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【人生劇場・青春の門・ノルウェイの森:①~⑩】 尾崎士郎・五木寛之・村上春樹

2008-08-07 09:40:37 | 26 学生街散歩・古書店街巡り
【人生劇場・青春の門・ノルウェイの森:①~⑩】 の検索結果 約 238 件

 尾崎士郎・五木寛之・村上春樹


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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)西村(福島)渡辺



1位
キミラジオ放送内容村上春樹/ノルウェイの森(早稲田大学に入学した主人公と女たちをめぐる物語) ・村上春樹/ノルウェイの森(早稲田大学に入学した ... 尾崎四郎/人生劇場(早稲田に入学し、 学園紛争の口火を切る主人公。後に退学するが。) ・綾辻行人/十角館の殺人(大学 ...
www.young-wave.com/kimiradio/archives/2006/08/index.html - 19k - キャッシュ - 関連ページ



2位
キミラジオ放送内容五木寛之/青春の門(上京し早稲田大学に入学した青年が主人公の青春小説) ・赤川次郎/ ひとり暮し(一人暮らしをはじめた女子大生と ... 尾崎四郎/人生劇場(早稲田に入学し、 学園紛争の口火を切る主人公。後に退学するが。) ・綾辻行人/十角館の殺人(大学 ...
www.young-wave.com/kimiradio/archives/2006/08/59.html - 24k - キャッシュ - 関連ページ



3位
早稲田社学(夜間)wVS明治大学政治経済学部158 :エリート街道さん:2008/05/28(水) 21:28:03 ID:Dw5kEeIx: 人生劇場を読んでどうしても早稲田世代 青春の門を読んでどうしても早稲田世代 ノルウェーの森をよんでどうしても早稲田世代 五体不満足を読んでどうしても早稲田世代 ってのがあるかも ...
tmp7.2ch.net/test/read.cgi/joke/1204537350/152n- - 9k - キャッシュ - 関連ページ



4位
QMA5問題集1960, 小説『ノルウェイの森』や『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』で知られる日本の人気作家は? 村上春樹, 夏下澤池隆龍 ... 5229, 早稲田大学に入学した主人公・ 青成瓢吉の成長を描いた尾崎士郎の自伝的小説は? 人生劇場, の歌春青夢門 ...
litz.sakura.ne.jp/konmai/quest5.cgi?h=504&s=5 - 19k - キャッシュ - 関連ページ



5位
早稲田大学 -Z会と大学受験支援サイト早稲田大学が舞台あるいは登場する作品実名で登場する場合もあれば、仮名で登場する、 あるいは早稲田大学と匂わせる作品を挙げる。 関連施設が登場する作品は、無数に存在する。 小説. ノルウェイの森 - 村上春樹 青春の門 - 五木寛之 人生劇場 - 尾崎 ...
jublog.com/archives/53/94/001051.html - 73k - キャッシュ - 関連ページ


6位

masaring: 「声に出す」読書。しゅうちゃん劇場なんか、どうでやんしょ。 あっ、そっ! やっぱりダメ coldsweats01. じゃあ、しゅうはやっぱり、 『ノルウエーの森』あたりに挑戦しましょうか! でも、 これ音読したら、ねえ。 絵や挿絵が無い方がいいとゆうことはやっぱ、 ...
masaring.blogzine.jp/osaru/2008/04/post_0536.html - 94k - キャッシュ - 関連ページ



7位
小説や漫画やその他創作の舞台となった大学『早稲田』は尾崎士郎の「人生劇場」五木寛之の「青春の門」等 『三田』は何かあったっけ? 39 名前:エリート街道さん [2007/02/09(金) ...... 現にノルウェーの森の中でも、目白の和敬塾の右翼学生や左翼学生には冷ややかなな表現で描写している。 ...
mobile.seisyun.net/cgi/read.cgi/tmp6/tmp6_joke_1170795499 - 171k - キャッシュ - 関連ページ


8位

アマゾン出品情報: アマゾン出品情報ノルウェイの森〈下〉 読んで身につける スピーキング英語辞典―言えそうで言えない英語発想法堤義明の経営魂猫の事件待っている男俺たちの旅 (恋愛編) マッチ箱の人生人を見る眼・仕事を見る眼―松下幸之助エピソード集俺たちの旅 (青春編) ...
comic-tsubasa-s40.seesaa.net/category/961218-1.html - 80k - キャッシュ - 関連ページ



9位
サルビアネット TV「人生劇場」 「男はつらいよ 寅次郎恋唄」 「男はつらいよ 柴又慕情」 「男はつらいよ 寅次郎夢枕」 「恍惚の人」 ..... 「あぶない刑事」 「男はつらいよ 知床慕情」 「 男はつらいよ 寅次郎物語」 「サラダ記念日」 「ノルウェーの森」 ...
www.geocities.jp/free357_9/index.html - 96k - キャッシュ - 関連ページ


10位

東宝とは - はてなダイアリー東京宝塚劇場株式会社は、1943年これを合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、社名を東宝株式会社と改めた。PCLには大日本麦酒なども出資しており(そのため、第一回作品は「ほろ酔い人生」)、東宝は発足当初から、従来の ...
d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%CA%F5 - 97k - キャッシュ - 関連ページ



上田敏 『海潮音』★, 時は春、/日は朝、・・・・★★山のあなたの・

2008-08-07 07:14:43 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 東京大学・京都大学

上田敏


[編集] ①■■■(1874年-1916年) 
うえだ びん。日本の詩人、翻訳者。


[編集] ②『海■■』

The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven--
All's right with the world !

時は■、/日は■、
朝は■時、片岡に■みちて、
揚雲雀■■■いで、/蝸牛■に這ひ、
神、そらに■ろしめす。/なべて世は事も■し。

The year's at the s■■■■g,
And day's at the m■rn;
Morning's at s■ven;
The h■ll-side's dew-pearl'd;
The l■■k's on the wing;
The s■ail's on the thorn;
G■d's in His hea■■n--
All's right with the world


The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven--
All's right with the world !

-ロバート・ブラウニングの下の詩を、「春の朝(あした)」として翻訳したもの。

The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven--
All's right with the world !

 -- Pippa's Song by Robert Browning(Pippa Passes, 1841
(劇詩『ピパ、過ぎゆく』中の歌「ピパの歌」)








山のあなたの◆遠く
「幸(さいはひ)」◆むと人のいふ。

◆(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
◆さしぐみ、かへりきぬ。
◆のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと◆のいふ。




山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

-カール・ブッセの詩を、『海潮音』所収「山のあなた」として翻訳したもの。

カテゴリ: 詩人 | 日本人






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調べもの新聞編集室 中村惇夫



















上田敏


[編集] 上田敏(1874年-1916年) 
うえだ びん。日本の詩人、翻訳者。


[編集] 『海潮音』

時は春、/日は朝、
朝は七時、片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し。


-ロバート・ブラウニングの下の詩を、「春の朝(あした)」として翻訳したもの。

The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven--
All's right with the world !

 -- Pippa's Song by Robert Browning(Pippa Passes, 1841
(劇詩『ピパ、過ぎゆく』中の歌「ピパの歌」)




山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。


-カール・ブッセの詩を、『海潮音』所収「山のあなた」として翻訳したもの。

カテゴリ: 詩人 | 日本人






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【佐賀県】の基礎のキソの基礎

2008-08-07 07:13:14 | 14 用語集:②人物以外
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佐賀県

ウィキポータル 日本の都道府県/佐賀県

佐賀県(さがけん)は、日本の都道府県のひとつで、九州地方の北西部に位置する県。日本海と有明海の二つの海に接する。県西部には陶磁器の産地として古くから有名な唐津・伊万里・有田などがある。
古代には「肥前」、中世には「佐嘉」とされたが、明治維新の時に「佐賀」と改められた。この「佐嘉」の名は、日本武尊が今の佐賀を訪れた時、楠が大きく茂っている様子を見て「この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう」と述べた、という肥前国風土記の記述に由来するといわれている。

[編集] 地理

日本の西部(西日本)または南部(南日本)、九州地方の北部(北部九州)または西部(西九州)に位置している。

佐賀県本土は、九州に含まれる。北東部は脊振山地が福岡県との県境をなし、南東部は福岡県側まで続く筑紫平野(佐賀平野)が大部分を占める。東松浦半島から多良岳山系にかけての県西部は溶岩台地と緩やかな丘陵地により構成されている。

森林面積の3割強を占める自然林・二次林はほとんどが常緑広葉樹林で、玄界灘沿岸部には照葉樹林も見られる。残りの7割弱はスギとヒノキを中心とする人工林で、人工林率(66%、2002年)は日本の都道府県の中で最も高い。

北東部の脊振山地はスギが大半を占める人工林で林業が主要産業となっている。現在の唐津市南部や多久市周辺の丘陵地帯では石炭採掘がかつて盛んであったが、今では跡が残るだけである。南東部の佐賀平野は稲作を中心とした穀倉地帯で、各種農産物が生産されるが、近年は農産物の種類が変わってきている(#産業参照)。




[編集] 歴史

[編集] 県名の由来
県名である「佐賀」は佐賀郡からとったものだが、古来は「佐嘉」の表記も使われており、明治維新の時に「佐賀」に統一された。「佐嘉郡」は、風土記の一つである肥前国風土記に記された、以下の記述に由来すると言われている。

昔者(むかし)、樟の樹一株此の村に生ひたりき。幹枝秀高く、莖葉繁茂り、朝日の影には、杵嶋の郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には、養父の郡の草横山を蔽へりき。日本武尊、巡幸しし時、樟の茂り榮えたるを御覽はして、勅りたまひしく、此の國は榮(さか)の國と謂ふべし、とのりたまひき。因りて榮の郡といひき。後改めて佐嘉の郡と號く。
—肥前国風土記(書き下し文)

