つまらない持論ではあるが、物語とは「ない」物を語る事だと思っている。
ありえ「ない」、しんじられ「ない」、とんでも「ない」、ノンフィクションであるなら知られてい「ない」、有名な事件、事象であれば語られてい「ない」など。
そんなものは言い回しを変えればどうとでもなる、と言われるかもしれない。
そうだ。
だからこそ他には「ない」物を書(描)き続けられなければいけない。
本題に入ろう。
われらのとるべき道は 理不尽に忍耐する事ではなく、理不尽に必勝する事である
こう語ったのは「覚悟のススメ」における作家、山口貴由であったか。
「勝利する」とは、どういうことであろうか。ゲーム、試合であるならばルール上の勝利条件はあるであろう。ルールの隙、穴を衝いて有利に進めるという事もあるであろう。自らがルールを作る側であるならばなお有利であろう。
「勝利する」とはどういうことであろうか!?
作家、板垣恵介は「我侭を押し通す事」と語ったが、これもまだ湾曲された表現だと思う。私は「納得させる事、受け入れさせる事」だと考える。
正々堂々という言葉があるが、これは裏を返せば一切の言い訳をしない、させないという事である。異議を唱えない、唱えさせないという事である。
負けるという事は勿論、悔しさが最初に来るものだ。だがそれを越え、敗北を受け入れ、納得をする。そこに理不尽の介在する余地は無い。そこから相手を見つめなおし、理解し直す事が始まる。
大洗女子学園、彼女達の当初は至弱であった。
単なる課外授業であった筈の戦車道が、いつしか敗北の許されぬ決死の戦いへと変貌し、やがて至強へと指を掛ける。
至弱であったが故に彼女達は何時でも全力であった。自分達には何が出来る?何をしなければならない?
納得させる事は相手を認めることに繋がる。
劇場版において、かつて戦った他校が大洗女子に助太刀の為集結するのは、御都合主義ではない。
以前の敵が味方となって現れる、一見ベタな少年漫画的展開とは、勝利する事の意味を考えれば至極当然と言える。
翻って、逆の存在と言えるのが文科省の小役人であろう。
「卑劣漢」という呼び方がこれほど当てはまるのもそうそう居るまい。不意打ち騙し討ちルール変更、しかも自らは手を汚さず他人の力頼り。
ガールズ&パンツァーにおける「大人」として最初にして唯一、最悪の存在と言える。思うにTVシリーズもこの小役人の悪意から始まったと言えるのかもしれない。
他方、劇場版で損な役回りになってしまったのがやはり大学選抜チームであろうか。
こちらは正直、勝利の意味も、ややもすると戦う意味すら見出せなかったのではないだろうか。
技術はある。知識もある。経験も高校生とは段違いであろう。だがメンタルではどうだったか?
下らぬ精神論ではない。状況が加速度的に極まってくれば結局最後は精神力の勝負となるのだ。
大洗女子学園、劇場版では加えて高校生連合、彼女達の戦いは常にジャイアントキリングを求められ続けた。まぐれなど有り得ない。奇跡などあろうはずも無い。徹底的に抵抗し続け、あらゆる状況を越えていった。そう、戦車のように。
だが、その戦車で戦う彼女達の姿は余りに可憐で、軽やかだ。
決戦の地が遊園地跡地というのは、トリッキーな演出と、縦横無尽に暴れまわる彼女達を描くのにピッタリ、というのもあるのだろうが、あらゆる条件、状況、荒地も超えて行く彼女達を象徴している、とも読み取れるのではないだろうか。
ガールズ&パンツァー劇場版……地元で3回しか観れなかったのが惜しまれるが、素晴らしかった……BDが待ち遠しいかぎりである。
今回の結論。
・おだんご頭の会長いいよね……
・戦車乗り女子は肝が据わりすぎ。
・小役人はこの後どうなってもインガオホー。
・ハンコは大事。
・アリスはニンジャ。
・ニンジャを倒すモータルの流派が西住流。
◆以上です◆
バトルスピリッツブレイヴ(以下ブレイヴ)全50話。
視聴し終えるに当たり、満足と言うべきか不満と言うべきか、未だ何とも言い切れずに居る。考えを纏める意味も兼ね、とりとめも無く書いてみる事にする。結論の出る話にはならないかもしれない。
ブレイヴとは、「対話」するアニメであった。
物語の序盤は「人間対魔族」という単純な対立構造から始まり、やがて民族主義、人種差別と主人公「馬神 弾(ダン)」以下、過去の英雄達の自己否定を経て、最終的に全ての根源である「異界王」の存在の疑義を問い、人々は再び歩み始める事で物語は終局を迎えるに至った。
