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【世界史用語集:①~⑩】 約 37万3000 件

2008-08-09 16:17:50 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
【世界史用語集:①~⑩】 の検索結果 約 37万3000 件

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1位
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2位
Amazon.co.jp: 世界史B用語集: 全国歴史教育研究協議会: 本世界史のシンプルな用語集です。 世界史は覚えにくい単語が多く、 用語集は是非手元にほしい1冊だと思います。 ... 基本の世界史 世界史の教科書の中では一番のシェアを誇る山川の用語集です。 国・人名・戦争・制度などなど基本的な用語は網羅されてい ...
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世界史Wiki - 世界史用語集世界史用語集. ここでは「スレッド」ではない「用語」のみのページのもくじを作ります. イル=ハン · サファヴィー朝 · シャジャル・アッドゥル · フラグ · フレグ · マムルーク · ムガル帝国. Last modified:2004/11/13 11:04:40 Keyword(s): ...
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4位
世界史|合格のための勉強ブログ2005年10月17日 ... 今回は世界史の勉強法について書いていきます。まず、これは歴史全般に言えることですが、用語集は手元においてお ... 調べたらこんな名前でびっくりしました^^;)の世界 史用語集Bがいいでしょう。時々色々なことを言う人もいます ...
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【楽天市場】世界史B用語集 改訂版:楽天ブックス2008年度使用の高等学校「世界史B」教科書11冊から学習に必要と思われる用語を選び解説を加えた用語集。巻末に五十音順「世界史用語索引」が付く。 【目次】(「BOOK」 データベースより) 先史の世界/オリエントと地中海世界/アジア・アメリカの ...
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うっちーの SPECIAL DAYS!!: 世界史用語集&お買い物メモ2008年8月8日 ... 世界史用語集&お買い物メモ. 今、歴史物の映画のコメンタリーを翻訳しています。 これを機に、一つ用語集を手元に置いておこうと ... 世界史B用語集 改訂版. ああ受験を思い出す・・・ なんか、表紙もあまり変わってないような(笑) ...
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池田彌三郎   国文学者、民俗学者、随筆家

2008-08-09 16:12:19 | 13 用語集:①人物一覧   
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 慶應義塾大学 経済学部・文学部
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村



池田彌三郎



池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日)は、日本の東京府(現・東京都)出身の国文学者、民俗学者、随筆家である。

東京市京橋区(現・中央区)銀座の天麩羅屋"天金"の次男として誕生。叔父は、劇作家で演出家の池田大伍。

目次 [非表示]
1 経歴・人物
2 エピソード
3 著書
4 編著・共著
5 脚注



[編集] 経歴・人物
京橋区立泰明小学校から東京市立第一中学校(現在の東京都立九段高等学校)を経て、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に井筒俊彦や加藤守雄がいた。1934年4月、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。戸板康二たちと共に、折口主宰の短歌結社"鳥船社"に参加。1937年、慶應義塾大学文学部国文科卒業。

慶應義塾大学文学部教授時代、1957年 - 1963年にかけて、NHKのクイズバラエティ番組「私だけが知っている」などに出演し、タレント教授の走りとしても知られた。この間、1962年、『婦人公論』に「大学女禍論」と題する一文を発表し、早稲田大学教授の暉峻康隆と共に女子学生亡国論を唱えて物議をかもした。もっともその際、池田は暉峻に、早稲田の女子学生は冴えないだろうが、慶應義塾はそうではないと言ったとされる。

また、文学部を受験する学生に対して国語の試験をするなどとは失礼であるとして、入試科目からいち早く国語を廃止して、小論文を導入させた。

慶應義塾大学を定年退職した後、洗足学園魚津短期大学教授に就任。1977年、紫綬褒章受章。

著書に『池田彌三郎著作集』全10巻(角川書店、1979年)などがある。


[編集] エピソード
晩年は自分で工夫して作らせた、「縦20文字、横5文字」の短冊のような「原稿用紙」を使用し、「このほうが早くめくれるから、気のはずみになる」と称していた[1]。

[編集] 著書
「芸能」 岩崎書店 1955年(民俗民芸双書)
「文学と民俗学」 岩崎書店 1956年(民俗民芸双書)
「日本人の芸能」 岩崎書店 1957年 (写真で見る日本人の生活全集)
「はだか風土記」 大日本雄弁会講談社 1958年 (ミリオン・ブックス)
「日本故事物語」 河出書房新社 1958年 のち文庫
「はだか源氏」 講談社 1959年 (ミリオン・ブックス)
「民俗故事物語」 河出書房新社 1959年
「日本の幽霊」 中央公論社 1959年 のち文庫
「江戸時代の芸能」 至文堂 1960年 (日本歴史新書)
「枝豆は生意気だ」 河出書房新社 1961年
「まれびとの座 折口信夫と私」 中央公論社 1961年 のち文庫
「日本芸能伝承論」 中央公論社 1962年
「ゆれる日本語」 河出書房新社 1962年
「芸文散歩 池田弥三郎随筆集」 桃源社 1962年
「東京の12章」 淡交新社 1963年
「ふるさと・東京」 東峰出版 1963年
「ことばの文化」 河出書房新社 1964年(日本の民俗)
「光源氏の一生」 講談社現代新書 1964年
「銀座十二章」 朝日新聞社 1965年 のち朝日文庫
「私の食物誌」 河出書房新社 1965年 のち岩波同時代ライブラリー
「東京横浜安心して飲める酒の店」 有紀書房 1965年
「俳句・俳人物語」 ポプラ社 1966年
「おとことおんなの民俗誌」 講談社 1966年 (ミリオンブックス) 「性の民俗誌」と改題、講談社学術文庫
「わたしの源氏物語」 講談社 1966年 (ミリオン・ブックス)
「塵々集」 雪華社 1966年
「酒、男、また女の話」 有紀書房 1966年
「逆立ちの青春像 青年へのガイダンス」 池田書店 1966年
「わが師わが学」 桜楓社 1967年
「言語のフォークロア」 桜楓社 1967年
「空想動物園」 コダマプレス 1967年
「ふるさと日本」 鹿島研究所出版会 1967年
「広重の江戸」 講談社 1968年 (原色写真文庫)
「日本詩人選 高市黒人・山部赤人」 筑摩書房 1970年
「私説 折口信夫」 中公新書 1972年
「日本橋私記」 東京美術 1972年
「日本の旅人 在原業平 東下り」 淡交社 1973年
「わたしのいるわたし」 三月書房 1973年
「世俗の芸文」 青蛙房 1973年
「食前食後」 日本経済新聞社 1973年
「百人一首故事物語」 河出書房新社 1974年 のち文庫
「日本のことわざ 暮らしのなかの知恵」 ポプラ社 1975年
「露地に横丁に曲り角」 新人物往来社 1975年
「日本人の手紙」 白馬出版 1975年
「池田弥三郎対談集 日本人のこころ」 新人物往来社 1976年
「町ッ子土地ッ子銀座ッ子」 三月書房 1976年
「たが身の風景」 読売新聞社 1976年
「暮らしの中の日本語」 毎日新聞社 1976年 のち、ちくま文庫
「芸能の流転と変容」 実業之日本社 1976年
「ことばの中の暮らし」 主婦の友社 1977年
「日本文学と民俗」 桜楓社 1977年
「わが戦後」 牧羊社 1977年
「万葉びとの一生」 講談社現代新書 1978年
「わが幻の歌びとたち 折口信夫とその周辺」 角川選書 1978年
「わが町 銀座」 サンケイ出版 1978年
「東京の中の江戸」 国鉄厚生事業協会 1979年
「話のたね」 文春文庫 1979年
「池田弥三郎著作集」 全10巻 角川書店 1979年 - 1980年
「聴いて歌って」 音楽鑑賞教育振興会 1979年 (音楽随想)
「行くも夢止まるも夢」 講談社 1980年
「日本人の心の傾き」 文藝春秋 1980年
「郷愁の日本語 市井のくらし」 あずさ書房 1980年
「三田育ち」 東邦経済社 1980年
「魚津だより」 毎日新聞社 1982年
「池田弥三郎北陸を語る」 対談シリーズ 読売新聞北陸支社 1983年

[編集] 編著・共著
「日本の女性」 江馬三枝子共著 岩崎書店 1958年 (写真でみる日本人の生活全集)
「民謡歴史散歩」 第1-4 宮尾しげを 河出書房新社 1961年 - 1962年
「万葉百歌」 山本健吉 中公新書 1963年
「久保田万太郎回想」 佐藤朔, 白井浩司共編 中央公論社 1964年
「民俗学のすすめ」 宮本常一, 和歌森太郎共編 河出書房新社 1965年
「いろはかるた物語」 檜谷昭彦共著 角川書店 1973年
「迢空・折口信夫研究」 加藤守雄共編 角川書店 1973年
「日本民俗誌大系」 角川書店 1974年
「味にしひがし」 長谷川幸延共著 読売新聞社 1975年
「講座古代学」 中央公論社 1975年
「学研国語大辞典」金田一春彦との共編 1978年 学習研究社 ISBN 4051006069
「柳田国男と折口信夫」 谷川健一共編 思索社 1980年

[編集] 脚注
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^ 村松友視『夢の始末書』より
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%BD%8C%E4%B8%89%E9%83%8E" より作成
カテゴリ: 日本文学 | 日本の民俗学者 | 日本の随筆家 | 辞典編纂者 | 東京都中央区出身の人物 | 1914年生 | 1982年没表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション
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最終更新 2008年7月29日 (火) 16:53。 All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License. (詳細は 著作権 を参照)

田中英光  オリンポスの果実    問題と解答=④⑦⑨ 

2008-08-09 15:44:33 | 13 用語集:①人物一覧   
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オリンポスの果実
田中英光


問題  

出発の朝、ぼくは【①神田・②本郷・③早稲田・④向島】の古本屋で、【⑤白秋・⑥漱石・⑦啄木・⑧独歩】歌集『悲しき玩具』を買い、その扉紙(とびらがみ)に、『はろばろと海を渡(わた)りて、【⑨亜米利加・⑩独逸・⑪中国・⑫仏蘭西】へ、ゆく朝。墨田(すみだ)の辺(あた)りにて求む』と書きました。









     一

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈(はず)だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房(にょうぼう)を貰(もら)い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃(ちかごろ)風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶(ついおく)をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋(こい)というには、あまりに素朴(そぼく)な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布(さいふ)のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏(あんず)の実を、とりだし、ここ京城(けいじょう)の陋屋(ろうおく)の陽(ひ)もささぬ裏庭に棄(す)てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情(れんじょう)からではありません。ただ昔(むかし)の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。

     二

 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアヘの旅は、一種青春の酩酊(めいてい)のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱(すいじゃく)にかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足(かけあし)をやって帰ってくると、森さんが、合宿傍(わき)の六地蔵の通りで背広を着て、俯(うつむ)いたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、舵(かじ)の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎(とら)さん、それに、ぼくといった真面目(まじめ)な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂(ダイハン)、いっしょに探してくれ」と頼(たの)むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違(まちが)え易(やす)いので、いつも身体(からだ)の大きいぼくは、侮蔑(ぶべつ)的な意味も含(ふく)めて、大坂(ダイハン)と呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆(みんな)が笑うと一緒(いっしょ)に、噴(ふ)き出したくなるのを、我慢(がまん)できなかったほど、好(い)い気味だ、とおもいましたが、それから、暫(しばら)くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴(しゅえん)が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
 その夜は、いくら飲んでも、酔(よ)いが廻(まわ)らず、空(むな)しい興奮と、練習疲(づか)れからでしょう、頭はうつろ、瞳(ひとみ)はかすみ、瞼(まぶた)はおもく時々痙攣(けいれん)していました。なにしろ、それからの享楽(きょうらく)を妄想(もうそう)して、夢中(むちゅう)で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に縛(しば)りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論(もちろん)ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、揃(そろ)いの背広は始めて纏(まと)う嬉(うれ)しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団(ふとん)の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十(はたち)のぼくが、餞別(せんべつ)だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
 その頃(ころ)、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑(ゆうわく)されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞(どうてい)だという点に、迷信(めいしん)じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清(すず)しい彼女(かのじょ)が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺(おれ)でも、大人並(なみ)の遊びをするぞと、覚悟(かくご)をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
 宅(うち)に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊(こわ)れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関(げんかん)へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺(しわ)と雀斑(そばかす)だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突(つ)ッこんで、出してみせようとしたが手触(てざわ)りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊(たず)ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟(けむ)りが、かすかなほど遥(はる)かの角を曲るところでした。「可笑(おか)しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影(かげ)も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督(かんとく)に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱(しか)りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫(だいじょうぶ)だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇庫(ていこ)には、もう、寝(ね)てしまった艇番夫婦(ふうふ)をのぞいては、誰(だれ)一人いなくなっています。二階にあがり、念の為(ため)、押入(おしい)れを捜(さが)してみましたが、もとより、あろう筈(はず)がありません。
 もう、先程(さきほど)までの、享楽を想(おも)っての興奮はどこへやら、ただ血眼(ちまなこ)になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好(かっこう)で、自動車の路(みち)すじを、どこからどこまで、這(は)うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚(とだな)のグリス鑵(かん)の後ろになかったかなアと、溝(みぞ)のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直(す)ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴(てつあれい)や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々(いやいや)、ひょッとしたら、あの道端(みちばた)の草叢(くさむら)のかげかもしれないぞと、また周章(あわて)て、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目(だめ)だと諦(あきら)めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡(ひろ)げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚(さっかく)が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷(いちる)の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷(しぶや)、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒(てんとう)しています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車に揺(ゆ)られているうち、どうも、はじめの運転手に盗(と)られたんだ、という気がしてきました。(彼奴(あいつ)に一円もやった。泥棒(どろぼう)に追銭とはこのことだ)と思えば口惜(くや)しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖(ひとくせ)ありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚(ぐ)にもつかぬ嘆声(たんせい)を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂(さ)けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎(こづらにく)さで、黙りかえっています。
 それでいて、家につくと、彼は突然(とつぜん)、ここは渋谷とはちがう、恵比寿(えびす)だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗(な)められたと思いましたから、こちらも口汚(くちぎたな)く罵(ののし)りかえす。と、向うは金梃(レバー)をもち、扉(ドア)をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩(けんか)か。ハ、面白(おもしろ)いや」と叫(さけ)び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄(やけ)だったのですが、もし血をみるに到(いた)ればクルウの恥(はじ)、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩(かた)を掴(つか)みます。振りきったぼくは、ええ面倒(めんどう)とばかり十銭払(はら)ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞(すてぜりふ)を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾(しきい)をまたいだのです。
 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛(か)みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳(たた)んで、風呂敷(ふろしき)が、上に載(の)っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵(どば)をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島(むこうじま)まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤(いきどお)りと悔(く)いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更(ふ)け、人気(ひとけ)のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
 ぼくは二階の廊下(ろうか)を歩き、屋上の露台(ろだい)のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭(するど)い舳(バウ)をした滑席艇(スライデングシェル)がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗(ぬ)りの船腹が、仄暗(ほのぐら)い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙(みょう)に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草(あさくさ)の装飾燈(そうしょくとう)が赤く輝(かがや)いています。時折、言問橋(ことといばし)を自動車のヘッドライトが明滅(めいめつ)して、行き過ぎます。すでに一艘(そう)の船もいない隅田川(すみだがわ)がくろく、膨(ふく)らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説(ロマンス)めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮(く)れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人(フレッシュマン)として、逞(たくま)しい先輩達に伍(ご)し、鍛(きた)えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々無態(ぶざま)だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱(ぶじょく)されて抵抗(ていこう)の手段がないと諦(あきら)め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂(ダイハン)は怒(おこ)らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止(や)めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢(ごうまん)な痩意地(やせいじ)にとって、自殺にもひとしかった。
 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣(しんらつ)であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口(かげぐち)や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威(おど)かす五番松山さんの凄(すさ)まじさ、そうした予感が、堪(た)えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞(むち)から、いつも庇(かば)ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 悶(もだ)え悶え、ぼくは手摺(てすり)によりかかりました。其処(そこ)は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終(しま)い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰(こし)の辺に、あたります。離(はな)れかかった足指には、力が一杯(いっぱい)、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間(しゅんかん)、ぼくが唾(つば)をすると、それは落ちてから水溜(みずたま)りでもあったのでしょう。ボチャンという、微(かす)かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々(ばかばか)しくなり、殊(こと)に、死ぬまでの痛さが身に沁(し)みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺(あた)りを、まえに戻(もど)しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読(たんどく)した小説の悪影響(あくえいきょう)もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪(かみ)をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹(ひ)かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査(じゅんさ)に呼び咎(とが)められました。それ迄(まで)は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見(りょうけん)も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致(いた)しました。
 こんな夜遅(おそ)く、学生がへんな恰好(かっこう)でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍(そば)にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処(ところ)ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼(あお)ざめた顔を、酒の故(ゆえ)とでも思ったのでしょう。照れ臭(くさ)くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床(とこ)をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕(まくら)もとの障子(しょうじ)一面に、赫々(あかあか)と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端(とたん)、襖(ふすま)ごしに、舵手(だしゅ)の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞(ふさ)がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴(き)きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠(ねむ)ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主(ぼうず)、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫(ねこ)ッ可愛(かわい)がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未(ま)だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言(こごと)一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴(やつ)があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌(おおあわ)てに、支度(したく)を始めました。
 あとになって、判(わか)ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽(さっそう)と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支(さしつか)えないでしょう、と言い置いてくれた由(よし)。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂(きゆう)は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣(はれぎ)とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
 服は仮縫(かりぬ)いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆(しゅっぱん)の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。