これは、「日本武尊が御巡幸の時、楠樹の栄え繁る有様を見られ、この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう、と申され、その後『栄の都』といい、改めて佐嘉郡と呼ぶようになった。」といった意味である。

また、「佐嘉郡」の由来としては、もう1つ説があり、同じく肥前国風土記の以下の記述に由来する。

一云、郡西有川、名曰佐嘉川、年魚有之、其源出郡北山、南流入海。此川上有荒神、往来之人生半殺半。於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女、狭山田女。二女子云、取下田村之土、作人形馬形、祭祀此神、必有応和。大荒田即随其辞祭此神々、此祭遂応和之。於茲大荒田云、此婦如是実賢女、故以賢女欲為国名、因曰賢女郡、今謂佐嘉郡訛也。
—肥前国風土記(原文)

これは、「郡の西にある佐嘉川(現在の嘉瀬川にあたる。)という川があり、「荒ぶる神」によって川が氾濫し多くの人々が亡くなっていた。これを鎮めるために、土蜘蛛(天皇に恭順しない土着の豪傑を意味する蔑称。)の2人の賢女(さかしめ)が「下田の村の土で人形や馬形を作り、神を祀れば、鎮まるでしょう。」と言い、大荒田がその通りにしたところ、氾濫が鎮められた。大荒田はこの2人の賢女を讃え、この地域を「賢女の群(さかしめのこおり)」と呼ぶようにした。現在はこれが訛って佐嘉の郡(さかのこおり)と呼んでいる」といった意味になる。


[編集] 古代

吉野ヶ里遺跡今の長崎県本土と佐賀県全域が、令制国として7世紀末までに成立した肥前国に含まれる。

古代から稲作文化が栄え、稲作の痕跡が見られる菜畑遺跡、弥生時代最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡などの遺跡がある。『魏志倭人伝』にみえる「末廬国(まつらのくに)」が現在の唐津地方にあったとされている。また、前方後円墳をはじめとした古墳が数多く残り、統治者の影がうかがえる。また弥生時代に最も栄えた九州北部地方に見られる甕棺墓がある。


[編集] 中世・近世・近代

名護屋城跡鎌倉時代から室町時代にかけて、百以上の一族が地頭として配置されていたと考えられている。その中でも規模が大きかったのが、九州千葉氏、高木氏、綾部氏、松浦氏、少弐氏、波多氏、後藤氏などであった。また、玄界灘沿岸は松浦党の影響力も強かった。戦国時代に入って、龍造寺氏が一気に勢力を伸ばし、肥前・肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。龍造寺隆信の死後鍋島直茂が国政の代行を行うようになり、1607年には龍造寺氏の支配領をほぼずべて鍋島氏が継承することとなった。しかし、この前後に両一族の確執があり、鍋島藩の化け猫騒動の話を生み出したともいわれている。一方、唐津藩では波多氏が改易されて寺沢氏に換わり、唐津藩の初代藩主となった。


佐賀城(鯱の門)
唐津城江戸時代は、佐賀藩そして支藩の蓮池藩、鹿島藩、小城藩の3藩、唐津藩が置かれたほか、現在の鳥栖市・基山町付近に対馬府中藩の田代領、唐津市浜玉町付近に同藩浜崎領があり、それぞれ対馬府中藩の飛地となっていた。また、現在の唐津市浜玉町海岸部や唐津市南東部などが幕府直轄領となっていた。

佐賀藩およびその支藩は鍋島氏とその庶流家、龍造寺氏の分家などによる支配が続き、政治的には比較的安定していた。しかし、長崎の警備費用がかさむなどして財政は当初から厳しく、享保の大飢饉や1828年のシーボルト台風による甚大な被害はそれに拍車をかけた。ただ、広大な有明海の干拓によって農地を拡大できるという地の利もあり、江戸時代初期から盛んに干拓が行われたことで、1840年代には約67万石と、200年前の2倍近くにまで石高を伸ばすことに成功している。また、19世紀中ごろに入って鍋島直正は財政の建て直しに努め、役人の削減、有田焼や茶・石炭といった特産品の保護育成に努めた。また、地理的に長崎に近いため入手が比較的容易であった海外の情報を手に入れ、反射炉や蒸気機関車模型といった先進的な科学技術の研究も進めた。

一方の唐津藩は寺沢氏が島原の乱の影響を受けて改易され、その後も領主が大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏とめまぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。寺沢広高は松浦川の改修を行うなどしたが、その後水野忠任の代1771年には虹の松原一揆が起こるなどした。

佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治時代には杵島郡や東松浦郡などの炭鉱の近代化が進み、鉄道の建設がそれを後押しした。しかし、労働環境の問題なども生じるようになった。農村では近代化は顕著ではなかったが、1930年代の「佐賀段階」による増産で技術が一新された。


[編集] 現代
県内の都市は比較的規模が小さかったため、太平洋戦争末期の空襲の被害は近県に比べて少なかったが、戦後の発展も著しいものではなかった。商業の発展はある程度あったものの、従事者や生産額ともに第一次産業の比率が比較的高かった。1960年代の「新佐賀段階」により農業は発展を見たものの、減反が進んだことに加えて炭鉱の閉鎖が加速し、過疎化が進んだ。


[編集] 沿革
紀元前3万3,000年ごろ(更新世) 犬塚山遺跡成立。
紀元前6世紀ごろ(縄文時代晩期) 菜畑遺跡成立。
紀元前1世紀ごろ(弥生時代中期) 現在の吉野ヶ里遺跡にむらが栄える。
665年 白村江の戦いの敗戦により太宰府防衛のため基肄城が築かれる。
733年 肥前国風土記が成立。
836年 神埼荘が初期荘園として開墾、以後拡大し日宋貿易の拠点にもなったと見られている。
1274年 文永の役。
1281年 弘安の役。
1591年 名護屋城普請、以降文禄・慶長の役を経て1598年に廃城。
1602年 唐津城、佐賀城築城。
1607年 佐賀藩の実権が竜造寺氏から鍋島氏に移る。
1771年 虹の松原一揆。
1781年 佐賀藩校弘道館成立。
1828年 シーボルト台風により甚大な被害、死者1万人以上と推定。
1871年7月14日 廃藩置県。当時の藩がそのまま県となり、佐賀・蓮池・小城・鹿島・唐津県及び対馬県の一部になる。
1871年11月14日 6県が合併して伊万里県になる。
1872年5月29日 伊万里県が佐賀県になる。
1874年2月 佐賀の乱おこる。
1876年4月18日 三潴県に併合される。
1876年8月21日 三潴県の、今の佐賀県に相当する区域が長崎県に併合される。
1883年 長崎県より分離独立。
1889年4月1日 佐賀市に市制施行。
1891年 九州鉄道長崎線、鳥栖~佐賀間開通。1895年佐賀~武雄間、1897年武雄~早岐間、1903年佐賀~西唐津間開通。
1932年1月1日 唐津市に市制施行。
1933年・1934年・1935年 10aあたりの米収穫高が日本一になる(佐賀段階)。
1935年 国鉄佐賀線開通。
1954年 昭和の大合併により、鳥栖市、伊万里市、武雄市、鹿島市、多久市の5市が誕生。(7市8郡18町35村)
1965年・1967年 10aあたりの米収穫高が再び日本一になる(新佐賀段階)。
1972年 西杵炭鉱の閉山により県内の炭鉱すべてが閉山。
1975年 玄海原子力発電所の営業運転始まる。
1976年 若楠国体開催。
1987年 国鉄佐賀線が廃止。
1989年 吉野ヶ里遺跡が日本最大の環濠集落であることが明らかになる。
1998年 川副町に佐賀空港開港。
1996年 世界・炎の博覧会開催。
2001年 国営吉野ヶ里歴史公園開園。
2005年 平成の大合併により県内の自治体が再編。
1月1日 新唐津市、新白石町が誕生。
3月1日 小城市、みやき町が誕生。
10月1日 新佐賀市が誕生。
2006年 平成の大合併
1月1日 新唐津市、嬉野市が誕生。
3月1日 新武雄市、吉野ヶ里町、新有田町が誕生。
3月20日 神埼市が誕生。
2007年
7月~8月 2007青春・佐賀総体(全国高校総体)開催。
10月1日 新佐賀市が誕生。



[編集] 佐賀県内に本社を置く企業
卸・小売業

サンクスジャパン、スーパーモリナガ、佐賀玉屋、まいづる百貨店、ギャザー、鈴花
製造業

久光製薬、祐徳薬品工業、東亜工機、戸上電機製作所、森鉄工、佐賀ガス(佐賀市ガス局から民営化)、サンポー食品、竹下製菓、村岡屋、森永デザート、ヤクルト食品工業、ヨコオ、理研農産化工、リコー計器、九州INAX、佐賀三洋工業、トヨタ紡織九州、九州積水工業、東京エレクトロン九州、小糸九州、深川製磁、香蘭社
建設業

佐電工、松尾建設
サービス(その他)

佐賀新聞、サガテレビ、エフエム佐賀
金融業

佐賀銀行、佐賀共栄銀行
佐賀信用金庫、唐津信用金庫、伊万里信用金庫、杵島信用金庫
佐賀東信用組合、佐賀西信用組合、佐賀県医師信用組合
情報通信業

佐賀エレクトロニックス、佐賀電算センター
旅館業

和多屋別荘

[編集] 県内に拠点事業所を置く企業
工場
味の素(佐賀市)
伊藤ハム(基山町)
江崎グリコ
大塚製薬(吉野ヶ里町)
キユーピー(鳥栖市)
コカ・コーラウエストジャパン(鳥栖市・基山町)
東洋製罐(基山町)
大和製罐(上峰町)
東洋新薬(鳥栖市)
不二家(吉野ヶ里町)
フランスベッド(鳥栖市)
SUMCO(伊万里市)
東和コーポレーション(唐津市・上峰町)
ブリヂストン(鳥栖市)

