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口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 11月号 第16幕

2010-10-10 | 平野耕太関係
卑怯とはルールである。

いや、言葉を省略し過ぎたが卑怯という言葉が出てくるという事は、そこにはルールが存在する事を意味する。
明文化されているものは言うにあたわず、冒頭に「暗黙の」と付いてくるルールも幾らでもあるだろう。
それは戦争においても存在する。
現代に於いては国際法などで規定されているが、それは過去とこれからの事例に基づいて変わっていくであろう事は当然の事と言えるであろうか。

つまり、ルールとは時代によって変わる、ルールとは時代である、と言い換える事もできるかもしれない。
つまりは「卑怯」も時代によって変わる。

では、何故ルールが生まれるのか。
それは「その後」が問題となるからだ。
これは個人レベルでも国家レベルでも変わらない。
ルールがそこに存在するという事は、そこには「裁定する者」も存在する事を示す。
明快なレフェリーが居るのはスポーツや格闘技、あらゆる試験に言えるが、それが存在しない場合は周囲の「不特定多数の眼」がそれに当たる。
つまりは「見つからなければいいさ」という意識がルールを破る、犯罪に走る事に繋がるのはごく当然の流れであろうか。
それはその「不特定多数の眼」が存在しない状況に陥った場合最大化される。

もう一つ、そのルールの「線引き」が何処に存在するか、が個人によって違う場合が問題となるであろうか。
ここでようやく今月のドリフに繋がってくるのだが、与一が「卑怯」と意識する行動…おそらく信長の指示であろうが、信長自身にその意識があるのか。
ドリフという作品の特性を考えるとその「価値観の違い」で登場人物達が衝突する場面も出てくるのだろうか。
信長と豊久は時代が近い事もあり、その辺の意識も近いであろう。
逆に言うと義経などは彼の生きた時代の価値観を飛び越えた、図抜けた戦術家、武将であった事が与一の言葉により証明されたとも言える。
それにより石もて追われる運命となるのは皮肉、というより必然なのかもしれないが。
更に言えば義経は逃げたが、信長は滅ぼし尽くした。この違いは大きいかもしれない。

ドリフの見所の一つに「さまざまな時代の戦術戦略がどう展開されるのか」があると思うが、
また、その時代時代の「常識」がぶつかる側面もあるかもしれない。
現代に一番近いのは現状、「菅野正」であるが、時代が新しくなるにつれての「戦争の常識」がどう刷新されてきたのか。
ドリフは「卑怯」すら面白い。




以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 9月号 第15幕

2010-09-05 | 平野耕太関係
さて、本格的に戦闘が始まったのであるが。
まず、「墨俣城」。
これは豊臣秀吉が作り上げた一夜城の事であるが、信長は村人に村を捨てる旨を話しているように、あくまでも比喩表現であろう。

途中、地図に「織田野伏長」とあったように、豊久を囮とした包囲殲滅戦を仕掛けるようであるが、敵を火で囲む事で圧迫感と混乱を起こし、唯一火の無い、信長達の「砦」に殺到してくる所を迎え撃つ、という算段なのだろうか。

そこで前回から敵兵が話している「井戸に糞を投げ込んでいる」点。
これは飲料として使えないという点が一つ。
それと井戸の描写が無いので何とも言えないが、井戸という逃げ道を塞いでいる、という側面もあるのではないだろうか。
井戸に落ちる事で難を逃れる、という事が無いように、例えば糞便で偽装する事で竹槍などを仕込んでトラップにしておく、といった事も考えられないだろうか。

そこで混乱に拍車をかけ、包囲する事で焼き殺すのと射殺すのを進める訳だ。
火から逃れても与一や豊久が狩り出す、というのが予想できる。
敵を恐慌状態に陥れる事で大群を容易く瓦解させる、まさしく手練である。




漂流者達の侵攻が始まった。
10月号は休載だったのだが、



以下次号。

美少年で名探偵でドエス

2010-07-21 | 平野耕太関係
なんだろうか、この心躍る感覚は。第一話からしてコレだ。
本編は短い。展開も地味だ。

だが心躍る。

雑誌の表紙からして違う。
表紙をめくり、扉絵を観る。
横には美麗で可愛い着物姿の女の子のピンナップが。だが違う。
申し訳ないがピンナップが負けている。平野耕太描く扉絵に。
そう、ここから僅か13ページの間は、全くの異界なのだ。

眼科医、瑪瑙。
この謎の少年、いや、はたして少年なのか?かもし出す雰囲気、物腰、そう、例えば姿形は勿論違うが菊地秀行描く所の「ドクター・メフィスト」をイメージさせるような。

