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口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

対戦格闘ゲーの運要素を考える

2009-08-06 | ゲーム

えーとですね、本当はヘルシングOVAとかドリフとかの記事も書かなきゃなーなんて思ってたりはするのですが、ちょいと以下の記事を読んでなんか書きたくなっちゃったんで先に書く。


対戦ゲームにはもっと偶然の要素がほしい(頭の中さん)
対戦ゲーに運要素を加えることについて。(不倒城さん)


過去、バーチャファイター2(以下VF2)を結構しつこくやり込んだ身として考えた事をつらつら書いてみる。以下対戦格闘限定の話。
対戦での「運」との事ですが……う~ん、これは難しい。
別に対戦ゲーに限らず、運の要素、て確実に存在するのですよね。対人戦に限っても。格闘技でも「ラッキーパンチ」とか。競馬でも「展開が嵌った」とか。

運、てのは全くもってアナログな要素だと思うのですよ。
天の采配といいましょうか奇跡の産物といいましょうか、本来「予測のつかないもの」だったりするのですが。
実際、「デジタルな」ゲームとは相性の悪い要素な気がします。

そこで過去を思い出して見ると……
あくまで個人的な所感なのですが、VF2、乃至格闘ゲーを「やり込む」てのは「運の要素」「偶然の要素」を潰してゆく作業なのではないか、と思ったのですよ。
例えば、

・ある空中コンボを相手に仕掛けた時、当たる時と当たらない時がある。
→自分の立ち姿勢によって結果が変わるようだ→実は普通の立会いの時もあるよ→キャラクター同士、半身ズレてね?→軸足の概念の発見。

・レバーをガチャガチャしてたら突然技が連続で出たよ。
→キャラクターが動いてる時に次の動作を入れると続けて動いてくれるよ→早く入力すると動きの一部をキャンセルするよ→ラウの「斜上P」を初めとする連続技の発見。

・VF1のジェフリーで「相手方向斜め下2回+P(パンチ)+K(キック)」でスプラッシュマウンテンが出るよ→セガの人「へへ、そんな訳あるかい」→出たYO!→セガの人「えええええ!」

・ウルフでも出たYO!→セガの人「仕様です」

などなど。

あくまでデジタルなゲームの事ですから、システム上の盲点、穴、欠陥に基づいて生まれる偶然を発見する訳です。
で、やり込む人、てのはその偶然を「必然」に変えるべく執念を燃やす訳ですね。自分に有利なら必修技術として。不利なら回避技術を。

そうすると、開発側が意図的に運要素を入れたとして。上のリンク先にもあるランダムアイテムとか。
やり込む人ってーのはその要素すらも分析し尽して自分に有利にしようとする訳です。回避不可なら最小限のダメージにするには、と。
更に言うと、プレイヤーは初心者も上級者も同様に「フェア」を望みます。
意図的な有利、不利は不興を買いやすいです。

あくまでフェアな条件下での運による勝利なら初心者は嬉しいし、負けても上級者は納得するでしょう。
で、何が言いたいかつーと、格闘ゲー限定の話ではあるのですが、

「運の要素はあくまで人間に委ねるべきである」

て事で。色々判断を迫られる要素があるんですよ。やり込んで理解してくると。「ディレイ」とか「二択」とか。どれだけ潰しても残る運と騙しあいの要素が。それじゃ初心者置いてきぼりじゃん、て言われると思いますが、正直システム的には根本的に変わってない、と言ってもいいですしねえ。

そんでつらつら考えてたのが、システムにアナログな要素を込められないか、と。
例えばですよ、
VF1の頃からある要素に「相手との位置関係で出る技が変わる」というのがあります。単純なのですが、

・PKと入力→相手との距離で出る技が違う
・同じ投げでも→相手がしゃがんでれば「しゃがみ投げ」→相手が背を向けてれば「背後投げ」
なんてのが。
これ位置関係と同時に「間合い」の概念だと思うのですよ。
これを発展させれば、

・PKという単純な技でも→相手との距離(近い、遠い…だけでなく)
              →相手との位置関係(正面、側面、背後)
              →相手の姿勢(立ち、しゃがみ、よろけ)
              →相手の対応(ガード、軸移動、さばき)
これだけあっても同じ動きにならない、ような。実際には複合的に要素が重なりますから、同じ状況にほとんど会わない、同じ動きのPKにならない、というような。
これなら結構「運」の要素が入ってきません?

