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口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 12月号 第7幕

2009-11-01 | 平野耕太関係

義を見てせざるは勇無きなり、という言葉がある。
応報刑論、という考え方がある。

それは「自立」への言葉であった。
それは「過去への決別」への言葉であった。
それは「尊厳を取り戻す」言葉であった。

   仇はお前らが討たねばならぬ

無慈悲に理不尽に振るわれた暴力に対し、どこまで報いる事が可能だろうか。
現実では仇討ちは認められていない。
殺された者が戻ってくる事はない。
更生させる?一定の刑罰を与える?遺族の目の届かない所で?
憎しみの連鎖?鎖を繋げてきたのは誰だ?
罪を憎んで人を憎まず?
それでは残された者達の時間は止まったままであろうし、搾取される側は何時まで経っても搾取されるままだ。

危険な考え方だと言われるかもしれない。冤罪、という点を挙げる方も居るであろう。
だがしかし、人間とは結局は感情で動くものである。理性、理論で突き詰めた所で最後に選択を迫るのは感情である。
豊久が全て殺す、という選択もあった。実際にはそれが手っ取り早い。
だが彼はそれをしなかった。村人に傍観者である事を許さず、被害者の「まま」でいる事を許さず、選択させたのだ。
村人がその選択をした時、豊久は炎を背にした鬼の表情から一転、穏やかな笑顔を浮かべた。

  良か!!

それは「恨み」をそこで少しでも晴らさせ、同時にそれまでの村人の束縛を断ち切り新しい「明日」に進ませる事に繋がる。
勿論豊久自身はそこまで考えてはいないであろう。
結果的に村人は自分達の尊厳を取り戻し、それまでの後ろ楯である(搾取対象としての安定しか約束されていなかったのだが)領主との決別を選択し、替わりに豊久達「漂流者達」をその対象に戴く事になる。
村人達と漂流者達がどういった関係を築いていくのか、そして集団はその性質をどんな形に変貌させていくのか。
更に監視を続ける組織はどう出てくるのか。

 

村獲り成る。
以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 11月号 第6幕

2009-10-12 | 平野耕太関係
先月までは第×話とされていたが今号より~幕と変わったようなのでエントリタイトルもそれに倣う事とする。

さて物語も動き始めたようなので少し現在の状況を整理してみたい。

・豊久達の飛ばされた世界…エルフ、ドワーフ、ホビットといった「亜種族」が存在する。

・エルフの村を襲った「人間」と十月機関と呼ばれる「組織」は別物のようである。

・村を襲ったのは現地、元からその世界に居る人間?

・組織の構成員と村を襲った連中の最大の違いは豊久達の言語、「日本語」を理解している事。

・その他、謎の水晶玉、双眼鏡らしき物(夜光用?)など近代~未来の道具を操るようである。

・となると、未だ組織は豊久達を観察している状態である、と言える。

さて?



信長は言う。

食べる飯も尊厳も無くなれば人は何にでも頼る

と。
それは人は何か自分の支えになる「モノ」、信じられるモノ、最後の頼みになるモノが無ければ生きられない、と行く事である。
「人はパンのみに生きるにあらず」といった言葉もあるが、裏を返せば全てを奪われた人間はおよそ悪魔にでも平気で魂を売る、と言えるのかもしれない。
「飯」の要素はまた別かもしれないが、「尊厳」に揺らぎを与える、尊厳を奪う事とはその個人のあらゆる要素を否定する事である。
それは(新興)宗教の多用する手法である。
それはマルチ系商法の多用する手法である。
それは。
実は我々自身、日常で簡単に他者を否定しているのではないか。


信長は確信している。
村を襲っている連中は村民の飯ではなく、尊厳を奪う連中である、と。

ならばそして。
信長は自分達が「尊厳」に成り代わろうと画策しているのだ。
一方の豊久は。

「ようもやってくれたのう」

彼の行動は一直線である。彼は「守る為」にその刃を振るう。
意図などしていないだろうが、彼は尊厳を守る為に戦っている。
その有様は狂気と紙一重であるが、明確に彼自身の尊厳、信念に基づいて行動している。もしかしたら彼自身気が付いていないだろうが、彼の故郷の人々にだぶらせているのかもしれない。

