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口からホラ吹いて空を飛ぶ。

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ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 12月号 第33幕

2012-11-06 | 平野耕太関係

 ふと、信じる、という言葉は実は曖昧な言葉なのではないか、と思った。
 信用するとは、(曖昧で恐縮なのだが)自分の「何か」を対象に預ける事なのではないだろうか。
 これは対象との距離感もあるのだが、相手に「頼れば」”信頼”で、「任せる」なら”信任”となる。
 信、という字で調べると大方が心の持ちようについてなのに気づく。「信じ、あおぐ」から”信仰”、「信じ、あがめる」から”信奉”だ。

 そこで更に考える。その預けてしまう「何か」の割合が大きくなればどうなるか。優先順位が先になればどうなるか。
 対象に自分自身も全て何もかも預けてしまうとそれは「依存」となる。
 それが無いと自分を維持できない。生きていけない。既に「信」の文字は消えてしまった。もはやそれは不自然であり不健康な状態である。

 更に更にだ。そこに別の方向から悪意が流れ込んでくれば。
 それは弱った心を容易くなだめすかし、弄び、時に恐れさせ、操るべく手練手管を振るう事に疑問の余地は無い。
 そこに在るのは「洗脳」というべき所業であろう。

 
 さてさてそれでは今月のドリフターズなのだが。
 地上に文明を作る、おそらく国家を作る事にも繋がる、黒王の志向する方向は「戦後」だ。
 農耕を教え共通の文字を与え、「統一された」宗教を広める。つまりコボルト、ゴブリン、「亜人間」に一定の知性と言語、文化を認めている事になる。文字などは多文化を横断する為のツールとしての側面が強いからだ。
 農耕を教えるという事は「所有する土地、すなわち領土」の概念に繋がる。兵站という側面だけではなく、領土から更に文化圏、宗教圏といった広がりが生まれてくる。
 宗教を起こし、広めるというのは「信じる」事で集団に一定の方向を与え団結させる点で、都合が良い。現代社会でも「○○教圏」で国家をまたぎ、大きな括りで見る方向もある。
 
 ここまで考えたのだが、疑問が生まれてきた。

 国家を起こし軍勢を機能させる事を考えれば、農耕、文字の2点で十分なのではないだろうか。
 国家、軍勢の縦構造、横の連帯も訓練と対話で補えば成立するのではないか。文化、宗教と言った所で元より持ち寄ったモノが混ざり合い広がるのが常で、国はいつも後追い、というのが大方に思える。中東の一部のように信者が結集、建国という例もあるがそれは既に各個が一定の文化レベルや部族的集団を形成している前提で成り立つ筈だ。
 逆に言えば文化、宗教などと言うものは一朝一夕で成立するものではない。
 ここまで来て黒王の「統一宗教」という響きに不気味さを覚える。


何故「新しい宗教」なのだろうか。


 廃棄物の面々を見ても宗教的な背景はほぼ一致しているように思える。時代や国といった背景の違いはあるが概要としては差は少ないであろう。むしろ土方が変わり種とも言えるが問題とするとも思えない。彼等の信じた「神」を何故信仰の対象にしないのか。
 ここで数ページ戻ろう。

「今やお前は畏れられるより蔑まれる姿となった 我らの盟に加わる権利がある」

 蔑まれる、だ。彼等の盟に加わる者は全て「蔑まれる」のだ。この呪詛。
 つまり彼等は全てを呪い、呪われるのだ。そこに例外が無いならば彼等の信じた神もその対象となり得るのだ。
 ならば新しい宗教の信仰する対象はいったい何なのか。
 欺瞞から生まれた宗教、文化で形成される国家とはどういった形を成すのだろうか。