彼が「事件 だ」と言ったところではっ、とさせられる。
事件、の後一泊置いて、「だ」を強調している。
話しかけている様子をイメージしてしまうのだ。

ホルマリンなのか。立ち並ぶ瓶に浮かぶ眼球を背に、うっすらと笑みを浮かべ彼が語りかける。
抑揚も無く。
だが愉しげに。
軽やかに。
妖艶に。


物語は無残な殺人事件を切っ掛けに始まるが、そこで出会う刑事、おそらく瑪瑙の相棒となるのだろう、信貴山。
こちらも細かな説明こそ無いが、微妙な表情や所作、死者への手向けなどで心優しく、慮る事の出来る男だという事が分かる。
この二人が出会う所で1話は終わってしまうのだが。



後2回で終わるのか?終わらないのでは、と思う反面、長く続かないだろうか、と思う部分もあったりもする。
雑誌が季刊なので次は3ヵ月後。3話は半年後。
長い。だがまあ待つのはもう慣れた。半年や1年、何の事もあらん。
出来うる事ならこれを切っ掛けに短編集なども期待したいところだが。


短い分、内容に触れるのも困る反面、期待値はうなぎのぼりだ。
生殺しのような感覚を憶えつつ、

次は3ヵ月後。










出るんですよね?

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 8月号 第14幕

2010-07-19 | 平野耕太関係
死生観というものは死と直面した者直視した者がそれを通過する事で、始めてその言葉に説得力を持たせる事が出来る。
知識だけでは如何ともし難く、経験しない事には想像の外にそれは有るからだ。

それ相応の年齢になれば誰しもが通過する事ではあるが、逆に言うと若い世代にそれを求める、考えさせるのは無理があろうし、ある意味酷でもある。
既に経験している、というのもやはり酷な話ではあるが。

現代においては死はかなり日常から遠ざけられている、いや、隔離されている、と表現した方が正しいだろうか。
老衰や病気となればほぼ集まる施設は決まってくる。事故となっても当事者であればまだしも、間接的に伝わる話は相当に柔らかい表現となって広がるばかりだ。

死生観に限らず、価値観というものはその個人の人生、経験、環境で形成される。
大袈裟に言う事でもないが、音楽であれ漫画であれ何であれ今現在自分が「何故」「それを」選んだのか、とはそれまでの自分の蓄積の結果に他ならず、言ってしまえば「そうなるようにしかならなかった」としか言いようがない。

信長や豊久とオルミーヌの違いはそのまま人生における「死の立ち位置」の違いである。


「首は弔って供養してやった」

「糞ば詰まった肉に人ん魂は宿るのか」


彼等にとっては矛盾ではない。
人は死ねば仏となる。豊久は「手を合わせ」弔う。
同時に肉体は只のモノと考える。この場合首を落としたから供養の対象にしただけで、実際はその限りではないだろう。

彼等にとって、死はいつも傍らにある日常に過ぎない。

戦国、という時代背景もさることながら、飢饉や疫病といった要素がある。
死が軽い、と表現するのとはまた違うであろう。
それは死が当然の如くやってくる状況に対して、残った者達がどう生き抜いていくか、という戦いでもある。
豊久は常に「死ぬ事」を前提に語る。


「たとえ死んだとてあの世で父祖にこう言える 闘って死んだと 家族を守ろうと死んだと」


それは死んだからとて言う事ではない。生き残り望みを成就した時も胸張って言える事だ。
つまりは彼等にとって生と死は同等なのだ。
むやみに死を忌み嫌う訳でもなく生を持ち上げる訳でもない。逆もまた然り、だ。

生きる為に抗うが如く、戦という死に向かい一心不乱に突撃する。それ狂奔という。



夜、一本の矢が開戦を告げる。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 7月号 第13幕

2010-06-09 | 平野耕太関係
ドリフの掛け合いは楽しい。
以前も書いたがタイトルからして、そういったコント的ノリは前提であろうし、むしろシリアスな場面との落差がありながらも、自然と読ませる手腕が平野作品の特徴と言えるかもしれない。

更に言うなら各人物の言葉使いが現代的、またはフランクな、伝法な物言いで進行する所も特徴的である。
この手法は「無限の住人(沙村広明/アフタヌーン)」などでも取られている方法論であるが、ドリフという様々な時代から偉人が集結する作品の性質上、そういった言葉使いの整合性を図るよりもそこはスパッと割り切り、むしろ現代劇的性質を前面に出しキャラクターを立てていく事で、活き活きとした描写をする事に成功している。



