勝つことは不可能ですが。



南京事件はデマです。

実際になかったことを「記憶」に留めようがありません。

南京大虐殺というデタラメ

2009年12月12日 ねずさんのひとりごと http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-723.html


(南京市民と日本軍とのふれあい)

いまだにこういうアホ(あえてアホと言います)がいるということは、ほんとうに腹立たしさを通り越して哀れさえも覚えてしまいます。

MSNに、こういう記事が載りました。
「なぜか日本で上映されない南京虐殺映画に有志が「南京・史実を守る映画祭」開催」
http://topics.jp.msn.com/entertainment/movie/article.aspx?articleid=185952

支那と日本の売国左翼が、1937年に起こったと捏造した「南京大虐殺」。

ありもしない捏造史を、さもあったことにしようとする悪質なプラパガンタ映画など、葬られて当然です。

そもそも人口20万の南京市で、どうやって30万人もの人間を殺すのか。
しかもその「虐殺」があったとされた南京では、日本軍占領後、人口が25万人に増えている。

この南京問題については、今年7月9日に、このブログでも書いているので、あらためて当時の事実を再掲します。

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南京というのは、いわゆる城砦都市です。

その南京に、蒋介石率いる国民党兵士が大量にやってきて、市民に銃を突きつけて、「これから日本がここを攻めてくるから、おまえら、銃を持って戦え!」とやった。
それが南京での戦闘のはじまりです。

南京市民は、仕方なく銃を持って、城塞の塀に並び、日本軍めがけて発砲した。

ところが、日本軍は正規の軍隊です。
南京城塞側は、国民党兵士に後ろから銃を突きつけられて、わけもわからずめくら撃ちしている市民兵です。勝負にならない。

日本軍の猛攻が始まると、国民党の連中がまっさきに逃げ出した。

銃をとっていた南京市民は、そもそも戦意は希薄です。
後ろにいた国民党兵士達がいなくなると、我先に逃げ出した。

そして南京城は、あっさりと陥落。

日本軍が入場すると、戦いのあった反対側の城砦の壁には、何本もの紐が垂れ下がり、その紐の下には、シナ人たちの銃が、投げ捨ててあった。

日本軍が、南京に入場します。そして国民党の兵士たちがさんざん荒らしまわった城内の治安を回復した。

日本の軍人たちが、市民に手を出さないとわかると、周辺に逃げていた南京市民達が戻ってきます。当然のことです。なぜか。安全で安心だからです。
それだけではない。日本軍によって南京市の治安が回復されたと知って、多くの周辺都市からもシナ人たちが集まってきた。

このため、南京城攻防戦の前の南京市の市民の数が20万人だったのに、日本軍の占領後は南京の人口は25万人に増加したのです。

年が明け、正月になると、日本軍は内地(日本本土)から、正月の松飾りや、餅を大量に取り寄せ、市民たちにお雑煮を振る舞ったりした。

日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた。

以上が、南京で起った事実です。

映像にも残っている。

だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載があります。

<引用>-------------------------

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
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当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2~30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさも事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

いまでは真っ赤な左翼になっている朝日新聞も、入城した12月13日から12月30日までの1ヶ月足らずの間に、5回にわたって半ページ大の組写真の南京特集を連載しています。

その第1回が「平和甦る南京」(17日)で、早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっている。

第2回が「きのふの敵に温情」(22日)、支那軍負傷兵を治療、投降兵に給食などしている写真、
第3回が「南京は微笑む=城内点描」(25日)、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性など。

第5回「手を握り合って越年」(30日)、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、「日に深む日支親善風景」が写されている。

南京陥落と同時に入城した新聞・雑誌記者、カメラマンは、外国人記者を含めて約150名といわれていて、他にも大宅壮一、野依秀一、杉山平助、木村毅、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった著名な評論家、詩人、作家等が入城し、東京都世田谷区よりも狭い南京城内外(約40平方キロ)を取材し、視察しています。