ブレイヴはカードゲーム「バトルスピリッツ」の販促アニメという側面を持つ。
作品の性質上時間の半分以上がカードバトルを占めるのだが、それを逆手に取り長い対話劇とする事で少年向けでありながら、物語性と問題提起を視聴者に与えている。
彼らカードバトラーはブレイヴの世界観に於いて代理戦争の戦士であり、交渉人でもある。
フィールド上で繰り広げられるのはカードによる頭脳戦であり、舌戦であり、騙し合いであり、真っ当な怒りであり、真摯な思想信条の表明であり、理解と共感である。
と、書いてみて気が付くのがブレイヴにおけるカードバトルには政治的な側面がある。しかしながらそういった匂いを打ち消しながら少年向けバトルアニメの形が整っているのは、「ライフで受ける」という「痛み」が伴う「殴り合い」、理性と共に感情をぶつけ合うクラシックかつベーシックな少年漫画的やり取りが、実は対話での相互理解における根源をなす要素だからだ。
直接会う、率直に対話する。これが実は難しい。感情が先走り話がまるで通じない、結論ありきで話を進めようとする、などというのは何処でもよくある話だ。
殴るわけではない。だが痛みを伴う会話。相手を尊重しながらも肉体的感覚に訴える対話。実は巧妙に考えられたシステムなのかもしれない。
ブレイヴは主人公ダンの成長譚ではない。むしろ成長したのは「世界」である。
ダンの物語として言えば、堕とされ絶望した英雄が再び甦る再起の物語であった。その最後に至るまで正に英雄的な行動だったが正直そこには疑問を感じざるを得ない。ただ、今は後に置く。話を進める。
世界という視点を置くと、物語は群像劇の様相も見せ、ダンの影響を受けた人物、バローネを筆頭に変わりゆく人々が描かれる。
ブレイヴの世界に明確な「敵」は存在しない。
正義と悪という二元論の対立軸は早々に意味を失い、人間と魔族という人種間の対立、差別という問題が浮き上がってくる。その問題を突き崩すのがまたバトルによる「対話」である。あくまで少年向けの物語である点を踏まえて少々簡単に話が進む部分はあるが、それでもこれは現実への接点、切欠となりうる。問題提起として十分な力を持つと考える。
その中で一種異様な様相を見せたのが中盤での「獄龍隊」である。
彼等に対話は通じなかった。これはいわゆる「原理主義」が端的に現れたもので、簡易な表現で明快な悪役として描かれていた。危うい表現ではあったがそれは彼等自身が自らを「法」であると錯覚し、その先の「解釈」も「思考そのもの」も拒否する姿勢を判りやすく描くことでその危うさを提示していると言える。
中盤から最後に至る要素のもう一つに、ダン始め過去からのメンバー達が諦観の淵にあった自らの存在意義を考え、再び歩きだす物語、という側面がある。
彼らは敗残者であり、逃亡者であった。彼等は絶望していた。何に?「自分達の時代」に。詳細な描写や説明は無い。だが断片的に語られる「親友の死」「英雄からスケープゴートへ」といった出来事が彼等へ落とした陰は想像に余りある。
前作までの彼等の旅は冒険であった。明確に「敵」が存在し、自分が何をすべきかも悩まず進む事ができた。故に世界と「影響力のある自分」の関係に思い至らず、結果、敗北したと言える。
ブレイヴでの彼等は「学ぶ旅」であったと言える。自分の立ち位置と世界への影響力を行使する方法を学んだのだ。
ダンの不幸は劇中で異界王が語ったように「異界王を倒した」のが彼であった事にある。
バトルする、対話する事とはすなわち相手の思想、信条に思い至る事であり、相手を理解する事に繋がる。
事の善悪は歴史が決めるとはよく言ったもので、異界王の行動が悪だったのか、ダンの行動が結果として後の混乱を招いたのかダン自身が思い悩む事が、結果異界王への共感へと変わっていったのだ。
ブレイヴは馬神 弾という少年の英雄譚でもあった訳だが、それ故か彼には何かが欠けていた。私にはそう思えてならない。
彼の視点は常に大局に置かれていた。そして過去の自分の行動に自分自身でけじめを付けたとも言える。
「もっと楽に生きろと言ったのに」(49話、硯 秀斗)