ドリフは既に時代劇ではないが、そういった「歴史物、時代劇物」として名作、傑作と呼ばれながら異端とも認識されているのが「蒼天航路(王欣太/アフタヌーン)」であろうか。
蒼天航路もまた史実を(既に演義やら何やらで諸説あるのだが)忠実に追いかけるよりもその時代の英雄達の(作者は妄想、と謙遜しているが)「人間的側面」に注力し、活写する事で彼等を「偉人である前に、一人の人間である」事を読者に提示する。
なればこそそれが逆に彼らの偉大さ、足跡の巨大さを読者に意識させる事に繫がり、そこにカタルシスや深い共感等を呼ぶのだ。

「感情をぶっ放さずして、何が人間か」(曹操孟徳)

歴史物、とりわけ三国志物は確実に「蒼天航路以前、以後」と区別する考え方もあるのではないだろうか。



ドリフに話を戻そう。
信長、豊久、与一。
空気を読むというよりも、察して慮る。
冒頭における豊久の

「俺は信忠ではない」

この一見、酷な物言いは信長への忠告であると同時に信長の心情を慮っての言葉である。豊久とて対象は違えど同じだからだ。

言い過ぎたか

平野作品において心情をモノローグで描かれるのは珍しい。
表情や情景描写という手法を取る事で、ハードボイルドと形容できるほど心理描写を挟み込まない作風に於いて、むしろ注視すべき点である。

信長とて言われるまでも無く理解している筈だが、改めて言われる事で自覚すると同時に、豊久の心情も察する事であの返しとなるのである。
そんな二人のやりとりを与一は「親子喧嘩」と看破しているのだ。そこから「兄弟喧嘩」と連想する事でその後のドタバタへと流れ込んでゆくのである。

これはこの三人の仲間意識であり、絆だ。

これでまた一つ、只の行きがかりではなく、お互いの向く方向、目的意識、結び付きの強さと変わっていくのだ。




新たにやって来たオルテ帝国の大部隊を、影から浮かび上がる豊久の目が捉える。

「こよい あやつらを 皆殺しにする」


以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 6月号 第12幕

2010-05-04 | 平野耕太関係
馬鹿となんとかは紙一重、という言い回しがある。
可愛さ余って憎さ百倍、などという言葉もある。
これは単純に対象を茶化す為、揶揄する時などに使う表現では、ある。
あるが、実の所、本質は表裏一体である事を端的に示す言葉遊びなのではないだろうか。

今回面白いのは黒王、信長両者の言葉が場面は違えど続く事で、比較する事が可能な点である。
そこで考えてしまうのだ。
この両者、方向は違うが発言の根本部分は同じなのではないか。

黒王は世界を塗り替えようとしている。
信長は「国家」のシステムを乗っ取ろうとしている。
対立する立場となる二人ではあるが、どちらも結局の所はこの世界に破壊と混乱を生み出す事は変わらない。

北からか南からか、
速いか遅いか。
亜人種か人間か。


「お前達の世界の平和と幸せのため この国を亡ぼす企てに加担しろ」

「一人残さず人なる者を打ち倒す終わりであり 一人残さず人ならざる者を救う始まりである」


痛快である。
だが正しい。
廃棄物側の起点は憎悪ではあるが「全てを滅ぼす」ではなく、対象となるのはあくまで人間であるらしい。

そして信長。彼は「君主とは」を説き、結論として「自分達が国を持たなければ話が進まない」と考えている。
十月機関のメンバー、オルミーナは「常軌を逸している」と評するが、実際は極めて合理的である。
元の世界の住人達でどうにか出来るのならば、それに越した事は無いのだ。だがそれは無理な話、という前提であるならば信長の結論に達するのは至極当然である。
後は速度の問題か。
廃棄物側が侵攻する速度に対して、漂流者側が(国はともかく)軍備を整え迎え撃つのが間に合うか。いや、信長であれば一国では不十分と他国に侵攻する可能性は、と言うより侵攻すると考えるのが妥当であろう。

さてそこでエルフ村に場面を移し、彼等は本格的な国奪りを始める訳だが。
既に不安要素は生まれている。
村人はエルフ、亜人種である。深く長い恨みを人間に持つ彼等が国を持ち黒王軍と対峙した時、どういう状況になるか。