豊久の行動はこの先、村人を救うかもしれないが、結果的に信長の意図する方向に進むのであろう。
だがその時点から生まれる信長と豊久の意識のズレ、そこに与一がどう絡んでいくのか。
国を獲る、組織を生み運営する、とはそういった事も内包するのを意味するのだ。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 10月号 第5話

2009-09-29 | 平野耕太関係
常々疑問と共に感じる事がある。

平野耕太の作家性の根底にあるのは青年、シニア向けの「ソレ」よりも、実は少年漫画にこそ、その本質は見出せるのではないだろうか。
今号の展開、

豊久が遠くの火を見るなり何も考えず飛び出し、結果的にエルフの子供達を助けるーーー

話の筋ではこれだけである。そして子供達を助けるドン、ピシャリと決まるタイミング。

「よう小僧ども」

この台詞の格好良さよ。
その後の豊久の言動、行動も冷静に見ると理不尽極まりないモノである。
だが神の視点から見る我々読者からすればそれは「必然」であり、非常にカタルシスを感じる気持ちの良いものである。

このストレートさは少年漫画的な文脈であり、言ってしまえば「ベタ」だ。
「ベタ」は「お約束」と言い換える事もでき、更にそれは「王道」と言い換える事も可能だ。

王道……それは時として否定的な意味合いで使われる事もある。いや、最近の少年漫画界隈ではそういった「王道的展開」は嫌われる傾向にあり、ややもすると揶揄するような印象すら受ける。

だがしかし、である。

「王道」とは「スタンダード」であり、「普遍性」である。
全ての物語にあまねく行き渡り決して揺るがないものである。
そして。
「王道」「普遍性」とは物語を通して人間を描く事である。
時としてストレートに、逆説的に、人間賛歌を謳い上げる事である。
時としてどうしようもない人間の業を認めつつ、それも含めて肯定する事である。
それは漫画であれ小説、映画、ゲーム、世の物語と呼ばれるものが最終的に行き着くところは「其処」だ。

「揺るがない」モノに揺らぎを与える

世の名作、傑作に共通する特徴はソレだ。
小手先の技ではない、物語とがっぷり組み合い、膨大な労力と時にして無理矢理とも言える力技で動かす、それこそが名作、傑作の条件であると考える。
平野耕太にはその「腕力」がある。




「むらを とりにいくか」

信長が宣言し、行動を開始しようとする彼等とそれを監視する謎の組織。
組織の思惑は何処にあるのだろうか。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 9月号 第4話

2009-09-29 | 平野耕太関係
前回「森蘭丸」と書いたが那須与一だったとは。
弓使いと言う事で言われてみれば納得ではある。

さて、この回では互いの名乗りと状況の説明で話が進む訳だが、通常では有り得ない事が二点起こる。

一つは、自身が消えた後の世を知らされる事。
与一にしろ信長にしろ、未来からの使者(与一は信長、信長は豊久による)によって本来知るはずのない未来を知ることになる。
結論は例外なく「自分の信じた体制の崩壊」である。
与一四百年。信長十八年。
与一が一言で斬り捨てる。

「無常」

今でこそ豊久が一番時代が新しいが、この先更に新しい時代より流れ着く者がいれば、豊久もその例に漏れる事は無い。

そしてもう一点。
彼等は元より生死こそ判然としないが十中八九、「その時点」で死んでいる筈の存在である。
第一話に措いて、「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と書いた。
だがそこには一つの矛盾を抱えている。
残された者達はどうなる。
どう受け止め、その先をどう生きるというのか。


先に逝く者は実は幸いなのかもしれない。


彼等は「先に逝った者」である。「その先」など知る由もないし、知りようがない。それが豊久の言葉により彼等、少なくとも信長は「先に逝く者」から一転、「残された者」となった。


息子の死に様を聞かされ、「馬鹿者」と吐き捨てる信長の寂莫とした表情よ。


夜。
眠る鼻先に嗅ぎ慣れた「におい」を感じ、彼等は跳ね起きる。
遠くに見える光景は何事か。


以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 8月号 第2話、第3話

2009-07-05 | 平野耕太関係
タイトルは第3話としているが、何分まだ話が本格的に進み始めていないのと、ページ数自体少ないので、先月号の分とまとめて気になった部分を箇条書きしてみる。