更に発展させれば、

「ジャッキーチェン的香港カンフー映画対戦格闘ゲー」

なんてのも。それこそイスやテーブル、ラーメン食ってるおっさん、放し飼いのニワトリが入り乱れた中でそれを活用しつつ格闘する、みたいな。

ここまで書いてて問題点も浮かぶけど、とりあえず上のはあくまで「例えば」だったりするんでアレなんですが。
対戦格闘としてはそろそろシステム自体の変革が無いと厳しいだろうなあ、とは思います。
個人的には段位認定が(-ω-#)y-~~~~ごにょごにょとかあったりするけども関係無い話なので以上。





参考文献:バーチャファイターマニアックス/渋谷洋一/羽田隆之


ゲームのエンディングっつーか、物語性について

2009-04-03 | ゲーム

ちょっと、不倒城さんのエンディングの内容などどうでもいいのだーー!を読んで思った事をつらつらと書いてみる。
あちらを読んで頂ければ判ると思うが、至極真っ当な事を書かれていると思うので、特に反論という意味ではない。
それと、こういった話は概念的な部分などで共通認識を持つのが大事である。
なので、これから書く文章において全くのあさっての方向に進んでいたり、誤解していると思われる部分が有るならば指摘していただけたら幸いである。

自分としては「ゲームに物語は有って欲しい」と思っている。いや、「願っている」とすら言ってもいい。
物語を楽しむ事とは「思考する事」だと思う。簡単に言えば行間を読む、とかそういった事だ。実際に読む文章や映像の更に奥、もしくは裏側を調べ、考察、想像するといった工程を経る事で、その物語を自分の中に落とし込む事なんだと思う。
正解を見つける、とは違う。国語の試験のように「正解」を必要としない。正解など無い。
極論してしまえば作者が「白」と言おうが、自分が「黒」だと思えばそれで良いのだ。
そういった意味で言えば小説であろうが映画であろうがゲーム、アニメ、何であろうが「物語を楽しむ」という部分に差は無い。

以下2つの動画を見て頂こう。



この2つ、「源平討魔伝」「斑鳩」であるが、エンディングは共にシンプル極まりない。
昨今のRPGのようなムービーも無い。
だがこの2つのゲームのストーリー、エンディングは未だに「ゲーム史上屈指」と言われ続けている。
しんざきさんの言
「エンディングに工数かける?アホか、スタッフロールでも流しとけ」
これにはとても同意できる。だが、

そのスタッフロールにどれだけの意味を込められるか

はまた別問題なのだ。
この2つ、詳細が気になる方はググってみて頂きたい。
その後に再度動画を見て頂ければ、ムービーに寄らない演出やエンディングに込められた意味が読み取れるのではないかと思う。

一つ断っておくと、正直ゲームにおけるムービーは好きではない。
多少なら普通に見るが、延々やられると参ってしまう。以前、箱○の「あおいりゅうのRPG」を試してみたのだが、OPから延々ムービーもしくは各キャラが勝手に動き続ける有様で、ゲーム部分に入る前にリセットを押してしまった。それ以来プレイしていない。俺はゲームがやりたいんだ。ムービーが見たいわけじゃねえ。

もしかしたら、しんざきさんの想定しているのはそういったRPGだったりするのかもしれないが。

そしてもう一つ大事な要素がある。
自分がプレイする事である。
しんざきさんは「達成感」と表現しているが、これが「遊び」「ホビー」に徹しているゲームであるならばわかり易い。特に任天堂が最も得意とする所だろう。マリオにおける箱庭的フィールドなどはまさしく遊び場そのものである。最近だとアイレムの「みんなでスペランカー」もそうか。オンラインで皆で協力すると同時に苦労も分かち合える。
凄え楽しそう俺もやりたい……

これが物語のあるゲームになると事情が変わってくる。
遊ばせると同時に物語も進めてもらわなくてはならないからだ。
それは例えば「長編の物語を読み進める」事に似ているのではないだろうか。
勿論のんべんだらりと表面をなぞっているだけでは意味が無い。冒頭に書いたように「読み込む」事が大事なのだ。
それはADVやRPGだけではなく、ACGでもSTGでも共通である。攻略法を考えたり練習する事はその物語を読み込む事に通じる。達成感と物語に感動することは矛盾しない。
はるばると長い物語を読み込み、考え、苦悶しながらもふと見上げると随分と遠い所に辿り着いた事に気が付くのだ。