彼はもう少しだけ周囲を省みても良かったのではないか、我侭を言っても良かったのではないか、まゐが必死に引き止めたのは報われなかったのか。本当にそう思う。
彼は帰ってこなかった。それは既に俗世で生きる事が適わなくなった英雄の最後として、必然だったのかもしれない。
ただ、こうも思う。
「御都合主義」でいいではないか。
ここ最近の主人公が消滅する最後といえば「まどか・マギカ」があったが、かの作品には「希望」が残された。そこに至るのは決して不幸だけではない。ブレイヴにも解釈次第といえるがうっすらと希望は見える。だが恐ろしく薄い。未帰還、死亡と解釈されても致し方あるまい。ただこの点だけが納得いかなかった。
残された人々の闘争は続く。現在も未来も。表立っても暗闘でも。なにも終わらない。むしろ始まる。ここから。
アニメは2年間、非常に楽しめました。「子供騙し」ではない、真に真摯な「子供向け」の最上級の作品だったと思います。ありがとうございました。面白かったです。……ただ、まゐ様二十歳前に未亡人ENDはやっぱりキツいです……。
……OVAで「激突王の帰還」とかやりませんかね……
なんでいきなり「うる星やつら」かと言われても困るのですが、アレだ。
少々前の事ではあるのですが、サンデー50周年、高橋留美子連載30周年という事で制作された「ザ・障害物水泳大会」OVAを観たのですよ。
で、正直「う~む」と唸ってしまいまして。申し訳ないが悪い方向で。
「あ~俺の感覚自体当時とはズレてきたのかなあ」と、思ったのですがとりあえずと過去のアニメを見直しまして。
……思い切りハマリまくり原作も揃えるという有様に。
うる星やつら(原作)
うる星やつら(アニメ)
詳細はWikipediaを参照に、という事で。
そんでなにが違うのかいな、と色々ぐねぐねこね回して考えてこうして書き始めてみたのですが、何せ連載開始から30年ですよ。俺も実際は当時の直撃世代とは多少ズレていて、再放送組と言った方が近い。
改めて観て憶えてないもんですなー。原作も楽しい楽しい。
後は個人的な話ではあるのですが高校時代は寮生活でテレビ無しがデフォルトになりまして。自然とテレビ観ない体質というかアニメ成分の薄いオタになるという塩梅でございます。
なもんでございますから、連載を追いかけていた高橋留美子作品も、「らんま1/2」の序盤でいきなり中断というなんとも中途半端な、後になってから履修し直すといった感じで。
それはともかく。それだけの時間と比例して膨大な言説があるであろう事は間違いなく、俺がこれからくねくねしながら何書いてもとっくの昔に誰かは語ってるだろーなーとは思うのですが、それはそれとしてお付き合い下されば幸いでございます。
以下いつもの文体で。
うる星やつら。
俗に「漫画とアニメは別物」という言葉はあるが、そう割り切るのがこれだけ難しい作品は珍しいのではないだろうか。
基本1話完結のSF、ドタバタ、ナンセンス、スラップスティック、時にシリアス、時にラブストーリーなコメディ。
原作エピソードを踏襲しつつ、更なる広がりと解釈、エピソードのリミックスによって新たな世界を構築していると言える。
結論から言ってしまえば、アニメ版の本質とは原作準拠の部分ではなく、新たに付与された映像にこそあると考える。
改めてアニメを見直してみると、原作の部分は全体の内半分、大体は後半に来る事が多い。
勿論、複数のエピソードを組み合わせた回もあれば、原作が数話にまたがっている場合アニメも圧縮して1話乃至2話に纏めるという構成になっている。
そのアニメオリジナルの部分も面白い。
原作は1話16ページという構成上、テンポ良くキレのある展開で面白いのだが、反面、読者としても自明な部分、エピソードの主題と離れた部分の描写は割合あっさり描かれている部分もあったりする。
それを補完しているのがアニメなのであろう。
あくまでギャグ漫画というベースに立脚しているのが原作ならば、シリアス、とりわけラブストーリーに力点を置いているのがアニメである、と言うのは過言であろうか。
その原作側とアニメ側の絶妙なバランス感覚によって成立していたのが「アニメ、うる星やつら」だったのではないだろうか。
103放送回126話「サクラ・哀愁の幼年期」 (原作、哀愁の幼年期・サクラ)に観る丁寧に描かれたサクラの悲哀。
