彼女は、幸せなのだろうか。
そして、彼女達は幸せだったのだろうか。
「彼女」は一つ上の階層、向こう側へとその存在を移した、それを「神」と言うのなら確かにそれへと彼女は成り果てたのだろう。
「彼女達」の願いは純粋で脆く、不条理に満ちている。
それ故、それは奇跡を持ってのみ実現可能で
それ故、それにより生まれる歪みは最後に彼女達を滅びへと誘う。それは改変されても変わることは無かった。
奇跡そのものを「彼女」は否定しなかったのだ。
「彼女」は傍観者であった。
彼女自身が奇跡を望む裏づけが実際には酷く薄い。巴マミの死に様は確かに見たかもしれない。インキュベーターに魔法少女の意味と運命を聞かされたかもしれない。
だが美樹さやかの願いの真相とその結末も、暁美ほむらの祈りとその歪みも、彼女が「奇跡そのもの」へ成り果ててしまう事で初めて知り得た事ではなかったか。
奇跡とは奇跡であるが故に最初から歪んでいるのであり、元来不可能である事を可能と認識する事は狂気である。
つまりは彼女は人間が人間であるまま、祈りという狂気と純性をそのままに神の領域へとシフトしたのだ。
ちいさな自分を割ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとするこの変態を恋愛といふ
(宮沢賢治/春と修羅、小岩井農場)
鹿目まどか。彼女の祈りが宮沢賢治言うところの恋愛だとするならば、その心に如何なる感情の相克があったのかは知る由も無い。だがそれを自覚し全時間、全空間に及ぶ魔法少女の至上福祉を願った彼女はやはりその時点で人間を越えていた、と言わねばなるまい。
彼女は世界の法則であり概念でありながら一人の魔法少女である。
彼女は無限時間とあらゆる空間に拡散していながら一人の魔法少女である。
彼女は孤独なのだろうか。
彼女と同じ領域に居るであろう神々は彼女を寿いでくれるであろうか。
魔法少女はその力の代償として戦い続ける事が義務となる。
人間は精神に傷を抱えても時間が癒してくれるからこそ生きていける。だが魔法少女にそれは無い。システマティックに穢れを浄化しなければならない。それはまどかであっても変わらないであろう。
「それじゃ、いこっか」
まどかとさやかのこの場面。これは恐らくは象徴なのだ。
あらゆる魔法少女は最期の時を迎えた時、「まどか」にエスコートされ、自らの願った奇跡と退場する無念を「納得」し受け入れ、彼女の御許へと召されて行くのではないだろうか。
そして暁美ほむら。彼女だけが改変される世界の中で唯一「変わらないこと」を許され、尚且つ、元の時間軸からも離れた存在である。
引き継がれた「弓」が象徴するように、彼女こそが「神の使徒」なのだろう。
元の力からか、時間のくびきからも離れた彼女はそれ故にまどかを唯一認識しながら最もまどかと離れた存在となった。
それがほむら自身の負う「呪い」なのかもしれない。
最期の場面。
何も無い大地。
彼女から広がる黒翼と口元に浮かべる微笑。それははるか未来に現れるという弥勒菩薩を象徴しておるまいか。
それこそが彼女の救済となったに違いない。
全12話を見終わって、捻くれたダークファンタジーかと思いきや、全うな王道で纏める、非常に気持ちの良い作品であった。
確実に一つの時代の区切りと象徴となる作品となった事は間違いないであろう。
素晴らしい作品をありがとうございます。