義を見てせざるは勇無きなり、という言葉がある。
応報刑論、という考え方がある。
それは「自立」への言葉であった。
それは「過去への決別」への言葉であった。
それは「尊厳を取り戻す」言葉であった。
仇はお前らが討たねばならぬ
無慈悲に理不尽に振るわれた暴力に対し、どこまで報いる事が可能だろうか。
現実では仇討ちは認められていない。
殺された者が戻ってくる事はない。
更生させる?一定の刑罰を与える?遺族の目の届かない所で?
憎しみの連鎖?鎖を繋げてきたのは誰だ?
罪を憎んで人を憎まず?
それでは残された者達の時間は止まったままであろうし、搾取される側は何時まで経っても搾取されるままだ。
危険な考え方だと言われるかもしれない。冤罪、という点を挙げる方も居るであろう。
だがしかし、人間とは結局は感情で動くものである。理性、理論で突き詰めた所で最後に選択を迫るのは感情である。
豊久が全て殺す、という選択もあった。実際にはそれが手っ取り早い。
だが彼はそれをしなかった。村人に傍観者である事を許さず、被害者の「まま」でいる事を許さず、選択させたのだ。
村人がその選択をした時、豊久は炎を背にした鬼の表情から一転、穏やかな笑顔を浮かべた。
良か!!
それは「恨み」をそこで少しでも晴らさせ、同時にそれまでの村人の束縛を断ち切り新しい「明日」に進ませる事に繋がる。
勿論豊久自身はそこまで考えてはいないであろう。
結果的に村人は自分達の尊厳を取り戻し、それまでの後ろ楯である(搾取対象としての安定しか約束されていなかったのだが)領主との決別を選択し、替わりに豊久達「漂流者達」をその対象に戴く事になる。
村人達と漂流者達がどういった関係を築いていくのか、そして集団はその性質をどんな形に変貌させていくのか。
更に監視を続ける組織はどう出てくるのか。
村獲り成る。
以下次号。