他の漂流者や廃棄物、物語のジョーカーかクラウンか源義経、混乱のそもそもの大元EASYと紫は傍観しているのみか。

状況は動き始めたばかりである。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 4月号 第11幕

2010-03-10 | 平野耕太関係
動機付けが足りない。いや、むしろ未だ無い。
今回の話、後半はギャグ調で描かれていたが、実は重要な所なのではないだろうか。

何故戦う。
何の為に戦う。

つまりは「それ」が命を懸けるに値するか否か。
誰であれ、突然流された世界で訳も判らないまま戦えと言われた所で納得はすまい。
廃城の三人がやだ、だの何だの言いだすのも当然である。
動機は目的意識の強さに繋がる。
今の豊久達に、それは無い。

ヘルシングにおける登場人物達はほぼ例外無く、闘争そのものへの渇望が根底にあった。
それは自己の死、結果すら問題とせず、死の淵に立つ自らを肯定する非常に特異な心理である。

翻って漂流者達を精神面で考えれば、全くの普通な、一般的なそれだ。
むしろ元の世界での「枷」(あえてこう表現する)を彼等は失っている。
巻き込まれて致し方なく、というのはあるかもしれない。
エルフ村の件のように恩義やそれぞれの思惑で、というのもあるだろう。
だがそれで豊久が「島津の退き口」における「無私の覚悟」を再び持つ事が出来るだろうか。
未だ世界そのものを漂流者の誰もが理解していない、という部分も含め、気になる部分ではある。

さてそれでは前半に戻り北壁の砦より脱出する漂流者一行である。
ワイルドバンチの片割れが「キッド」と呼ばれているのを見るに彼は「サンダンス・キッド」であろうか?「こちら側」での最後が曖昧な点を見ると彼のようではあるが。
ただ他にもキッドと呼ばれている人物はいるようなので、まだ結論は保留であろうか。
管野直も何処かへ飛び去ってしまった。

彼等が馬車で移動する、という事は展開的にもロードストーリーの様相を呈するのだろうか。
いやむしろ十月機関のメンバーの移動手段に「魔法」があるとすると?
そもそも彼の世界における「魔法」とは?
廃棄物の振るう能力は魔法ではないのか?
未だ相対する態勢すら整わない彼等が反撃に転ずる行程も楽しみである。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 3月号 第10幕

2010-02-06 | 平野耕太関係
一読して思わず笑ってしまった。
管野「デストロイヤー」直。
語尾に「なんだバカヤロウ」と付くこの物言いは…故・荒井注氏ではないか。

確かにタイトルもドリフ(漫画はこう表記する)であるしその辺は勿論前提としてあるのだろうが、直球で来るとは思わなかった。
そういえば平野耕太氏の過去のテキストでドリフターズのコント……「バカ兄弟」(平野ファンであればヤンとルークの人情~の元ネタと言えば判るであろう)をネタにしたものがあったが、
ドリフターズ、とりわけ故・いかりや長介氏への深い敬意に溢れた内容で感銘を受けた憶えがある。ただそのテキストも残念ながら恐らくネット上には残っていないと思われるが。

閑話休題。

その管野、彼は恐らく漂流者だ。
黒王の軍が城壁を、都市を、人々を蹂躙する様を、日本が空襲されている様と重ねているのだとは思うが、何故そこで

「この野郎手前ェ!!」

という言葉が出てくるのか。
それは恐らく彼が人間だからだ。
廃棄物に内在するのが憎しみであるならば、恐らく漂流者に求められるのは人間としての気概、気骨なのではないか。
前作ヘルシングも俺は「この物語は抵抗する人間の物語である」と書いたが、ドリフもまたそうなのではないだろうか。
作家、荒木飛呂彦は「作品が異なってもテーマには連続性があるべき」と以前書いていた憶えがあるが、平野耕太もまた人間の尊厳、人間の根本とは何か、を問い続けているのではないか。
ハンニバルが不敵に言う。

「ゼロじゃないさ」

これこそが抵抗する意志だ。人間の気概だ。圧倒的絶望的戦力を眼前にして衰えない気骨だ。
管野も、ハンニバル達も、豊久達もやがては合流するであろう。
むしろそこからが本当の始まりとなる気がする。

ドリフターズ(コメディアン)が、中心の5人だけではなく、大勢のスタッフとその時々のゲスト達と文字通り「劇団」となり過酷なスケジュールと稽古に追われながら営々と全国を回ったように。