 妄想が加速した感もあるが「新しく生まれるも祝福ではなく呪われた国家」と「収奪された(されるであろう)国家」、世界はどう変化していくのだろうか。

 以下次号。
 


ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 11月号 第32幕

2012-10-07 | 平野耕太関係

 何時の世であっても、公正である事が正しい世に導かれる答えであると信じる。
 
 責任者とは責任を取るからこその責任者であり、将であるという事は全てを負い、始める責任も終わらせる責任も「けじめ」を付ける責任も負うからこその将なのだ。
 約束とは破る為ではなく、果たされる為にあるもので、国際法でも条約でも戦争法でもそれは変わらない。
 信長も語っていたが、豊久も同じく「将の器」を問う形になっているのが興味深い。
 集団の長は時にその器を問われる。その「形」も様々であろうが、今の世を見渡しても(ネット社会という事もあるだろうが)小細工を弄する人物が浮きあがぅて見え、なんとも情けなく感じる。
 
 今回の豊久と与一のやり取りは、いみじくも豊久の将の器を明確に与一に自覚させたに違いない。

 「そんな事ばっかりやらされてたんで…」

 それは過去の上役、源義経の器を問う事でもある。不意打ち、だまし討ち上等という態度を当然とする義経。確かに戦では強かったのかも知れない。だがそれは同時に味方の信用も失う事にも繋がる。その結果どうなったか。史実では東北への逃避行である。
 信長は豊久を「馬鹿」と言う。だがその先には「正直」「真面目」といった単語が隠されているのではないだろうか。
 愚直であれ、搦め手が苦手であれ、真っ直ぐにしか進めない性分であれ、それが回り道だったとしても、それ故に豊久は信用を集め、信長はそこに王の器を見ているのではないだろうか。
 すなわち与一も。
 
 
「もう やらされば 無か」「こいは 我らの戦じゃ」

 驚きと、嬉しさなのか喜びなのか複雑な与一の表情よ。
 そして豊久の「我らの戦」という言葉には、与一を単なる道具、駒ではなく、確固たる人格、一人の将として認識している、という意味も含まれているのだ。

 
 さて場面は変わってサン・ジェルミ……は置く。紫との関係が匂わされるがそれはまだ後なのであろう。
 それよりも北壁、黒王軍である。
 当初、大軍勢で一気に進むのかと思いきや、である。「青銅竜」「農耕」という単語が持つ意味は。
 どうやら「軍勢対軍勢」というよりも「国家対国家」、すなわち個人の武よりも、更に戦術、戦略という方向が強くなりそうである。
 それと気になったのが今回のサブタイトル「Omen」。
 このタイトルだとハリウッド映画の「Omen」、音楽で言えばThe prodigy「Omen」を思い浮かべる人もいるかもしれない。単語の意味で言えば「予兆、きざし、縁起(映画はここからか?)」とある。
 黒王軍の行動を何らかのきざし、と見ると、次に起こる状況とは何だろうか。


 他方の漂流者勢などの状況も懸案しつつ、
 以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ  2012 9月号 第31幕

2012-10-07 | 平野耕太関係

 物語、エピソードを組み立てるという事は、往々にして対比構造を書く事に繋がる。
 対比、落差、明暗、なんでもいい。
「わたしとあなたは違う」「こんなはずじゃなかった」「あの時が二人の運命を分けた」……違いを描くからこそ、そこに物語の「うねり」と「カタルシス」は生まれる。
 ギャグ漫画であっても、いや、むしろギャグ漫画にこそ強く、判り易い対比が織り込まれるだろう。
 不条理系が判り易いだろう。読者が一般常識、コモンセンスを持ち合わせているという前提に立つからこそ、そこから逸脱した表現を笑いに転化させる事が可能なのだ。

 さて、31幕なのだが、この回では複数の対比が意図的に配置されている。
 まずはドワーフである。前段で屈強なドワーフを一般的なイメージとして提示することで、その後の惨状を際立たせている。その様で如何に過酷で非人道的な扱いだったか、「収容所」という単語が使われている点からも想像に難くないであろう。

 次に豊久の評価、扱いとでも言おうか。

「うーわー あいつ  やっぱりばかなんだぁー」

「うまい  この人バカじゃない  全知全能が戦さに特化してるんだ」

 前半が信長、後半が与一なのだが、行動の一片だけ切り取ると豊久の行動は確かに馬鹿げたものに見える。それが信長の視点で、一連の流れとして見たのが与一の視点である。こう書いてしまうと当たり前の状況に見えるのだが、これは「最前線」と「離れた指揮系統」と対比して考えてみると流してしまってはいけない視点である。
 戦略、戦術として考えると企業もそうであるし、およそ目的を持った集団であるならば必ず問われる視点の筈だ。
 信長が卓越しているのは、豊久を馬鹿と言ったその直後に粥にしろ、と対応する指示を出している点にある。あくまで豊久を尊重してその場での最善手を指示しているのだ。