そしてそのうちの誰一人として、非戦闘員の虐殺などは見ていないのです。

松井大将は12月23日、平穏に復帰した市内を視察して上海に帰り、2回にわたり外人記者団と会見をしているが、その席でも“虐殺事件”など話題にものっていない。

そして日本軍は、12月30日には、南京市の住民による自治委員会を設置し、1月1日付でこれを公示、1月3日には、南京自治委員会の結成式を中山路の鼓楼で行っています。

この日、鼓楼前には、南京市民約3千人が、5色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福しています。

さらに、朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、
「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大きく報道し、
「建設の首途(かどで)を飾り/光と水のお年玉/萬歳・電燈と水道蘇る」と題した1月1日発の近藤特派員の電報をのせています。

そのリード文には「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎へて蘇ったやうに力強い息を始めた。
大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々に思いがけない電燈がつき、それと同時に水道まで景気良くほとばしり出たのである」とあります。

つまり国民党軍が敗退時に破壊していった水道や変電所などの電源を、日本軍と中国の労務者が協力して年末ぎりぎりには復興までしているのです。

南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となっていたのです。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手した。

技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだといいます。

朝日新聞はその日本軍技術者と中国人技術者が協力して電気・水道の復旧作業に取り組んでいる半ページ大の組写真を掲載しています。

それがなんですか。日本軍が侵略して南京で30万人の市民を虐殺した?

冗談じゃないです。ま逆です。日本軍は南京を攻略して、乱暴者無法者集団である国民党を追い払い、20万人の無辜の市民を救い、彼らの生命と財産を守ったのです。

それを、まったく正反対のねつ造史を、映画にまでして、さもあったことのように偽装する。言語道断です。

~~~~~~~~~引用終わり~~~~~~~~~~~~

文中に登場するニューヨーク・タイムズのダーディン記者が「支那軍による焼き払いの狂宴」と表現したのは支那軍の堅壁清野作戦のことです。

堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種で「城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)」という意味です。

支那では春秋戦国や三国志の時代から常識的な戦術でした。

支那事変では、国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取りました。

とくに有名なのは、1938年6月に起きた黄河決壊事件です。
国民党軍は黄河の堤防を爆破して、日本軍を北支那の住民もろとも押し流そうとしましたが、大した効果は無く終わりました。

日本軍は作戦を中止して支那人の救出にあたりました。

しかし、この時、こともあろうに国民党軍は救出活動を行っていた日本軍や「自国民」であるはずの北支那の農民たちに発砲をしていたのです。


(救出された北支住民)


(当時の新聞)

南京事件に話を戻します。

国民党軍は南京防衛戦において、焦土化の対象を軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで広げました。
実に、南京城外の周囲15マイル(およそ24km)が焦土化されました。

その後、支那軍はあっさり敗走し、便衣兵(民間人の服を着たゲリラ、戦争のルールに違反する行為)の活動で南京の治安は悪化しました。

日本軍はこの便衣兵を討伐して、治安を回復しました。

つまり、国民党軍による焦土作戦の犠牲者と戦争犯罪者として処刑された便衣兵が「南京大虐殺」の真相だったのです。

大戦中に国民党は国際世論を味方につけるために「大虐殺」をでっち上げ、それを中国共産党が踏襲しているのが南京事件問題の本質です。

最初から存在しない事実を「記憶」することはできません。

本当に記憶に残すべきことがあるとすれば、ロシアの犯罪「シベリア抑留」、アメリカの犯罪「原爆投下」、支那の犯罪「通州事件」、韓国の犯罪「竹島侵略」、北朝鮮の犯罪「拉致」です。


(シベリア抑留)


(原爆投下)


(通州事件)


(竹島侵略)


(拉致)

これらの悲劇を日本人は絶対に忘れてはいけないのです。

永久に民族の「記憶」に留め、未来へと繋げなくてはならないのです。

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