そこで冒頭に戻る。

エンディングの内容などどうでもいい……訳ではない。ただ、極めてシンプルであってもそこに製作者がそれだけの意味を込めているのならそれは必然である。
反対に薄っぺらい物語ならばどれだけ豪華な映像であってもそこに「区切り」以上の意味は無い。

プレイヤーはドルアーガの塔やウィザードリィに迷宮を幻視する。そこにあるのは単なるアクションゲームやワイヤーフレームの箱庭ではない。そこに「物語」があるからこそいまだに語り継がれ後続が受け継いで行くのだ。


STG衰退についてゲーム性以外から考えてみる

2009-02-09 | ゲーム

お久しぶり。既に日記じゃないですがまあそれはそれで。
で、本題。既出ネタかもしれんし頭の中でまとまってる訳でもないので例によりgdgd書いてみる。

ネット上で「シューティングゲーム(以下STG)の衰退について」語られると、十中八九難易度や稼ぎ、弾幕といったシステム面、ゲーム性の話になっている気がする。

何故か?

STGを考えてみると、ジャンル全体を見てもその始まりは相当に古い。
現代STGの基礎をどこまで遡ればいいのかはよく判らないが、固定画面のインベーダーからスクロール、3D、斜め視点、と手法は数あれど、根本部分は変わらない。

撃って、避ける。

それだけだ。
その単純さ故に、インカムを含めたシステム的にも限界点が見えてしまう。
現状は、その「限界点」に対して皆が「どうやってシステムに多様性を生み出そうか」と思案している状態なのだろう。



ただ、その限界点は「システムだけではない」のではないだろうか。
一つはストーリー。
STGにおけるストーリー性を考えてみると、あくまで撃って、避けるが基本にある為必然的に「闘争、戦争」が主題となる。
古典と位置される「ゼビウス」もしくは「ファードラウト・サーガ」から現在までそれは変わらない。
(余談ではあるが、ゲーム全ジャンルを通じても「ゲームのバックボーンに深いストーリー性を持たせた」のはおそらくゼビウスが最も古いのではないだろうか。)
ただ、その主題故に、世界観を作りこめば作りこむ程、その世界は狭まっていく。
80年代後半~90年代にかけて、タイトーシューティングを初め、名作が多数生まれたが、その精緻に作りこまれた世界観の為か、「一作限り」の物が多い。
元来、ゲームというものは「一話完結」が基本である。
それはいわば「連続ドラマ」よりは「映画」に近く、良くて「全×作構成」とするのが精々である。
更にはその主題から重いストーリーである事も多く、物語のラストが所謂「鬱エンド」である事も少なくない。
ただ、暗いばかりではなく、ストーリーを読み込み、やり込む事で希望を感じ取る奥深さを持ち合わせた作品もある。
その領域に辿り着き、語る事の出来るプレイヤーはごく限られた者だけだが。

STGに活気があった時期とは、同時にジャンル全体にそういった重苦しい印象が広がり、一般層が敬遠し始める時期でもあったのではないだろうか。

勿論、重いSTGばかりではなく「パロディウス」や「超兄貴」、最近では「オトメディウス」と云ったキャラゲー、バカゲー方向の作品もある。
これらはネタがネタだけに正当な評価とカテゴリとして認識されているのかは甚だ疑問ではあるし、タイトルの絶対数は多くない。
だがこれ等作品が生み出すイメージがある意味ジャンル全体を「救ってきた」側面もあると思う。

パロディウス、オトメディウスの名前が出た所で、原点となる「グラディウス」ではあるが、この名作シリーズのストーリーの基本は到ってシンプルな所が興味深い。

「外宇宙から飛来した敵を迎撃する」

これだけである。シリーズである為、作品によって多少の差はあるがそれ程深くストーリが作り込まれている訳ではない。
逆に言うとこういった「ユルさ」故に、今現在も新作を生み出すキャパシティーを維持できているのかもしれない。
反対に、アイレムの「R-TYPE」は初期こそそれ程凝った世界観ではなかったのが、シリーズが進むにつれて新しい設定が加えられる事で遂には「FINAL」をリリースするに到り、「STGとしては」打ち止めとなってしまった。
こういったストーリー的にユルい作品も相当生み出されているのだが、今度は逆に