 
今回で対比としてもだが、ギミックとして効果的に使われているのが「食事」である。
 食事とは基本的には「楽しいもの」「安らげるもの」といった行為な筈だ。勿論ドワーフ達がありったけの食料を前にしたのは「安堵」と「食欲」であろう事は信長とオルミーヌの会話でも判る。
 しかし豊久はそれを敵兵に対して報せる事で「恐怖」へと転換させている。
 他作品になるが板垣恵介「バキ」に於いて、「待たされる時間」こそが恐怖である、と説かれている。想像する、予想できるからこそ恐怖する。何時になるか判らない、だが確実に来るからこそ恐怖する。これは明快な真理だ。それも自分達がドワーフから何を取り上げたのかを自覚し、今それが与えられ満たされようとしているのが判るのだ。その後に待ち受けるのは言わずもがな、だ。
 
 少し横道に逸れるが、その食事も悪意を持って利用されると人道に悖る行為となる。
「昔猿めがヒドい事をしてな」
 秀吉による「鳥取の餓え殺し」の事であろう。
 生きる為に不可欠であるからこそ、戦と日常が地続きだからこその豊久の行動であり、信長の配慮なのだと言える。

 
 篭城する敵兵に豊久の降伏勧告が迫る。
 以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 12月号 2012 2月号 第25幕、第26幕

2011-12-31 | 平野耕太関係

 職業軍人という立ち位置は、考えてみると奇妙な存在である。
 平時であれば災害復旧や訓練といった事が主であろうが、「いざ」となればそれは軍事行動へと置き換わる。結局の所それは「人を殺す」事へと帰結する。
 人を殺す、それは「殺意」を持つという事になる……と考えるのだが。
 果たして軍人の前線から後方の命令を下す将校に至るまでそんな「殺意」が全員に漲っているものだろうか。
 こう問えば、余程ズレた人でもない限り「違う」と答えるだろう。
 だからこそ、他国ではあるが退役軍人の精神病理が問題となるとか、ベトナム戦争時における麻薬の蔓延(色々な意味での麻痺を期待する)が後世に至るまで影響を及ぼす、などという例、つまりは「殺意無き殺人」という矛盾、職業の本文を全うしようとするほど本質的な矛盾に近づくという、奇妙な職業であるといえる。

 さてそれではドリフであるが、大師匠改め安部晴明と豊久のやり取りを取り上げてみる。
 
 「女だろうと廃棄物は絶対に殺さねばならない!!」

 「俺は女首は取らぬ  これが俺の法度じゃ」
 更に豊久はこう続ける。
 「俺らはあの通路ん男の駒では無か  俺らは人ぞ  俺らは俺らの理で疾走る」

 実はこの時点で二人の前提は異なる。晴明は立場的に後方支援であろう事、そして廃棄物を人間、更には生物とは認識していないかもしれないという事。そして豊久にはそれを認識した描写が無い。
 その前提に立てば晴明の言葉は確かに妥当である。それに対し豊久の特異性が浮き上がるのだ。
 注意しなければならない。実際には漫画的にも、実際の描写でも、豊久に英雄的な表現が施され巧みにその特異性が覆われている事を。 
 一つ引用しよう。

  
    知らず、生まれ、死ぬる人、いずかたより来たりて、いずかたへか去る。(鴨長明/方丈記)
 
 
  人間とは奇妙なもので、他人の死についてはある意味冷たい。むしろそうでなくては「やってられない」とも言える。春先の震災という例でも良いが、単に自分の肉親、身内であってもある部分ではそうだ。いわんや他人をや。先日死んだ某北の将軍という例を挙げれば、その扱いだけでも見渡すだけで「面白い」。
 