・豊久が遭遇した謎の男
戦場から突如現われた空間と謎の男、一見なにやら図書館の司書か役場の受付のようなのであるが、呼びやすいよう便宜上「受付」とする。
この受付、目の描写から尋常な人間にも見えず、豊久が現われたのも当然の様に振舞っていたが、その手元には書類と見える紙もあった。
「次」と言い放ち豊久を右から左へ流すように振舞う様は、恐らく彼には「それ」が通常業務で、何らかの役割のある存在なのだろう。
受付の手元の書類に豊久や他の時代の英雄と思われる名前が書かれていた描写を見るに、
豊久等が遭遇したのは偶然ではなく、何らかの意志が明確に目的を持って現われ、彼等の世界から別の世界へ送り込んだのだろう。勿論、その世界の何者かに召喚された可能性もある。

・送り込まれた世界
豊久を発見した子供達を見るに……所謂エルフだろうか、全くの別の国か地球上なのかどうかも定かではない。これからの描写待ちである。

・遭遇した者達
豊久を手当てした者達……隻眼、蓬髪。火縄銃を持ち自らを「織田家そのもの」と言い放つ壮漢。彼は織田信長と名乗った。そうなると従者と見られるのは森蘭丸か。
この信長の名乗りの場面で目を引いたのが、豊久が非常に「若者らしく」描写されている点である。

思うに前作ヘルシングは外見と実年齢の伴わない「老人達の戦争」であった。
そこに登場する人物達は一様にある種の「達観、諦観」を眼に湛え、死に向かって一直線に進んで行く。その様は描写の過激さとは裏腹にむしろ「静かな物語」とすら言えるものである。
唯一とも言える「現在を生きる」インテグラはむしろ傍観者に近く、周囲が死に逝く様をなす術も無く見る眼にもまた諦観が浮かぶ。


信長が「織田”右府”信長である」と家紋を背に名乗る--凄みのある、得体の知れなさを感じさせる--対する下段コマの豊久の眼光からの一連の描写には、既存の平野キャラには珍しい、瑞々しさ、血気盛んな若者を感じさせるものがあった。
これが対極にある信長と相まって二人を浮かび上がらせ、その後の蘭丸の介入によりストンと息が抜ける展開にスムーズに流れてゆく効果を生んでいるのである。

織田信長という、豪放磊落、狡猾の代名詞とも言える人物を配する事で、豊久のキャラが立てられ、この物語をどう舵取りして行くのかが見えてくるのかもしれない。

冒頭、豊久の夢の中での回想は、自らの初陣の時のもので、そこからも豊久の若さ、むしろ幼さや郷愁なども伺えるものであった。
だがそれこそが彼の生きる力、世界に抗い続ける意志の原動力となるのだ。

恐らくは彼等を待ち受けるは屍山血河、苛烈を極める道行きであるのは想像に難くない。
だが、彼等は軽々と「何のことも無い」と越えて行くに違いないのだ。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2009 6月号 第一話

2009-05-10 | 平野耕太関係
生半可ではない。
腹を括って挑まねばならぬ。この物語は。
彼は何者で、
何を成し、
何処へ行くのか。
平野耕太「DRIFTERS」である。

物語は地獄から始まる。
「島津の退き口」「捨てがまり」「死兵」
彼、島津豊久の眼前に待ち構えるは、光景も運命も死、それだけだ。

  武士道とは死ぬことと見つけたり

彼等は生と死、極限の選択を迫られながら苦も無く死を選択する。
それは武士としての教えからなのだろうか。
使命感からだろうか。
矜持からだろうか。
覚悟からだろうか。
諦めからだろうか。
否。断じて否。それは「生かす為」「守る為」だからだ。

  武士道とは死ぬことと見つけたり

何を?
それは叔父、義弘であろうし、祖国、薩摩であろうし、其処に住む家族や領民であろうか。

  「帰りたかです 死ぬるなら薩摩で死にたか」

だから彼は義久の「待っておるぞ」の言葉に笑顔を浮かべ、死を受け入れながらなお、死に抵抗し続け、軽々と死線を越えて往く。

 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。
 図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。
 若し図に外れて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。図に外れて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
 毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。

これは、武士に限った話でもあるまい。
死を直視し、死と向き合い、死を考える事で生が見えてくる。
日常であっても同様である。それは特別な意識ではない。
彼は「生きる為、生かす為」に「死ぬ運命」を選択した。
その極限の矛盾は果たして彼を生きながらえさせ、また死に損なった挙句あてもなく漂流する事となった。