「物語的に語るべき部分が少ない」

為、冒頭に書いたように「システム方向で語る、考察する」しかなくなってくる。

STGの衰退とは、システムの限界が生む物語性の限界を示しているのではないだろうか。



本当は音楽性の方向からも書こうかと思ったけども長くなったのでここまで。
続き書くかは未定。「書け」言われたら書くかも。


PCゲーて思えば随分とご無沙汰な気がする。

2008-07-12 | ゲーム

不倒城さんの所の「PCゲーに進化の余地はあるのだろうか」に思うところがあったので書いてみる。例によってだらだら垂れ流しなので向こうの記事とシンクロする部分の方が少ないと思うが勘弁して頂きたい。

結局の所PCと呼ばれるモノが、マイコン→パソコン→PCと呼称が変わるにしたがって、「何でも出来る(気がした)モノ」から「出来る事と出来ない事が見えてしまったモノ」へ変化したのが大きいような気がする。
一般論としては。

個人的には、「何が生まれるか判らないカオスなモノ」から「割と何が生まれてくるのか予想できてしまうモノ」へと変化したのではないか、と思ったりもする。
例えば「ローグ」
例えば「ウィザードリィ」
例えば「ファイナルロリータ」
例えば「レリクス」
例えば……
今挙げたゲームに特に大きな意味は無い。ただ発表当時の時代背景や今現在のゲーム事情を考えて「おお、凄え」と言える作品、「工エエェェ(´д`)ェェエエ工」と言われるであろう作品を挙げてみた。
「闇鍋」「ごった煮」「なんでも有り」な部分はファミコン以降のコンシューマに移行して、エロの部分だけが色濃くPCに残ったとも言えるのかもしれない。
後にMMOの流れが生まれたけども、ゲームよりもコミュニケーションツールと見た方が正しいような気もする。
MMOにしても、「カオスな行動を取る個人」は居ても、「世界、ゲームそのものがカオス」なモノは存在しない。そりゃそうなのだ。

しんざきさんは最後に、

「Loginが休刊したのは重い」と書かれているが、それもこの「カオス」な要素が減ってしまったからではないか、と思ったりもする。
当時のログインやゲーメスト、Beepといったゲーム黎明期の雑誌は幼い故にカオスで無茶苦茶で面白かったと言える。
ゲームの情報誌である以前に、編集者と読者の悪ノリ、悪ふざけが(度を越す部分もあったが)良い方向で働いて雑誌とジャンル、シーンの活力になっていたのではないか。
ログイン、後に分家として生まれたファミコン通信が生まれた土壌からして、

当時のログイン編集部が「色々とやりすぎた為」、半ば隔離される形で「編集統括第二部」という形で独立部署と化した。

といった話を聞いた事もある。いまいち記憶が曖昧なのとソースを明示できないのでアレなのだが。当時からベンチャー色の強いアスキーにあってそんな扱いをされるとはどんだけアウトロー集団なのか、と思ったりもした訳だが。

ゲーメストも同様に相当カオスだった(少々前の「コンテュニュー」誌の関係者インタビューが相当面白かった)ようだが。
モノつくりを職業とする人から見ればとてもじゃないがマトモには見えない、狂った製作体制ではあるのだが、それ故に共感するユーザー、読者が一緒に盛り上げていたのではないか。
後にクリエイター側に回る人材(鋼の錬金術師の荒川 弘がメストの投稿常連だったのは…有名だよな?)を多く生み出しているのも偶然とは言えないと思う。

翻って今のPC雑誌はどうなのだろうか?
エロゲー誌であろうと、ネット情報誌であろうと、洗練されすぎてカタログ的になってしまい、面白味が薄くなってしまったと思うのだ。

結局の所、ホビー、ツールとしてのPC、情報媒体の雑誌、遊び手のユーザーなど等ジャンルそのものが成熟、洗練された為に逆に活力を失った……というありがちな結論になってしまう。