130放送回153話「燃えよかくし芸!この道一直線」 (原作、芸道一筋 いばら道)で語られる友引校校長の郷愁。
157放送回180話「ダーリンのやさしさが好きだっちゃ…」(原作、最後のデート)冒頭のモノトーンと少女、望のモノローグで始まる全編の切なさはどうだ。
オリジナルエピソードも興味深い。
105放送回128話「スクランブル!ラムを奪回せよ!!」、106回129話「死闘!あたるVS面堂軍団!!」
の連続2話であたる側からのラブストーリー(無理がある表現だろうか?)であるのに対し、続けて
107放送回130話「異次元空間ダーリンはどこだっちゃ!?」
でラム側からのストーリーを展開するという粋な構成となっている。
これも他のエピソードにおけるコメディー、ギャグが冴え渡っているからこそ、その威力を増すのだが。
アニメうる星やつらで印象に残す演出に「止め絵、背景の描写と郷愁を誘う音楽」というのがある。
通常であれば冗長であからさまな尺稼ぎと言われてもしょうがないのだが、うる星やつらの場合それが非常に映えるのだ。
勿論全部素晴らしいと言う訳でもなく、「いや、これはちょっと…」という部分もある。
それでも全体で見るとしっとりとしたラブと、キャラが存分に暴れまわるコメといったメリハリの利いた映像になっているのだ。
これは1話完結の最大の利点で、連続したストーリー物だと難しいのではないかと思う。
そこで冒頭の「障害物水泳大会」を振り返ってみると、やはり作り手が違う以上、作品に流れる空気感が違うのは当然で、当時シリーズ全編に漂っていた詩情、叙情が失われていたのも致し方ないのかもしれない。それ以前にエピソードを詰め込み、キャラの顔見せで終わった、という部分もあったと思う。
ただ、当時のアニメ版にしても原作を改変しすぎではないか、というエピソードもある。
91放送回114話「ドキュメント・ミス友引は誰だ!?」 (原作、ミス友引コンテスト;予備選~結果発表まで全5話)は原作と主題が完全に入れ替わり、友引町とあたるの政治的暗躍に終始し、
151放送回174話「退屈シンドローム!友引町はいずこへ!?」(原作、更け行く秋のイモの悲しさ)などは、焼きイモから端を発したあたるとラムのちょっと良い話の筈が訳の判らない投げっぱなしの妄想SFとなっていたりする。
これもうる星やつらという作品が質の高いラブコメであると同時に「何でも有り」の保障がある実験アニメの側面もあったからだと思うのだが。
現在に繋がる不条理、実験、暴走系ギャグのスタンダード、クラシックを確立したと言えるのもこの作品だったのではないだろうか。
それではちょっと長くなってきたのでこの辺で終わろうかと思う。本当は「押井守」「ビューティフルドリーマー」といった方向でも書こうかと思ったがまとまらなくなりそうなのでこの辺で。
ではでは。
彼女は、幸せなのだろうか。
そして、彼女達は幸せだったのだろうか。
「彼女」は一つ上の階層、向こう側へとその存在を移した、それを「神」と言うのなら確かにそれへと彼女は成り果てたのだろう。
「彼女達」の願いは純粋で脆く、不条理に満ちている。
それ故、それは奇跡を持ってのみ実現可能で
それ故、それにより生まれる歪みは最後に彼女達を滅びへと誘う。それは改変されても変わることは無かった。
奇跡そのものを「彼女」は否定しなかったのだ。
「彼女」は傍観者であった。
彼女自身が奇跡を望む裏づけが実際には酷く薄い。巴マミの死に様は確かに見たかもしれない。インキュベーターに魔法少女の意味と運命を聞かされたかもしれない。
だが美樹さやかの願いの真相とその結末も、暁美ほむらの祈りとその歪みも、彼女が「奇跡そのもの」へ成り果ててしまう事で初めて知り得た事ではなかったか。
奇跡とは奇跡であるが故に最初から歪んでいるのであり、元来不可能である事を可能と認識する事は狂気である。
つまりは彼女は人間が人間であるまま、祈りという狂気と純性をそのままに神の領域へとシフトしたのだ。
ちいさな自分を割ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと萬象といっしょに
至上福しにいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとするこの変態を恋愛といふ
(宮沢賢治/春と修羅、小岩井農場)