ここが物語の出発点なのであろう。
さ迷い歩く彼の前に突如現われたる怪異とは。

以下次号。

ヘルシング10巻

2009-04-01 | 平野耕太関係

10巻読了。本編終了!
これはもうお奨め。
並の作家なら10巻で終わらない。つか綺麗に纏められない。
「寄生獣」「デビルマン」などの名作、傑作と並べて語っても良いと思うよ。マジで。

それでは以下は10巻と、「ぱふ」「アワーズ」インタビューも読んでおくと判りやすいかと。

平野先生お疲れs…いや、ご苦労様ですなんだろうな、ここは。
10巻の加筆修正分読んで「ん~?」と考えていたけれどぱふのインタビュー読んで納得。加筆分でインテグラが少佐に「お前は化物だ」と殊更に強調する部分なんだけど、

要は「視点の相対化」なんだろうな、と。

アーカードから見れば、少佐は人間で、
インテグラから見れば、少佐は化物であると。
ただ、当の本人である少佐は完っ璧にアーカード寄りの視点、つかアーカードしか見てねえ。これは何?な…何なの!?…恋!?
あー…ネタで書いたつもりが本気でそうかもしれない、と思えてきた。
いやよくある「恋愛感情」ではないですよ流石に。
少佐は「半歩だけ」人間から「向こう側へ」踏み出している訳ですよ。
本来であれば少佐は第2次大戦時に死んでいる筈の人間だった。それが機械化する事で「諦めを拒絶」して「人道を踏破」した。
少佐は境界線上に立つ存在。セラスにも似てるけど「それ」ともまた違う。
だからアーカードは少佐にとって

「我らと同類の人でなし」、「戦友」
であると同時に、
「私は心底彼を憎む」「吸血鬼アーカードを認めない」

もしかしたらミレニアムでも「本来ならば既に死んでいる筈」の人間は少佐唯一人だったのかもしれない。
後の兵士は皆敗残兵か、途中参加とか。
アーカードと同じく少佐もやっぱり「孤独」だったのかもしれない。
やっぱり似たもの同士なのか。


んでー、ぱふと一緒にアワーズでも作者インタビュー載ってたんだけどー
なんだ、普通じゃん。ぱふもアワーズも。
まともまとも。読める読める。
きちんとインタビューなってるし。脱線しているネタ部分と分けてある。
つかね、アワーズはいいとして(インタビュー自体初めてかもしれない……)ぱふの記事のノリが前回と同じ、てのはどうなんだ。

もう少しひねれ。




さて、では次は新連載だしー、後2冊コミックス残ってるみたいだしー、外伝も残ってるしー、そろそろOVAの予定も出てきそうだしー。
まだまだ続くよどこまでも。電車に終点はあるけどヒラコーに終点は無さそうな。
頑張って…とは言いたいけども。
センセ、倒れなきゃいいけどな。マジで。


ヘルシングOVA5巻 

2008-11-26 | 平野耕太関係
OVA5巻買ってきたでウィリス。
勿論初回版でウィリス。
これで旦那、神父、少佐とレリーフ揃い踏みでウィリス。
玄関とかに置けば魔除けにでもなりそうな勢いでウィリス。
でもどれも開封してないでウィリス。
勿体無いでウィリス。

なんかウィリスばっかり書いてるのも面倒になってきたのでもう止めるでウィリス。

以下チラシの裏。


で、だ。
実際は20日には買っていて何度と無く観てはいたのだが。
正直な所を書く。
違和感はある。
この「違和感」をどう解釈するか、でこの巻の評価は変わってくる。
まず前半、これは素晴らしかった。飛行船団からのロケット弾攻撃など鳥肌が立つような有様だった。
この映像は他では出来ない。このOVAだからこそ、だ。ハリウッドだろうがなんだろうが恐らく不可能だろう。天変地異や怪獣で都市を崩壊させる事はできても、こういった「テロ」「戦争」といった「人間の意志による虐殺」を表現する英断(あえてこう表現する)はできまい。