ただ、逆を言うと、

「コンシューマーでは真似できない、カオスで底の見えない何か」

を生み出す事ができれば、PCゲームの復興もあるのではないかと思う。
それが何なのかと問われると困ってしまうのだが。

勿論この話にも特にオチは無い。


俺とゲーム、つかゲームを肴にダラダラ垂れ流し

2007-09-07 | ゲーム

ニュースサイトで見つけた記事なんだけども。

1975年生まれくらいの人は幸せなゲーマー人生を送っている仮説

俺1975年。ドンピシャ。
あー、そーかもなー。
小学校3~4年にファミコンと出会い、因みに(最初で最後)買って貰ったのはアーバンチャンピオン。自分で買ったのはゲイモス(このゲーム、ゲイモスるんだ、なんてネタを確か佐藤元氏の漫画で見たような)。
マリオに出会い(レッキングクルー楽しいよね!嘘。勿論スーパーマリオな!)、
沙羅曼蛇に感動(小学校では誰も他に解る人はいませんでした。後にファミコン版ではスピード1段、ミサイルのみで楽に2周達成)し、
ダライアスで音楽に目覚め(ボディソニック最高。俺の音楽趣味の根底には全てゲームミュージックがある)、
アフターバーナーに呆然とし(勿論ダブルクレイドルタイプ。初プレイ1分で終了)、
ウィザードリィにハマり(FC版リルガミン3部作は至高の名作。作曲者の羽田健太郎氏に黙祷)、
ドラクエにハマり(ロト3部作は発売と同時に購入。つか、購入担当は俺ウィズ、兄がドラクエみたいな)、
ゼルダで徹夜し(ディスクシステム発売しても最初ソフトなんもリリースされて無かったのなw2週間くらい。裏ゼルダ込みで2週間程で攻略)、
ドラキュラで涙目になり(難易度最悪はスーパーファミコン版だと思う。最高傑作は悪魔城伝説。超絶美麗はX68K版)、
リッジレーサーに驚喜し(メストの画面写真1枚で直感的に歴史に残ると確信。リリース当時は学校から20キロ(今じゃ無理)離れたゲーセンに友達連中と自転車で押しかけたもので。リリース当初の1プレイ、300円なり)、
ストⅡに目の色を変え(SFC版で1日100試合とか。友人と。俺の高校で、文化祭にアーケード筐体を持ち込んだ部も。)、
バーチャファイター2に溺れ(社会人なりたての頃。大げさでもなんでもなくバーチャの為に仕事してた時期。朝8時出社~夜10時まで仕事~店を変えながら(風営法の為)午前2,3時までプレイ~帰宅仮眠~出社の流れを1年半。)、
斑鳩に涙した(斑鳩とレイディアントシルバーガンは後でエントリ書きたいな)、
そんなゲーマー人生。

あ、確かに悪くないかも。幸せなゲーマーかもしれない。俺。まだまだ楽しんだゲームは沢山あるけども代表的なのはこんな感じ?
エロゲ、ギャルゲ、ネトゲの文脈はわからないし、プレイした事もまるで無いのでその辺は損しているのかな。
確かにゲーム黎明期から、リアルタイムに経験して語れる世代と言うと俺の年齢がボーダーラインのような気がする。俺より若いとそれこそ小学校低学年、幼稚園以下の年齢になるし。
最近は流石に少し離れ気味ではあるけども。
つかね、DS,Wiiにしろ、PS3、360にしろ、なんで極端から極端へと傾向が偏るかね。極端なムービー偏重の流れから単純すぎるゲームとか。
ゲームらしいゲームって極端に減ってる気がする。
必要なのはムービーではなく、ゲーム中の演出やプレイヤーの行動の結果で自然とストーリーの流れを把握させる事。
単なる単純ゲーではなく、複雑さ、難易度と、練習、訓練、反復、思考、理解、爽快感がきちんと拮抗させる事。

「ゲームらしいゲーム」

多分恐ろしく作るのが大変だとは思う。手間も暇も金も運、もしくは奇跡すらも必要とするのだとは思う。
でもね、遊びたい訳ですよ。そんなゲーム。社会現象起こすような凄えやつ。
そんな訳で、ゲーマーとしては老体(笑)かもしれませんがまだまだ現役で行きたい、そう思ったりする俺なのでした。