[編集] 地域

[編集] 市町村
市町村合併により2005年1月から市町村数は減少し(2004年12月時点では7市8郡38町4村〔49市町村〕だった)、2007年10月1日現在、以下の10市6郡10町(計20市町)がある。なお、2006年3月20日に脊振村が神埼市になったのを最後に、佐賀県内の村は全て消滅した。佐賀県では、江北町が「まち」としている他は、「町」はすべて「ちょう」と読む。


[編集] 教育

[編集] 大学・短期大学
佐賀県の大学進学率は37.4%。(2003年高校卒業者)
国立

佐賀大学
私立

西九州大学
佐賀女子短期大学
佐賀短期大学
九州龍谷短期大学

[編集] 大学校
佐賀県農業大学校
佐賀県立窯業大学校

[編集] 高校
佐賀県高等学校一覧を参照のこと。


[編集] 養護学校
佐賀大学文化教育学部附属特別支援学校
佐賀県立盲学校
佐賀県立ろう学校
佐賀県立金立養護学校
佐賀県立大和養護学校
佐賀県立中原養護学校
佐賀県立北部養護学校
佐賀県立伊万里養護学校
佐賀県立うれしの特別支援学校


障害者の更生・療護・授産施設
希望の家
佐賀春光園
長光園
かささぎの里
鹿島療育園
るりこう苑
佐賀整肢学園・オークス
聖華園


[編集] 空港
佐賀空港

旧跡・観光スポット・祭事・催事

唐津くんち
佐賀インターナショナルバルーンフェスタ城跡・史跡
佐賀城跡 (佐賀市)
佐賀城本丸歴史館
反射炉跡
肥前国庁跡 (佐賀市大和町)
唐津城 (唐津市)
名護屋城跡
基肄城跡(基山町)
吉野ヶ里遺跡(国営吉野ヶ里歴史公園)
寺社
佐嘉神社 (佐賀市)
与賀神社 (佐賀市)
祐徳稲荷神社 (鹿島市)
多久聖廟 (多久市)
主な文化施設・観光施設
佐賀市歴史民俗館 (佐賀市)
佐賀県立宇宙科学館 (武雄市)
佐賀県立博物館・美術館 (佐賀市)
マリンパル呼子 (唐津市)
佐賀県立名護屋城博物館 (唐津市)
佐賀県立九州陶磁文化館 (有田町)
有田陶磁美術館 (有田町)
有田ポーセリンパーク (有田町)
玄海エネルギーパーク (玄海町)
波戸岬海中展望塔
嬉野温泉 肥前夢街道 (嬉野市嬉野町)
三瀬ルベール牧場 どんぐり村 (佐賀市三瀬村)
武雄・嬉野 メルヘン村 (武雄市)
肥前大和巨石パーク(佐賀市大和町)
天山スキー場 (佐賀市富士町、県内唯一のスキー場)
祭り
栄の国まつり (佐賀市)
唐津くんち (唐津市)
呼子大綱引 (唐津市呼子町)
伊万里トンテントン祭り (伊万里市)
その他の催事
佐賀インターナショナルバルーンフェスタ (佐賀市)
鹿島ガタリンピック (鹿島市)
自然
有明海 - 干潟、ムツゴロウ、シオマネキなど
北山ダムやその周辺の観光地 (佐賀市三瀬村)
温泉
古湯温泉(佐賀市富士町)
熊の川温泉(佐賀市富士町)
武雄温泉(武雄市)
嬉野温泉(嬉野市嬉野町)
小城温泉(小城市)
伊万里温泉(伊万里市)
佐里温泉(唐津市相知町)
焼き物関連
窯元、店、陶磁器文化施設や、有田焼最大のイベント有田陶器市など (有田町、伊万里市、唐津市)
その他
炭鉱跡やボタ山 (多久市周辺)
呼子の朝市 (唐津市呼子町)
見帰りの滝や鵜殿石仏群 (相知町)

[編集] 有形文化財建造物
重要伝統的建造物群保存地区
浜庄津町浜金屋町 (鹿島市)
浜中町八本木宿 (鹿島市)
塩田津 (嬉野市)
有田内山 (有田町)

[編集] 文化財
有形文化財
重要文化財は数百件の指定がある。国宝は指定が1件も無い。

史跡
丸山遺跡(佐賀市)
東名遺跡(佐賀市)
銚子塚古墳(佐賀市)
吉野ヶ里遺跡(神埼市)
菜畑遺跡(唐津市)
中原遺跡(唐津市)
久里双水古墳(唐津市)
名勝
虹ノ松原(特別名勝)
主な天然記念物
川古、白角折神社、佐賀城址、与賀神社、稲佐神社、海童神社、青幡神社などのクスノキ
カササギ生息地
屋形石の七ツ釜
エヒメアヤメ自生南限地帯
千石山サザンカ自生北限地帯
高串のアコウ北限地帯
嬉野の大チャノキ
加部島暖地性植物群落
黒髪山カネコシダ自生地

[編集] 文化

[編集] 方言
佐賀弁、唐津弁、田代弁

[編集] 伝統産業・特産品
鳥栖市の医薬品産業、佐賀市諸富町の家具産業は伝統産業が現代経済に取り入れられ成長した産業である。
有田焼、唐津焼、志田焼、黒牟田焼、多々良焼、肥前吉田焼など、西部には歴史ある焼き物が多い。ただし、東部にも肥前尾崎焼や白石焼といった伝統的な焼き物が存続している。有田焼は特産品や地場産業、そのほかは伝統産業となっているところが多い。
佐賀錦(鹿島錦)や鍋島緞通、肥前ビードロなどは伝統的な工芸品として継承されている。
玄海灘沿岸での捕鯨は安土・桃山時代に始まり江戸時代中期に最盛期を迎えたが、近代以降は行われなくなった。
神埼市神埼町の神埼そうめん、小城市小城町の小城羊羹などは、古くからの伝統産業を受け継いだ特産品である。
郷土料理には、嬉野茶、松露饅頭、丸ぼうろ、逸口香、けえらん、サルボウ、クチゾコなどがある。

[編集] マスメディア

[編集] 新聞
佐賀新聞
西日本新聞も本県に総局・支局を置いている。
毎日新聞、読売新聞は鳥栖市に印刷工場がある(福岡都市圏や九州各県へ輸送する新聞を印刷)

[編集] テレビ放送局
NHK佐賀放送局
サガテレビ(sts)
ケーブルテレビ放送局
佐賀シティビジョン(ぶんぶんテレビ)、伊万里ケーブルテレビジョン、唐津ケーブルテレビジョン、ケーブルワン、藤津ケーブルビジョン、ネット鹿島、多久ケーブルテレビ、CRCCメディア、有田ケーブルネットワーク、テレビ九州、唐津市浜玉ケーブルネットワーク、多久市テレビ共同聴視組合、ふじ有線テレビ、くーみんテレビ(エリアは佐賀東部地区・福岡県久留米市の放送局)
佐賀県の民放テレビ局はフジテレビ系列のサガテレビのみであるが、大半の地域では福岡県に本社を置く各局(NHK福岡放送局、RKB毎日放送、九州朝日放送、テレビ西日本、福岡放送、TVQ九州放送)が、他系列の番組や佐賀県のニュースやレポート番組等を取り扱っている。県内の一部地域では熊本県、長崎県の各局(NHK熊本放送局、NHK長崎放送局、熊本放送、テレビ熊本、熊本県民テレビ、熊本朝日放送、長崎放送、テレビ長崎、長崎文化放送、長崎国際テレビ)の電波も受信可能である。地形の影響でNHK佐賀放送局とサガテレビの電波のみしか受信できない地域では、ケーブルテレビ等で番組を再送信している場合もある。

地上デジタル放送は、サガテレビ以外に、熊本4局が佐賀市を含む県内南部で受信可能であり、福岡5局も県内の広範なエリアで視聴可能である(ケーブルテレビでも地上デジタル放送再送信により視聴が可能となった)。

ちなみに佐賀県ではビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県、山梨県、徳島県、宮崎県。)の1つとなっている。


[編集] ラジオ放送局
AM
NHK佐賀放送局(第一放送のみ・第二放送は熊本放送局、福岡放送局のエリア)
NBCラジオ佐賀(長崎放送佐賀ラジオ放送局)
RKBラジオ、KBCラジオ、熊本放送も県内の大半で受信可能である。
FM
NHK佐賀放送局
エフエム佐賀(FMS)
エフエム福岡、エフエム九州(CROSS FM)、九州国際エフエム(Love FM)、エフエム熊本、エフエム長崎、エフエム大分、ドリームスエフエム(久留米市コミュニティFM)も県内の一部の地域で受信可能である。

[編集] スポーツ

[編集] プロスポーツチーム・社会人スポーツチーム
サガン鳥栖(鳥栖市・J2リーグ)
久光製薬スプリングス(神戸市=練習所=とのダブルホームタウン。加盟は佐賀県バレー連盟)
トヨタ紡織九州レッド・トルネード(神埼市・日本ハンドボールリーグ)
ダイワアクト(佐賀市・ソフトボール男子西日本リーグ)
佐賀魂(佐賀市・社会人野球)
九州INAXメンブリュース(鹿島市・サッカーKyuリーグ)

[編集] スポーツ施設

鳥栖スタジアムベストアメニティスタジアム(旧名:鳥栖スタジアム)
佐賀県総合運動場陸上競技場(佐賀総合グラウンド)
佐賀県立森林公園野球場(みどりの森県営球場)
佐賀市立野球場(佐賀ブルースタジアム)
佐賀市立体育館
グラスコート(『ウィンブルドン九州』という名前で知られていたが、本家『ウィンブルドン』と混同するため、改称。)
市村記念体育館
体育の森公園