 ドリフターズに限らず、こうした異邦人、明らかな異物が世界に干渉する物語は、その価値観が激突し、変化を生み、連鎖していく様が面白い。今度は晴明と信長の対比を見る。
 新たな知識を生み出す、積み上げる事、それは世界を変えること、刷新する事と同義と言える。信長が近代の銃と火薬の知識に肉薄し正解を掴もうとしている事を晴明は危惧する。

 「なにをしでかすかわからない」

 私は最初、それを「その世界の住人による、自然な変化」に任せるべき、というごく普通な考えなのかと思った。しかしそれは晴明にとって自己否定となるのではないか。むしろ世界を制御しよう、管理しよう、という考えが現れたのが「十月機関」とも言えるかもしれない。
 だがしかし、である。
 漂流者が切欠を与える部分はあるかもしれない。だが変化するには世界にそれを受けるだけの素養、下地がなければいけない。技術や知識もそうであるし、思想でもあれば、もっと単純に普遍的な意思そのものでもある。どれだけ優れた技術であっても理解できなければ魔法と同じであるし、最新の知識や思想であっても受け入れられなければ排除されるし下手をすれば魔女狩りの対象となるかもしれない。
 晴明はオルテ建国の結果を「際限なき戦乱」と評したが、建国という変化が起こる為にはそれだけの下地があったとも言える。予想がつかない、などと言うのは何であろうとそうだろう。ノーベルが悪意を持ってダイナマイトを生み出したか?キュリー夫人は核兵器が生み出される事を予想して核物理学の基礎を作ったか?
 信長は、いや漂流者は切欠に過ぎない。変化する下地はあるのだ。現状でも黙っていれば世界は滅ぶ。現状迫害されている異人種も、オルテ建国前には人間を迫害していたかもしれないのだ。やられたからやり返す、が正しい訳がない。だがそれを解決するのもその世界の住人達であろう。
 
 25幕で豊久の啖呵を見た時の微笑みと、26幕最後に見せた紫の口許。
 彼は何を考え、何を期待しているのだろうか。
 廃棄物を排除する事はそのまま世界を変革する事に繋がるだろう。
 オルテ建国時を晴明は推測で語っている。アドルフ・ヒトラーの行動もまた廃棄物との闘争の結果という推測もできる。

 人は世界に影響を与えうる。同時に世界は一人でどうにかなるほど容易くないのだ。
 以下次号。
 


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 11月号 第24幕

2011-10-07 | 平野耕太関係

 彼女は、何を憎悪「していた」のだろうか。

「フランスの民を救うため 神(キリスト)のために 信仰のために 戦い続けた私達の事の何が判る!!」

 豊久の問いとジャンヌの答えは噛み合っていない。豊久は彼女の「現在」にしか問いを発していない。彼女の憎悪そのものに全く関心が無い。
 そして、彼は彼女の「価値」すら認めなかった。
 
 ジャンヌ・ダルク。彼女はフランスはルーアン、ヴィエ・マルシュ広場に於ける火刑にて最期を迎えている。その最期は伝えられている事柄だけでも相当に屈辱的な、陵辱という形容すら妥当か考えるような酷いものだったのが伺える。
 そこで彼女は乙女として死ぬ事すら許されなかった。
 フランスの為に戦った彼女をフランスの民は助けなかったのか。神は助けなかったのか。彼女は英雄ではなかったのか。魔女の汚名に異議を唱える市民はいなかったのか。信仰とはなんなのか。信仰。信仰とはなんだ。
 ここで二つの問いが生まれる。

 何が判る、と言った言葉が示すのは、すなわち未だ彼女の中には「信仰」が残っているのではないか。
 オルレアンの乙女、と呼ばれた時点の彼女の「信仰」、そして廃棄物としての彼女に「信仰」が残っていたとしてそれは同じなのか異なるのか。