     三

 出発の朝、ぼくは向島(むこうじま)の古本屋で、啄木(たくぼく)歌集『悲しき玩具(がんぐ)』を買い、その扉紙(とびらがみ)に、『はろばろと海を渡(わた)りて、亜米利加(アメリカ)へ、ゆく朝。墨田(すみだ)の辺(あた)りにて求む』と書きました。



 それから、合宿で、恒例(こうれい)のテキにカツを食い、一杯(いっぱい)の冷酒に征途(せいと)をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉(うれ)しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
 あとは、御承知(ごしょうち)のようなコオスで、大洋丸まで辿(たど)りつきました。文字通りの熱狂(ねっきょう)的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄(まで)、サインを頼(たの)みにくるお嬢(じょう)さん、チョコレェトや花束(はなたば)などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭(たいしゅう)と、汗(あせ)に、揉(もま)れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作(ほっさ)を、我慢(がまん)している自分に気づきました。
 勿論(もちろん)、こんなに盛大(せいだい)に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵(さく)から、或(ある)いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振(ふ)ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押(めじろお)しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙(なみだ)がでそうになりました。
 しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈(もうれつ)に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室(ケビン)にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
 昔(むかし)、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩(こうはい)連も来ていてくれました。銅鑼(どら)が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿(ましら)のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷鎌倉(かまくら)での幼馴染(おさななじみ)の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場(はとば)の人混(ひとご)みのなかで、押し潰(つぶ)されそうになりながら、手巾(ハンカチ)をふっている老母の姿をみたときは目頭(めがしら)が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛(ほう)りましたが、なかなか母にとどきません。
 女学生の一群にとび込(こ)んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸(ようや)く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握(にぎ)り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻(みまわ)すと、大抵(たいてい)の選手達が、誰(だれ)でも一人は、若い女のひとに来て貰(もら)っている、花やかさに見えました。

【北島康介】本郷高校、日体大卒業。同大学院中退。東京スイミングセンター、日本コカ・コーラ所属

2008-08-09 15:42:11 | 13 用語集:①人物一覧   
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北島康介



獲得メダル
男子 競泳
日本
オリンピック
金 2004 男子 100m平泳ぎ
金 2004 男子 200m平泳ぎ
銅 2004 男子 4×100mメドレーリレー
世界水泳選手権
金 2003 男子 100m平泳ぎ
金 2003 男子 200m平泳ぎ
金 2007 男子 200m平泳ぎ
銀 2005 男子 100m平泳ぎ
銀 2007 男子 100m平泳ぎ
銀 2007 男子 4×100mメドレーリレー
銅 2001 男子 200m平泳ぎ
銅 2003 男子 4×100mメドレーリレー
銅 2005 男子 50m平泳ぎ
銅 2005 男子 4×100mメドレーリレー

北島 康介(きたじま こうすけ、1982年9月22日 - )は、日本の男子競泳(平泳ぎ)の選手。アテネオリンピックの100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。本郷高等学校、日本体育大学体育学部卒業。同大学院中退。東京スイミングセンター(東京SC)、日本コカ・コーラ所属。身長177cm、体重72kg。血液型B型。

目次 [非表示]
1 略歴
2 SPEEDO製水着問題
3 主な戦績
4 日本記録
5 受賞歴
6 出演CM
7 外部リンク
8 脚注



[編集] 略歴
東京都荒川区出身で、生家は精肉店を経営。幼稚園は荒川区の道灌山幼稚園を卒園している。文京区の区立千駄木小学校、文林中学校、本郷高校卒業。中学時代は陸上部に所属したが、陸上部員としてあまり活動していない。日本体育大学に進学し、大学4年時に、日本学生選手権大会(インカレ)で100m・200m平泳ぎで2冠学生新記録で優勝。大学対抗400mメドレーリレーでも活躍し、5人抜きで日体大を準優勝に導いた。日体大大学院に進んだが、選手活動に専念するため2006年に退学した。

2005年度から日本オリンピック委員会が始めた選手強化キャンペーンのシンボルアスリート制度を用いず、2005年4月から日本コカ・コーラと所属契約を結ぶことになり、スイミングキャップやレーシングゴーグル、水着にCoca-Colaのロゴを入れて大会に出場する。クロールも速く、個人メドレーで日本で5本の指に入るレベルにある。


[編集] SPEEDO製水着問題
北島は「SPEEDO」の水着を好んでいたが、所属していた東京スイミングセンターが「arena」ブランドの日本国内でのライセンシー(実施権者)であるデサントと親しかったため、個人の広告活動の解禁まで「arena」製の水着を使用していた。アテネ五輪の年から「SPEEDO」の水着を使用したが、そのライセンシーだったミズノが独自水着の販売に踏み切ると、ミズノとの契約を続けた。2008年、三井物産とゴールドウィンが日本ライセンシーとなった「SPEEDO」が新型水着「レーザー・レーサー」を発表し、中村礼子(アシックスと契約)は新型水着を試したが、北島はミズノ製の水着を着用し続けた。ある大会後の記者会見で、「新型水着を試したいという気持ちはあるが、ミズノがそれに負けない水着を開発してくれると思う」と述べ、ミズノとの契約を優先すると表明した[要出典]。隣にいた中村を「ずるいですね」と言った。

また、2008年5月18日に、東京辰巳国際水泳場で行われた競泳早慶戦オープン参加したとき、北島は日本選手権用の旧タイプ水着を着用した。試合後のインタビュー会見を開いた。そのときに、例の「SPEEDO」新型水着に関して質問が集中するなどメディアが騒ぎ立てる水着問題に対して、北島は「正直言って、うっとい(うっとうしい)ですね。もっと違ったカタチで水泳に注目してほしい」と珍しくイラ立ちを見せた[1]。

2008年6月、「ジャパン・オープン」では、英語で「I AM THE SWIMMER」、中国語で「是我在遊泳」と書かれたTシャツでプールサイドに現れ、水着騒動に「泳ぐのは僕だ」と主張して一石を投じた[2]。この大会では、途中までミズノ製の改良型水着でタイムが伸びなかったが、レーザーレーサーを着用して世界記録を更新した。6月11日、公式サイトで「北京オリンピックではSpeedoの水着を着用しようと思います」と表明した。


[編集] 主な戦績
2000年、日本選手権 100メートル平泳ぎ優勝。シドニー五輪で同競技決勝に進出し、4位となる。
2001年の日本選手権では、50、100、200メートル平泳ぎ全てに優勝。
2002年8月25日、パンパシフィック水泳選手権横浜2002 100メートル平泳ぎ優勝。
2002年10月2日、釜山アジア大会の男子200メートル平泳ぎ決勝で2分09秒97で優勝、世界記録(当時)を更新。同大会MVP
2003年7月21日、世界水泳バルセロナ大会の男子100メートル平泳ぎ決勝において、59秒78の世界記録(当時)で優勝を飾った。
2003年7月25日、世界水泳バルセロナ大会の男子200メートル平泳ぎ決勝において、2分09秒42の世界記録(当時)で優勝。この200メートルと100メートルの両平泳ぎ決勝の実況を務めたのが特別実況の古舘伊知郎だった。
同年11月、衆院選啓発キャンペーンCMに木村佳乃(女優)と出演。
2004年8月15日、アテネ五輪男子平泳ぎ100メートルで金メダル獲得。タイムは1分00秒08。インタビューで「チョー気持ちいい(超気持ちいい)、鳥肌ものです」とコメント。ちなみにこの「チョー気持ちいい(超気持ちいい)」は、この年の新語・流行語大賞の年間大賞にも選ばれた。同日、100メートル背泳ぎ優勝のアーロン・ピアソル(アメリカ)が「北島はスタート時に禁止されているドルフィンキックを行った」と抗議したが、大きな問題にはならなかった。
2004年8月18日、同大会男子平泳ぎ200メートルで2位以下を1秒以上突き放し、金メダル獲得、二冠を達成。タイムは2分09秒44(五輪新記録)。
ピアソルやアメリカ記者団がおこなった「北島泳法違反」の発言は、北島に対する心理的揺さぶりとみる者も居たが、その後違反ぎりぎりの泳法をとる選手の有利を防ぐために2006年シーズンからスタートとターン直後に限りドルフィンキックを1回打つ事を認めるルール改正への流れとなった。
2005年4月21日 日本選手権(世界水泳モントリオール大会選考会兼ねる)の男子200メートル平泳ぎ決勝レースに出場も3位に甘んじこの競技の自力での世界選手権出場を逃した。
モントリオール世界水泳で男子100メートル平泳ぎで59秒53で銀メダル。50メートル平泳ぎで27秒78で日本記録を更新し、銅メダル。男子400メートルメドレーリレーでは平泳ぎで59秒19で銅メダル。
2006年4月20日 日本選手権の男子200メートル平泳ぎで2年連続の敗戦。続く22日には50メートル平泳ぎでも敗れる。23日、100メートル平泳ぎで優勝し、辛うじてパンパシフィック水泳選手権の代表権を手に入れる。
2006年12月3日、ドーハアジア大会の男子50メートル平泳ぎ28秒38で銀メダル、男子100メートル平泳ぎ1分01秒13で金メダル、男子200メートル平泳ぎ2分12秒05で金メダル。
2007年3月、世界水泳メルボルン大会の男子100メートル平泳ぎ59秒96で銀メダル、男子200メートル平泳ぎ2分09秒80で金メダル。
2007年8月21日、日本(千葉)で開催された世界競泳2007の男子100メートル平泳ぎ59秒74で優勝。(日本国内のレースで初めて1分00秒を切る)
2008年6月8日、東京辰巳国際水泳場でのジャパンオープンの男子200メートル平泳ぎで、SPEEDO社のレーザー・レーサーを着用して挑み、5年ぶりとなる2分07秒51の世界新記録(0秒99更新)を樹立。
北島の世界新記録は、日本人選手が国内長水路レースで記録したものとしては、1972年7月21日の「日本水泳選手権競技大会」で青木まゆみが女子100mバタフライで記録して以来、36年ぶりだった。

[編集] 日本記録
ここに掲載するのは、個人種目のみ。

泳法 距離 水路 記録 樹立年 大会名
平泳ぎ 50m 長水路 27.65 2008年 ジャパンオープン
平泳ぎ 100m 長水路 59.44 2008年 ジャパンオープン
平泳ぎ 200m 長水路 2.07.51 2008年 ジャパンオープン
平泳ぎ 50m 短水路 27.14 2007年 日本短水路選手権
平泳ぎ 100m 短水路 57.62 2008年 日本短水路選手権
平泳ぎ 200m 短水路 2.04.96 2007年 日本短水路選手権


[編集] 受賞歴
2002年度JOCスポーツ賞最優秀賞
紫綬褒章(2004年秋)
2006年度JOCスポーツ賞特別功労賞

[編集] 出演CM
「arena」水着宣伝(デサント、~2003年)
「SPEEDO」水着宣伝(2004年~2007年5月)※2007年5月までMIZUNO(現在は三井物産)のライセンス商品 
「MIZUNO」水着宣伝(2007年6月~)
キシリトール(ロッテ:放映は終了)
第43回衆議院議員総選挙投票啓発(総務省ほか、木村佳乃と共演。2003年)
アクエリアス(コカ・コーラ)

[編集] 外部リンク
ウィキニュースに関連記事があります。
北島康介が男子200メートル平泳ぎで世界新、北京五輪でもレーザー・レーサー着用可能になる見込み
北島康介オフィシャルウェブサイト
ミズノブランド水着ウェブサイト

[編集] 脚注
^ 5月19日付『中日スポーツ新聞』より。
^ 『水着が泳ぐわけじゃない』北島選手 騒動イラッ東京新聞 2008年06月07日
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B3%B6%E5%BA%B7%E4%BB%8B" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の競泳選手 | オリンピック水泳日本代表選手 | 1982年生 | 東京都荒川区出身の人物 | 紫綬褒章受章者 | 日本のオリンピック金メダリスト | 日本のオリンピック銅メダリスト表示本文 ノート 編集 履歴 個人用ツールログインまたはアカウント作成 ナビゲーション
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最終更新 2008年8月8日 (金) 22:26。 All text is available under

【谷亮子】 福工大附城東高校、帝京大学卒業、日本体育大学大学院在学。

2008-08-09 15:36:19 | 13 用語集:①人物一覧   
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調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村


谷亮子



獲得メダル
柔道
オリンピック
銀 1992 女子 48kg級
銀 1996 女子 48kg級
金 2000 女子 48kg級
金 2004 女子 48kg級
世界柔道選手権
銅 1991 女子 48kg級
金 1993 女子 48kg級
金 1995 女子 48kg級
金 1997 女子 48kg級
金 1999 女子 48kg級
金 2001 女子 48kg級
金 2003 女子 48kg級
金 2007 女子 48kg級
谷 亮子(たに りょうこ、旧姓:田村、1975年9月6日 - )は、福岡県福岡市出身の、日本人の女子柔道家(四段)である。夫はプロ野球選手の谷佳知。

目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
3 柔道スタイル
4 人物
5 エピソード
6 戦績
7 受賞
8 発言
9 谷亮子をモチーフとした作品
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク



人物
血液型はB型。階級は48キロ級。福岡工業大学附属城東高等学校、帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院在学。トヨタ自動車所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度を適用。夫はプロ野球選手の谷佳知。

キレのある立ち技を特徴とし、その実力から浦沢直樹の漫画『YAWARA!』の主人公の名前を取って柔(ヤワラ)ちゃんの愛称で広く知られる。 世界選手権6連覇、全日本体重別11連覇、福岡国際11連覇、五輪では2度の金メダルと2度の銀メダルと圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をした。今も現役で北京五輪を目指している。


来歴
小学校1年生から兄の影響で柔道を始める。小学校2年生のとき男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがある。

中学生の時の福岡国際女子柔道選手権(福岡国際)を15歳で優勝したのを皮切りに、全日本女子選抜体重別選手権(全日本)でも優勝し、五輪出場の権利を得た。1992年、16歳でバルセロナオリンピックに出場、順調に決勝まで勝ち上がったが、僅差で敗れた。銀メダルを取ったものの、笑顔は全く無かった。その後1993年の世界柔道選手権で優勝、1995年の世界柔道選手権でも優勝し、世界王者の地位を不動のものにした。

1996年のアトランタオリンピックに出場。今度こそ金メダル確実と期待された。しかし、決勝戦で北朝鮮のケー・スンヒが柔道着を左前に着るという奇策に出、最後まで自分の柔道をとることができずに僅差で敗れ、2大会連続銀メダルに終わった。

1997年、1999年の世界柔道選手権でも連覇した。2000年、シドニーオリンピックでは、大会前に「最高でも金(メダル)、最低でも金(メダル)」という言葉と共に臨んだが、鬼門となっていた決勝戦にて今度は内股で一本勝ちし、自身初の五輪金メダルを獲得し嬉し涙を流した。

2001年、2003年には世界柔道選手権を連覇。これで世界選手権6連覇(12年負けなし)という前人未到の記録を打ち立てた。

2003年12月1日に、プロ野球選手の谷佳知と入籍。

新たに「谷亮子」として臨んだアテネオリンピックでは、夫でありまた同じくアテネオリンピック日本代表選手である谷佳知をはじめ多くの人々による応援の中、足を事前に痛めるトラブルもあって、万全ではなかったが格違いの強さを見せ、一本勝ちで決勝まで勝ち上がり、決勝も大内刈りで技ありを取るなどし優勝。女子48キロ級決勝でフランスのフレデリク・ジョシネを破り五輪2大会連続の金メダルを獲得した。試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と嬉し涙を流した。日本のオリンピック選手で夏季大会に4大会連続で代表となり出場した数少ない一人(ほかには小野喬・三宅義信・菅原武男・猫田勝敏・山本博・高橋有紀子の6人)である。また、その中でも出場した4大会すべてでメダリストとなっているのは谷と小野の2人だけ、個人種目に限れば谷しかいない。

2005年にカイロで行われた世界選手権で7連覇の期待がかかっていたが妊娠のために欠場し、12月に出産した。

2007年の全日本女子柔道選抜体重別選手権大会で現役復帰、同年9月のブラジル、リオデジャネイロ世界選手権に出場し、7回目の優勝を果たした。(男女通じて世界最多記録)

2008年の北京オリンピックへの出場の意欲を見せ、全日本女子柔道選抜体重別選手権大会に出場。決勝戦で山岸絵美に日本人選手相手に、1990年以来となる技で有効ポイントを奪われる完敗を喫したが、全日本柔道連盟は「外国人選手と戦う五輪本大会で確実に金メダルを期待出来る選手である」として、谷を代表に指名した。出場が実現すると、夏季大会は5大会連続出場となり、日本選手の最多連続記録を更新する。


柔道スタイル
146cmと小柄な事もあり、もともとは背負い投げをメインとし、そこから小内刈り、大内刈りなどを得意技としていた。しかし、背負いが警戒されることをうけ、他の技も習得し頻繁に出すようになった。大外刈り、内股、体落し、掬い投げ、肩車、小外刈りと多彩で、この技の多さが一つの武器となっており、今では背負い以外の技で勝つことが多い。