[編集] 公営競技
佐賀競馬場
唐津競艇場
武雄競輪場

[編集] 佐賀県を舞台にした作品
映画(※は県内ロケあり)
怪猫佐賀の夜桜(1936年)
次郎物語(1941年)
海の花火(1951年・松竹)※
怪談佐賀屋敷(1953年・大映)
次郎物語(1955年・新東宝)
柳生武芸帳(1957年・東宝)
張込み(1958年・松竹)※
にあんちゃん(1959年・日活)※
人間の壁(1959年・新東宝)※
次郎物語(1960年・松竹)
次郎物語(1987年・東宝)※
男はつらいよ ぼくの伯父さん(1989年・松竹)※
水の旅人 侍KIDS(1993年・東宝)※
月光の夏(1993年・ヘラルド=ヘラルド・エース=映画「月光の夏」全国配給)※
いのちの海 -Closed Ward-(1999年・イーハーフィルムズ)※
地雷を踏んだらサヨウナラ(1999年・シネカノン配給)※
親分はイエス様(2001年・グルーヴコーポレーション)※
白神渡海(2002年・日韓新世紀交流委員会)※
佐賀のがばいばあちゃん(2006年・ティ・ジョイ)※
春よこい(2008年公開予定・東映)
ドラマ(※は県内ロケあり)
取調室シリーズ ※
おしん(1983-84年)※
小説
新本格魔法少女りすか(西尾維新)
歳月(司馬遼太郎)
アームストロング砲(司馬遼太郎)
寝台特急あかつき殺人事件(西村京太郎)
落日の鷹(滝口康彦)
謀殺(滝口康彦)
ゲーム
電車でGO! プロフェッショナル2(タイトー・プレイステーション2版、Windows版)=長崎・佐世保線収録、佐賀はけやき台駅~有田駅間でプレイ可能

[編集] その他
佐賀県は地域区分局にあたる郵便局が県内に存在しない唯一の都道府県である。県内全域をさす郵便番号84(上2桁)の地域区分局は、福岡県の久留米東郵便局(郵便事業久留米東支店)となっている。



カテゴリ: 佐賀県 | 日本の都道府県

最終更新 2008年6月9日 (月) 13:26。

石原莞爾 最終戦争論・戦争史大観 15万字 抜粋

2008-08-07 07:12:04 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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最終戦争論・戦争史大観
石原莞爾



   最終戦争論



 第一部 最終戦争論


昭和十五年五月二十九日京都義方会に於ける講演速記で同年八月若干追補した。


   第一章 戦争史の大観

     第一節 決戦戦争と持久戦争
 戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。
 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる――比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。
 戦争本来の真面目(しんめんぼく)は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。
 戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います(六四頁の付表第一参照)。

     第二節 古代および中世
 古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘(せいちゅう)を受けないで決戦戦争が行なわれました。
 ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵(ようへい)になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。
 前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。

     第三節 文芸復興
 それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍(さむらい)の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。
 当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから三百人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。
 その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右(かしらみぎ)」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。
 金で備われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。
 横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何十個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣(はんさ)なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。
 そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。
 三十年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。
 フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。
 フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、一七八九年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。
 即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている一七八九年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。

     第四節 フランス革命
 フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍――実質はそれだけなかったと言われておりますが――を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。
 

若山牧水 鮎釣に過した夏休み

2008-08-07 07:09:39 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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鮎釣に過した夏休み
若山牧水



 わたしは、日向(ひうが)うまれである。むづかしくいふと宮崎縣東臼杵郡東郷村大字坪谷村小字石原一番戸に生れた。明治[#「明治」は底本では「昭治」と誤記]十八年八月廿四日のことであつたさうだ。村は尾鈴山の北麓に當る。そこの溪間だ。この溪は山陰(やまげ)村にて耳川に注ぎ、やがて美々津にて海に入る。山陰村より美々津港までの溪谷美(といつても立派な河であるが)は素晴らしいものであるが、邊鄙(へんぴ)のことゝて誰も知るまい。同地方特産の木炭の俵の上に乘せられてこの急瀬相次ぐ耳川を下ることは非常に愉快である。下り終ると美々津の港の河口に日向洋の白浪の立つてゐるのがそこの砂濱の上に見える。小さい時山奧から出て來てこの浪といふものを見た時はほんとに驚喜したものであつた。
 さうした、山あひの村のことゝて、わたしの七歳八歳のころには普通の小學校はまだできてゐなかつた。在るにはあつたがいはば昔の寺小屋の少し變つたやうなものであつた。うやむやのうちに尋常小學を過し、十歳のとき、村から十里あまり離れた城下町である延岡に出て高等小學校に入つた。そして、やがてその土地に創立された延岡中學校の第一囘入學生として入學した。
 だから、わたしは小學生の時から(大抵は中學か專門學校になつてゞあるが)『歸省』の味を味はつた。冬と夏との休暇、それを待ち受けて行く喜び樂しみの、なんと深いものであつたか。十歳や十一二の身でわたしはその十里の道を終始殆んど小走りに走つて家に歸つた。延岡から富高まではそのころでも馬車があつたが、日に幾度だか、或はまた出るか出ないか解らない状態であつたので、少年の氣短にはそんなものに頼つてゐる餘裕がなかつた。ひとりで走つた方が氣持がよかつた。
 冬の休みは短かつた。一週間か十日ぐらゐのものであつたらう。その間にお正月があつたりして、何か知らわけもわからずに過ごしてしまふのが常であつた。だが、夏休みは永かつた、ひと月であつた。このひと月の間をば殆んど毎日釣をして過ごした。
 父も釣が好きで、よく一緒に出かけて行つた。たゞ、父の釣はあゆつり[#「あゆつり」に傍点](郷里ではあゆかけ[#「あゆかけ」に傍点]といつてゐた)だけであつたが好きな割には下手で、却つて子供のわたしの方がいつも多く釣つてゐた。この父は愉快なる人で、性質は善良無比、そして酒ばかりを嗜(たしな)んだ。
 また夏休みの話だが、夏休みに歸つてわたしはいつも二階に寢てゐた。そして朝寢をしてゐると、父はそうつ[#「そうつ」に傍点]と幾度も階下から覗きに來た。そしていよ/\となると、
『繁、起けんか。今朝、いゝぶえん[#「ぶえん」に傍点]が來たど』
 といつた。ぶえん[#「ぶえん」に傍点]とは多分無鹽とでも書くのであらう、氷も自動車もなかつた當時にあつては、普通の肴屋の持つて來る魚といへば鹽物か干物に限られてゐた。中に一人か二人の勇ましいのがあつて涼しい夜間を選んで細島あたりからほんたうの生魚を擔いで走つて來る。彼らはもう仕入れをする時からどこには何をどれだけ置いとくときめてやつて來るのだ。だから走りつく早々臺所口にかねてきめておいた分を投げ込んで置いてまた次へ走る。亂暴な話で、こちらではもう買ふも買はないもないのである。
 父は飮酒家の癖で、朝が早かつた。誰よりも先に起きて圍爐裡に火など焚きつけてゐた。そこへその無鹽賣りが來る。彼はそれを待ち受けてゐて、やがて自身で料理にかゝる。刺身庖丁の使ひぶりは彼の自慢の一つであつた。そして綺麗に料理しあげて、膳をこしらへて、臺所の山に面した縁端へそれを持ち出し、サテ、わたしの起きて來るのを待つのである。澁々私が起きてゆく、父はちやんと用意してあつた膳の上から一つの盃をとつて、
『マ、一ぱいどま、よかろ』
 といつてさす。年齒僅に十幾歳の忰を相手に彼はいかにも滿足げに朝の一時間だか二時間だかを過したのである。
 その父逝いて十五年、忰もいつか父に劣らぬノミスケ[#「ノミスケ」に傍点]となり、朝晩、ふら/\しながらかうしてたま/\遙に故郷のことなど思ひだすとおのづから眼瞼の熱くなるのを覺ゆるのである。


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底本:「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
ファイル作成:野口英司
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:

新美南吉  赤とんぼ

2008-08-07 07:08:52 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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赤とんぼ
新美南吉

3900字

 赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根(かきね)の竹の上に、チョイととまりました。
 山里の昼は静かです。
 そして、初夏の山里は、真実(ほんとう)に緑につつまれています。
 赤とんぼは、クルリと眼玉(めだま)を転(てん)じました。
 赤とんぼの休んでいる竹には、朝顔(あさがお)のつるがまきついています。昨年(さくねん)の夏、この別荘(べっそう)の主人が植(う)えていった朝顔の結んだ実が、また生(は)えたんだろう――と赤とんぼは思いました。
 今はこの家には誰(だれ)もいないので、雨戸が淋(さび)しくしまっています。
 赤とんぼは、ツイと竹の先からからだを離(はな)して、高い空に舞(ま)い上がりました。

 三四人の人が、こっちへやって来ます。
 赤とんぼは、さっきの竹にまたとまって、じっと近づいて来る人々を見ていました。
 一番最初にかけて来たのは、赤いリボンの帽子(ぼうし)をかぶったかあいいおじょうちゃんでした。それから、おじょうちゃんのお母さん、荷物(にもつ)をドッサリ持った書生(しょせい)さん――と、こう三人です。
 赤とんぼは、かあいいおじょうちゃんの赤いリボンにとまってみたくなりました。
 でも、おじょうちゃんが怒(おこ)るとこわいな――と、赤とんぼは頭をかたげました。
 けど、とうとう、おじょうちゃんが前へ来たとき、赤とんぼは、おじょうちゃんの赤いリボンに飛びうつりました。
「あッ、おじょうさん、帽子(ぼうし)に赤とんぼがとまりましたよ。」と、書生さんがさけびました。
 赤とんぼは、今におじょうちゃんの手が、自分をつかまえに来やしないかと思って、すぐ飛ぶ用意をしました。
 しかし、おじょうちゃんは、赤とんぼをつかまえようともせず、
「まア、あたしの帽子(ぼうし)に! うれしいわ!」といって、うれしさに跳(と)び上がりました。
 つばくらが、風のようにかけて行きます。