鹿目まどか。彼女の祈りが宮沢賢治言うところの恋愛だとするならば、その心に如何なる感情の相克があったのかは知る由も無い。だがそれを自覚し全時間、全空間に及ぶ魔法少女の至上福祉を願った彼女はやはりその時点で人間を越えていた、と言わねばなるまい。
彼女は世界の法則であり概念でありながら一人の魔法少女である。
彼女は無限時間とあらゆる空間に拡散していながら一人の魔法少女である。
彼女は孤独なのだろうか。
彼女と同じ領域に居るであろう神々は彼女を寿いでくれるであろうか。
魔法少女はその力の代償として戦い続ける事が義務となる。
人間は精神に傷を抱えても時間が癒してくれるからこそ生きていける。だが魔法少女にそれは無い。システマティックに穢れを浄化しなければならない。それはまどかであっても変わらないであろう。
「それじゃ、いこっか」
まどかとさやかのこの場面。これは恐らくは象徴なのだ。
あらゆる魔法少女は最期の時を迎えた時、「まどか」にエスコートされ、自らの願った奇跡と退場する無念を「納得」し受け入れ、彼女の御許へと召されて行くのではないだろうか。
そして暁美ほむら。彼女だけが改変される世界の中で唯一「変わらないこと」を許され、尚且つ、元の時間軸からも離れた存在である。
引き継がれた「弓」が象徴するように、彼女こそが「神の使徒」なのだろう。
元の力からか、時間のくびきからも離れた彼女はそれ故にまどかを唯一認識しながら最もまどかと離れた存在となった。
それがほむら自身の負う「呪い」なのかもしれない。
最期の場面。
何も無い大地。
彼女から広がる黒翼と口元に浮かべる微笑。それははるか未来に現れるという弥勒菩薩を象徴しておるまいか。
それこそが彼女の救済となったに違いない。
全12話を見終わって、捻くれたダークファンタジーかと思いきや、全うな王道で纏める、非常に気持ちの良い作品であった。
確実に一つの時代の区切りと象徴となる作品となった事は間違いないであろう。
素晴らしい作品をありがとうございます。
10話まで視聴完了。
完結してから、と思ったが、時間が空きそうなのでひとまず書いてみる。
例によって視聴済を前提としてネタバレ等は気にせず、既にネット上で語られ尽くされ同ネタがあるとも思うがそこも気にせず書く。
さて、この作品は様々な視点で語る事ができると思うが、今回は10話で明らかとなった「ループする物語」について語ってみたい。
この物語は「現時点ではたった一人」だけ真実に到達した少女が恐らく膨大な輪廻流転の果てに、運命と対峙し続ける物語であった。
はて、運命?
かの化け物、「インキュベーター」は「不可避の運命」と言ったか?
全てを見届けた彼奴めは「後は人類の問題」と放り投げたな?
巧妙に不可避の条件を設定し、運命を決定付けた諸悪の根源が何を言う?
古今東西、運命とは「変えるもの」「抵抗するもの」とあらゆる物語で言われてきた。だが。
否。
まだ足りぬ。
抵抗するだけでは変えられないではないか。変えようとするも逃れられぬではないか。まだ足りぬ。まるで足りぬ。
殺さねばならない。
「風車男ルリヲ」という曲がある。
楽しかったあの頃に君が戻れないのは 煌々と月の照るホスピタルの上で
観覧車みたいに巨大な風車を グルグルと回すルリヲがいるから
風車を早く止めなさい 風車男を殺しに行きなさい
今すぐバスに飛び乗りなさい ルリヲを殺しに行きなさい
(風車男ルリヲ/筋肉少女帯 1990)
この曲で言うルリヲとは運命を司るモノであり風車とは運命そのものを暗喩している。
運命とは憎悪の対象であり殺すべき対象であると言っているのだ。
では考えてみよう。
不可避の条件は二つ。
・魔法少女の契約→例外なく魔女化→死
これは一切の戦闘や魔法を使わなくても訪れる結末である。美樹さやかが恋に傷付き、呪いを吐き出し始めた点でも見て取れる。心が穢れる事はソウルジェムが穢れる事と同義だ。
何もしなければ寿命は多少延びるかもしれないが、唯一の浄化手段、グリーフシードを手に入れる事は魔女との戦闘を意味する。
・ワルプルギスの夜
何処からともなく現れる「超弩級の魔女」
一人での打倒はほぼ不可能といえる存在で、出現前から存在を予言されている時点で通常の魔女とは違うようだが。、