駆け引きがうまく、試合の組み立ても秀逸である。組み手に強く、相手にいいところを取られたら瞬時に技を掛けながら外すなど、危機管理能力が桁外れに高い選手である。判定で負けることはまずない。組み際や相手が立ち上がろうと油断した瞬間を逃さない。女子コーチでもあった古賀稔彦は「こんな選手は2度と出てこない」と最大の賛辞を贈っている。負けた試合はほんのわずかである。 今の外国女子柔道はタックル(朽木倒し)が多くなり、日本人が負ける要因のひとつとなっているが、谷はまずくらうことがない。

また、国内でも10年近く無敗を誇っていたが、出産によるブランクの影響と年齢による動きの衰えも見られるようになっているためか、2007年の全日本選抜体重別選手権では福見友子に敗れ、翌2008年の全日本選抜体重別決勝でも山岸絵美に完敗を喫した。

勝って当然というプレッシャーの中で、長年、モチベーションを維持して頂点に立ち続ける精神力も桁外れであり、井上康生は「どういう精神構造なのかな。ゆっくり話を聞きたい。真剣にそう思う」と評している[1]。


人物
若い頃からインタビューの受け答えがしっかりしており、記者にも常に笑顔で、ファンへの感謝を忘れないなどと、サービス精神旺盛である。また自身をよく「○連覇します」と追い込んだ発言をし、そしてそれを有言実行し続ける強い精神力を持っている。


エピソード
1996年のアトランタ五輪では日本選手団の旗手を務めた。
結婚式では本人らのエピソードVTRに本人ら二人が出演するという珍しいものだった。ウェディングケーキは地球をイメージした巨大な青いものだった。

戦績
1990年 - 福岡国際で初優勝
1991年 - 全日本で初優勝
1992年 - バルセロナ五輪で銀メダル
1993年 - 世界柔道選手権(ハミルトン)で初優勝
1995年 - 世界柔道選手権(幕張)で優勝(2連覇)
1996年 - アトランタ五輪で銀メダル
1997年 - 世界柔道選手権(パリ)で優勝(3連覇)
1999年 - 世界柔道選手権(バーミンガム)で優勝(4連覇)
2000年 - シドニー五輪で金メダル
2000年 - 福岡国際で優勝(11連覇)
2001年 - 全日本で優勝(11連覇)
2001年 - 世界柔道選手権(ミュンヘン)で優勝(5連覇)
2003年 - 世界柔道選手権(大阪)で優勝(6連覇)
2004年 - アテネ五輪で金メダル(2連覇)
2007年 - 世界柔道選手権(リオデジャネイロ)で優勝(7回目)

受賞
1993年度JOCスポーツ賞優秀賞
1995年度JOCスポーツ賞最優秀賞
2000年10月3日 銀杯一組(菊紋)
2000年11月6日 内閣総理大臣顕彰
2000年度JOCスポーツ賞特別栄誉賞
2002年度JOCスポーツ賞特別貢献賞
2003年11月3日 紫綬褒章
2004年11月3日 紫綬褒章飾版
2007年11月3日 紫綬褒章飾版

発言
「最高で金、最低でも金」シドニー五輪前に
「ヤワラちゃんでいいです」 記者に本名で呼ばなくていいのかと聞かれ
「谷亮子でも金」アテネ五輪前に
「柔道の事を忘れた日は一日も無かった。」(2007年3月、子育てから復帰した会見で)
「ママでも金」

谷亮子をモチーフとした作品
小さくたってでっかいぞ!(歌:かわさきかつじ)
1996年1月10日シングルCDとして発売。ただし、歌詞には「田村亮子」(当時)の名前は出てこない。

脚注
[ヘルプ]
^ 宮崎日日新聞 (2004-08-20). "アテネ五輪 宮崎の選手たち" miyanichi e-pres. 2007年9月23日閲覧.

関連項目
TBS「いのちの響」
柔道家一覧
柔道の日本人オリンピックメダリスト一覧
愛情イッポン!
福岡県出身の人物一覧

外部リンク
JOCによるプロフィール
JudoInside.com 選手データ
国際オリンピック委員会 - 「ヤワラチャン」
[隠す]柔道競技オリンピック金メダリスト – 女子超軽量級
1992: セシル・ノバック • 1996: ケー・スンヒ • 2000: 田村亮子 • 2004: 谷亮子

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BA%AE%E5%AD%90" より作成
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最終更新 2008年8月8日 (金) 03:59。 All text is available under the terms of the GNU Free

福原愛    早稲田大学スポーツ科学部1年生で全日本空輸(ANA)所属

2008-08-09 15:26:47 | 13 用語集:①人物一覧   
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福原愛


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福原愛
生年月日: 1988年11月1日(19歳)
没年月日:
最高世界ランク: {{{最高世界ランク}}}位
利き腕: 右
グリップ: シェークハンド
戦型: 異質前陣攻守型
ファア面ラバー: 裏ソフトラバー
バック面ラバー: 表ソフトラバー
福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本の卓球選手。宮城県仙台市生まれ、血液型はB型。 早稲田大学スポーツ科学部1年生で全日本空輸(ANA)所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。2008年5月時点での世界ランクは13位。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 幼少~中学
1.2 アテネ五輪
1.3 その後
2 人物
2.1 中国での評価
2.2 語録
3 進学
4 家族のサポート
5 卓球スタイル
6 エピソード
7 戦歴
7.1 アテネオリンピックでの対戦成績
8 受賞
9 主な出場イベント
10 過去のテレビ出演
10.1 CM出演
10.2 アテネ五輪の試合放送
11 福原の関連書籍、商品など
12 その他
13 外部リンク



[編集] 来歴

[編集] 幼少~中学
1988年11月1日に仙台で生まれた福原は3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。 小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中1の4月に公立中学に入学したが、卓球面での環境を考え青森に引越した。以降、中学の3年間は世界各地のITTFツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで世界卓球選手権に抜擢され出場したが日本勢の中で一人躍進、ベスト8まで進む快挙を成し遂げた。このことがアテネ五輪出場につながった。


[編集] アテネ五輪
2004年アテネ五輪の年、日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選を勝ち抜け、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村、藤沼。なお、小西と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンア(金暻娥)に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかってない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。


[編集] その後
2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1,2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいた為、シングルの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭炎を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイやティエ・ヤナといった強豪相手に快進撃を続け見事3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権団体で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。放送したテレビ東京の視聴率も最高12%を出し好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。 2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し、青森から引っ越した。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。2007年5月の世界選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には春季リーグ以降出ておらず、個人練習での強化につとめている。TVでは2007年4月よりとっさの中国語にレギュラー出演中。2008年1月、世界ランクが10位と、上位20位以内なので北京五輪日本代表に内定した。北京五輪は平野早矢香、福原、福岡春菜の3人でシングル、団体戦に出場する。6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。

1988年11月、宮城県仙台市にて誕生
1992年8月、卓球の練習をはじめる。
1998年7月、大阪府八尾市に転居。(9歳)
ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属。
1999年3月、日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
2005年4月、グランプリと所属契約。(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団。(4月に契約、6月~12月まで中断をはさみ試合)
2006年3月、中国超級リーグ、広東佐川急便チームに移籍。3月に契約、6月~8月まで試合)
2006年8月、早稲田大学のスポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願
2006年9月13日、早稲田大学スポーツ科学部に合格。
2007年3月1日、青森山田高等学校卒業
2007年4月1日、早稲田大学スポーツ科学部に入学。
2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表

[編集] 人物
幼少時から明るく、屈託の無い笑顔が特徴的だったが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないこともあり、思いつめた表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学二年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、現在ではインタビューでも模範的な受け答えを見せている。

卓球をしている最中は、感情の揺れが激しくなるらしく、気持ちが顔に出易い(負けた時に相手選手との握手の際に笑顔が出せない、相手がネットイン、エッジをすると不快な顔をする、など)。負けると直後は非常に落ち込むが、立ち直りは人一倍早い。ニュースでも親しみをこめて「愛ちゃん」と呼ばれることが多い。

2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズがあわず、眼鏡にしたとのこと。福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。なお、視力自体は1.5-1.0と悪くない。


[編集] 中国での評価
中国での福原への関心は高く、日本には無いファンサイトも複数存在する。Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧、王楠、白楊、リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)。[1]

2005年「面対面」という中国の人気インタビュー番組に出演。その中でキャスター王志から「家族は本業をやめられたそうですが、あなたが一家を背負うことにプレッシャーは無いですか?」という質問がされ、福原は戸惑って「そんな難しいこと、聞かないでください」と涙をこぼした。近年、福原がテレビの前で泣くことはめったに無かったこともあり、この出来事は日本でも大きな話題となった。だが結果的にこの事は、日中の福原ファンを増やすことに貢献した。

ちなみにその後、王志は日本のメディアから質問を受け、「彼女が泣くとは思わなかった。私の配慮が足りなかったのですね。しかし視聴者が一番聞きたいと思っていることを聞くのが私の仕事です。多くの中国人が福原に興味を持っていました。だからゲストに呼んだのです。」と答えている。福原自身は、涙の理由について「初めて受けるタイプのインタビューだったので、どう答えたらいいか戸惑ってしまい、ちょうどその頃中国リーグの疲れもあって(精神的に不安定だったため)泣いてしまった。」と答え、また中国のネット掲示板で「王志が子供(福原)をいじめている」と、一部非難があったことについて、「私はいじめられたとは思っていない。それは間違いです。しかし、今後そういうインタビューも増えてくると思うので、もっとうまく対応できるようにしたい。」と語った。

当時の小泉純一郎首相の靖国問題などで、中国では反日感情が高まり、日本への政治にも冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中でも福原のニュースを中国英字紙チャイナ・デーリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国スーパーリーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。 中国は、小泉首相に非難の的を絞る一方、一般の日本国民について日中関係冷却化の責任はないとして友好関係を強調する姿勢を見せていた。同紙が福原を取り上げたのも、こうした対日配慮の一環とみられる。 写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供たちに囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介している。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントによく招かれている。

2008年2月の世界卓球選手権団体では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原をを中心に見出しや記事を構成した。また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。(斉魯晩報)

同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。

同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本側からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。

2008年5月7日、胡錦濤国家主席が来日した際(中国主席の来日は10年ぶり)、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で福原と卓球対戦した。主席に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断った為、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。この模様は日中で大きく報道された。
四川大地震が起きた事について、福原が会見で涙を見せたと中国新聞社が報じた。
福原愛の中国でのニックネームは「瓷娃娃(ツーワーワー)」(磁器のお人形という意味、肌がきれいな事から)。

[編集] 語録
「メダルとれなくて、期待してくれた方にすみませんと言いたいです。」 - アテネ五輪で敗戦した直後のコメント(2004年8月)
「楽しみに来た訳じゃありませんので。」 - アテネ五輪、楽しんでますか?とレポーターに訊かれて
「ミックスゾーンで泣くのだけは嫌だった。」 - アテネ五輪の敗戦のコメントをふり返って
「全然可愛いと思ってませんが、気をつけてることは、睡眠をよくとることです。」 - イベントで子供に可愛さの秘訣を聞かれ(2005年)
「今まで『愛ちゃん』と呼んでた人から急に『愛さん』とか『愛選手』って呼ばれたら「えっ誰?」って思っちゃうんで。『愛ちゃん』でいいです。」 - いつまでも、「『愛ちゃん』と呼んでいいのかな?」と聞かれ・同上インタビューより
「思ったより簡単だった」「何も練習してこなかった」「卓球の方が難しい」 - アニメ「こてんこてんこ」の声収録を終えて(2005年12月)
「当たって砕けてきます!」 - 2005年世界卓球選手権の意気込みを聞かれ
「小さい頃はメディアの方に追っかけまわされるのが嫌だったんですけど、最近はメディアがないと、自分の気持ちが世間の人たちに伝わらない面もあるので、今はメディアをすごくありがたいと思い感謝してます。メディアのみなさんに対しては失礼ですが、ちょっとお友達のような感覚でいます。」 - 外国特派員協会インタビューより、メディアについて(2006年10月11日)
「週刊誌に載る様な事はしません。」 - SMAP×SMAPでSMAP中居に大学で一人暮らしした時の事を聞かれ(2006年10月30日放送)
「ちょっとイラッときた。見せ物かって」 - 世界選手権合宿最終日に石川との練習試合が組まれ、多くのマスコミが集まっていたことについて(2007年5月8日)
「勝ててた試合だと思います。」2007年世界選手権3回戦wr60位台のドデアンにストレート負けして
「このような大役を仰せつかって、本当に光栄だと思います。」(2008年6月、JOCより北京五輪選手団旗手に選ばれたことについて会見で)

[編集] 進学
福原の両親は福原を徹底的に卓球の英才教育をした。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4~5時間、今では7~8時間。年に休みは3日程度。コーチは専属の中国人を住み込みで契約している(時には元中国チャンピオンなど)。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションの為中国語も身につけた。

福原愛の卓球スケジュール、練習方法を決めているのは当初は卓球経験者の母親であったが、その後は父親主導になり今はマネジメントなど含め全て管理している。 福原が小4の時、突然大阪に引越しミキハウスとプロ契約を結んだ(注・2001年4月から日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている)。一家はミキハウス本社のある大阪府八尾市に引越し、福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。この時に、王子卓球クラブの作馬六郎に「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。

大阪では公立小学校に通っていた。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してる為、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになった)。

ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼と組んでいる)。

ミキハウスの4年契約が終わった後、ミキハウスからもオファーはあったが、福原サイドはグランプリと4年契約することにした(2005年4月)。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援した。父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て、9月13日、早稲田大学スポーツ科学部に合格が決まった。専攻はスポーツ文化学科である。早稲田大学としては2年目の実施となる同学部のトップアスリート入学試験を行い、福原含め6人が合格した。スポーツ科学部のキャンパスは所沢市にあり、練習場は新宿区にある。

2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し、青森から引っ越した。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。父は「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明している。

福原は入学前「インカレなど大学の試合に出たい」と言っていた。福原の入学を受けて学連と協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約を改正までした。福原は大学入学後の5月の春期リーグは出場するも、チームを一部昇格に導くことはできなかった。 8月のインカレ(全日本大学対抗・団体)は欠場した。また、同月の大学生の国際大会であるユニバーシアードの日本代表にエントリーされていたが欠場した(どちらも日程が国際大会とかぶる為ではなく、個人合宿の為である)。9月の秋季リーグも欠場(しかし早稲田女子卓球部は福原抜きで44年ぶりの一部昇格を決めた)。 「大学に入ったのに、大学の試合に出ない」という状況が続いており、今後の出場予定も白紙である。北京五輪前年である為、2007年度はツアーに積極的に出場し、秋田での個人合宿を増やしている。

2008年1月全日本選手権惨敗直後、福原が大学の授業になかなか行けない為、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学、あるいは中退を示唆しており、正式な決定が1月中に発表されるとの事。(福原は入学後、練習を東京の早稲田大学の卓球部では行わず、個人での練習を続けており、しかも秋田の温泉施設と青森山田高校を拠点とし続けているため、余計に学業の支障が出ていた。また2007年度は北京五輪出場を見越し高い世界ランクを維持するため、海外の卓球ツアーに多く出たため欠席も多くなった。)しかし、2008年2月9日、福原本人が学業と両立したいとのことで、早稲田を中退も休学しないと学校に伝えたと発表された。可能な限り出席し、レポートで単位取得を目指すとの事


[編集] 家族のサポート
福原には両親と兄がいるが、みな福原のマネジメントに当っている。特に父親の権限は大きく、福原の進路や練習方法、コーチの選択、大会やイベントやTV出演などを管理しているのはほとんど父親の判断による。また、今後の進路について時々マスコミにコメントを出している。TVの出演を選ぶ時は基本的に卓球に関連性があるものだけにしている。2002年頃に「千秀企画」という福原の個人事務所も作った(マスコミやイベント依頼の対応などの窓口)。ちなみに千は母、秀は兄の名から一文字ずつとっている。2006年に広東チームのオーナー権を買ったが、短パンにはそのロゴが入っていた。福原は「昔は母は鬼コーチで、父は時々来て遊ぶぐらいだった。今は自分と母はすごく仲が良いが、父は怖い存在で絶対に逆らえない」と語っている。フジの特番でも「王子サーブを何で使わないんだ!」と怒鳴り泣かしている場面が見られた。練習では手が出ることもあるという。母によれば、福原の性格は父親似だそうである。JOCの選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度については福原は2007年4月の時点でも継続して加入している。多くのトップアスリートが脱退していく中、CMなど広告収入を多く抱える福原はJOCにかなりの貢献をしている。父親は「JOCにはお世話になったのでまだ継続していきたい」と語っている。福原は試合が終わると毎日記者にコメントを出すが、これも「それはあなたの仕事」と、小さい頃から母が言い聞かせてきたことによる。現在福原のコーチは中国人の湯媛媛と章篠琳(カットマン)で、いつも一緒に行動している。彼女達も父親が交渉して中国から連れてきた。


[編集] 卓球スタイル
右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルの卓球である。その為中国人には手の内が読まれ苦手意識があるが、中国以外のヨーロッパ等の選手に強いのが特徴である。

世界ランキングは日本でトップだが、国内大会に弱く優勝タイトルに乏しい。全日本卓球選手権でもベスト8が最高と不本意な成績を残している。優勝を絶対視され最高学年で参加した2007年高校総体でも準優勝に終わった。

ペースの速い卓球で、ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出せる。ちなみに、小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。

「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、作戦をあまり考えないタイプの選手で、代表監督からも怒られたりしていた。それゆえに研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究すると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究したがらない。その割にラバーを貼ったりするところを見られるのを非常に嫌い、会見などで自分の問題点を言う事を避けたがる一面も持つ(相手に有益な情報が広がる為)。