 かあいいおじょうちゃんは、今まで空家(あきや)だったその家に住みこみました。もちろん、お母さんや書生(しょせい)さんもいっしょです。
 赤とんぼは、今日も空をまわっています。
 夕陽(ゆうひ)が、その羽(はね)をいっそう赤くしています。

「とんぼとんぼ
 赤とんぼ
 すすきの中は
 あぶないよ」

 あどけない声で、こんな歌をうたっているのが、聞こえて来ました。
 赤とんぼは、あのおじょうちゃんだろうと思って、そのまま、声のする方へ飛んで行きました。
 思った通り、うたってるのは、あのおじょうちゃんでした。
 おじょうちゃんは、庭で行水(ぎょうずい)をしながら、一人うたってたのです。
 赤とんぼが、頭の上へ来ると、おじょうちゃんは、持ってたおもちゃの金魚をにぎったまま、
「あたしの赤とんぼ!」とさけんで、両手を高くさし上げました。
 赤とんぼは、とても愉快(ゆかい)です。
 書生(しょせい)さんが、シャボンを持ってやって来ました。
「おじょうさん、背中(せなか)を洗(あら)いましょうか?」
「いや――」
「だって――」
「いや! いや! お母さんでなくっちゃ――」
「困(こま)ったおじょうさん。」
 書生(しょせい)さんは、頭をかきながら歩き出しましたが、朝顔の葉にとまって、ふたりの話をきいてる赤とんぼを見つけると、右手を大きくグルーッと一回まわしました。
 妙(みょう)な事をするな――と思って、赤とんぼはその指先を見ていました。
 つづけて、グルグルと書生さんは右手をまわします。そして、だんだん、その円を小さくして赤とんぼに近づいて来ます。
 赤とんぼは、大きな眼(め)をギョロギョロ動かして、書生さんの指先をみつめています。
 だんだん、円は小さく近く、そして早くまわって来ます。
 赤とんぼは、眼(め)まいをしてしまいました。
 つぎの瞬間(しゅんかん)、赤とんぼは、書生(しょせい)さんの大きな指にはさまれていました。
「おじょうさん、赤とんぼをつかまえましたよ。あげましょうか?」
「ばか! あたしの赤とんぼをつかまえたりなんかして――山田のばか!」
 おじょうちゃんは、口をとがらして、湯(ゆ)を書生さんにぶっかけました。
 書生さんは、赤とんぼをはなして逃(に)げて行きました。
 赤とんぼは、ホッとして空へ飛び上がりました。良いおじょうちゃんだな、と思いながら――

 空は真青(まっさお)に晴れています。どこまでも澄(す)んでいます。
 赤とんぼは、窓(まど)に羽(はね)を休めて、書生さんのお話に耳をかたむけています、かあいいおじょうちゃんと同じように。
「それからね、そのとんぼは、怒(おこ)って大蜘蛛(ぐも)のやつにくいかかりました。くいつかれた大蜘蛛(ぐも)は、痛(いた)い! 痛(いた)い! 助けてくれってね、大声にさけんだのですよ。すると、出て来たわ、出て来たわ、小さな蜘蛛(くも)が、雲のように出て来ました。けれども、とんぼは、もともと強いんですから、片端(かたはし)から蜘蛛(くも)にくいついて、とうとう一匹(ぴき)残(のこ)らず殺(ころ)してしまいました。ホッとしてそのとんぼが、自分の姿(すがた)を見ると、これはまあどうでしょう、蜘蛛(くも)の血が、まっかについてるじゃありませんか。さあ大変だって、とんぼは、泉へ飛んで行って、からだを洗(あら)いました。が、赤い血はちっともとれません。で、神様にお願(ねが)いしてみると、お前は、罪(つみ)の無い蜘蛛(くも)をたくさん殺(ころ)したから、そのたたりでそんなになったんだと、叱(しか)られてしまいました。そのとんぼが今の赤とんぼなんですよ。だから、赤とんぼは良くないとんぼです。」
 書生(しょせい)さんのお話は終わりました。
 私(わたし)は、そんな酷(むご)い事をしたおぼえはないがと、赤とんぼが、首をひねって考えましたとき、おじょうちゃんが大声でさけびました。
「嘘(うそ)だ嘘(うそ)だ! 山田のお話は、みんな嘘(うそ)だよ。あんなかあいらしい赤とんぼが、そんな酷(むご)い事をするなんて、蜘蛛(くも)の赤血だなんて――みんな嘘(うそ)だよ。」
 赤とんぼは、真実(ほんとう)にうれしく思いました。
 例の書生さんは、顔をあかくして行ってしまいました。
 窓(まど)から離(はな)れて、赤とんぼは、おじょうちゃんの肩(かた)につかまりました。
「まア! あたしの赤とんぼ! かあいい赤とんぼ!」
 おじょうちゃんの瞳(ひとみ)は、黒く澄(す)んでいました。
 暑(あつ)かった夏は、いつの間にかすぎさってしまいました。
 朝顔(あさがお)は、垣根(かきね)にまきついたまま、しおれました。
 鈴虫(すずむし)が、涼(すず)しい声でなくようになりました。
 今日も、赤とんぼは、おじょうちゃんに会いにやって来ました。
 赤とんぼは、ちょっとびっくりしました。それは、いつも開いている窓(まど)が、皆(みな)しまっているからです。
 どうしたのかしら? と、赤とんぼが考えたとき、玄関(げんかん)から誰(だれ)か跳(と)び出して来ました。
 おじょうちゃんです。あのかあいいおじょうちゃんです。
 けれども、今日のおじょうちゃんは、悲しい顔つきでした。そして、この別荘(べっそう)へはじめて来たときかぶってた、赤いリボンの帽子(ぼうし)を着け、きれいな服(ふく)を着ていました。
 赤とんぼはいつものように飛んで行って、おじょうちゃんの肩(かた)にとまりました。
「あたしの赤とんぼ……かあいい赤とんぼ……あたし、東京へ帰るのよ、もうお別れよ。」
 おじょうちゃんは、小さい細い声で泣(な)くように言いました。
 赤とんぼは悲しくなりました。自分もおじょうちゃんといっしょに東京へ行きたいなと思いました。
 そのとき、おじょうちゃんのお母さんと、赤とんぼにいたずらをした書生(しょせい)さんが、出てまいりました。
「ではまいりましょう。」
 皆(みな)、歩き出しました。
 赤とんぼは、やがておじょうちゃんの肩(かた)を離(はな)れて、垣根(かきね)の竹の先にうつりました。
「あたしの赤とんぼよ、さようなら――」
 かあいいおじょうちゃんは、なんべんもふりかえっていいました。
 けど、とうとう、皆(みな)の姿(すがた)は見えなくなってしまったのです。
 もう、これからは、この家は空家(あきや)になるのかな――赤とんぼは、しずかに首をかたむけました。

 淋(さび)しい秋の夕方など、赤とんぼは、尾花(おばな)の穂先(ほさき)にとまって、あのかあいいおじょうちゃんを思い出しています。





---------------------------------------------------

底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書
   1988(昭和63)年7月8日第1刷発行
親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書
入力:もりみつじゅんじ
校正:鈴木厚司
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:


新美南吉  赤とんぼ

2008-08-07 07:08:05 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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赤とんぼ
新美南吉

3900字

 赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根(かきね)の竹の上に、チョイととまりました。
 山里の昼は静かです。
 そして、初夏の山里は、真実(ほんとう)に緑につつまれています。
 赤とんぼは、クルリと眼玉(めだま)を転(てん)じました。
 赤とんぼの休んでいる竹には、朝顔(あさがお)のつるがまきついています。昨年(さくねん)の夏、この別荘(べっそう)の主人が植(う)えていった朝顔の結んだ実が、また生(は)えたんだろう――と赤とんぼは思いました。
 今はこの家には誰(だれ)もいないので、雨戸が淋(さび)しくしまっています。
 赤とんぼは、ツイと竹の先からからだを離(はな)して、高い空に舞(ま)い上がりました。

 三四人の人が、こっちへやって来ます。
 赤とんぼは、さっきの竹にまたとまって、じっと近づいて来る人々を見ていました。
 一番最初にかけて来たのは、赤いリボンの帽子(ぼうし)をかぶったかあいいおじょうちゃんでした。それから、おじょうちゃんのお母さん、荷物(にもつ)をドッサリ持った書生(しょせい)さん――と、こう三人です。
 赤とんぼは、かあいいおじょうちゃんの赤いリボンにとまってみたくなりました。
 でも、おじょうちゃんが怒(おこ)るとこわいな――と、赤とんぼは頭をかたげました。
 けど、とうとう、おじょうちゃんが前へ来たとき、赤とんぼは、おじょうちゃんの赤いリボンに飛びうつりました。
「あッ、おじょうさん、帽子(ぼうし)に赤とんぼがとまりましたよ。」と、書生さんがさけびました。
 赤とんぼは、今におじょうちゃんの手が、自分をつかまえに来やしないかと思って、すぐ飛ぶ用意をしました。
 しかし、おじょうちゃんは、赤とんぼをつかまえようともせず、
「まア、あたしの帽子(ぼうし)に! うれしいわ!」といって、うれしさに跳(と)び上がりました。
 つばくらが、風のようにかけて行きます。