 問いを発していながらではあるのだが、実際には結論の出る問いではない。
 フランスの民も神も、外的(神、奇跡を存在するもの、物理的に有り得るもの、介在するもの、という前提に置けばだが)な要因なのに対し、信仰は内的な要素である。
 信仰とは言葉より始まる。神父、教主、住職、神主、指導者、カリスマ、アイコン、宗教に限らず、「信じ、仰がれる者」は沢山居る。「教え」は言葉となく文書となく教え導き、学んだ者は自らの経験と気づきにより信仰に理解を深め、確信の強度を強めてゆく。
 そうなのだ。信仰とはあくまで個人的なものであり、他者と同じである事など有り得ないのだ。それはその個人の人生から逆引きされるものであり、例え双子が同じ環境で同じ教育を受け、同じ趣味、同じ娯楽を楽しんだとしても信仰が相似形になる事があっても同一化する事など有り得ない。

 彼女の絶望がここにある。

 彼女の「信仰」は伝わらなかった。誰からも棄てられた彼女は憎悪の化身となる。彼女を救う要素はあった筈なのだ。フランスの王も。民衆も。
 だがそれでも、それでもなお彼女の中に残ったのか。信仰は。ならば彼女が世界を焼いて落とす事で得られる境地とは何なのか。

 豊久はそれを知ってか知らずかその絶望を打ち砕く。希望を与えるのではない。再三書いている気もするが豊久達の思想の基本にあるのは無常である。もしかしたら豊久がジャンヌを殺す事が逆説的に彼女の救いになったかもしれない。だがそれすら豊久は許さなかった。「女である事」。その一点で彼女を敵ですらないと断じ、「「帰って紅でもつけろ」と彼女を只の女でしかないと切って捨て去るのだ。これは考えようによっては、とても恐ろしい事である。
 ジル・ド・レは「地獄で待つ」「良い旅を」と彼女に言い残し滅んだ。だが彼女は素直に死ぬ事すら赦されないのではないか。

 漂流者と廃棄物の戦い。これは単なる殺し合いだけではない、存在意義そのものの戦いなのかもしれない。


 遂に北壁組と廃城組が出揃った。新たな局面を迎える。
 以下次号。


    


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 9月号 第23幕

2011-08-13 | 平野耕太関係


  「薩摩ん兵子で血迷うとらん者は一人もおらんど」

 時代劇というジャンルを考えてみる。
 テレビ、映画における時代劇は大体において、勧善懲悪、単純明快なもの、人情、浪花節が前面に押し出された作品が主流であった。それは不特定多数に訴えかける方向で正しく、何より実在か創作かは置くとしても数々のヒーローを生み出し、愛される事で大衆に浸透していく一助となったと思う。
 水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍、桃太郎侍、近年では坂本竜馬(近代日本と捉えると時代劇の範疇からズレるかもしれないが)、等々子供の頃から触れる時代劇、切欠としての媒体、日本人の美意識のベースとして映像媒体の時代劇というのは位置していたのではないだろうか。

 さて、ではそのさらにベースとなる時代小説はどうなのだろうか。
 こちらも大枠としては作家毎のヒーローによる大衆娯楽という側面は強い。池波正太郎の「剣客商売」「鬼平犯科帳」、藤沢周平「たそがれ清兵衛」、山田風太郎「忍法帳シリーズ」……と枚挙に暇が無いのだが、小説の方は映像媒体よりも歴史的側面や時代背景、登場人物たちの心情と相反する「決まりごと」との相克、そこから生まれる哀切、寂寥がより強く描かれ明快、爽快とはまた違う趣がある。

 だがそれはあくまで総体でイメージした場合である。
 「残酷無残」といえば、山口貴由描く漫画「シグルイ」の原作者、南條範夫であるが、その他にも時代小説の短編集などを漁ってみると、結構な割合で悲劇、救いの無い話が見受けられる。その背景には前述した武家を縛る制度や跡目争いといったしがらみがあり、それに翻弄される人々、というのをシビアに描いているから、と言えるかもしれない。
 英雄譚が多い長期の作品群より短編、南條範夫「駿河城御前試合」などは短編の連作である点を見ても顕著なのではないかと思う。

  
  侍、武士という「階級そのもの」が狂気を孕んでいると最初に看破したのは誰なのだろうか。

 
 漫画として「残酷無残」という視点で見た時、恐らく最初にその方向を描いたのは平田弘史ではないかと思う。氏の緻密な考証に基づいた作品はその時代の戦う男達と狂気そのものを浮かび上がらせる。
 