この漫画もまた、抵抗する人間の物語である。

以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 2月号 第9幕

2009-12-30 | 平野耕太関係
前号分で敢えて触れなかったのだが、「受付」と仮称していた男と、新たな存在が現われた。

「紫」と「EASY」……単語を調べてみたがEASYは安易な、簡単な、といった感じで手ごたえがなかった。
一方の紫はどうやら仏教系の用語などで使われる事が多いようである。
「紫雲」などは「仏教で、念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲。」(goo辞書)、とある。
「何かを送り届ける者」と言う意味では近い部分もあるのではないか?
まあ、作者本人だけが真の意味を判っている話ではあるのだが。

その紫とEASY、対立する関係ではあるのだが。
前から出ている言葉に

「間違いは正さねばならない」

とあるが、そもそも何が「間違い」で、何が「正しい」のだろうか。
その正す手段としての「漂流物」。
対するEASYが用いるのが「廃棄物」。
漂流物の定義として考えられるのが「歴史上、生死が曖昧な人物」というのがあるが、ハンニバルはともかくスキピオはどうか?与一など実在そのものが曖昧である、というのが解釈を難しくしている。

そこで今月号なのだが。
十月機関の一人が言う

「そんなに憎いか 黒王」

憎しみ、が一つのポイントなのだろうか。
廃棄物、という呼ばれ方にも違和感がある。一体、「何に」廃棄されたというのか。
今月現われた「廃棄物」は3人。
土方歳三。
ジャンヌ・ダルク。
アナスタシア・ニコラエヴァ・ロマノヴァ。
いずれも無念の死、非業の死を遂げた、と言われる人物である。それぞれ歴史に名を残しつつ、死に曖昧な点がある人物でもある。
それと立位置が曖昧なまま出てきた人物として「源”九郎・判官”義経」。
黒王に「どちらだ」と問われるという事はどういう事だろうか。
彼の生涯(頼朝に追い落とされるまで)を考えれば、彼も恨みを持って死んだかもしれないとも言えるが、その後の幾つも出てくる生存説を考えると非業の死、とも言い切れない部分もある。

ともあれ物語は大きく動き出した。
世界廃滅を掲げる大軍勢を止めるのは誰なのか。
戦場に突如現われた(召喚された?)航空機と乗員は?
物語は更なる混乱と混迷を深めつつ、


以下次号。

ドリフターズ ヤンキンアワーズ 2010 1月号 第8幕

2009-12-30 | 平野耕太関係
老人が活躍する物語に心躍るのは何故だろうか。

人は老い、そして死ぬ。
それはとてもとても当たり前の事で、それ故人はそこから目を逸らす。
若いうちは気にも留めないものだが、年を重ねる事で実感が増してくる。
若者は老人を嘲笑う。だが目の前に居るのは「遠くない未来にいる自分」であり、老人の醜態は「自分にも起こり得る現象」である。

平野耕太は歴史上においても有数の、希代の戦略家である男を、時に神格化すらされる存在を、老いを描く事で「人間」として描写した。

「と…年は取りたくねえなあ…」

前ページに於いて、一見ギャグ調で描かれたハンニバルが次のページで屈辱に耐える表情を浮かべる。その心情をスキピオが汲む。
老いの象徴として描かれるのがハンニバル、スキピオの2人であるならば、
若さの象徴として描かれるのがワイルドバンチ強盗団の男達である。
「俺たちに明日などない」と嘯く彼はブッチ・キャシディだろうか、ウィリアム・ドゥーリンだろうか。

物語の文脈から考えると若さとは「体力、無謀、勇気、蛮勇、未来」の象徴である。多くの物語の主役が少年、乃至、青年なのはその無謀故に、理不尽に対し徹底的に抗戦する姿が読者の共感を呼ぶからであり、そこに未来を見るからだ。
対して老いは「熟練、達観、諦観、理性、知性」を象徴する。
その経験と知性に裏づけされた行動、言動はそれに伴う強靭さを持つと同時にある種の達観、諦観を漂わせる。それ故読者はそこに停滞を感じ取り、あくまで助言、助力の立位置から動く事はない。

だがしかし。
その老いた者が、老いぼれが、奮い立った時。
若者の礎になるべく立ち上がった時。
それは己の達観を振り払う時である。己の諦観に抗戦を挑む決意をした時である。
それに読者は喝采を送る。
最後の燃え上がる炎だとしても、そこに敬意を払う。

ハンニバル、スパキオ。
これから如何に戦う姿をみせてくれるのだろうか。


「敵」の襲来。
幾千か、幾万か、膨大な人の群れに、遠く大地を遮断するかのごとく煙が舞い上がっている。上空には目をイメージさせるよう描かれた月。
指輪物語とも、ドラゴンランスとも、ベルセルクとも違う「とても恐ろしい」ファンタジー世界がそこにはある。

以下次号。