 かあいいおじょうちゃんは、今まで空家(あきや)だったその家に住みこみました。もちろん、お母さんや書生(しょせい)さんもいっしょです。
 赤とんぼは、今日も空をまわっています。
 夕陽(ゆうひ)が、その羽(はね)をいっそう赤くしています。

「とんぼとんぼ
 赤とんぼ
 すすきの中は
 あぶないよ」

 あどけない声で、こんな歌をうたっているのが、聞こえて来ました。
 赤とんぼは、あのおじょうちゃんだろうと思って、そのまま、声のする方へ飛んで行きました。
 思った通り、うたってるのは、あのおじょうちゃんでした。
 おじょうちゃんは、庭で行水(ぎょうずい)をしながら、一人うたってたのです。
 赤とんぼが、頭の上へ来ると、おじょうちゃんは、持ってたおもちゃの金魚をにぎったまま、
「あたしの赤とんぼ!」とさけんで、両手を高くさし上げました。
 赤とんぼは、とても愉快(ゆかい)です。
 書生(しょせい)さんが、シャボンを持ってやって来ました。
「おじょうさん、背中(せなか)を洗(あら)いましょうか?」
「いや――」
「だって――」
「いや! いや! お母さんでなくっちゃ――」
「困(こま)ったおじょうさん。」
 書生(しょせい)さんは、頭をかきながら歩き出しましたが、朝顔の葉にとまって、ふたりの話をきいてる赤とんぼを見つけると、右手を大きくグルーッと一回まわしました。
 妙(みょう)な事をするな――と思って、赤とんぼはその指先を見ていました。
 つづけて、グルグルと書生さんは右手をまわします。そして、だんだん、その円を小さくして赤とんぼに近づいて来ます。
 赤とんぼは、大きな眼(め)をギョロギョロ動かして、書生さんの指先をみつめています。
 だんだん、円は小さく近く、そして早くまわって来ます。
 赤とんぼは、眼(め)まいをしてしまいました。
 つぎの瞬間(しゅんかん)、赤とんぼは、書生(しょせい)さんの大きな指にはさまれていました。
「おじょうさん、赤とんぼをつかまえましたよ。あげましょうか?」
「ばか! あたしの赤とんぼをつかまえたりなんかして――山田のばか!」
 おじょうちゃんは、口をとがらして、湯(ゆ)を書生さんにぶっかけました。
 書生さんは、赤とんぼをはなして逃(に)げて行きました。
 赤とんぼは、ホッとして空へ飛び上がりました。良いおじょうちゃんだな、と思いながら――

 空は真青(まっさお)に晴れています。どこまでも澄(す)んでいます。
 赤とんぼは、窓(まど)に羽(はね)を休めて、書生さんのお話に耳をかたむけています、かあいいおじょうちゃんと同じように。
「それからね、そのとんぼは、怒(おこ)って大蜘蛛(ぐも)のやつにくいかかりました。くいつかれた大蜘蛛(ぐも)は、痛(いた)い! 痛(いた)い! 助けてくれってね、大声にさけんだのですよ。すると、出て来たわ、出て来たわ、小さな蜘蛛(くも)が、雲のように出て来ました。けれども、とんぼは、もともと強いんですから、片端(かたはし)から蜘蛛(くも)にくいついて、とうとう一匹(ぴき)残(のこ)らず殺(ころ)してしまいました。ホッとしてそのとんぼが、自分の姿(すがた)を見ると、これはまあどうでしょう、蜘蛛(くも)の血が、まっかについてるじゃありませんか。さあ大変だって、とんぼは、泉へ飛んで行って、からだを洗(あら)いました。が、赤い血はちっともとれません。で、神様にお願(ねが)いしてみると、お前は、罪(つみ)の無い蜘蛛(くも)をたくさん殺(ころ)したから、そのたたりでそんなになったんだと、叱(しか)られてしまいました。そのとんぼが今の赤とんぼなんですよ。だから、赤とんぼは良くないとんぼです。」
 書生(しょせい)さんのお話は終わりました。
 私(わたし)は、そんな酷(むご)い事をしたおぼえはないがと、赤とんぼが、首をひねって考えましたとき、おじょうちゃんが大声でさけびました。
「嘘(うそ)だ嘘(うそ)だ! 山田のお話は、みんな嘘(うそ)だよ。あんなかあいらしい赤とんぼが、そんな酷(むご)い事をするなんて、蜘蛛(くも)の赤血だなんて――みんな嘘(うそ)だよ。」
 赤とんぼは、真実(ほんとう)にうれしく思いました。
 例の書生さんは、顔をあかくして行ってしまいました。
 窓(まど)から離(はな)れて、赤とんぼは、おじょうちゃんの肩(かた)につかまりました。
「まア! あたしの赤とんぼ! かあいい赤とんぼ!」
 おじょうちゃんの瞳(ひとみ)は、黒く澄(す)んでいました。
 暑(あつ)かった夏は、いつの間にかすぎさってしまいました。
 朝顔(あさがお)は、垣根(かきね)にまきついたまま、しおれました。
 鈴虫(すずむし)が、涼(すず)しい声でなくようになりました。
 今日も、赤とんぼは、おじょうちゃんに会いにやって来ました。
 赤とんぼは、ちょっとびっくりしました。それは、いつも開いている窓(まど)が、皆(みな)しまっているからです。
 どうしたのかしら? と、赤とんぼが考えたとき、玄関(げんかん)から誰(だれ)か跳(と)び出して来ました。
 おじょうちゃんです。あのかあいいおじょうちゃんです。
 けれども、今日のおじょうちゃんは、悲しい顔つきでした。そして、この別荘(べっそう)へはじめて来たときかぶってた、赤いリボンの帽子(ぼうし)を着け、きれいな服(ふく)を着ていました。
 赤とんぼはいつものように飛んで行って、おじょうちゃんの肩(かた)にとまりました。
「あたしの赤とんぼ……かあいい赤とんぼ……あたし、東京へ帰るのよ、もうお別れよ。」
 おじょうちゃんは、小さい細い声で泣(な)くように言いました。
 赤とんぼは悲しくなりました。自分もおじょうちゃんといっしょに東京へ行きたいなと思いました。
 そのとき、おじょうちゃんのお母さんと、赤とんぼにいたずらをした書生(しょせい)さんが、出てまいりました。
「ではまいりましょう。」
 皆(みな)、歩き出しました。
 赤とんぼは、やがておじょうちゃんの肩(かた)を離(はな)れて、垣根(かきね)の竹の先にうつりました。
「あたしの赤とんぼよ、さようなら――」
 かあいいおじょうちゃんは、なんべんもふりかえっていいました。
 けど、とうとう、皆(みな)の姿(すがた)は見えなくなってしまったのです。
 もう、これからは、この家は空家(あきや)になるのかな――赤とんぼは、しずかに首をかたむけました。

 淋(さび)しい秋の夕方など、赤とんぼは、尾花(おばな)の穂先(ほさき)にとまって、あのかあいいおじょうちゃんを思い出しています。





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底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書
   1988(昭和63)年7月8日第1刷発行
親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書
入力:もりみつじゅんじ
校正:鈴木厚司
2003年5月18日作成
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新美南吉 赤とんぼ

2008-08-07 07:07:09 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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赤とんぼ
新美南吉

3900字

 赤とんぼは、三回ほど空をまわって、いつも休む一本の垣根(かきね)の竹の上に、チョイととまりました。
 山里の昼は静かです。
 そして、初夏の山里は、真実(ほんとう)に緑につつまれています。
 赤とんぼは、クルリと眼玉(めだま)を転(てん)じました。
 赤とんぼの休んでいる竹には、朝顔(あさがお)のつるがまきついています。昨年(さくねん)の夏、この別荘(べっそう)の主人が植(う)えていった朝顔の結んだ実が、また生(は)えたんだろう――と赤とんぼは思いました。
 今はこの家には誰(だれ)もいないので、雨戸が淋(さび)しくしまっています。
 赤とんぼは、ツイと竹の先からからだを離(はな)して、高い空に舞(ま)い上がりました。

 三四人の人が、こっちへやって来ます。
 赤とんぼは、さっきの竹にまたとまって、じっと近づいて来る人々を見ていました。
 一番最初にかけて来たのは、赤いリボンの帽子(ぼうし)をかぶったかあいいおじょうちゃんでした。それから、おじょうちゃんのお母さん、荷物(にもつ)をドッサリ持った書生(しょせい)さん――と、こう三人です。
 赤とんぼは、かあいいおじょうちゃんの赤いリボンにとまってみたくなりました。
 でも、おじょうちゃんが怒(おこ)るとこわいな――と、赤とんぼは頭をかたげました。
 けど、とうとう、おじょうちゃんが前へ来たとき、赤とんぼは、おじょうちゃんの赤いリボンに飛びうつりました。
「あッ、おじょうさん、帽子(ぼうし)に赤とんぼがとまりましたよ。」と、書生さんがさけびました。
 赤とんぼは、今におじょうちゃんの手が、自分をつかまえに来やしないかと思って、すぐ飛ぶ用意をしました。
 しかし、おじょうちゃんは、赤とんぼをつかまえようともせず、
「まア、あたしの帽子(ぼうし)に! うれしいわ!」といって、うれしさに跳(と)び上がりました。
 つばくらが、風のようにかけて行きます。

 かあいいおじょうちゃんは、今まで空家(あきや)だったその家に住みこみました。もちろん、お母さんや書生(しょせい)さんもいっしょです。
 赤とんぼは、今日も空をまわっています。
 夕陽(ゆうひ)が、その羽(はね)をいっそう赤くしています。