流れを変えるのが難しいらしく、勝つときは圧勝して勝つが、流れが悪くなるとその流れを変えられない事も多い。体がやわらかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。中学、高校前半の頃はよくピンチで王子サーブというしゃがみ込みサーブを使っていたが、今は返されることが多い為、全く使っていない。単調なショートサーブが多く、またフォアハンドが弱い事も課題として度々指摘されている。



【以下割愛】






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カテゴリ: 日本の卓球選手 | オリンピック卓球日本代表選手 | 宮城県出身の人物 | 仙台市出身の人物 | 1988年生

近代オリンピック

2008-08-09 15:16:35 | 2 IT用語集
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近代オリンピック

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アントワープオリンピックで初めて公開された五輪旗 ウィキプロジェクト オリンピック
近代オリンピック(きんだいオリンピック)とは、グレゴリオ暦が偶数の隔々年(4年に1回)に国際オリンピック委員会 (IOC) が開催する、世界的なスポーツ大会である。単にオリンピックと呼称したり、日本ではそのシンボルマークから五輪(ごりん)とも呼称されるほか、その理念から平和の祭典ともいわれる。古代ギリシアのオリンピアの祭典をヒントにして、19世紀末にフランスのクーベルタン男爵によって発想された。

目次 [非表示]
1 歴史と概要
2 オリンピックの名称
3 関連項目
4 外部リンク



[編集] 歴史と概要
夏季大会と冬季大会があり、夏季オリンピック第1回は1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。1994年以降は西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催される。1994年のリレハンメル大会から2年おきに夏季大会と冬季大会を交互に開催するようになった。 当初、夏季オリンピックと冬季オリンピックは同年に同一の開催国で両者を開催するその筈だったがアムステルダム大会時の1928年の際オランダに雪山がなく、適当な冬季大会の会場が確保出来なかったのでそれは原則ではなくなった(1928年はサンモリッツで開催)。

開催主体は都市であるが、用地の問題により開催都市の近隣に会場が分散される場合もある。東京大会では国立競技場を初めとして東京都内に会場が設けられたが、ボート競技は埼玉県戸田市で、馬術は長野県軽井沢町で開催された。さらに近年は、大会の大規模化や施設建設による自然破壊への反省と共に開催都市の近隣都市に会場が分散される事が多い。

開催国は北半球が殆どで、南半球での開催は少ない。南半球では冬季大会は開催されたことがなく、夏季大会も1956年にオーストラリアのメルボルンで開かれたメルボルンオリンピックと、2000年に同じオーストラリアのシドニーで開催されたシドニーオリンピックの2大会のみである。

その理由としては主に季節が北半球と逆である事と、北半球に比べ実際に開催可能な経済力を持つ先進国が少ない事が関係している。特に、冬季大会では各種目の大会シーズンとの兼ね合い(南半球が冬の時期に北半球ではシーズンオフであること)や、北半球に比べウィンタースポーツの設備が十分でない(そもそも降雪量が少ない)ため実質的に開催不可能であると推測される。

近代オリンピックの象徴でもある五輪のマーク(オリンピックシンボル)は、クーベルタン男爵が考案し、世界5大陸(青:オセアニア、黄:アジア、黒:アフリカ、緑:ヨーロッパ、赤:アメリカ)と五つの自然現象(火・水・木の緑・土の黒・砂の黄色)とスポーツの5大鉄則(情熱・水分・体力・技術・栄養)を、原色5色(および単色でも可)と5つの重なり合う輪で表現したものであるとする説が有力だ。他にこの五色で世界の国旗全てが表されていたとする説もある。5つの重なり合う輪はまた、平和への発展を願ったものである。なおこの五輪マークは、1914年にIOCの創設20周年記念式典で披露され、1920年のアントワープ大会から使用されているが、木綿で作られた五輪旗は一度盗まれ1980年のモスクワ大会では閉会式でアメリカに五輪旗が伝達されず次の大会ではレプリカを使用された出来事があり、そして1992年のバルセロナ夏季大会から合成樹脂の五輪旗が使われている。

開会式では、オリンピック賛歌を合唱する事と、五輪旗・開催国旗掲揚、開催国の国歌斉唱、最終聖火ランナーによるトーチ点灯、そして平和の象徴の鳩が飛ばされる事になっている(聖火台で鳩を焼いてしまったソウルオリンピックでの一件や、動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からはモニター映像による鳩飛ばしが恒例になった)。開会式の入場行進は、五輪発祥地ギリシャの選手団が先導し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導し入場、最後にギリシャの選手団が入場していた。

アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦や、ミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン戦争に伴う東西のボイコット合戦など、時々の国際政治の影響は大きい。特にヒトラー政権下による1936年のベルリン大会は五輪そのものが利用された色彩が強く、聖火リレーのルートを後日ドイツ軍がそのまま逆進した事から政治が大きく陰を落としたものとなっている。

大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市負担が問題となったが1984年のロサンゼルス大会でピーター・ユベロス大会委員長主導のもと、ショーアップを図るとともに、大会ごとに企業にオリンピックマークの独占的な使用をスポンサードとともに許可するなど、商業資本を大幅に導入し、一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。オリンピックは発足当初からアマチュア選手のみに参加資格を限って来たが旧共産圏(ソビエト連邦やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(最初はテニスなどごく限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。ロサンゼルス大会のころからサマランチ会長のもと商業主義が加速したといわれ、近年は誘致活動にIOC委員への賄賂が提供された事などが問題になった。健全なスポーツの精神とは裏腹に、これらの利権が絡み合ったイベントでもある。開催地でのスポンサーを見込んで増え続けていた競技種目を減らそうとする動きも出て来ている。

なお、現在のオリンピックの収益構造は、約半分が各国マスコミへの放送権料で、残りをマクドナルド、コカ・コーラ、コダック、松下電器などの毎回のオリンピックにおいて中心となる「ワールドワイドパートナー」、その下に、「メインスポンサー」や「オフィシャルスポンサー」、「オフィシャルサプライヤー」など、さまざまな企業からのスポンサー料、そして、会場への入場料などにより運営されている。

日本が初めて参加したのは1912年ストックホルム夏季大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、1928年アムステルダム大会からは女子選手も参加した。

日本選手のメダル獲得、ベルリン大会からはじまったラジオ中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年大会を東京に招致する事に成功したが、この大会は第二次世界大戦により中止された。戦後の1948年ロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、1952年ヘルシンキ夏季大会より復帰している。

日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。

大会公用語はフランス語と英語であるが、フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先するとして、フランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。近代オリンピック開催を提唱したクーベルタン男爵の母語がフランス語であったことにちなむ。フランス語、英語の他、開閉会式等では開催地の公用語も加える場合がある。


[編集] オリンピックの名称
オリンピックはゼウスの神殿のあったオリュンポス(オリンピア)の名前を冠している。ここで古代オリンピックが開催されたことから名前がついた。IOCなどでは、オリンピアを真実の女神と神格化している。戦前はオリムピックと言う表記だった。


[編集] 関連項目
ウィキメディア・コモンズには、近代オリンピックに関連するカテゴリとマルチメディアがあります。ウィキニュースには近代オリンピックに関連するニュースのカテゴリがあります。オリンピック関連用語一覧
オリンピック関連年表
日本オリンピック委員会
パラリンピック
スペシャルオリンピックス
デフリンピック
プレオリンピック
ユニバーシアード
ジャパンコンソーシアム - 日本でのオリンピックやFIFAワールドカップの放送に際するNHK・民間放送の合同組織
ハイパーオリンピック - 近代オリンピックをテーマにしたコナミ(現・コナミデジタルエンタテイメント)のゲームソフト。

[編集] 外部リンク
公式
国際オリンピック委員会 (英語)
アジア・オリンピック評議会 (英語)
日本オリンピック委員会 (日本語)
各大会IOC公式報告書(PDFファイル)ダウンロード
大会
夏季北京オリンピック2008 (中国語)(英語)
冬季バンクーバーオリンピック2010 (英語)(フランス語)
夏季ロンドンオリンピック2012 (英語)
[隠す]表・話・編・歴近代オリンピック
オリンピック競技 - 各国メダル獲得数 - IOCコード - メダリスト - シンボル
夏季オリンピック 1896年 - 1900年 - 1904年 - 1906年※ - 1908年 - 1912年 - 1916年× - 1920年 - 1924年 - 1928年 - 1932年 - 1936年 - 1940年× - 1944年× - 1948年 - 1952年 - 1956年 - 1960年 - 1964年 - 1968年 - 1972年 - 1976年 - 1980年 - 1984年 - 1988年 - 1992年 - 1996年 - 2000年 - 2004年 - 2008年 - (2012年) - (2016年) - (2020年)
冬季オリンピック 1924年 - 1928年 - 1932年 - 1936年 - 1940年× - 1944年× - 1948年 - 1952年 - 1956年 - 1960年 - 1964年 - 1968年 - 1972年 - 1976年 - 1980年 - 1984年 - 1988年 - 1992年 - 1994年 - 1998年 - 2002年 - 2006年 - (2010年) - (2014年) - (2018年)
ユースオリンピック (2010年) - (2012年)
「×」は中止となった大会 - 「※」は非公認の特別大会 - 「()」は開催予定の大会



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カテゴリ: オリンピック

[ 首都の一覧 ]  首都の一覧   作問作成中

2008-08-09 15:13:50 | 2 IT用語集
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首都の一覧   作問作成中


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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首都の一覧は現存する世界の国の首都を五十音順に並べた一覧。首都名・国名は原則として『2003年版 世界の国一覧表』(外務省編集協力、(財)世界の動き社)に準拠した(イギリス、中国などを除く)。掲載基準は国の一覧と同様。

目次 [非表示]
1 ア行
2 カ行
3 サ行
4 タ行
5 ナ行
6 ハ行
7 マ行
8 ヤ行
9 ラ行
10 ワ行・ン
11 国家の承認を得る国が少ない、又は無い国
12 註釈
13 関連項目



[編集] ア行
首都名 国名
①■■■ ガーナ
アシガバート トルクメニスタン
アディスアベバ エチオピア
アスタナ カザフスタン
アスマラ エリトリア
アスンシオン パラグアイ
②■■■ ギリシャ
アピア サモア
アブジャ ナイジェリア
③■■■■ アラブ首長国連邦
④■■■■■■■(政庁所在地ハーグ) オランダ
⑤■■■■ アルジェリア
⑥■■■■ トルコ
アンタナナリボ マダガスカル
アンドラ・ラ・ヴェリャ アンドラ
⑦■■■■ ヨルダン
⑧■■■■■■■ パキスタン
⑨■■■■ オーストリア
ウィントフック ナミビア
⑩ ■■■■■■ニュージーランド
⑪ ■■■■■■■モンゴル
⑫■■■■■(政庁所在地テルアビブ) イスラエル
エレバン アルメニア
⑬■■■ ノルウェー
⑭ ■■■カナダ


[編集] カ行
首都名 国名
⑮■■■ エジプト
カストリーズ セントルシア
⑯■■■■■ ネパール
⑰■■■■ アフガニスタン
⑱■■■■ ベネズエラ
カンパラ ウガンダ
キエフ ウクライナ
キガリ ルワンダ
キシニョフ モルドバ
⑲■■ エクアドル
⑳ ■■■■■オーストラリア
キングスタウン セントビンセント・グレナディーン
キングストン ジャマイカ
キンシャサ コンゴ民主共和国
グアテマラシティ グアテマラ
クアラルンプール マレーシア
クウェート (市) クウェート
コナクリ ギニア
コペンハーゲン デンマーク


[編集] サ行
首都名 国名
ザグレブ クロアチア
サヌア イエメン
サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ
サンサルバドル エルサルバドル
サンティアゴ チリ
サントドミンゴ ドミニカ共和国
サントメ サントメ・プリンシペ
サンホセ コスタリカ
サンマリノ (市) サンマリノ
ジブチ ジブチ
ジャカルタ インドネシア
ジョージタウン (ガイアナ) ガイアナ
シンガポール (市) シンガポール
スコピエ マケドニア
ストックホルム スウェーデン
スバ フィジー
スリジャヤワルダナプラコッテ スリランカ
セントジョージズ グレナダ
セントジョンズ アンティグア・バーブーダ
ソウル 大韓民国
ソフィア ブルガリア


[編集] タ行
首都名 国名
ダカール セネガル
タシケント ウズベキスタン
ダッカ バングラデシュ
ダブリン アイルランド
ダマスカス シリア
タラワ キリバス
タリン エストニア
チュニス チュニジア
ティラナ アルバニア
ディリ 東ティモール
ティンプー ブータン
テグシガルパ ホンジュラス
テヘラン イラン
東京(日本の首都も参照) 日本
ドゥシャンベ タジキスタン
ドーハ カタール
ドドマ(政庁所在地ダルエスサラーム) タンザニア
トビリシ グルジア
トリポリ リビア


[編集] ナ行
首都名 国名
ナイロビ ケニア
ナッソー バハマ
ニアメ ニジェール
ニコシア キプロス
ニューデリー インド
ヌアクショット モーリタニア
ヌクアロファ トンガ
ネーピードー ミャンマー


[編集] ハ行
首都名 国名
バクー アゼルバイジャン
バグダッド イラク
バセテール セントクリストファー・ネービス
パナマシティ パナマ
ハノイ ベトナム
ハバナ キューバ
ハボローネ ボツワナ
バマコ マリ
パラマリボ スリナム
ハラレ ジンバブエ
パリ フランス
パリキール ミクロネシア連邦
ハルツーム スーダン
バレッタ マルタ
バンギ 中央アフリカ
バンコク タイ
バンジュール ガンビア
バンダルスリブガワン ブルネイ
ビエンチャン ラオス
ビクトリア セーシェル
ビサウ ギニアビサウ
ビシュケク キルギス
平壌(ピョンヤン) 朝鮮民主主義人民共和国
ビリニュス リトアニア
ファドゥーツ リヒテンシュタイン
ブエノスアイレス アルゼンチン
ブカレスト ルーマニア
ブジュンブラ ブルンジ
ブダペスト ハンガリー
フナフティ ツバル
プノンペン カンボジア
プライア カーボベルデ
ブラザヴィル コンゴ共和国
ブラジリア ブラジル
ブラチスラバ スロバキア
プラハ チェコ
フリータウン シエラレオネ
ブリッジタウン バルバドス
ブリュッセル ベルギー
プレトリア(行政首都) 南アフリカ
ベイルート レバノン
ベオグラード セルビア
北京(ペキン) 中華人民共和国
ヘルシンキ フィンランド
ベルモパン ベリーズ
ベルリン ドイツ
ベルン スイス
ボゴタ コロンビア
ポートオブスペイン トリニダード・トバゴ
ポートビラ バヌアツ
ポートモレスビー パプアニューギニア
ポートルイス モーリシャス
ホニアラ ソロモン諸島
ポルトノボ ベナン
ポルトープランス ハイチ
ポドゴリツァ(憲法上の首都はツェティニエ) モンテネグロ


[編集] マ行
首都名 国名
マジュロ マーシャル諸島
マスカット オマーン
マセル レソト
マドリード スペイン
マナグア ニカラグア
マナーマ バーレーン
マニラ フィリピン
マプト モザンビーク
マラボ 赤道ギニア
マルキョク州 パラオ
マレ モルディブ
ミンスク ベラルーシ
ムババーネ スワジランド
メキシコシティ メキシコ
モガディシオ ソマリア
モスクワ ロシア
モナコ モナコ
モロニ コモロ
モンテビデオ ウルグアイ
モンロビア リベリア


[編集] ヤ行
首都名 国名
ヤウンデ カメルーン
ヤムスクロ コートジボワール
ヤレン[1] ナウル


[編集] ラ行
首都名 国名
ラパス(憲法上の首都スクレ) ボリビア
ラバト モロッコ
リガ ラトビア
リスボン ポルトガル
リーブルヴィル ガボン
リマ ペルー
リヤド サウジアラビア
リュブリャナ スロベニア
リロングウェ マラウイ
ルアンダ アンゴラ
ルクセンブルク ルクセンブルク
ルサカ ザンビア
レイキャヴィーク アイスランド
ロゾー ドミニカ国
ローマ イタリア
ロメ トーゴ
ロンドン イギリス


[編集] ワ行・ン
首都名 国名
ワガドゥグー ブルキナファソ
ワシントンD.C. アメリカ合衆国
ワルシャワ ポーランド
ンジャメナ チャド


[編集] 国家の承認を得る国が少ない、又は無い国
首都名 国名
アイウン 西サハラ
エルサレム パレスチナ
ステパナケルト(ハンケンディとも) ナゴルノ・カラバフ
スフミ アブハジア
台北(タイペイ) 中華民国(台湾)
ツヒンワリ 南オセチア
ティラスポリ 沿ドニエストル
ハルゲイサ ソマリランド
プリシュティナ コソボ
レフコシャ 北キプロス


[編集] 註釈
^ ヤレンにはナウルの首都機能はあるが、公式に首都なるものを定めていない。

[編集] 関連項目
かつての首都の一覧
国の一覧
国の一覧 (大陸別)
世界地図
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7" より作成
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首都の一覧


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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首都の一覧は現存する世界の国の首都を五十音順に並べた一覧。首都名・国名は原則として『2003年版 世界の国一覧表』(外務省編集協力、(財)世界の動き社)に準拠した(イギリス、中国などを除く)。掲載基準は国の一覧と同様。