だが「違和感」はある。
音楽の使い方である。「Broken English」「悪魔巣取金愚」の二曲を使う意味をどう捉えるか?
映像は凄惨無比である。Broken~でスタイリッシュな、悪魔~で相当にシュールな印象に変わっている。
だがその印象は実に「PV的」な物だ。そういう効果を狙ったPVであるなら成功だろう。
しかしあくまでこれはOVA、「物語」である。
原作6巻冒頭、悪魔巣取金愚の部分は単行本化の際に加えられた物である。
雑誌連載時はまた違う表現で描かれていた。
悪魔~の歌詞を漫画で読んだ際、大槻ケンヂ率いる「特撮」の音楽なり、オリジナル版「休みの国」の音楽が直ぐに浮かんだ人がどれだけ居ただろうか?
調べる事で辿りつく人は多かったであろうが、それをそのまま使うと思った人がどれだけ居ただろうか?
それに他のシーン、ペンウッド卿の独白、最後のアンデルセンと武装神父隊の大立ち回りなども音楽が軽いというか違和感がある。
他のシーンではオーケストラで重厚なイメージを生み出しているのに、肝心な所で気の抜けた音楽を使っているような印象を受ける。
これをある意味実験的に「攻め」の意味で演出しているのなら今後に期待できる。
だがある意味「迎合した」「逃げ」の演出であるならばとても不安である。

主要スタッフの大部分はそのままではあるが、スタジオ、監督が変わった事で「ヘルシングとは」という根幹部分の共通認識がズレていなければ良いが、と思うのだが。
それが僅かでもズレたままだと、最後の最後で「大事な何か」が指の間からすり抜け、失敗してしまうのではないか、と思うのだ。

映像そのものは素晴らしい。クオリティが落ちていない。まさしく劇場級だ。
それだけに勿体無い。
マッドハウスの「次の一手」に期待する。

ヘルシング ヤンキンアワーズ 200811月号 Kill Again

2008-10-02 | 平野耕太関係
ヘルシング最終回読了。
これだけ待ちわびたのも、アワーズ発売日が一日遅いのを恨めしく思ったのも本当に久しぶりだった。

面白かった。

ただ、この一言に尽きる。
ギャグ、と言うよりはユーモア、ユーモアの中にシリアスが有り、シリアスの中にユーモアが有る、人間の機微に富んだ一話であった。

語るべきことは多い。
既に50代半ばであろうインテグラ。
ヘルシング家、もしくは機関の解体、移譲。
アーカードの帰還。
字楽先生何やッてんスか。
そしてセラスの胸元はだけ、パンモロ。


人というものは年老いるものだ。
若いうちはエネルギーに満ち、気にもしないものだが歳を重ねる毎にそれを意識し始める。
老いる、と言う事はそれだけ体にガタがくるものである。
体が自由に動かなくなるのは勿論、病とも長々付き合わなくてはいけなくなる。
若い頃からの容姿が衰えてくるものであるし、
そして単純な話、死が近寄ってくるのを意識する機会が増えてくる。

アーカードはそれを「美しい」と言う。

以前、ヘルシングを「抵抗の物語」だ、と書いた。
この、「老いる自分」に抵抗する人間もまた価値のあるものだ、とアーカードは言っているのではないか。
そしてこの価値観はまた少佐とも共通するものではないだろうか。
「老い」であれ「暴力」であれ「化物と化す」事であれ、それに抵抗し、足掻く事そのものが価値のあるものではないか。

あらゆる理不尽、暴力、逆境に抵抗し、諦めを踏破するからこそ人間は素晴らしい

それこそがヘルシングのテーマである。
面白い事に、ヘルシングには「正義」「悪」といった単語が出てこない。
全部読み返して確認した訳ではないが、見かけた記憶が無い。
つまりは、ヘルシングもミレニアムもイスカリオテも「正義」「悪」ではなく、「立場」の問題でしかないのかもしれない。
彼等は「何に抵抗するか」は違うが、
化物と成る事で諦めてしまった者も、
抵抗の果てに死んでしまった者も、
生き残り、日常に帰っていった者も、
やはり皆人間で、等しく「人間の物語」だったのだ。



これは妄想でしかないのだが、アーカードの帰還について。
アーカードが復活する事は薄々とは予感していた。何故かと言うと、血を吸われたセラスに影響が無かったからだ。
「滅ぼされた訳ではなく、消えただけで存在はしている」
と解釈してアーカードは消えたままで最終回でも納得できたが、結局は復活する形で終わった訳だ。
では、

  ミレニアム、少佐達は何だったのか?