 平田氏は言う。「侍」と「武士」は違うと。

 「侍」とは”さぶらう”。控える者、付き従う者を指す。大名でも旗本でも、その下に入り、主の意思の元で働く。そこに悲劇が生まれる。「シグルイ」は徹頭徹尾「侍」であろうとした藤木源之助と、その天才で成り上がり仕官するも、その根底にある無頼により侍となりきれなかった伊良子清玄の皮肉と無残を描いた作品である。

 武士とは”もののふ”自らの意思で戦う者、進む道を決める者、意思決定「できる」者を言う。広義で言えば集団の長、例えば会社社長などもそれに当たるかもしれない。ただしそこに「確たる意思」が求められる。周囲に流されない者。未知を開拓する意思を持つ者。
 
 今、漂流者として戦う豊久は武士である。彼は自らの意思で戦場に立ち敵を屠る。そこに大義名分のようなもっともらしい理由付けは恐らく無い。かといってそれは侍であった自分を否定するものでもないだろう。
 関ヶ原の合戦までの豊久は侍であった。
 冒頭の台詞はそこに誇りを持つ一人の侍の言葉でもある。
 前号でオルミーヌは豊久達を「ブシ」と言い、今号で「ニホンのサムライ」と言い換えている。この点は留意するべきではないだろうか。
 冷静に狂気を操りながら戦況を自らのものにする剣鬼。
  過去あらゆる作家達の生み出してきた剣豪、英雄達に共通する資質はそこにあるのではないか。すなわち豊久も。

 
 豊久の奸計により井戸に落ちた炎に呪われし聖女は水底に何を見る?
 



 上記の作家諸氏は敬称略で御容赦願いたい。
 以下次号。  
 
 


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 6月号 第21幕 8月号 第22幕

2011-07-01 | 平野耕太関係

オルミーヌ参戦。
前回、女性が戦場に立つ事について書いたが、彼女が何故自らの意思で豊久を助けたのかは未だ判らない。
仕事、使命と言った所でそれが自らの命を賭けるに値するか、というとそれも難しいだろう。
彼女と彼女の組織について深く語られるのを待つばかりであるが。

さてその彼女も戦場ではようやく「おっかなびっくり」といった所で━━実戦経験は皆無であるのが想像できる━━よくぞ飛び込んでいった、と言う所なのだが、対照的なのが豊久達である。
その佇まいに日常と戦場の差がまるで無い。
そして驕りも昂りも無い。


「ありがとうごわぁた」


素直に感謝し、頭を下げる。
人は存外死ににくい。だがあっさり死ぬ。豊久は「生き残ってから礼を」などと言わない。


「人は”さくり”と言えのうなるからのう」


それは刹那の死を積み重ね越える事で生きているという実感と自覚が豊久の中に在るからだ。
自分が「今」生きているという事に感謝し、頭を下げる事も、敵を打ち倒す事も同じ価値観として彼の中にあるに違いない。

それは与一も信長も同じであろう。
与一は戦う事、自らの技を存分に振るう事に喜びを見出し、信長はそんな「人の技」で組み立てられる戦場も、技術革新、戦術の革新によりやがて変わりゆく事を冷徹に思い描きながら「次」を考える。

前作ヘルシングにおける戦場では、「死ににくい」事に起因するのか簡単に身を投げ出し、倒す側も倒される側も命の価値が非常に低いと言わざるを得ない。狂信者も仮初めの身体を持った老兵達もその指揮官も吸血鬼もただ死に向かって進み続けるだけであった。
あの戦場で明確に生きる意志を持って対峙していたのは半端物のドラキュリーナとその主人だけである。
あの戦場の価値観と豊久達の価値観は一線を画す。
明確に違うと言って良い。
むしろ廃棄物の軍勢……ジャンヌにしろジルドレにしろ、その用兵も自らの戦い方にしろ、その扱いの軽さに「それ」は近いのではないかと思える。
ジルドレの不死性、その底にある謎でまた廃棄物とは何かが明らかになるのだろう。