目次 [非表示]
1 ア行
2 カ行
3 サ行
4 タ行
5 ナ行
6 ハ行
7 マ行
8 ヤ行
9 ラ行
10 ワ行・ン
11 国家の承認を得る国が少ない、又は無い国
12 註釈
13 関連項目



[編集] ア行
首都名 国名
アクラ ガーナ
アシガバート トルクメニスタン
アディスアベバ エチオピア
アスタナ カザフスタン
アスマラ エリトリア
アスンシオン パラグアイ
アテネ ギリシャ
アピア サモア
アブジャ ナイジェリア
アブダビ アラブ首長国連邦
アムステルダム(政庁所在地ハーグ) オランダ
アルジェ アルジェリア
アンカラ トルコ
アンタナナリボ マダガスカル
アンドラ・ラ・ヴェリャ アンドラ
アンマン ヨルダン
イスラマバード パキスタン
ウィーン オーストリア
ウィントフック ナミビア
ウェリントン ニュージーランド
ウランバートル モンゴル
エルサレム(政庁所在地テルアビブ) イスラエル
エレバン アルメニア
オスロ ノルウェー
オタワ カナダ


[編集] カ行
首都名 国名
カイロ エジプト
カストリーズ セントルシア
カトマンズ ネパール
カブール アフガニスタン
カラカス ベネズエラ
カンパラ ウガンダ
キエフ ウクライナ
キガリ ルワンダ
キシニョフ モルドバ
キト エクアドル
キャンベラ オーストラリア
キングスタウン セントビンセント・グレナディーン
キングストン ジャマイカ
キンシャサ コンゴ民主共和国
グアテマラシティ グアテマラ
クアラルンプール マレーシア
クウェート (市) クウェート
コナクリ ギニア
コペンハーゲン デンマーク


[編集] サ行
首都名 国名
ザグレブ クロアチア
サヌア イエメン
サラエボ ボスニア・ヘルツェゴビナ
サンサルバドル エルサルバドル
サンティアゴ チリ
サントドミンゴ ドミニカ共和国
サントメ サントメ・プリンシペ
サンホセ コスタリカ
サンマリノ (市) サンマリノ
ジブチ ジブチ
ジャカルタ インドネシア
ジョージタウン (ガイアナ) ガイアナ
シンガポール (市) シンガポール
スコピエ マケドニア
ストックホルム スウェーデン
スバ フィジー
スリジャヤワルダナプラコッテ スリランカ
セントジョージズ グレナダ
セントジョンズ アンティグア・バーブーダ
ソウル 大韓民国
ソフィア ブルガリア


[編集] タ行
首都名 国名
ダカール セネガル
タシケント ウズベキスタン
ダッカ バングラデシュ
ダブリン アイルランド
ダマスカス シリア
タラワ キリバス
タリン エストニア
チュニス チュニジア
ティラナ アルバニア
ディリ 東ティモール
ティンプー ブータン
テグシガルパ ホンジュラス
テヘラン イラン
東京(日本の首都も参照) 日本
ドゥシャンベ タジキスタン
ドーハ カタール
ドドマ(政庁所在地ダルエスサラーム) タンザニア
トビリシ グルジア
トリポリ リビア


[編集] ナ行
首都名 国名
ナイロビ ケニア
ナッソー バハマ
ニアメ ニジェール
ニコシア キプロス
ニューデリー インド
ヌアクショット モーリタニア
ヌクアロファ トンガ
ネーピードー ミャンマー


[編集] ハ行
首都名 国名
バクー アゼルバイジャン
バグダッド イラク
バセテール セントクリストファー・ネービス
パナマシティ パナマ
ハノイ ベトナム
ハバナ キューバ
ハボローネ ボツワナ
バマコ マリ
パラマリボ スリナム
ハラレ ジンバブエ
パリ フランス
パリキール ミクロネシア連邦
ハルツーム スーダン
バレッタ マルタ
バンギ 中央アフリカ
バンコク タイ
バンジュール ガンビア
バンダルスリブガワン ブルネイ
ビエンチャン ラオス
ビクトリア セーシェル
ビサウ ギニアビサウ
ビシュケク キルギス
平壌(ピョンヤン) 朝鮮民主主義人民共和国
ビリニュス リトアニア
ファドゥーツ リヒテンシュタイン
ブエノスアイレス アルゼンチン
ブカレスト ルーマニア
ブジュンブラ ブルンジ
ブダペスト ハンガリー
フナフティ ツバル
プノンペン カンボジア
プライア カーボベルデ
ブラザヴィル コンゴ共和国
ブラジリア ブラジル
ブラチスラバ スロバキア
プラハ チェコ
フリータウン シエラレオネ
ブリッジタウン バルバドス
ブリュッセル ベルギー
プレトリア(行政首都) 南アフリカ
ベイルート レバノン
ベオグラード セルビア
北京(ペキン) 中華人民共和国
ヘルシンキ フィンランド
ベルモパン ベリーズ
ベルリン ドイツ
ベルン スイス
ボゴタ コロンビア
ポートオブスペイン トリニダード・トバゴ
ポートビラ バヌアツ
ポートモレスビー パプアニューギニア
ポートルイス モーリシャス
ホニアラ ソロモン諸島
ポルトノボ ベナン
ポルトープランス ハイチ
ポドゴリツァ(憲法上の首都はツェティニエ) モンテネグロ


[編集] マ行
首都名 国名
マジュロ マーシャル諸島
マスカット オマーン
マセル レソト
マドリード スペイン
マナグア ニカラグア
マナーマ バーレーン
マニラ フィリピン
マプト モザンビーク
マラボ 赤道ギニア
マルキョク州 パラオ
マレ モルディブ
ミンスク ベラルーシ
ムババーネ スワジランド
メキシコシティ メキシコ
モガディシオ ソマリア
モスクワ ロシア
モナコ モナコ
モロニ コモロ
モンテビデオ ウルグアイ
モンロビア リベリア


[編集] ヤ行
首都名 国名
ヤウンデ カメルーン
ヤムスクロ コートジボワール
ヤレン[1] ナウル


[編集] ラ行
首都名 国名
ラパス(憲法上の首都スクレ) ボリビア
ラバト モロッコ
リガ ラトビア
リスボン ポルトガル
リーブルヴィル ガボン
リマ ペルー
リヤド サウジアラビア
リュブリャナ スロベニア
リロングウェ マラウイ
ルアンダ アンゴラ
ルクセンブルク ルクセンブルク
ルサカ ザンビア
レイキャヴィーク アイスランド
ロゾー ドミニカ国
ローマ イタリア
ロメ トーゴ
ロンドン イギリス


[編集] ワ行・ン
首都名 国名
ワガドゥグー ブルキナファソ
ワシントンD.C. アメリカ合衆国
ワルシャワ ポーランド
ンジャメナ チャド


[編集] 国家の承認を得る国が少ない、又は無い国
首都名 国名
アイウン 西サハラ
エルサレム パレスチナ
ステパナケルト(ハンケンディとも) ナゴルノ・カラバフ
スフミ アブハジア
台北(タイペイ) 中華民国(台湾)
ツヒンワリ 南オセチア
ティラスポリ 沿ドニエストル
ハルゲイサ ソマリランド
プリシュティナ コソボ
レフコシャ 北キプロス


[編集] 註釈
^ ヤレンにはナウルの首都機能はあるが、公式に首都なるものを定めていない。

[編集] 関連項目
かつての首都の一覧
国の一覧
国の一覧 (大陸別)
世界地図
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宮城道雄  「レコード夜話」

2008-08-09 11:06:55 | 2 IT用語集
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村

東京芸術学部・ハーバード大学・東京大学・早稲田大学・慶應大学・京都大学

レコード夜話
宮城道雄



 メニューヒンの演奏会を日比谷の公会堂へ聴きに行って、あとで楽屋へ挨拶に行くと、握手をしながら how do you do と言われた。その声が高い若々しい調子に聞こえた。帰ろうとすると、もう一度握手されたので私は嬉しかった。
 そのせいか、氏のレコードが集めたくなって、いろいろ買い求めた。そして、氏の写真のついたアルバムへ手さぐりで一枚ずつレコードをはめていった。
 幸いのことに、つい先日ビクターから勤続二十五年以上の御褒美に小型電気蓄音機を貰ったので、それで聴いて楽しんでいる。
 私はレコードを一人で静かに聴くのが好きで、人の寝しずまった夜中などに鳴らすことがよくある。電気蓄音機は調節が出来てよいが、手捲の蓄音機でオーケストラなどを鳴らすと、辺りへひびきわたるので風呂敷をかけたり、蒲団をかぶせたりして音を弱くして聴くのである。
 ある夜、私は変奏曲を作ってみたいと思っていたので、参考に聴きたいと思ってレコードをいろいろ探した。私にわかるように点字で書いてあるのもあるがそうでないのが多いので、そういうのはレコードやアルバムの手ざわりや、形などで探りあてたり、また、置場所などにも心覚えがある。それでやっと探り出したのは、ベートーヴェンのワルツによる三十三の変奏曲であった。ピアノはフイッシャーの演奏であったが、それを電気蓄音機で弱くして聴いた。ところが私の思惑とは違った。
 私は形式などを参考にしたいと思っていたが、それよりも変奏の変る毎に私に感じるのはベートーヴェンの何か心理というようなものであった。
 私は寝床のすぐ側へ蓄音機をおいて、寝ながら聴いていて、レコードを裏返す時にはそのまま手を延ばし、一枚済むと上半身を起してかけ変える。誠に無性なようであるが、こう横になって聴いていると、一層深く味わうことが出来る。
 次第に変わって行く和声的な最低音や、最高音、それに何かを暗示するように続いて聞こえるある低音などが、しんとした真夜中と一体になったように私に感じられて、何か深い人生までが思い浮かんでくるのであった。そしてレコードを七枚聴き終った時はもう夜明近くであった。この名曲もさることながら、私は理解の深いフイッシャーの演奏ぶりに、今更のように敬服の念が湧いてきたのであった。
 私はずっと以前に、ハイフェッツの古い吹込らしかったが「妖精の踊」のレコードを持っていた。友人の内田百間先生は、この曲が非常に好きで、あのタンタンタヽヽヽという節を聴くと妙にビールが飲みたくなるので、私の家で飲んだり、何処かへ飲みにつれていって貰ったりしたが、私もその頃、この曲が好きで、これにヒントを得て、「落葉の踊」を作ってみたのである。
 その後、百間先生が学生を連れて来て、酔っぱらった勢でこのレコードを没収して帰ったように思ったが、今、その話をすると、そんな覚えはない、迷惑な話だというのである。
 その頃は、ハイフェッツ、エルマン、クライスラー、ジンバリストなどが相ついで来朝したのである。
 そして、百間先生はこの曲の実演をきいた時には、たまらなくなって、休憩時間に日比谷の地下室へ降りて、ビールを飲んだとかである。
 クライスラーが来朝した時には、三島さんのお邸で私は「落葉の踊」と、「秋の調」を聴いて貰ったが、このレコードと関連して、今懐しく思い出されるのである。
 私にはレコードが命から二番目位大事なので、戦時中にも荷馬車に積んで疎開先をあちらこちらと持廻ったので、今でも多少残っているのは嬉しい。
 私は気分の勝れない時はモーツァルトの曲を聴くとすがすがしくなって来る。私はクラシックのものが好きであるが、また極く近代的のものも好きである。
 それにレコードを勉強に聴く時と、楽しみに聴く時と二様にわけている。私は忙しい仕事が一段落つくと、何かレコードが新しく買いたくなるので四谷の好音堂へ電話をかける。
 その店が戦災でとぎれていたが、終戦後しばらくして復活したので、またときどき求めているが、しかし、戦争以来レコードによっては針音がひどくてはっきりしないのや、また、途中で針が折れてしまうようなのにもあたることがある。しかし最近、新入荷というのは流石によい音がする。
 とにかく、私にはレコードが先生でもあるので、月謝を払うつもりでよい新譜が出ると毎月求めることにしている。





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底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「春の海」ダヴィッド社
   1956(昭和31)年8月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:

木下尚江  「政治の破産者・田中正造」若き人々に語る初出:「中央公論 昭和八年四月号」

2008-08-09 11:01:23 | 24 雑誌・本(受験関係)
政治の破産者・田中正造
木下尚江



   若き人々に語る

若き友よ。
「田中正造」――今日突然にこんな名を呼んでも、君には何事かわからない。すこし古い人ならばわかる筈だ。彼等は「鉱毒の田中」「直訴の田中」かうした記憶を朧ろげながら尚(な)ほ何処かに持つて居るだらう。この人の演説、真に獅子吼(ししく)の雄弁を必ず思ひ出すであらう。然し、僕が今この人の名を呼ぶのはこれ等古い人達の苔蒸した記憶を掻き起す為めでは無い。君のやうな、全く名をさへ知らぬ若い人達に、新たにこの人の生涯を聞いて欲しいためだ。

   足尾銅山鉱毒の惨害

矢張り「鉱毒の田中」から始める。
明治二十四年から三十四年に至るこの十年の間、この人は、衆議院の壇上で「足尾鉱毒事件」と云ふものを叫んだ。而(し)かも、遂に議会の理解を得ずに終つた。今日、君に向つてこの死んだ歴史を語る――然し、少しく形骸を言ふならば、君は直に詩眼を以て、その血肉を悟得して呉れることを、僕は信じて居る。
手近かな話だ。停車場で電車を待つ間、休憩室の壁に掛けてある交通地図に目をやつて呉れ。栃木の場面を見て呉れ。日光が直ぐ目につく。並んで足尾の山――此処(こゝ)が今日も名高い古河株式会社の足尾銅山だ。産業の名が赤い字で二つ書いてある「銅」と「亜砒酸」。この亜砒酸の三字に、君の神経は思はず戦慄するだらう。これは製煉所の毒烟から精製して、今ではかくも、古河の大産業となつて居る。鉱山からはこの他無数の害毒が出る。これが一つに溶解して渡良瀬川(わたらせがは)へ流れ落ちた。沿岸は上下両毛の沃野だ。昔時は洪水毎に山上の良土を持ち来つて、両岸の田地を自然に肥したものが、俄(にはか)に毒流を漲(みなぎ)らして死地に化す。――
足尾が古河市兵衛の手に渡つたのが、明治十年だ。彼は不撓不屈の精力で、専心この山の開鑿に従事した。その成績は左の数字の上に明白に現はれて居る。
       足尾の製銅表

明治十年        七七、〇〇〇斤
同 十一年       八一、〇〇〇
同 十二年      一五一、〇〇〇
同 十三年      一五四、〇〇〇
同 十四年      二九〇、〇〇〇
同 十五年      二二三、〇〇〇
同 十六年    一、〇八九、〇〇〇
同 十七年    三、八四九、〇〇〇
同 十八年    六、八八六、〇〇〇
同 十九年    六、〇五二、〇〇〇
同 二十年    五、〇二九、二五七
同 廿一年    六、三六八、五五八
同 廿二年    八、一四六、六六六
同 廿三年    九、七四六、一〇〇
同 廿四年   一二、七〇四、六三五

特に古河の事業を俄に刺戟したのは、明治二十一年、当時世界の市場を騒がせた仏国のシンヂケートと契約して、廿三年に至る三年間一万九千噸提供に応じたことで、これが為めに、足尾の山に始めて水力電気の設備が出来た。山上の繁昌は直に下流農村の破滅――看よ、その結果の尤も直接現はれた漁業家の惨状を。
       安蘇足利梁田三郡の漁業家

明治十四年      二、八〇〇戸
同 十七年      二、〇〇〇
同 二十年      一、〇〇〇
同二十一年        七〇〇

明治廿三年の秋の大洪水の結果、沿岸農民は始めて起つて運動に手を着けた。最も肥沃の土地が即ち最も惨害の土地だ。此年十二月、足利郡吾妻村と云ふが、臨時村会を開いて、始めて県知事へ一通の上申書を提出した。同時に、栃木県会も、「丹礬毒之儀に付建議」と云ふ決議書を決定した。
農民は更に土と水とを携へて、農商務省へ出頭し、分析のことを請願した。同省の地質所は、人民の依頼に応じて、研究して呉れる処なのだ。然るに、程経て意外にも左の如き曖昧な返事が来た。

 畑土並に流水の定量分析を出願致度旨にて、現品分量問合の趣(おもむき)領承。然るに右分析の義は、当所に於て依頼に応じ難く候間、右様承知有之度、此段及通知候也。

   明治廿四年四月廿二日
地質調査所
仕方が無いから、農科大学の古在教授へ依頼した。やがて教授から次の返事が来た。

 過日来御約束の被害土壌四種調査致候処、悉(こと/″\)く銅の化合物を含有致し、被害の原因全く銅の化合物にあるが如く候、別紙は分析の結果及被害圃の処理法に御座候、不具。(別紙略)

   六月一日
古在由直

   国会開設の前後

明治二十四年十二月十八日、代議士田中正造は、第二議会へ始めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出して、茲(こゝ)に足尾銅山鉱業停止の火蓋(ひぶた)を切つた。
田中正造の鉱毒事件史を進める前に、僕は、憲法或は議会に対するこの人達の信念に就て、一応君の理解を得て置く必要がある。今や立憲政治は一般嘲笑の具と化して居る。然れ共田中正造など云ふ人達は、立憲政治は自分等の汗と血とで建立したものだと云ふ篤(あつ)い自覚を持つて居た。従つて議員と云ふものの重大な責任を深く知つて居た。明治十三年、彼は群馬栃木両県民六百八十名の連署した国会開設の請願書を携へて、元老院へ出頭した。次の文章は当時の若い志士の手に成つたもので、今日の君等には如何(いか)にも幼児の戯(たはむ)れに見えようが、この稚気(ちき)の中に当年智者の単純な理想を汲み取つて読んで呉れ。