ゲームの動画を見て思った事。

2007-05-17 | ゲーム

最近作業する時はニコニコ動画をBGMにしてます。
アニメは~殆ど見ないなー。
MADループミュージックを垂れ流すのも良いのですが、最近はゲームミュージック系を漁ったりしてます。しかもレゲー。

観覧できる人が限定されるので申し訳ないのですが…こんなの。
20代後半の人じゃないと判らないネタ3つ。
80年代ゲームミュージック@パートⅡ 
アーケードゲームの有名所のセレクション。選者の方は「かなりわかってる」

VideoGameLive 
ふっる~~いゲームミュージックをオーケストラで。アメリカ人のセンスに脱帽。爆笑。日本でもやればいいのに。ドラクエとかだけじゃなくて。 

悪魔城ドラキュラシリーズ 音楽メドレー 
ファミコン音源から。この時代のコナミは本当に神掛かってた。悪魔城伝説は間違いなく最高傑作。後でアレンジバージョンが何曲も出たけどこのオリジナル以上の物は一つも無かった。

おまけ。

レイディアントシルバーガン ラストステージ

斑鳩2人同時プレイ

この2つはトレジャーというメーカーのシューティングゲーム。シルバーガンとその続編の斑鳩。音楽もさることながら、映像も美しい…見入ってしまう。このゲーム2本ともプレミアつきまくって入手が極めて困難なんですよね。ニコ動行ける方はシルバーガンで検索して一通り見ていただければ理解して頂けるかと。斑鳩にいたっては「STG史上最高傑作」と言い切ってしまいたい。DC版斑鳩持ってる俺は勝ち組。
トレジャーさん、「RS3」出して。ホントに。
んで、できれば「RS」「斑鳩」「RS3」まとめて「プレミアムパック」とかいってリリースして欲しい。2万位だったら喜んで買う。いや2万なんて激安かもしれない。マジでマジで。


そんで最近思った事をとりとめも無く書いてみる。文章の構成とか考えないからあっちゃこっちゃ飛ぶと思うけど読みにくかったらスマンす。

なんつーかね、「ゲームミュージック」てよく言うけど、正直、もうゲームミュージックて存在しないよなーなんて思ったりするんですね。あ、今の時代のゲームの話ね。
今のゲームの音楽…映画音楽と同じで「ゲームのサウンドトラック集」ではあるけども、多分「ゲームミュージック」ではない。
じゃあ、ゲームミュージックの定義てなんなのよ、てな話になるけども、俺としては

・ゲームのプレイ画面(動画)と不可分である事。要は、BGMと一緒に画面も頭に浮かんでこなきゃ駄目。

・SEも込みで音楽の要素になる事。上のに重なるけども、あくまでプレイしてる時の音楽だから、「SEが邪魔」て言われるのはどうかな、て思う。

・音楽が世界観を象徴していて、音楽だけが独立しすぎてはいけない。

こんな感じ。
今のゲームの音楽て、完成度は高いけどもゲームと離れてしまってる気がする。
音楽単体で成立してしまってるんだ。良い事の筈なんだけど、俺はなんか釈然としない。ホント、変な言い方で説明するのに困るんだけども。
それも多分、ハードウェアの進化と共に離れていった感覚。年々音源の技術が向上していくにつれて、「ゲームミュージック」が「普通の音楽」に変わってしまったような。
こう書くと「懐古厨乙」なんて思われたりするのかな。
でも「昔は良かった」なんて話でもないんだ。どーせ、80年代当時なんかに今の技術力のハードなんかがあったら今と大して状況変わらない筈だから。違うのは音楽の流行だけ。
個人的な感覚なんだけど、90年代初頭に葉山宏治が「GameMusicIsDead」て叫んでた時には本当にゲームミュージックは死に体だったんだと思う。
で、延々延命されていたんだけど、止めを刺したのが、「WipeOut」(1995/シグノシス/プレイステーション)。当時は「ゲームとテクノ(今だとジャングルやハウス、エレクトロなんかのダンスミュージックの事)の融和」なんて言われてたけども、逆にゲームミュージックの独自性は失われてしまった。いやダンスミュージック大好きだけどね。
ダンスミュージックを取り入れたゲームならその前に「リッジレーサー」「F/A」とかあったりするけど、まだそれらは”らしさ”が残ってた。なんつーのかな、まだ”こっち側”に留まってたと言うかね。
RPGがメインの流れになって、映画音楽的になった、てのもあるのかなー。タイトーSTGの音楽は早い段階でそう言われてたけども。

だからなんだ、て言われても困るのだけども、シルバーガンや斑鳩、源平討魔伝の動画を見てそんな事を思ったりした、て程度の事で結論なんぞ出る訳も無くこの話終了。


これは一般常識……なのか?