漂流物対廃棄物、その戦いの側面の一つにはそういった「命の価値」に対する姿勢といった要素も生まれてくるのではないだろうか。



以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 4月号 第20幕

2011-03-06 | 平野耕太関係

平野耕太作品群において、特別に女性が描かれる事は「殆ど」無い。
実際には「守られる対象」「母性の象徴」といった意味で女性が描かれる事は無いのではないかと思える。
ドリフもそうであるし、コミックREXで連載している「アサシネ」でもそうだ。
ヘルシングに出てくる女性キャラは誰もが自ら銃を持ち、自らの殺意で以って対峙する者を打ち倒す。
平野耕太の描く戦場では、「殺す、殺される覚悟と納得」が無い者は無残に死んでいくだけだ。

上でタイトルを挙げたが、アサシネがREX誌上で浮いている印象があるのはそこに起因するのかもしれない。
「戦う少女」が認知され、沢山の作品が生まれてきてから戦場は「舞踏と歌劇」の場となった。
様式美と予定調和で彩られた少女達は舞台で博愛と友情、時に恋愛を謳い、美しい終幕を迎える。
少女、女性が本来映える舞台設定は日常にこそあると考える。
元来、戦う少女とはそこに有り得ないギャップがあるからこその設定だった。
それを端的に表しているのが所謂「魔法少女」モノである。
このジャンルはいくつもの「お約束」「予定調和」を重ねる事で見る側に安心感を与える事で成立していた。
そこに「緊張感」「圧迫感」「恐怖」「焦燥」といった要素が入り込む余地は無い。……筈だった。

「まどか・マギカ」である。
まどか・マギカが話題となっているのはその象徴ともいえる「魔法少女の舞台」に本来の意味での「戦場という地獄」を取り戻したからだ。
時に冗談のネタであるような魔法少女という世界観に、本来の意味での邪悪な知識としての「魔法」、命の奪い合いという「闘争」、彼女達を取り囲む酷薄な「現実」を、誠実に考察し、計算され尽くしたパッケージで描いているのだ。

平野耕太作品に話を戻すと、闘争を誠実に描こうとするならば自然とそこから女性の姿は遠くなる。
それでもその地獄に立つのならば、それは女、子供であっても例外なく殺されるし、殺さねばならない。
平野作品は青年誌的劇画調でありながら、少年漫画のある種「潔癖さ」も併せ持つ。
それは陵辱される女囚を見た豊久が敵兵を皆殺しにさせる場面や、エルフの子供を危機一髪で助ける場面で見て取れる。
半面、ヘルシングではロンドンを大炎上させ、戦争の引き起こす凄惨な地獄を読者に突きつける。

厨二とも揶揄されるような風呂敷を広げた作品は数あれど、その中で地獄を描く事に踏み切れる作家は少ないのかもしれない。
そのかわり、内面の深化に踏み込んだ私小説的な、純文学的な作品が増えているのかもしれないが。


それでは今月のドリフではあるが、現状の内政的なエピソードであるのだが。
エルフ、ホビットに続いて「ドワーフ」も存在するらしいのだが。
火縄銃もそうだが近~現代の兵器の整備の問題に一つの目処が付くのだろうか。
与一、豊久は訓練ではあるが、種族によって特技も変わってくるようだ。
豊久の剛剣を修めるにはドワーフ辺りが妥当か。

ウィザードリィのキャラメイクなら、エルフでもボーナスポイント次第でいきなり侍も作成可能ではあるのだが。……関係ない余談ではある。

そして、いきなりと言うべきか「敵」が迫ってきた。
ジャンヌ・ダルク。炎を纏いし世界を憎む廃棄物。
遊軍なのか斥候なのか、少頭数での速度優先の部隊のようである。
はたしてまともに激突するのだろうか。
準備もままならない廃城組に勝ち目は?



以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2011 3月号 第19幕

2011-02-06 | 平野耕太関係

今回は作品世界の大国「オルテ」の、現在の状況を整理する回、といったところであろうか。

冒頭に出た人物…ネット上でも推測はされているようなのでここでは省く。

この大貴族の御仁、初っ端から兵站輸送の失敗を指摘しているのだが。
まず疑問となるのが、

輸送船団の壊滅という情報のソースを何処から入手したのか?