「伏て惟(おもんみ)るに、陛下恭倹の徳あり、加ふるに聡明叡智の才を以てす。夙に興き夜に寝ね、未だ曾て一月も懈(おこた)らず、天を敬し民を撫するの意、天下に孚(ふ)あり、而して其効験の未だ大に赫著せざるものは何ぞや。患、憲法を立て国会を開かざるに在る也、夫れ国会を開くは、上下の一致を謀るに在り。上下苟(いやしく)も一致せば、則ち其の患ふる所のものは忽にして消し、其害を為すものは忽にして除き昨日の憂患は乃ち今日の喜楽となり、昨年の窮乏は乃ち今日の富饒と為る也。是故に国会を開く、詢(まこと)に陛下の叡旨の在る所にして亦人民の切に企望する所也」

この翌年、「明治二十三年国会開設」の予約が成り、二十二年の二月十一日、愈々(いよ/\)憲法発布。田中は時の県会議長として、この前古未曾有の大典に参列した。この日は稀有な大雪であつた。この栃木の大野人が始めて燕尾服と云ふものを、宿屋の女中に着せて貰ひ、愈々宮中の式場へ出掛けると云ふ朝、郷里の政友へ書いた左の書翰を一読せよ。

「拝啓。幾多の志士仁人が十余年の辛酸遂に空しからず、今日紀元節の佳辰に当り、恐多くも 至上陛下には憲法発布の式を挙行し給ふ。御同慶至極に候。昨夜は余りの嬉しさに眠れ不申候。是より参列の栄に浴する都合に候。実は吾々県会議長は、拝観のことと決定せられ居りしも、種々交渉の上、遂に参列と云ふことに致させ申候。民軍の幸先上々吉にて、何卒御喜び被下度、右御報告申上候。何(いづ)れ帰郷の上、参館色々申上べく候へ共先づ本日の御祝迄。々頓首」

この文中「拝観」と「参列」とにつき一寸君の注意を求める。初め政府が定めて置いた式場の順序には、県会議長席は「拝観人」の中へ逐ひ込んであつた。この不都合を発見したのは、田中であつた。今日未だ議会が開かれざる間、人民の代表者と云へば県会議長の外に無い。我々こそ今日憲法発表式場の主体でなければならぬ。拝観とは何事ぞや――この議論を以て県会議長達を説き廻はり、一致団結して、政府へ迫つた。政府は驚いて、急に手筈を替へて参列席に改めた。
二十三年七月一日、日本の歴史に見たことの無い衆議院議員の選挙と云ふことが始めて行はれた。田中正造も郷里から推されて代議士になつた。五十歳。
其年十一月二十五日、帝国議会が始めて召集された。衆議院の中心問題は予算であつた。予算議定権の争議であつた。憲法第六十七条の解釈と云ふものが、政府と民党との接戦点であつた。政府は議会の権限を縮少しようとし、民党は議会の権能を伸張しようとする。自由党議員の分裂に依て、民党の主張は先づ敗北した。田中は民党中の最硬派改進党に属して居た。
二十四年十一月廿六日、第二議会の開院式は行はれた。今度は第一議会の失敗に懲り、自由改進両党の提携を固くし、猛烈に政府を突撃する計画で、議会解散の風説は早くも世に伝はつて居た。その上に、田中に取りては、この年始めて鉱毒問題を提げて特殊の戦闘を開かねばならぬ。この多端の折、十一月廿七日、父富造翁死去の電報が来た。二十九日附の田中の端書が残つて居るが、当時忙の状が如実に見える。

「父死去、昨日帰宅、本日埋葬、明日は帰京に付、右申上候」


   未来の時代を孕む鉱毒問題


田中代議士が始めて出した鉱毒問題の質問書
「大日本帝国憲法第廿七条には、日本臣民は其所有権を侵さるゝことなしとあり。又日本坑法第三項には、試掘若(もしく)は採掘の事業、公益に害ある時は、農商務大臣は既に与へたる許可を取消すことを得とあり――然るに栃木県下野(しもつけ)国上都賀郡足尾銅山より流出する渾(すべ)ての鉱害は、群馬栃木両県の間を通ずる渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害を被らしめ、田畑は勿論飲用水を害し、堤防草木に至るまで其害を蒙(かうむ)り、将来尚(なほ)如何なる惨状を呈するに至るやも測(はか)り知るべからず。数年政府の之を緩慢に付し去る理由如何(いかん)。既往の損害に対する救治の方法如何。将来の損害に於ける防遏(ばうあつ)の手段如何」

この十八日、衆議院の予算本会議では、民党査定案が一瀉千里の勢で通過し、二十二日には、今期の議会第一の問題たる海軍拡張の予算案が全部否決された。かく火花を散らして闘ふ政府と民党との衝突は、これ然しながら、藩閥政府打破の旧観念に属す。田中正造が投げた鉱毒問題には、金権政治の弾劾と云ふ未来の時代を孕(はら)んで居た。
十二月廿四日の予算会議、農商務省費目の議事に於て田中代議士は始めて農商務大臣陸奥宗光と顔を合はせた。君は外務大臣の陸奥の名を聞いて居るだらう。此時陸奥は農商務大臣であつた。気の毒なことには、陸奥の次男が古河の養子だ。

田中代議士の質問演説
『農商務省へは先日質問書を出して置きましたが、七日になりましても未だ御答弁が無い。今日此項の費目にかゝらぬ前に御答弁があるだらうと信じて居りましたが、何か御差支があるものと見えて御答弁がありませぬ。議院法には、直に答弁するか、出来なければ出来ない理由を明示すと云ふことがある。七日経て答弁が出来なければ出来ないと云ふことを、本費目に掛る前に、大臣御出席であるから、一応申されて然るべしと思ふ。出来なければ出来ないで宜しい』
陸奥農商務大臣の答弁
『唯今田中君の御質問がございましたが、その御質問の初めに予(かね)て質問書を出して居る、何故に返答が遅いかといふ御催促でありました。その返答は何時でもするつもりで、即ち今日も書類を持つて居る。昨日もこの通り議長に返答致しませうと思ひましたが、予算会議の為に大層議論が忙がしい様に思ひましたから、その間を得て答弁を致しませうと思ひました。或ひは明日でも答弁致しますこれは不審に向ての御答であります』

詭弁の雄者陸奥は避けて遂に答へなかつた。
廿六日、議会は解散された。陸奥が持つて居ながら、出すことを恐れた答弁書が、議会解散後の官報附録に左の如く載せてある。

一、群馬栃木両県下渡良瀬沿岸の耕地に被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず。
二、右被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中なり。
三、鉱業人は成し得べき予防を実施し、独米より粉鉱採聚器を購求して、一層鉱物の流出防止の準備をなせり。

   農相陸奥宗光を罵る

明治廿五年二月、臨時総選挙施行。これが有名な民党一掃の選挙干渉で世の非難に堪へずして、内務大臣品川弥二郎は、議会召集に先だちて辞職した。
五月二日に臨時議会召集。十一日、先づ貴族院で選挙干渉難詰の建議案通過。翌十二日、衆議院は選挙干渉上奏案の大論戦。上奏案は僅かの少数で敗れたが、越えて十四日決議案は多数で通過した。十六日、七日間議会停会の詔勅。政府は保安条例を施行した。殺気紛々。
その二十日、田中代議士は「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出した。前議会に於ける陸奥農相の答弁書には、第二項に於て、「被害の原因に就ては、目下各専門家の試験調査中」と逃げて居たが、この時、医科大学の丹波教授、農科の古在、長岡両教授等の分析調査の結果、渡良瀬沿岸被害の原因は、足尾銅山に在りと云うたが、既に近く世間に発表されて居たから、政府の答弁も勢ひ一歩を進めなければならなかつた。乃ち六月十一日、左の答弁書を送つて来た。

一、足尾の鉱毒が渡良瀬河岸被害の一原因たることは、試験の結果に依りて之を認めたりと雖(いへど)も、此被害たる、公共の安寧を危殆(きたい)ならしむる如き性質を有せず。其損害の程度は鉱業を停止するに至らず。
二、既往の損害は、行政官たるもの、何等の処分をなすべき職権なし。
三、将来予防の為め、鉱業人は粉鉱採聚器設置の準備中なり。
四、鉱業人は、上野(かうづけ)国待矢場両堰水利土切会と契約し、自費を以て両堰水門内に沈澱場を設け、時々之を浚渫(しゆんせつ)すべき準備中なり。
この答弁書を見よ、これは政府と云ふ者の態度でなく、全く鉱業者の代理人だ。田中は直に再度の質問書を提出し、その十四日、議会最終日の演壇で次のやうに罵(のゝし)つた。

『法律があつて法律を実行することが出来ない。法律があり条例があつて、政府がこれを実行しない。――諸君の最も恐るゝ外国条例、条約改正問題中の居留地と云ふものを、尤も恐れるのは何であるか。我帝国に法律あれども、法律が行はれないからである。然るに群馬栃木の中に、この新奇なる古河市兵衛の輩が跋扈(ばつこ)して、新たに居留地を拵(こしら)へ、法律あれども法律を行ふことが出来ない。人民如何に困憊(こんぱい)に陥るとも、農商務大臣の目には少しも見えない。偶々(たま/\)愚論を吐いて曰く、古河市兵衛の営業と云ふものは国家の有益であると。――大きにお世話だ。此方は租税を負担して居ります。古河より先きに住んで租税の負担をして居る人民が今日其土地に居ることが出来ない、祖先来の田畑を耕すことがならず、祖先来の田畑が実(みの)らなくなつたと云ふ事実と比較が出来るものでない。憲法があり法律がある今日、それを執行することが出来ないならば、農商務大臣はその責任を尽さないのである。その責(せめ)を尽すことの出来ないものは速にその職を辞さなければならぬ』

田中が、議会の演壇で真つ赤になつて、農商務大臣の責任を論じて居る時、政府は裏から手を伸ばして、被害地人民の口に封印を押して居た。地方官吏が権力を以て示談の契約書に調印をさせて居たのだ。見本を一枚見せよう。
       契約書

下野国上都賀郡足尾に於て、古河市兵衛所営の銅山より流出する粉鉱に就き、渡良瀬川沿岸町村に加害有之に付、今般仲裁人立入、其扱に任し、梁田郡久野村人民より正当なる手続を尽し委任を付托せられたる総代其外十二名と、古河市兵衛との間に熟議契約をなす左の如し。

第一条 古河市兵衛は粉鉱の流出を防がんが為め、明治二十六年六月三十日を期し、精巧なる粉鉱採聚器を足尾銅山工場に設置する事。
第二条 古河市兵衛に於ては、仲裁人の取扱に任せ、徳義上示談金として左の如く支出するものとす。

   時の農相榎本武揚

田中の鉱毒の声は、久しく議会に絶えた。一つには議会の解散が頻繁であつたが為め、一つには日清戦争でこの内争の問題を差控へたるが為め。二十九年、渡良瀬の大洪水――三十年二月廿六日、田中は久振りで長広舌を振つた。
この時政府は松方内閣で、大隈重信が外務大臣となり、田中の属する進歩党は政府党であつた。田中の質問に対して、政府は無言で過ぎた。三月十七日彼は催促の演説をした。翌十八日、政府は左の答弁書を議会へ出した。君よこの答弁書は大に注意を要す。
       政府の答弁書

一、栃木県上都賀郡足尾鉱山鉱毒事件は、明治廿三年以来数回の調査に依り、渡良瀬川沿岸地に鉱毒含有の結果を得たり。而して明治廿五年に至り、鉱業者は仲裁人の扱に任じ、正当なる委任を附託せられたる沿岸町村被害人民総代との間に熟議契約をなし、其正条に基き被害者に対して徳義上示談金を支出し、且つ明治廿六年七月より同廿九年六月三十日までを以て、粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、其期間は、契約人民に於て何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、其他行政司法の処分を請ふが如き事は一切為さざる事を鉱業人と契約し、其局を結びたり。
一、尚ほ鉱毒等より生じたる町村共有地の損害は、第一に記載したる契約第五条に依り、更に明治廿六年七月より起算し、猶将来に付、臨機の協議を遂げ別段の約定を為すか、若くは民法上自ら救済の途あるあれば、之に依るの外無かるべし。
こゝに政府は始めて「無責任無関係」を公言した。
この報一たび伝はるや、鉱毒地一帯が忽ち殺気立つた。大挙上京の用意に取りかゝつた。
時の農商務大臣は旧幕人の榎本武揚(えのもとたけあき)であつた。同じ旧幕の人の津田仙と云ふ老農学者は、既に長く田中の応援者であつたが、今やこの厚顔無恥の政府の答弁書が、親友榎本の名で発表されたのを残念に思ひ、二十三日、自ら榎本を伴うて鉱毒地の視察に行つた。鉱毒地の農民等は、農商務大臣の視察と聞いて、多大の希望を描いて八方から集まつた。
荒涼悲惨――何たる情景ぞ。むかし孤軍五稜廓に立籠つて官軍を悩ました釜次郎の血液未だ涸(か)れざる榎本は、たゞ憮然(ぶぜん)として深き感慨に沈んだ。無言さながら石像の如き態度に、彼を取り囲んだ被害民は、悲憤の余り、悪言毒語、その無情冷酷を罵つた。
その夜汽車が上野へ着くと、榎本は停車場から馬車を直ちに大隈邸へ向けた。
二十四日、議会の最終日で、大隈外相の演説があり、極めて多忙である中を、田中は無理やり演壇に立つて、鉱業停止を叫んだ。彼はその長演説の最後に於て言を更(あらた)めて議会へ訴へた。

『諸君にお願ひ申して置きます。成るべく鉱毒地を御覧になつて戴きたい。被害地は東京から二十里そこらしか無い。政府から誰が往つて見た。誰が往つて見た。見ないで居てからに、卓子の上で勝手な人間の報告ぐらゐ聴いて置いてどうするのでございませうか。――
未だ議論は結了しませぬけれども、これで止めます。如何にも憤慨に堪へませぬ、十万以上の人間が毒殺される――(議席に笑ふものあり)諸君の中にはお笑ひなさる御方もございますが、どうも私の力ではこの真状を写し出することが出来ませぬ。御笑になる御方があるから、尚(な)ほ一歩進んで言はなければならぬ事が出来て来ました。農商務大臣の向島の別荘で菜が一本出来なくなつたら、諸君どうする。忽ち自分の頭に感ずるのである。失礼ながら早稲田の大隈さんのあの綺麗な庭が、草もなく花もないとなつたら、諸君どうであるか。自分の身の上に来ればわかるけれども、身の上に来ない中は頭に懸けない。この上尚ほ彼此(かれこれ)面倒な事を申して居りますならば、鉱毒の水を汲んで来て、農商務大臣に飲んで貰ひませう。早い話である。なか/\これくらゐの話で実際の有様を写し出すことが出来るものでございませぬ。どうぞ諸君、御情がありますならば、一日で行つて帰られます。日帰りでも見られます。丁寧に見るには十五日もかゝるが、一個所ぐらゐ見るには、一日で往つて見られますから、どうぞ諸君、此の被害地の模様が、私が嘘をつくのであるか、山掛けなことを申すのであるか御一見下されば相分ることでございます。今の政府は、到底親切なやり方をする政府で無いと認め、この答弁書の有様を見て、残酷なる愚かなる、何とも名の付けやうの無い政府であると断念致しましてございますから、政府を頼まぬ決心でございます。宜しく諸君、この被害地を御一見下さる事を御願ひ申します。是非これを御願ひ申します』



   
(昭和八年四月)





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底本:「現代日本文學大系 9 徳冨蘆花・木下尚江集」筑摩書房
   1971(昭和46)年10月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版13刷発行
初出:「中央公論 昭和八年四月号」
   1933(昭和8)年4月
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:

長崎の鐘

2008-08-09 10:47:20 | 24 雑誌・本(受験関係)
ポータルサイト 検索(情報)の達人 IT事典(書物・人物・他:文学作品)
高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村




長崎の鐘



長崎の鐘(ながさきのかね)は永井隆の著書。本稿で記述する。長崎市への原子爆弾投下などを主題としている
1.を基にした藤山一郎、池真理子の歌謡曲。作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而。本項で詳述する。
1.を基にした藤原義江の歌謡曲。作詞・作曲植本一雄。本項で詳述する。
1.を基にした映画。本項で詳述する。
1.から浦上天主堂の鐘の音のことを指す。本項で詳述する
長崎市の平和公園に設けられた鐘のモニュメント。本項で詳述する。



目次 [非表示]
1 概要
1.1 随筆
1.2 歌謡曲
1.3 映画
1.4 浦上天主堂の鐘
1.5 平和公園のモニュメント
2 その他関連事項
3 参考資料
4 関連項目
5 外部リンク



[編集] 概要
長崎の鐘は永井隆が執筆した随筆。1949年1月に出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした歌謡曲はヒット。さらに松竹により映画化され、版を重ねることになった。


[編集] 随筆
作品は、1946年8月には書き上げられていたが、GHQの検閲によりすぐには出版の許可が下りず、GHQによる記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社から出版された。