「とんぼとんぼ
 赤とんぼ
 すすきの中は
 あぶないよ」

 あどけない声で、こんな歌をうたっているのが、聞こえて来ました。
 赤とんぼは、あのおじょうちゃんだろうと思って、そのまま、声のする方へ飛んで行きました。
 思った通り、うたってるのは、あのおじょうちゃんでした。
 おじょうちゃんは、庭で行水(ぎょうずい)をしながら、一人うたってたのです。
 赤とんぼが、頭の上へ来ると、おじょうちゃんは、持ってたおもちゃの金魚をにぎったまま、
「あたしの赤とんぼ!」とさけんで、両手を高くさし上げました。
 赤とんぼは、とても愉快(ゆかい)です。
 書生(しょせい)さんが、シャボンを持ってやって来ました。
「おじょうさん、背中(せなか)を洗(あら)いましょうか?」
「いや――」
「だって――」
「いや! いや! お母さんでなくっちゃ――」
「困(こま)ったおじょうさん。」
 書生(しょせい)さんは、頭をかきながら歩き出しましたが、朝顔の葉にとまって、ふたりの話をきいてる赤とんぼを見つけると、右手を大きくグルーッと一回まわしました。
 妙(みょう)な事をするな――と思って、赤とんぼはその指先を見ていました。
 つづけて、グルグルと書生さんは右手をまわします。そして、だんだん、その円を小さくして赤とんぼに近づいて来ます。
 赤とんぼは、大きな眼(め)をギョロギョロ動かして、書生さんの指先をみつめています。
 だんだん、円は小さく近く、そして早くまわって来ます。
 赤とんぼは、眼(め)まいをしてしまいました。
 つぎの瞬間(しゅんかん)、赤とんぼは、書生(しょせい)さんの大きな指にはさまれていました。
「おじょうさん、赤とんぼをつかまえましたよ。あげましょうか?」
「ばか! あたしの赤とんぼをつかまえたりなんかして――山田のばか!」
 おじょうちゃんは、口をとがらして、湯(ゆ)を書生さんにぶっかけました。
 書生さんは、赤とんぼをはなして逃(に)げて行きました。
 赤とんぼは、ホッとして空へ飛び上がりました。良いおじょうちゃんだな、と思いながら――

 空は真青(まっさお)に晴れています。どこまでも澄(す)んでいます。
 赤とんぼは、窓(まど)に羽(はね)を休めて、書生さんのお話に耳をかたむけています、かあいいおじょうちゃんと同じように。
「それからね、そのとんぼは、怒(おこ)って大蜘蛛(ぐも)のやつにくいかかりました。くいつかれた大蜘蛛(ぐも)は、痛(いた)い! 痛(いた)い! 助けてくれってね、大声にさけんだのですよ。すると、出て来たわ、出て来たわ、小さな蜘蛛(くも)が、雲のように出て来ました。けれども、とんぼは、もともと強いんですから、片端(かたはし)から蜘蛛(くも)にくいついて、とうとう一匹(ぴき)残(のこ)らず殺(ころ)してしまいました。ホッとしてそのとんぼが、自分の姿(すがた)を見ると、これはまあどうでしょう、蜘蛛(くも)の血が、まっかについてるじゃありませんか。さあ大変だって、とんぼは、泉へ飛んで行って、からだを洗(あら)いました。が、赤い血はちっともとれません。で、神様にお願(ねが)いしてみると、お前は、罪(つみ)の無い蜘蛛(くも)をたくさん殺(ころ)したから、そのたたりでそんなになったんだと、叱(しか)られてしまいました。そのとんぼが今の赤とんぼなんですよ。だから、赤とんぼは良くないとんぼです。」
 書生(しょせい)さんのお話は終わりました。
 私(わたし)は、そんな酷(むご)い事をしたおぼえはないがと、赤とんぼが、首をひねって考えましたとき、おじょうちゃんが大声でさけびました。
「嘘(うそ)だ嘘(うそ)だ! 山田のお話は、みんな嘘(うそ)だよ。あんなかあいらしい赤とんぼが、そんな酷(むご)い事をするなんて、蜘蛛(くも)の赤血だなんて――みんな嘘(うそ)だよ。」
 赤とんぼは、真実(ほんとう)にうれしく思いました。
 例の書生さんは、顔をあかくして行ってしまいました。
 窓(まど)から離(はな)れて、赤とんぼは、おじょうちゃんの肩(かた)につかまりました。
「まア! あたしの赤とんぼ! かあいい赤とんぼ!」
 おじょうちゃんの瞳(ひとみ)は、黒く澄(す)んでいました。
 暑(あつ)かった夏は、いつの間にかすぎさってしまいました。
 朝顔(あさがお)は、垣根(かきね)にまきついたまま、しおれました。
 鈴虫(すずむし)が、涼(すず)しい声でなくようになりました。
 今日も、赤とんぼは、おじょうちゃんに会いにやって来ました。
 赤とんぼは、ちょっとびっくりしました。それは、いつも開いている窓(まど)が、皆(みな)しまっているからです。
 どうしたのかしら? と、赤とんぼが考えたとき、玄関(げんかん)から誰(だれ)か跳(と)び出して来ました。
 おじょうちゃんです。あのかあいいおじょうちゃんです。
 けれども、今日のおじょうちゃんは、悲しい顔つきでした。そして、この別荘(べっそう)へはじめて来たときかぶってた、赤いリボンの帽子(ぼうし)を着け、きれいな服(ふく)を着ていました。
 赤とんぼはいつものように飛んで行って、おじょうちゃんの肩(かた)にとまりました。
「あたしの赤とんぼ……かあいい赤とんぼ……あたし、東京へ帰るのよ、もうお別れよ。」
 おじょうちゃんは、小さい細い声で泣(な)くように言いました。
 赤とんぼは悲しくなりました。自分もおじょうちゃんといっしょに東京へ行きたいなと思いました。
 そのとき、おじょうちゃんのお母さんと、赤とんぼにいたずらをした書生(しょせい)さんが、出てまいりました。
「ではまいりましょう。」
 皆(みな)、歩き出しました。
 赤とんぼは、やがておじょうちゃんの肩(かた)を離(はな)れて、垣根(かきね)の竹の先にうつりました。
「あたしの赤とんぼよ、さようなら――」
 かあいいおじょうちゃんは、なんべんもふりかえっていいました。
 けど、とうとう、皆(みな)の姿(すがた)は見えなくなってしまったのです。
 もう、これからは、この家は空家(あきや)になるのかな――赤とんぼは、しずかに首をかたむけました。

 淋(さび)しい秋の夕方など、赤とんぼは、尾花(おばな)の穂先(ほさき)にとまって、あのかあいいおじょうちゃんを思い出しています。





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底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書
   1988(昭和63)年7月8日第1刷発行
親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書
入力:もりみつじゅんじ
校正:鈴木厚司
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:


二葉亭四迷 エスペラントの話  ②■■は■■の母ですね

2008-08-07 07:06:02 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
ポータルサイト 検索(情報)の達人 IT事典(書物・人物・他:文学作品)
高大連携情報誌「大学受験ニュース」  東京外国語大学