最終目標を「アーカードの打倒」に置いていた彼等の立場は。
結局倒しきれていないのではないか。
結局の所負けているのではないか。
そこで。

実際にはまだ終わっていないのではないか?

と妄想する。
アメリカを混乱させているように、世界中にミレニアムの信奉者は沢山いる。残党を全て駆逐できるとは思えない。
南米、ジャブローの秘密基地が発見、解体された、という描写は無い。
最終回の時点でロンドン大炎上から「まだ」30年しか経っていない。
そして少佐自身がこう言っていたではないか。

「次の戦争の為に 次の次の戦争の為に」

吸血鬼化、なんてトンデモな事を実現した連中だ。
自分達のコピー、バックアップを準備していない、などと誰が言い切れる。
クローンなんてレベルじゃない、ドッペルゲンガーもかくや、というレベルで自分達を残しているとしたら。
そして少佐がこのレベルまで予想していたとしたら。

いや、あくまで妄想であるし、もうこの先が語られる事はあるまい。
この物語はここで終わりなのだから。
ともあれヘルシング、これにて一巻の終わりである。




最後に。本人が読む事はないであろうけども。

平野先生、本当にお疲れ様でした。
というより、まだ「お疲れ様です」と言った方が正しいのでしょうが。
本当に面白かったです。
セラスの胸元はだけ、パンモロ、眼福で御座いました。
ウォルターをまだ引きずってるインテグラ、萌えました。
アーカードの復活、嬉しかったです。
連載を追いかけるのも待ち続けるのもまた楽しい時間でした。
これも自分の思い込み、妄想なのですが、ブログでこちらが示した疑問について、作品でもって説明して頂いているような感覚があり、連載を追いかけるのが本当に楽しかったです。
本編はこれで終わりですが、外伝の続き、単行本、年明けには新連載(あと三ヶ月しかない……)と全然余裕が見られずアレなのですが、頑張って下さい。

後「以下略。」の単行本が欲しいです。とか、
色んな所に描いてる原稿合わせて短編集が欲しいです。とか、
ガンマニアまた描いてくださいよガンマニア(掲載したウルジャンは読んでたんですけどー単行本なったら買おう思ってたらなしのつぶてで後悔していたりー)
とかわがままは申しません。

まだまだ忙しいとは思うのですが、本当にお疲れ様でした。
次の作品も次の次の作品も楽しみにしてます!

ヘルシング ヤンキンアワーズ 200810月号 Child Of Burning Time

2008-09-07 | 平野耕太関係
「別れの言葉」というのがどうにも、苦手だ。
「さようなら」、「バイバイ」といった言葉に抵抗がある。
何気なく使ってもそれはそれで構わないだろうとは、思う。
だがその言葉を言って、そのまま本当にそれっきりで終わるとしたら。
いや、そんな事は「よくある事」であろう事も判っている。

だが。

だから人と別れる時は何時も「それじゃ、また」と再会を含む言い方で別れる。
そして再会できたときは―それが10年後だとしても―「よう」と昨日別れたばかりのように接したい。そんな風に思う。


「御然らばです  お嬢様」


ウォルターが最後に言った言葉である。
これはまさしく、最後の別れの言葉であった。

「失う」という事は恐ろしい事だ。
大事であればある程。
そこに居る、在るのが当然であればある程。
それが「大事な人」であれば更に、だ。
そして再会の機会が望めないのを予感した時、慄然とせざるを得ない。
「哀しさ」はその後にやってくる。
そして失った当事者を目前にした時、人は言葉を失う。


「ウォルターが逝った  今」

「はい」


インテグラの言葉に対し、セラスの答えはこれしか有り得なかった。

思うに、インテグラはウォルターを既に赦していたのではないだろうか。
本編サブタイトルの「Oblivion」。
これは”忘却、忘れ去られる事”という意味である。
これもドク、ウォルター、(既に遺体であるが)ミナ、遺品という形で表現されたキャラクター達に「失われ、忘れられる者達」と当てはめればふさわしいタイトルではある。
そして、もう一つ、法律用語で「大赦」という用法もある。

再会こそ叶わなかったが、全てを終わらせた「敵同士」は再び「主君と執事」となる事を赦されたのではないか。



朝日が昇る。
全て焼き尽くされ、
戦い尽くし、
嬉々として死んで逝った者達を残し、セラスとインテグラは帰ってゆく。
朝焼けの中を。



次号、最終回。