ふと、信じる、という言葉は実は曖昧な言葉なのではないか、と思った。
信用するとは、(曖昧で恐縮なのだが)自分の「何か」を対象に預ける事なのではないだろうか。
これは対象との距離感もあるのだが、相手に「頼れば」”信頼”で、「任せる」なら”信任”となる。
信、という字で調べると大方が心の持ちようについてなのに気づく。「信じ、あおぐ」から”信仰”、「信じ、あがめる」から”信奉”だ。
そこで更に考える。その預けてしまう「何か」の割合が大きくなればどうなるか。優先順位が先になればどうなるか。
対象に自分自身も全て何もかも預けてしまうとそれは「依存」となる。
それが無いと自分を維持できない。生きていけない。既に「信」の文字は消えてしまった。もはやそれは不自然であり不健康な状態である。
更に更にだ。そこに別の方向から悪意が流れ込んでくれば。
それは弱った心を容易くなだめすかし、弄び、時に恐れさせ、操るべく手練手管を振るう事に疑問の余地は無い。
そこに在るのは「洗脳」というべき所業であろう。
さてさてそれでは今月のドリフターズなのだが。
地上に文明を作る、おそらく国家を作る事にも繋がる、黒王の志向する方向は「戦後」だ。
農耕を教え共通の文字を与え、「統一された」宗教を広める。つまりコボルト、ゴブリン、「亜人間」に一定の知性と言語、文化を認めている事になる。文字などは多文化を横断する為のツールとしての側面が強いからだ。
農耕を教えるという事は「所有する土地、すなわち領土」の概念に繋がる。兵站という側面だけではなく、領土から更に文化圏、宗教圏といった広がりが生まれてくる。
宗教を起こし、広めるというのは「信じる」事で集団に一定の方向を与え団結させる点で、都合が良い。現代社会でも「○○教圏」で国家をまたぎ、大きな括りで見る方向もある。
ここまで考えたのだが、疑問が生まれてきた。
国家を起こし軍勢を機能させる事を考えれば、農耕、文字の2点で十分なのではないだろうか。
国家、軍勢の縦構造、横の連帯も訓練と対話で補えば成立するのではないか。文化、宗教と言った所で元より持ち寄ったモノが混ざり合い広がるのが常で、国はいつも後追い、というのが大方に思える。中東の一部のように信者が結集、建国という例もあるがそれは既に各個が一定の文化レベルや部族的集団を形成している前提で成り立つ筈だ。
逆に言えば文化、宗教などと言うものは一朝一夕で成立するものではない。
ここまで来て黒王の「統一宗教」という響きに不気味さを覚える。
何故「新しい宗教」なのだろうか。
廃棄物の面々を見ても宗教的な背景はほぼ一致しているように思える。時代や国といった背景の違いはあるが概要としては差は少ないであろう。むしろ土方が変わり種とも言えるが問題とするとも思えない。彼等の信じた「神」を何故信仰の対象にしないのか。
ここで数ページ戻ろう。
「今やお前は畏れられるより蔑まれる姿となった 我らの盟に加わる権利がある」
蔑まれる、だ。彼等の盟に加わる者は全て「蔑まれる」のだ。この呪詛。
つまり彼等は全てを呪い、呪われるのだ。そこに例外が無いならば彼等の信じた神もその対象となり得るのだ。
ならば新しい宗教の信仰する対象はいったい何なのか。
欺瞞から生まれた宗教、文化で形成される国家とはどういった形を成すのだろうか。
妄想が加速した感もあるが「新しく生まれるも祝福ではなく呪われた国家」と「収奪された(されるであろう)国家」、世界はどう変化していくのだろうか。
以下次号。