[編集] 歌謡曲
藤山一郎、池真理子の歌謡曲。作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而。1949年6月に発売された。その後、1983年ごろに藤山の作詞・作曲によるサビ部分が付け足された。

また、本作品発売の2ヶ月後、永井一家と交流のあった植本一雄の作詞・作曲による藤原義江の歌謡曲が同タイトルで発表されている。


[編集] 映画
製作: 松竹大船
封切日: 1950年9月23日
監督: 大庭秀雄
脚本: 新藤兼人/光畑硯郎/橋田壽賀子
音楽: 古関裕而
出演者: 若原雅夫、月丘夢路、津島恵子、滝沢修、三井弘次

占領下の日本において、GHQによる検閲の為、原爆及び被爆状況等について真正面から取り上げる事が出来ず、永井隆博士の生涯を描いた作品という形で製作された。尚、戦後、日本人によって原爆を取り扱った劇映画第一号である。

[編集] 浦上天主堂の鐘
詳しくは浦上教会#天主堂の鐘楼を参照。

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

[編集] 平和公園のモニュメント
1977年(被爆から33回忌にあたる)につくられた、軍需工場で働いていた人々の慰霊のためのモニュメントである。

被爆地となった浦上には当時いくつもの軍需工場があり、そこで働いていた学生など多くの人々が原爆によって亡くなった。


[編集] その他関連事項
吉村達也『長崎の鐘殺人事件』徳間書店、1997年。ISBN 978-4198503642

[編集] 参考資料
永井隆『長崎の鐘』サンパウロ(アルバ文庫)。ISBN 978-4805664056

[編集] 関連項目
日本における検閲

[編集] 外部リンク
長崎平和公園 願いのゾーン



この「長崎の鐘」は、書籍に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。
なお文学作品は文学スタブを、漫画は漫画スタブをご参照下さい。

この「長崎の鐘」は、映画に関連した書きかけ項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。

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カテゴリ: 書きかけの節のある項目 | 書籍に関するスタブ | 映画関連のスタブ項目 | 楽曲スタブ | 長崎市 | 長崎原爆 | 長崎原爆を扱った作品 | 日本の随筆作品 | 日本の映画作品 | NHK紅白歌合戦歌唱楽曲 | 古関裕而の楽曲



最終更新 2008年6月13日 (金) 03:00。 Wikipedia®


【日本史B用語集:①~⑩】

2008-08-09 10:42:47 | 2 IT用語集
【日本史B用語集:①~⑩】 の検索結果 約 7万4900 件

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若山牧水  「樹木とその葉 故郷の正月」

2008-08-09 09:53:02 | 17 ◎調べもの文芸文庫
樹木とその葉
故郷の正月
若山牧水



 私は日向(ひうが)國耳川(川口は神武天皇御東征の砌(みぎり)其處から初めて船を出されたといふ美々津港になつてゐます)の上流にあたる長細い峽谷の村に生れました。村の人は多く材木とか椎茸とか木炭とかいふ山の産物で生活してゐるのです。
 ですから、正月といつても淋しいものでした。今でもまださうではないかと思ひますが、村には新の正月と舊の正月とがありました。新の正月はたゞ學校でやる位ゐのことでしたが、その新年式の式場に飾るために野生の梅の花を學校の裏にある谷間にとりに行つたことを私はよく覺えてゐます。何でも二度ほど取りに行つたと思ひます。先生に連れられて、鉈(なた)を持つて、四五人の者が狹い谷間のあちらこちらに咲いてゐる眞白な花を探して歩いた記憶が不思議にはつきりと殘つてゐます。子供心にもさうした谷間に春の來るといふことがよく/\嬉しかつたのでせう。それにその頃既に梅が咲くといふ樣な季候違ひの事實もその印象を深めてゐるに違ひありません。山の中と云つても海岸から五六里しか離れてゐず、年中雪を見ることのない程暖かな土地でした。
 私の父は醫者で、その頃村で新人でした。で、門松をば必ず新の正月に立てました。この松の切出しには必ずまた父と私が出かけました。背戸から出て小さな岡を越えると其處に一つの谷が流れて兩岸にやゝ平な野原があり、其處に松ばかり茂つてゐる一箇所がありました。父の好みはなか/\にむつかしく、容易にこの木がいゝとは言ひません。あとではいつも私と喧嘩をしました。さうして辛うじて伐り倒した松があまりに大きくて我等の手に合はず、いろ/\の目標をしておいてあとで下男をとりによこしたりしました。この松伐りも今ではなつかしい思ひ出です。それに父はなか/\のきまり家で、多少にせよ新の正月にも餅をつかせましたので、舊の正月の時と二度餅の喰べらるゝのも幼い私の自慢であり喜びでありました。
 新の元旦には母など一向に父を相手にしませんので、父は私を相手に『元日』の屠蘇を祝ひました。他の者が平常着(ふだんぎ)なのに父と私とだけ(私は男の子としては一人子なのです。父の四十二の時の誕生だと云ひますから齡もたいへん違つてゐたのです)が紋附を着て、廣い座敷に向ひ合つて坐るのがいかにも變でした。
 舊の正月はそれでも家中たいへんです。それに村ではすべての勘定事が盆と節季の二度勘定にきまつてゐますので、半年分の藥代を村の者がみな大晦日に持つて來るのです。來た者には必ず酒を出す習慣で、どうかすると二三十人も落合つて飮み出すといふ騷ぎになり、父も母も私たちまでもその夜は大陽氣でした。
 舊正月は村全體の正月であるが、これとてたゞ業を休んで酒を飮む、禮をするといふだけで別に變つた事もありませんでした。我等子供たちの遊戲ですが、晴れゝばそとへ出て『根つ木』といふ遊びをした。生木の堅いのを一尺か二尺に切り、先を尖らせて地へ互ひに打ち込んで相手の木を倒して取るのです。降るか或は寒い日は家の中で『針打ち』をしました。半紙をめいめい一枚づつ出し合つて疊の上に積み重ね、一本の縫針に二三寸の絲を附け、針のさきを唇にくはへ、絲を烈しく引いて疊の上の紙にその針をつき立てる樣に打ちおろします。さうして徐ろに絲を引いて針の先に引き留められて來たゞけの紙を自分の所得とするこれも賭事あそびです。凧をも揚げるには揚げましたが、何しろ平地の少ない溪間の事ゆゑ、大勢して揚げるなどといふわけにはゆきませんでした。
 いつの正月であつたか、珍しく雪の降つた事がありました。私の七八歳の頃だつたでせう。我等子供はうろたへて戸外へ出て各自に大きく口を開けながらちら/\と落ちて來るその雪を飮み込まうとしたものです。そんなに雪は嬉しい珍しいものでした。附近一の高山、尾鈴山といふのの八合目ころから上にほのかに雪の積ることがありました。大抵は夜間に積むのですが、すると父は大騷ぎをして私を呼び起しました。
『繁、起けんか/\、尾鈴山に雪が降つたど、早う起けんと消えつしまうど!』
 と言ひながら。
 その父が亡くなつてから十年たちました。頑健な母はまだ強情を張りながら、古びた家に唯一人殘つてをり、私が學問をするために尋常科しかなかつたその村を出てから今年で丁度二十八年たつわけになります。





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底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
   1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年6月14日公開
2005年11月16日修正
青空文庫作成ファイル:

【宮崎県出身の人物一覧】 東国原英夫(宮崎県知事~現在・元タレントそのまんま東

2008-08-09 09:49:28 | 2 IT用語集
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宮崎県出身の人物一覧

宮崎県出身の人物一覧(みやざきけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、宮崎県出身の人物の一覧表である。

目次 [非表示]
1 公人
1.1 政治家
1.1.1 国会議員(現職)
1.1.2 国会議員(元・前)
1.1.3 宮崎県議会議員
1.1.3.1 現職
1.1.3.2 元職
1.1.4 知事
1.1.5 市町村長
1.2 軍人
1.3 官僚
2 文化人
2.1 画家
2.2 写真家
2.3 作家
2.4 脚本家・放送作家
2.5 漫画家
2.6 映画監督
2.7 俳人・詩人・歌人
2.8 作詞家・作曲家
2.9 学者
2.9.1 歴史学者
2.9.2 その他の学者
2.10 アナウンサー・キャスター
2.10.1 宮崎県内の放送局
2.10.2 その他
3 芸能人
3.1 シンガーソングライター
3.2 ミュージシャン
3.3 グループ・デュオ
3.4 歌手
3.5 アイドル
3.6 モデル
3.7 俳優
3.8 落語家
3.9 DJ
3.10 タレント
3.10.1 男性
3.10.2 女性
3.11 声優
4 スポーツ選手
4.1 力士
4.2 柔道
4.3 サッカー
4.4 ボクシング
4.5 キックボクシング
4.6 プロレスラー
4.7 野球
4.8 水泳
4.9 陸上
4.10 ゴルフ
4.11 体操
4.12 競馬
4.13 剣道
4.14 バレーボール
4.15 バスケットボール
4.16 その他のスポーツ選手
5 その他
5.1 実業家
5.2 宗教家
5.3 性風俗関係者
5.4 その他の人物
5.5 架空の人物
5.6 宮崎県にゆかりのある他の都府県出身の人物
5.6.1 現在も宮崎県で活躍している人物
5.6.2 かつて宮崎県で活躍していた人物
5.7 親類が宮崎出身の人物
5.8 宮崎県にゆかりのある海外出身の人物



[編集] 公人

[編集] 政治家

[編集] 国会議員(現職)
中山成彬 (衆議院議員、前文部科学大臣):小林市
江藤拓 (衆議院議員):門川町
古川禎久 (衆議院議員):串間市
外山斎 (参議院議員):日南市
松下新平 (参議院議員):宮崎市
福島瑞穂(参議院議員、社会民主党党首):延岡市

[編集] 国会議員(元・前)
小斉平敏文 (前参議院議員):小林市
上杉光弘 (元参議院議員、元自治大臣)
江藤隆美(元衆議院議員、建設大臣・運輸大臣・総務庁長官を歴任)
大原一三 (元衆議院議員、元農林水産大臣)
児玉末男 (元衆議院議員)
小山長規 (元衆議院議員、自治大臣・建設大臣・環境庁長官を歴任)
坂元親男(元衆議院議員、元参議院議員、元北海道開発庁長官・沖縄開発庁長官)
瀬戸山三男 (元衆議院議員、建設大臣・文部大臣・法務大臣を歴任)
長峯基 (元参議院議員)
二見甚郷 (元衆議院議員、元参議院議員、元宮崎県知事、元宮崎市長)
堀之内久男 (元衆議院議員、農林水産大臣・郵政大臣を歴任)
松浦利尚 (元衆議院議員)
持永和見 (元衆議院議員)
米沢隆 (元衆議院議員、民社党委員長、新進党幹事長、新進党副党首)

[編集] 宮崎県議会議員

[編集] 現職
坂口博美
坂元裕一
米良政美
満行潤一
黒木正一
浜砂守
松田勝則
西村賢
図師博規
武井俊輔
蓬原正三

[編集] 元職
黒木健司
永友一美
堀之内砂男
川添睦身




[編集] 知事
田中長茂(2代宮崎県知事 1951.5~1955.3):串間市
二見甚郷(3代宮崎県知事 1955.4~1959.4):宮崎市
黒木博 (4代~9代宮崎県知事 1959.4~1979.6):宮崎市
松形祐堯(10代~15代宮崎県知事 1979.8~2003.8):えびの市
安藤忠恕(16代宮崎県知事 2003.8~2006.12):西都市
東国原英夫(17代宮崎県知事 2007.1~現在・元タレントで芸名はそのまんま東であった(知事選挙でも使用していた)):都城市
柴田等(元千葉県知事 1950~1962)

[編集] 市町村長
中馬馨(元大阪市長):西都市
津村重光(現宮崎市長):宮崎市
長峯誠(現都城市長):都城市
岩橋辰也(前都城市長):都城市
首藤正治(現延岡市長):延岡市
櫻井哲雄(前延岡市長):川南町
黒木健二(現日向市長)
山本孫春(前日向市長)
谷口義幸(現日南市長)
堀泰一郎(現小林市長)
橋田和実(現西都市長)
鈴木重格(現串間市長)
宮崎道公(現えびの市長)
鐙和俊(現清武町長)
一ノ良尚(前清武町長)
桑畑和男(現三股町長)
小澤浩一(現高鍋町長)
河野利美(現国富町長)
曽川泉(現門川町長)
米良成志(前門川町長)
金丸親治(元門川町長)
金丸次蔵(元門川町長)
土屋良文(現新富町長)
内野宮正英(現川南町長)
内倉信吾(現高千穂町長)
黒木睦郎(前高千穂町長)
河野通継(現都農町長)
阪元勝久(現南郷町長)
日高光浩(現高原町長)
長瀬道大(現野尻町長)
漆野正治(元野尻町長)
犬童国信(元野尻町長)
前田穣(現綾町長)
郷田實(元綾町長)
林田敦(現美郷町長、元西郷村長)
田口晃史(現木城町長)
津隈一成(現日之影町長)
工藤訓(前日之影町長)
梅戸松恵(元日之影町長)
倉岡清美(現北郷町長)
飯干辰己(現五ヶ瀬町長)
染矢俊一(元北川町長)
盛武義美(元北川町長)
椎葉晃充(現椎葉村長)
成崎孝孜(現諸塚村長)
黒木定蔵(現西米良村長)
上原公子(前東京都国立市長・東京都初の女性市長):宮崎市

[編集] 軍人
上原勇作(旧日本陸軍大将・元帥、陸軍大臣 ):都城市
財部彪(旧日本海軍大将、海軍大臣 ):都城市
小沢治三郎(旧日本海軍中将、連合艦隊司令長官 ):高鍋町
萱嶋高(旧日本陸軍中将、第6師団長、宮崎市長):高鍋町

[編集] 官僚
井ノ上正盛(元・三等書記官で、イラクで殉職した後、一等書記官となる。): 都城市
小村壽太郎(明治時代の外務官僚 外務大臣・ポーツマス会議日本全権としてポーツマス条約を調印。関税自主権回復にも貢献):日南市
藤井真透(元内務省土木試験所(土木研究所の前身)所長 藤井治芳の父):都城市
藤井治芳(元建設事務次官・元日本道路公団総裁):都城市(出生地は東京)
三好退蔵(元大審院長・初代検事総長・元司法次官):高鍋町
森永貞一郎(元大蔵事務次官・第27代日本銀行総裁):小林市
黒木武弘(元厚生事務次官):高鍋町
持永堯民(元自治事務次官):都城市
垂水公正(元アジア開発銀行総裁、元大蔵省関税局長):綾町
川村秀三郎(元林野庁長官):綾町
矢野朝水(元厚生省年金局長、企業年金連合会専務理事)

[編集] 文化人

[編集] 画家
瑛九:宮崎市
オーライタロー(父はイラストレーター生頼範義)
落合らん子(北方町)
興梠義孝(五ヶ瀬町)
弥勒祐徳(西都市)

[編集] 写真家
長友健二

[編集] 作家
中村地平:宮崎市
やまさき十三:都城市
高山文彦:高千穂町
黒木淳吉:西都市
谷克二:延岡市
菊池重三郎:北方町

[編集] 脚本家・放送作家
江夏由結

[編集] 漫画家
吉富昭仁
赤星たみこ:日之影町
森繁拓真
東村アキコ
大暮維人:日向市
山岡英樹
三浦浩子:日向市

[編集] 映画監督
黒木和雄:えびの市(旧:えびの町)

[編集] 俳人・詩人・歌人
伊藤一彦(歌人):宮崎市
若山牧水(歌人):日向市(旧東郷町(誕生時は、東郷村))
小野葉桜(歌人):美郷町(旧西郷村)
銀色夏生(詩人):えびの市
高森文夫(詩人):日向市(旧東郷町)

[編集] 作詞家・作曲家
中山大三郎:都城市(旧高崎町)

[編集] 学者

[編集] 歴史学者
日高次吉(歴史学者)
石川恒太郎(歴史学者):日向市
三尾良次郎(歴史学者):日向市
安田尚義(歴史学者):高鍋町
日高正晴(考古学者)
坂上康俊(歴史学者)
長津宗重(歴史学者)
福島金治(歴史学者)
大賀郁夫(歴史学者)
馬原鉄男(歴史学者・問題研究家)

[編集] その他の学者
高木兼寛(海軍軍医、ビタミンの父、東京慈恵会医科大学病院創立者):宮崎市(旧高岡町(誕生時は、穆佐(むかさ)村)
濱田隆士(古生物学者):延岡市
安井息軒(幕末の儒学者):清武町
野海正俊 数学者、神戸大学大学院教授:都城市
大石眞 憲法学者、京都大学大学院教授,放送大学教授
寺前紀夫 化学者、東北大学大学院教授

[編集] アナウンサー・キャスター

[編集] 宮崎県内の放送局
MRT宮崎放送
河野大輔:延岡市(旧北浦町)
田代剛(元四国放送):宮崎市
松尾恵子(契約キャスター):宮崎市
下登彩(元三重テレビ):宮崎市
UMKテレビ宮崎
榎木田朱美:日南市
首藤真吾:都城市
高橋巨典:延岡市
横山美和:宮崎市
赤間瞳:宮崎市