仮にも「帝国」、しかもほぼ全体の核であろう会議の場で、その場の誰も知り得なかった情報を何処から入手したのか。
「捕捉されて『今ごろ』沈んでるわよ」
こう発言する、ということはほぼリアルタイムで、「出がけにイロイロ」と言う位であるから移動の前に入手していた、と考えるのが妥当であろうか。
後のページで冷静に戦況を分析している点からも、聡明な人物である事に疑問の余地は無いであろう。

少し話はズレるが、伯の背後にある地図、多少変わっているがこちらの世界における世界地図に似ている印象を受ける。
オルテ本国がモンゴル~ロシアをまたぐイメージでそこから下へ占領地が広がる形と言った所か。
西方の戦域は現在中国の西側半分~インドにかけて、と見ると如何に戦線が間延びしているか判り易いかもしれない。
その西方に戦力の大半を投入しているという。
つまり、廃城組勢力が、西方の戦力を先に潰すか、または空の本国に先に攻め込むか、で状況も変わりそうである。
国を奪う事で残存戦力への指揮権を手に入れる、といった考え方も出来るが…さて。
そして今回出た「東方」。

件の世界における「世界地図」は未だ描かれていないので推測するしかないが、オルテの東側、海を挟んだ所はどうなっているのだろうか。
ほんの端だけが描かれているだけだが「九州の無い日本列島」?とも見える。勿論その向こう側に別の大陸がある可能性も十分あるのだが。

今回取りざたされているのは「東方」「西方」ではあるが本当の脅威は「北方」、すなわち黒王軍である。
つまり現時点で豊久達がオルテを墜としたとしても、その時点で相当難しい采配をしなければいけない。
東方は指揮官がどうやら日本人のようであるから、もしかしたらそれなりの緊張状態を維持する程度で収まるかもしれないが、
西方は戦線が押される事は確実で、相当に領地も圧縮されるのではないだろうか。

さて、未だ「世界」に対する認識の無い三人組、とりわけ信長はどう動くのだろうか。



以下次号。


ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 12月号 第17幕    2011 2月号 第18幕

2011-01-30 | 平野耕太関係

「推測できる」「理解している」「納得している」と、それを「肯」とするのは別問題である。
理性で以って落ち着かせる部分と感情による本心は別物である。

これは戦争中であろうと平和な毎日であろうと、
その湧き上がる感情の波が高かろうと低かろうと、
理性の部分がどれだけ「それが道理だ」と感情に働きかけようと、

感情というものはそれで割り切れるものではない。

集めた捕虜を陵辱していた兵達に向けた豊久の怒りは至極全うなものであり、また彼の戦に於ける倫理観の表れである。
そんな彼が皆殺しを命令するのもある意味当然ではある。
だが少し奇妙な点がある。
それは信長が微妙にそんな豊久の気質を思い違いしている点である。


「お豊 お前はどこまで真直なんだよ」
「最初っからそんなのは俺の役目なんだよ!!」


豊久の中では直結する筈の事柄、全くの迷い無く命令するであろう事柄を、尚、信長は「ねじくれ、ひずむ」と言う。


「俺の手はとうに真ッ黒じゃからのう」


それは信長の中にある罪悪感であり、施政者、人の上に立つ者としての視点でもある。
赦し、取り込む「清濁併せ呑む」方向もありながら、それでも、皆殺しを選ぶとは信長にとり、何を意味するのだろうか。
思うに、
信長は「優しく」、豊久は「厳しい」のだ。
信長は「柔軟」であり、豊久は「硬い」のだ。
信長は「狡猾」であり、豊久は「愚直」なのだ。
故に豊久は信長を殴り、信長は豊久の気質を再認識するに至る。


「ブン殴られて叱られるのなんざ  なつかしいな」
「いつの間にか 俺ぁ 親父殿より年取っちまったわ」


それは郷愁であるが、それと同時に自らを「去り行く老兵」と認識した男の未来への期待である。


急速に拡大する叛乱と戦火、豊久と信長、師弟と言うべきか親子と言うべきか、奇妙とも言える二人はどう叛旗を操るのだろうか。

 

以下次号。