ワルプルギスの夜は条件として「まどかを契約させる為」に設置されている罠といった印象である。意図的に呼び寄せた自然災害と言った方が正しいかもしれない。
これ単体で考えるならばまどか以外の少女が複数残っていれば対処できる。
厄介なのが魔法少女の魔女化である。
一人の魔女を滅ぼす為に別の魔法少女が生まれなければならず、その少女をまた別の少女が…、ときりがない。
しかも劇中では「他のテリトリー」から佐倉 杏子がやって来たように、舞台となっている街に魔法少女の存在が限定されているのかはなはだ疑問である。
幾つもの修羅場を潜ってきた杏子や巴マミの存在が示すのは無数に生み出され続ける魔法少女だ。
「全て終わらせる」為には、インキュベーターを滅ぼし、その時点で残った少女達で潰しあいをし、最後に残った少女は自らを……と、陰惨な結末とならざるを得ない。
暁美ほむらの思考はそこを承知の上であえて、という面が見え、なんとも言えないものがある。
「鹿目まどかの幸せ」だけを願う彼女の「祈り」は非常に近視眼的であり、他一切を一顧だにしないニヒリストでもある。
まどかとの意識の乖離を指摘せねばなるまい。
まどかがそれを納得するだろうか。彼女の「祈り」は誰も死なない失わない世界に違いない。
あの夕闇が溢れた薄暗い世界に対してなんとも甘い砂糖菓子のような願いだが、恐らくはそれが彼女の理想だ。
それはほむらを失う事も望まない。
逆転の目はあるのだろうか。
まずインキュベーターを滅ぼす事が可能か?劇中ではほむらが撃ち殺してもたちまち次が現れ、新しい身体を「替わり」と言い放つ。これは魂を自由に複数の身体に転移できるのか、他に本体があるのか。
一つ疑問なのは、他の魔法処女が魔法で生み出された武器であるのに対し、ほむらだけが現実の銃器である点である。ほむらの能力だけが異質で強大な為、とも言えるが奇妙ではある。
そしてインキュベーターを撃ち殺しているのは現実世界に限定されている。劇中の描写に限って言えば。
可能性の一つとして、魔女の異界で、魔法の武器ならば奴の魂に届くのではないだろうか。例えばまどかの弓矢ならば。
次にほむらの時間逆行なのだが、始まりの時間は決まっているらしいのだが。
それよりも前の時間に戻る事は不可能なのだろうか。例えばインキュベーターが地球に来る前など。
ほむらの願いに「まどかの傍にいる事」が含まれている為、あの時間に限られているのかもしれないが。
そして「まどかの常識外の力」。
神にすら匹敵するやも、という力をまどかはどう考えているのか。もし契約するとして。
手っ取り早い話としては「インキュベーターが最初から存在しない世界にする」「今までの魔法に関わる犠牲者の一切を元に戻す」など考えられるが、恐ろしいのは
その結果、まどか一人が魔法少女として世界に取り残される、という状況が想定される事である。
奇跡を起こす、と言うことは同等の対価を払う事を意味する。
まどかの「祈り」が生み出す奇跡が美しく巨大であればあるほど、それだけ彼女に降り掛かる運命は過酷を極めるであろう事は想像に難くない。
そこで、だ。
こんな展開は考えられないだろうか。
・まどかが「まどかに関わった今までの犠牲者を魔法少女含め元に戻す」条件で契約する。気をつけなければいけないのは、これはあくまで契約条件で、この時点でまどかのソウルジェムに穢れは無い。それとほむらは存在こそすれ、時間軸の異なる人間である。条件から外れる。
・次にワルプルギス撃破。いや、もしかしたら最初の契約の時点でワルプルギスも人間に戻る、といった事も可能か。
・返す刀でインキュベーターを滅ぼす。覚醒まどかなら造作もないのでは。
・更にほむらと二人で過去に逆行。以前、ほむらが杏子の手を取り魔法を発動した際、杏子も対象となり異界から脱出した例を考えればまどかと二人というのも可能なのではないだろうか。
その際ほむらは「まどかと共に行く」望みがかなう訳で、まどかの潜在能力もあいまって過去退行の限界を突破できるのではないだろうか。
そして二人は過去に遡り続け、魔女とインキュベーターを「最初の一匹」まで狩り続ける…どこまでも延々と。
最後は仮定と妄想に終始したが、こんな終わり方も有りかもしれない。
勿論、こんな妄想など問題にしない斜め上な終わり方を期待しているが。
全て終わった時には世界観の方向からも書いてみたいと思う。
今回はここまで。