2005-08-09 | ゲーム
えーとですね、少し前の話なのですが。
会社の同僚数人で雑談していた時の事です。

ふとした切っ掛けで、ゲームの話になりました。
最近面白かった、ハマッたゲームは何か?
で、私はゲームは好きなのですが、最近それほどPLAYしておりませんでした。自室にゲーム機を持ち込んでないのも理由なのですが、燃えるゲームが無い事もあり、少し前の「斑鳩」と答えました。
後輩の子が
「斑鳩ってなんですか?」

「あ、わからんか。ごめんごめん。トレジャーってメーカーのSTGなんだよ。」
ここまでは良いのですが次の瞬間、予想だにしない質問が。

「シューティングゲームってなんですか?」

な、何イィィィィィィーーーーーー!!!!!

ゼビウスですよグラディウスですよスターフォースですよR・TYPEですよダライアスですよ!?
ジャンルそのものを知らないなんて……orz
上で何気にSTGと書いてますが、略称を他ジャンルも挙げてみましょう。
STG>シューティングゲーム   >上記の他にインベーダー、ツインビー、など
ACG>アクションゲーム     >有名な所ではスーパーマリオなど。広義では対戦格闘もこのジャンルに入る。
ADV>アドベンチャーゲーム   >最近は美少女物の代名詞と化してるけども、古い所ではポートピア連続殺人事件や、リバーヒルソフトの推理物など。
SLG>シミュレーションゲーム   >ファミコンウォーズ、スーパーロボット対戦、”シム”シリーズやフライトシミュレーターまで。定義の一番広いジャンルかも。
TBL>テーブルゲーム      >麻雀、将棋、オセロ、ボードゲームなどなど。
RPG>ロールプレイングゲーム  >ドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーと言えば説明不要か。

主にこんなもんですが……常識……ですよね?
で、その子に改めて話を聞いてみると、その子にとってゲームとはRPGと同義らしいのですね。
勿論他のジャンルなんかやらない。

この事をちょっと考えてみました。
これってレアケースなのか?
いや待てよ。
実際の「ゲームは知っているがやらない一般人」や、いわゆる「ライトユーザー」なんかの知識、認識なんてこんなもんじゃないか?ゲームは「楽しみの一つ」に過ぎず、深くハマる事は決して無い。
「ゲーム」って頭の中でぼやっとしたイメージがあるけど、実際には何なのか判っていない人達。

市場規模はどんどん巨大化して、世界的に広がってはいる。
日本のコンテンツ産業の代表と祭り上げられてはいる。
一つのプロジェクトの予算もどんどん青天井に膨らみ続けてはいる。

それじゃあ世間一般への浸透度、理解度は?

少々大げさに言えば「教育」の部分がゴッソリ抜け落ちているような気もします。「啓蒙」なんて言葉を使うのは嫌いなのですが、「レビュー」とか、「評論」とか、「カタログ紹介」とか、「攻略」なんかはあっても、「ゲームそのもの」を論ずる(ジャンルですらなく、本質の部分で)メディアがほとんど無い。漫画、アニメなんかは専門誌のみならずいわゆるサブカルチャー誌なんかでも取り上げられるのに。ネットなんかでは意欲的にとりあげられてはいますが”マス”なメディアは無いと思います。ゲーム専門誌はほぼカタログ雑誌になりさがってますよね。
そう考えるとあの、
「自称」脳医学者  や、
「自称」県知事   のような人達がこれまた訳のわからない事を言っているのに、大きな批判が巻き起こらないのも納得できるような気がします。いや、この事はもうさんざん(ネットなんかでは)騒がれていますから触れませんが。

ちょっとした会話から始まった話ではあるのですが、ゲームに限らず、メディアの役割や教育(学校などではなく、ね。)、我々自身が深く掘り下げて語ることの重要性を改めて考えさせられる一件でした。