[編集] その他
伊賀透浩(テレビ長崎アナウンサー・元テレビ山口):宮崎市(旧田野町)
榎木田智子(FM宮崎アナウンサー)
太田祐輔(南日本放送→九州朝日放送):宮崎市(旧佐土原町)
岡元昇(朝日放送):都城市
樫元照幸(TBS報道局社会部記者):宮崎市
片平夏貴(フリーアナウンサー):宮崎市
片山三喜子(関西テレビ元アナウンサー・現広報部副部長):宮崎市
清藤大輔(宮崎放送報道部記者):宮崎市
古賀久美子(広島ホームテレビ→東京MXテレビ):宮崎市
竹井由美(フリーアナウンサー・元山陽放送):日南市
田中美穂(元南日本放送、現:圭三プロダクション所属):宮崎市
集祐子(エス・オー・プロモーション所属):宮崎市
二宮朋子(放送大学学園、元テレビ宮崎アナウンサー):宮崎市
花田景子(旧姓「河野」、元フジテレビ):宮崎市
東治男(元宮崎放送):高原町
松尾由美子(テレビ朝日):宮崎市
宮崎宣子(日テレ):宮崎市
横山雄二(中国放送):宮崎市
吉村洋子(元中部日本放送):えびの市
宮里伸哉(新潟テレビ21):宮崎市
中西可奈(鹿児島放送)

[編集] 芸能人

[編集] シンガーソングライター
大城光恵:宮崎市
下田逸郎
鬼束ちひろ:南郷町
今井美樹:高鍋町
馬渡松子:都城市
鈴里真帆:国富町
久嶋美さち:日南市
秦基博:日南市(「小2の夏まで住んでいた」と本人が発言した。)
CHERRYLYDER

[編集] ミュージシャン
大森隆志(元サザンオールスターズ・ギタリスト):宮崎市
松田弘(サザンオールスターズ・ドラマー):宮崎市
永井利光(GLAY、氷室京介サポート・ドラマー):都城市
川添智久(LINDBERG):宮崎市
小渕健太郎(コブクロ・ボーカル):宮崎市
永友聖也(キャプテンストライダム)
谷道夫(「デュークエイセス」リーダー):宮崎市
NOISY(元SEX MACHINEGUNS、現DUSTAR-3):延岡市
HAKUEI(PENICILLIN):串間市
甲斐冴子(ミュージシャン・元SO-Fi):延岡市
西村晋弥(シュノーケル (バンド)):新富町
為山五朗(ギタリスト)
長友誠 (JABBERLOOP・トランペッター):高千穂町
吉岡秀晃 (ジャズピアニスト):延岡市
外山明 (ジャズドラマー):生まれは横浜
大萩康司 (ギタリスト):小林市
赤塚ヤスシ (DOES)
高橋佳奈(GANASIA2代目ボーカル)

[編集] グループ・デュオ
0930(解散):西都市
ドリーミング:宮崎市

[編集] 歌手
秋野こぎく:宮崎市
今井美樹:高鍋町
克美茂:宮崎市
小坂恭子:日南市
 


[編集] アイドル
サエコ:宮崎市
浅香唯:宮崎市
あかぎあい:宮崎市
天野里咲
三宅梢子:宮崎市
SHIHO
城戸愛莉:宮崎市
通山愛里:宮崎市
大谷雅恵(メロン記念日、育ちは北海道室蘭市)
青島あきな:都城市

[編集] モデル
蛯原友里:宮崎市(旧佐土原町)
今宿麻美

[編集] 俳優
松田章:
岡元次郎:
押川善文:
桐島優介:都城市
斉藤慶子:小林市
堺雅人:宮崎市
坂元健児:
長尾奈奈
永瀬正敏:都城市
温水洋一:都城市
緑魔子:高鍋町
若松俊秀:都城市
山田キヌヲ:宮崎市
松崎悠希:宮崎市
串間保
蕨野友也
井料瑠美:小林市

[編集] 落語家
桂歌春:日向市

[編集] DJ
DJ PMX (DS455) :宮崎市
DJ POCKY(坂元誠一):日南市

[編集] タレント

[編集] 男性
とろサーモン:宮崎市
Dice
やす(ずん):児湯郡
スーパーアイドル日野誠:宮崎市
キスキスバンバン:南那珂郡

[編集] 女性
有川幸(南日本放送ラジオパーソナリティー)

[編集] 声優
池崎リョウ(育ちは神奈川県)
池田知聡
咲野俊介
中村ひろみ

[編集] スポーツ選手

[編集] 力士
羽黒岩盟海(現雷親方):延岡市
金城興福(故人):高鍋町
琴柏谷充隆:延岡市

[編集] 柔道
井上康生:宮崎市
大迫明伸:野尻町

[編集] サッカー
伊野波雅彦(鹿島アントラーズ):宮崎市
入船和真(徳島ヴォルティス):宮崎市
釘崎康臣(アビスパ福岡):宮崎市
久木野聡(川崎フロンターレ):宮崎市
興梠慎三(鹿島アントラーズ):宮崎市
戸田光洋(清水エスパルス):都城市
中山悟志(ロアッソ熊本):宮崎市
増田誓志(鹿島アントラーズ):宮崎市

[編集] ボクシング
戸高秀樹:宮崎市

[編集] キックボクシング
榎田洸之:宮崎市

[編集] プロレスラー
ザ・グレート・カブキ:延岡市

[編集] 野球
青木宣親(東京ヤクルトスワローズ):日向市
池田親興(元阪神タイガース・福岡ダイエーホークス・ヤクルトスワローズ、現テレビ西日本解説者):宮崎市
井手正太郎(福岡ソフトバンクホークス):野尻町
井上祐二(元南海ホークス・福岡ダイエーホークス・広島東洋カープ・千葉ロッテマリーンズ、現千葉ロッテマリーンズコーチ):都城市
入来智(元近鉄バファローズ・広島東洋カープ・読売ジャイアンツ・ヤクルトスワローズ):都城市
入来祐作(横浜ベイスターズ):都城市
甲斐雅人(広島東洋カープ):宮崎市
川崎雄介(千葉ロッテマリーンズ):宮崎市
木村拓也(読売ジャイアンツ):宮崎市
草野大輔(東北楽天ゴールデンイーグルス):延岡市
黒木純司(元日本ハムファイターズ・千葉ロッテマリーンズ):延岡市
黒木知宏(元千葉ロッテマリーンズ):日向市
下園辰哉(横浜ベイスターズ):宮崎市(旧佐土原町)
武上四郎(元ヤクルトスワローズ):宮崎市
田中幸雄(元北海道日本ハムファイターズ):都城市
堤内健(元横浜ベイスターズ):宮崎市
寺原隼人(横浜ベイスターズ):宮崎市
西村徳文(元ロッテオリオンズ・千葉ロッテマリーンズ、現千葉ロッテマリーンズコーチ):串間市
福盛和男(テキサス・レンジャーズ、元東北楽天ゴールデンイーグルス):都城市(旧高崎町)
福良淳一(元阪急ブレーブス・オリックス・ブルーウェーブ、現北海道日本ハムファイターズコーチ):延岡市(旧北浦町)
藤崎紘範(元大阪近鉄バファローズ・東北楽天ゴールデンイーグルス):門川町
水谷実雄(元広島東洋カープ・阪急ブレーブス):串間市

[編集] 水泳
松田丈志
林享
高田康雄

[編集] 陸上
谷口浩美(マラソン):南郷町
廣島日出国(マラソン):美郷町(旧北郷村)
村社講平(長距離走):宮崎市

[編集] ゴルフ
大山志保:宮崎市
川崎充津子

[編集] 体操
坂佳代子(元宮崎県副知事)

[編集] 競馬
池江泰郎(元騎手、JRA調教師)
音無秀孝(元騎手、JRA調教師)
小原伊佐美(元騎手、JRA調教師)
橋口弘次郎(元騎手、JRA調教師)
中田征男(JRA厩務員)
野元昭(JRA調教師)

[編集] 剣道
吉本政美

[編集] バレーボール
南克幸:延岡市
南裕之:延岡市

[編集] バスケットボール
北郷謙二郎(オーエスジーフェニックス東三河)
清水太志郎(埼玉ブロンコス)
瀬戸山京介(アイシンシーホース)

[編集] その他のスポーツ選手
水間詠子(ボディビルダー)

[編集] その他

[編集] 実業家
岩切章太郎(宮崎交通創始者・初代社長):宮崎市
清武英利(読売巨人軍取締役球団代表):宮崎市
黒木正憲(東京出版創業者):西都市
黒木靖夫(元ソニー取締役):西都市
日高裕介(サイバーエージェント専務取締役):宮崎市
渡辺綱纜(元宮交シティ社長、エッセイスト)
鈴木馬左也(第3代住友総理事):高鍋町
塩見修(宮崎交通現社長):宮崎市
山田昇(ヤマダ電機社長):宮崎市(旧佐土原町)

[編集] 宗教家
後藤俊彦(高千穂神社宮司)
佐伯恵達(長昌寺住職)
野田泉光院(幕末の修験僧、「修行日記」で有名)

[編集] 性風俗関係者
森下理音

[編集] その他の人物
米良美一(声楽家):西都市
後藤勇吉(日本初の民間パイロット):延岡市
平部嶠南(幕末・明治期の政治家)
石井十次(児童福祉の先駆者):高鍋町
宮沢厚(アニマルトレーナー)
菊村憂(元日本赤軍メンバー)
式守伊之助 (37代)(大相撲の立行司):延岡市

[編集] 架空の人物
浜崎伝助(漫画・映画・アニメ釣りバカ日誌主人公)
原作者のやまさき十三と同じ都城市出身と言う設定
皆川寛子(ドラマ危険なアネキ主人公)
皆川勇太郎(ドラマ危険なアネキ寛子の弟)
柳原弘(ドラマ白い巨塔)
兼子仁(ドラマ西部警察)

[編集] 宮崎県にゆかりのある他の都府県出身の人物

[編集] 現在も宮崎県で活躍している人物
政治家
米沢隆(元衆議院議員、元民社党委員長)鹿児島県出身
イラストレーター
生頼範義(宮崎市在住)兵庫県出身
スポーツ
宗茂(延岡市在住=九州保健福祉大学の客員教授、旭化成陸上部前監督、元マラソン選手)大分県臼杵市出身
宗猛(延岡市在住=旭化成陸上部監督、元マラソン選手)大分県臼杵市出身
児玉泰介(延岡市在住=旭化成女子陸上部監督、元マラソン選手)鹿児島県薩摩川内市出身
横峯さくら(宮崎市在住=女子プロゴルファー)鹿児島県鹿屋市出身
アナウンサー
川野武文(宮崎放送アナウンサー)兵庫県三木市出身
田中正訓(宮崎放送アナウンサー)大阪府出身
村山耕一(宮崎放送アナウンサー)埼玉県志木市出身
関知子(宮崎放送アナウンサー)和歌山県和歌山市出身
山田舞(宮崎放送アナウンサー)香川県高松市出身
川島恵(宮崎放送アナウンサー)島根県松江市出身
迫田江理(宮崎放送アナウンサー)鹿児島県鹿児島市出身
南出雅之(テレビ宮崎アナウンサー)大阪府泉南郡岬町出身
佐々木六華(テレビ宮崎アナウンサー)奈良県天理市出身
坂井淳子(フリーアナウンサー・元FM宮崎アナウンサー)福岡県出身
膳憲太(FM宮崎アナウンサー)大阪府出身
佐藤信洋(元FM宮崎チーフアナウンサー)大分県出身

[編集] かつて宮崎県で活躍していた人物

小郷知子(日本放送協会アナウンサー/東京都出身)【初任地がNHK宮崎放送局】
川上優子(元陸上競技選手/熊本県出身)【沖電気宮崎所属で選手活動】
塚田誉(テレビ金沢アナウンサー/石川県出身)【テレビ金沢開局前は、テレビ宮崎のアナウンサー】
平野早苗(リポーター)【元宮崎放送のアナウンサー】

[編集] 親類が宮崎出身の人物
日高光啓(AAA)
父親が宮崎出身で、母親も都城市の高校に通っていた。(JOY FM「WEEKEND JAM」(a-nation '08 powerd by ウィダーinゼリー開催前日の2008年8月1日ゲスト出演時の本人による発言))
水岡俊一(参議院議員)
夫人が宮崎出身

[編集] 宮崎県にゆかりのある海外出身の人物
宮崎県出身ではないが、宮崎県を拠点に活躍する人たち。もしくは海外から移住していたり、宮崎県ローカルで活躍する人たち

ジェイミー(ローカルタレント、英会話教室講師)オーストラリア出身
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E5%87%BA%E8%BA%AB%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7" より作成
カテゴリ: 宮崎県出身の人物 | 日本の都道府県出身別の人名一覧表示

最終更新 2008年8月1日 (金) 10:57。Wikipedia®

宮崎県保育所一覧

2008-08-09 09:39:20 | 15 高校・中学一覧(全国)
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宮崎県保育所一覧


宮崎県保育所一覧(みやざきけんほいくしょいちらん)は、宮崎県の保育所の一覧。

目次 [非表示]
1 公立保育所
1.1 宮崎市
2 私立保育所
2.1 宮崎市
2.1.1 中央東
2.1.2 中央西
2.1.3 大宮東
2.1.4 大宮西
2.1.5 檍北
2.1.6 檍南
2.1.7 橘
2.1.8 小戸
2.1.9 大淀東
2.1.10 大淀西
2.1.11 大塚
2.1.12 大塚台
2.1.13 生目台
2.1.14 生目
2.1.15 住吉
2.1.16 北
2.1.17 赤江東
2.1.18 赤江西
2.1.19 赤江南
2.1.20 木花
2.1.21 青島
2.1.22 佐土原
2.1.23 田野
2.1.24 高岡
3 関連項目



[編集] 公立保育所

[編集] 宮崎市
宮崎市立小戸保育所
宮崎市立赤江保育所
宮崎市立青島保育所
宮崎市立檍保育所
宮崎市立跡江保育所
宮崎市立古城保育所
宮崎市立広瀬中央保育所
宮崎市立佐土原保育所
宮崎市立那珂保育所
宮崎市立福島保育所
宮崎市立浦之名保育所
宮崎市立東高岡保育所

[編集] 私立保育所

[編集] 宮崎市

[編集] 中央東
高千穂乳児保育園
下原保育園
宮崎至慶保育園
権現乳児保育所

[編集] 中央西
江平保育園
中央保育園
ソレイユ保育園
よいこのもり保育園
よいこのもり第2保育園
祇園保育園
霧島保育園

[編集] 大宮東
東大宮保育園
あおぞら保育園
花ヶ島北保育園
光明保育園
みのり保育園
のぞみ保育園
ドン・ボスコ保育園
波島保育園

[編集] 大宮西
平和ヶ丘保育園
大宮保育所
下北方保育園
平和が丘乳児保育園
南方保育園

[編集] 檍北
檍保育所
浮之城保育園
山崎保育園
一ツ葉保育園

[編集] 檍南
昭和保育園
吉村保育園
曽師保育所
潮見保育園
高洲保育園
田代保育園

[編集] 橘
橘保育園
石井記念こひつじ保育園
八幡保育園

[編集] 小戸
小戸保育所
ちどり保育園

[編集] 大淀東
太田保育園
江南保育園

[編集] 大淀西
星華保育園
民生館保育園
古城保育所
大坪保育園

[編集] 大塚
あけぼの保育園
みずほ保育園
大塚保育園
天神保育所
あさひ保育園
ふたば保育園

[編集] 大塚台
大塚台保育園
大塚台西保育園
ひまわり保育園

[編集] 生目台
生目台みどり保育園
生目台ピノキオ保育園

[編集] 生目
富吉保育園
跡江保育所
和保育園

[編集] 住吉
住吉中央保育園
島之内保育園
住吉東保育園
住吉南保育園
広原保育園

[編集] 北
直純寺保育園
三和保育園
平松保育園
吉野保育園

[編集] 赤江東
しろはと保育園
飛江田保育園

[編集] 赤江西
恒久保育園
横町さくら保育園
働馬寄保育園
どうめき第2保育園
あゆみ保育園

[編集] 赤江南
くどみ保育園
恵愛保育園
めぐみ保育園(※本郷南方)
希望ヶ丘保育園

[編集] 木花
木花保育園
加江田保育園
鏡洲保育園
みやざき保育園

[編集] 青島
内海保育園
青島保育所

[編集] 佐土原
福島保育所
広瀬中央保育所
那珂保育所
佐土原保育所
明照保育園
ひがし保育園
梅野保育園
広洋保育園
黒田保育園
原口保育園

[編集] 田野
わかば保育園
さくらが丘保育園
めぐみ保育園(※田野町)
あおば保育園
慈愛保育園
みなみ保育園
ぎんなん保育園

[編集] 高岡
東高岡保育所
浦之名保育所
天ヶ城保育園
内山保育園
たかふさ保育園
穆佐保育園
高岡中央保育園



都道府県別保育所一覧


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北海道 | 青森県 | 岩手県 | 宮城県 | 秋田県 | 山形県 | 福島県
茨城県 | 栃木県 | 群馬県 | 埼玉県 | 千葉県 | 東京都 | 神奈川県
新潟県 | 富山県 | 石川県 | 福井県 | 山梨県 | 長野県 | 岐阜県 | 静岡県 | 愛知県
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[編集] 関連項目
日本の保育所一覧
この項目「宮崎県保育所一覧」は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。
このテンプレートは分野別のスタブテンプレート(Wikipedia:スタブカテゴリ参照)に変更することが望まれています。ただし、サーバー負荷軽減のため、スタブテンプレートの変更は加筆とともに行ってください。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E4%BF%9D%E8%82%B2%E6%89%80%E4%B8%80%E8%A6%A7" より作成
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