エスペラントの話
二葉亭四迷



 ①■■■■■■の話を聴きたい、よろしい、やりませう。しかし先月の事だ、彩雲閣から世界語といふ謂はゞ①■■■■■■の手ほどきのやうなものを出した、あの本の例言に一通り書いて置いたが、読んで下すつたか。え、まだ読まない、困つたねえ、ぢや仕方がない、少し重複になるが、由来からお話しませう。と云つて何も六(むづ)かしい由来がある訳ではないが、詰(つま)り②■■は■■の母ですね、①■■■■■■の発明されたのも畢竟(ひつきやう)必要に促されたに外ならんので、昔から世界通用語の必要は世界の人が皆感じてゐた、で、或は電信の符号のやうなものを作つて、○と見たら英人はサンと思へ、独逸人はゾンネと思へさ、ね、日本人なら太陽と読めと云つたやうな説もあつたが、そんな無理な事は到底行はれん。そこで、現在の各国に国語中一番弘く行はれてゐる英語とか仏語とかを採つて国際語にしたらといふ説も出たが、これも弊が多くて困る、成程(なるほど)英語が国際語になつたら英人には都合が好からうが夫(それ)では他の国民が迷惑する。仏語でも独逸語でも其通り、夫に各国人皆それ/″\に自尊心といふものが有るから、余所(よそ)の国の言葉が国際語になつては承知せん、何でも自分の国の言葉を採用しろと主張する、到底(とて)も相談の纏(まと)まる見込はない、そこで是はどうでも何か新しい言語(ことば)を作つて、それを一般に行ふより外手段はないとなつて諸国の学者は此方面でいろ/\工夫してゐる中に、千八百八十二年といへば明治十二(ママ)年に当りますかね、其年にウォラビュックといふ新発明の国際語が出来た、かの符号などから視れば余程気が利(き)いてゐるけれど、惜しい事には余り人為的で、細工に過ぎてゐて之を人情風俗の違ふ各国人の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了(しま)ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも③■売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国(どこ)でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八(ママ)年になりますかな、其年の末に初めて所謂(いはゆる)①■■■■■■が世に公(おほやけ)にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰(つま)り波蘭人(ポーランドじん)だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽(たちまち)の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳(ウラジオストック)でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此(こゝ)に無しといふ有様で、好加減(いゝかげん)に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日巴里(パリ)から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又墨西哥(メキシコ)の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語(スペインご)にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂(い)つてよろしい。安孫子(あびこ)君の報道でみると、倫敦(ロンドン)の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ思ひ合せればエスペラントは或一部の人の想像するやうなユートピヤではない、既に世界の人から国際語として存在の価値あることを認められて現に応用されつゝあるものだ。
 発明後僅(わづ)か二十年経(た)つか経たぬ中に此通り弘まつたのは、一方から言へば人間の交通が益々頻繁になつて世界通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、一方に於てはエスペラントなるものが此需要を満足する恰好(かつかう)の言語であることを証拠立てるとまあいふべきでせう。まあ試みにやつて御覧、それは造作もないものだ。文法は僅か十六則で、語根が一千語内外、それはあの「世界語」の終に載せた字書に残らず収まつてゐるから、あの字書さへあれば、十六則の文法を便りにして、一寸本も読めれば、会話も出来、手紙もかける、格別研究する必要もない位のものだ。論より証拠、かういふ私は浦潮でポストニコフといふ人から習つたと云つても唯アルファベットの読み方を教へて貰つたゞけの事で其外何も習つたのでない、而(しか)もアルファベットも習ひ放しで、いろ/\忙がしかつたものだから、教科書は鞄の中へ放り込んだ儘(まゝ)ツイ窺(のぞ)いてみた事もなかつたが、北京で仏人の手紙が届いた時、字引を引き/\読んでみると造作もなく分つた、分る事は分つたが返事が書けるかしらと、何しても此時初めてエスペラント語で書いたものを読んで見たのだから、内々危ぶみつゝ文法を読み読み、字引を繰(く)り/\やつてみると、手紙も亦(また)造作もなく書けた、尤(もつと)も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。これは私ばかりではない誰でも然(さ)うなので、現に此間も去る友人から「世界語」を一部送つて呉(くれ)ろと言つて来たから送つてやると、直ぐエスペラントで小版三頁程の手紙を寄越(よこ)した、尤も此友人は倫敦に永く居た人で英文に堪能である所為(せゐ)もあらうが、中々巧く書いてある、而(そ)してその言草が好いぢやないか、エスペラントの容易(やさ)しいのには驚いたトかうだ。が、実際その通りで驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目を透(とほ)しさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。さう容易しくては複雑な思想は言顕(いひあら)はせまいと思ふ人もあらうが、ところが然(さ)うでない。かの「世界語」の終りに載せた世界語既刊書目を見ても分るが、既に④■■■■■■■のハムレットもエスペラントの飜訳になつてゐる、⑤■■■■■■のクリスマス、キャロルも飜訳になつてゐる、⑥ハ■ネ、⑦■ーテの詩も飜訳されてある、⑧■■ロンも、⑨プー■■■も、⑩■■■トイもシンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377-上-13]チも飜訳されてある、私が曾て苅心(かるしん)と署名して四日間といふガルシンのスケッチを反訳して新小説に出したことがあるが、あんなものまで最(も)う反訳されてある。是は皆美文だが、哲学書にしてもライプニッツのモナドロギイが反訳になつてゐる位だから、凡(およ)そ今の人間の言語で言顕はす事は、どんな事でもエスペラントで言はれぬといふことはない、それでゐて殆(ほとん)ど研究といふ程の研究をせんでも分るのだから、それから推(お)しても①■■■■■■の将来は実に多望だ。十年二十年と経つたら、今より数十倍応用の範囲が弘まり、五十年も経つたら、各国の小学校の必須科目になるかも知れん、現に既に必須科目にしてゐる地方もある位だから、そりや然ういふことになるかも知れん、私はエスペラントの将来に就いては大のオプチミストだ。
 まだ/\エスペラントに就いては大分言ひたい事がある、英語は今では日本にも大分弘まつてゐるやうではあるが、しかしまだ/\知らない人も多いだらうからさういふ謂はゞ外国語を習ひ後れた人には、是非エスペラントを勧めたい、それから英語なり独逸語なり、現在の外国語になると、何程手に入つたといつても、書いたものを直ぐ出版するといふことの出来る人は少からう、多くは是非一度英人なり独逸人なりに筆を入れて貰はなければ、安心して出版は出来まい、ところがエスペラントは何国(どこ)の言葉といふのでないから、同じ文法に依つて、同じ言葉を使ひながら、各国皆其スタイルが違ふやうだ、例(たと)へば英人は英語を、独逸人は独逸語を、仏人は仏語をそれ/″\エスペラントに引直して用ゐるから、英人のエスペラントには英語の臭味(くさみ)があり、仏人は仏語、独逸人は独逸語の臭味がある。だから日本のエスペラントは日本語の臭味があつたとて一向差支(さしつかへ)ないと思ふ。これは非常に都合の好い話だから、願はくば多数の力でエスペラントの日本式スタイルを作つて、日本語の精神でエスペラントを使つて世界の人を相手にドシドシ著作の出来るやうにしたい。此外まだ言ひたい事は沢山あるけれど、まあ、此位で止めて置かう。

(⑪■■三十九年十月)





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底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・⑫■■■四迷集」⑬■■書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:土屋隆
校正:Juki
2007年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:






























エスペラントの話
二葉亭四迷



 エスペラントの話を聴きたい、よろしい、やりませう。しかし先月の事だ、彩雲閣から世界語といふ謂はゞエスペラントの手ほどきのやうなものを出した、あの本の例言に一通り書いて置いたが、読んで下すつたか。え、まだ読まない、困つたねえ、ぢや仕方がない、少し重複になるが、由来からお話しませう。と云つて何も六(むづ)かしい由来がある訳ではないが、詰(つま)り必要は発明の母ですね、エスペラントの発明されたのも畢竟(ひつきやう)必要に促されたに外ならんので、昔から世界通用語の必要は世界の人が皆感じてゐた、で、或は電信の符号のやうなものを作つて、○と見たら英人はサンと思へ、独逸人はゾンネと思へさ、ね、日本人なら太陽と読めと云つたやうな説もあつたが、そんな無理な事は到底行はれん。そこで、現在の各国に国語中一番弘く行はれてゐる英語とか仏語とかを採つて国際語にしたらといふ説も出たが、これも弊が多くて困る、成程(なるほど)英語が国際語になつたら英人には都合が好からうが夫(それ)では他の国民が迷惑する。仏語でも独逸語でも其通り、夫に各国人皆それ/″\に自尊心といふものが有るから、余所(よそ)の国の言葉が国際語になつては承知せん、何でも自分の国の言葉を採用しろと主張する、到底(とて)も相談の纏(まと)まる見込はない、そこで是はどうでも何か新しい言語(ことば)を作つて、それを一般に行ふより外手段はないとなつて諸国の学者は此方面でいろ/\工夫してゐる中に、千八百八十二年といへば明治十二(ママ)年に当りますかね、其年にウォラビュックといふ新発明の国際語が出来た、かの符号などから視れば余程気が利(き)いてゐるけれど、惜しい事には余り人為的で、細工に過ぎてゐて之を人情風俗の違ふ各国人の口へ掛けたら、どうやら支離滅裂になつて了(しま)ひさうで、どうも申分が多いが、外に之に代るべきものもないから、一時は相応に研究する者もあつた、我国でも読売新聞が其文法を飜訳して附録にして出したことがあるから或は研究した人もあるでせう、しかし何国(どこ)でも未だ弘く行はれるといふ程に行かぬ中、千八百八十七年、即ち明治十八(ママ)年になりますかな、其年の末に初めて所謂(いはゆる)エスペラントが世に公(おほやけ)にせられた。之は露国ワルソウの人だから詰(つま)り波蘭人(ポーランドじん)だ、其波蘭人のドクトル、ザメンコフといふ人の発明で、かのウォラビュックなどから視ると、遙かに自然的で無理が少ないから、忽(たちまち)の中に非常な勢で諸国に弘まつた。今では世界中で亜細亜や阿弗利加を除いては到る処にエスペラント協会が出来てゐて、其教科書は各国語に飜訳されてある。私が始て浦潮斯徳(ウラジオストック)でポストニコフといふ人からエスペラント語を習つた時にも、同氏から此語が欧米で盛に研究されつゝある話を聴いたことがあつたが、当時は仔細あつて私の心は彼に在つて此(こゝ)に無しといふ有様で、好加減(いゝかげん)に聞流して置いたが、其後北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日巴里(パリ)から手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、戦争前帰朝すると間もなく又墨西哥(メキシコ)の未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙語(スペインご)にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂(い)つてよろしい。安孫子(あびこ)君の報道でみると、倫敦(ロンドン)の商業会議所ではエスペラントを書記の必須科目にしてゐるさうだ、又黒板博士の話では倫敦の或るステーションにはエスペラントのガイドが居ると云ふ、かれこれ思ひ合せればエスペラントは或一部の人の想像するやうなユートピヤではない、既に世界の人から国際語として存在の価値あることを認められて現に応用されつゝあるものだ。
 発明後僅(わづ)か二十年経(た)つか経たぬ中に此通り弘まつたのは、一方から言へば人間の交通が益々頻繁になつて世界通用語の必要が切に感ぜられることを証拠立てると同時に、一方に於てはエスペラントなるものが此需要を満足する恰好(かつかう)の言語であることを証拠立てるとまあいふべきでせう。まあ試みにやつて御覧、それは造作もないものだ。文法は僅か十六則で、語根が一千語内外、それはあの「世界語」の終に載せた字書に残らず収まつてゐるから、あの字書さへあれば、十六則の文法を便りにして、一寸本も読めれば、会話も出来、手紙もかける、格別研究する必要もない位のものだ。論より証拠、かういふ私は浦潮でポストニコフといふ人から習つたと云つても唯アルファベットの読み方を教へて貰つたゞけの事で其外何も習つたのでない、而(しか)もアルファベットも習ひ放しで、いろ/\忙がしかつたものだから、教科書は鞄の中へ放り込んだ儘(まゝ)ツイ窺(のぞ)いてみた事もなかつたが、北京で仏人の手紙が届いた時、字引を引き/\読んでみると造作もなく分つた、分る事は分つたが返事が書けるかしらと、何しても此時初めてエスペラント語で書いたものを読んで見たのだから、内々危ぶみつゝ文法を読み読み、字引を繰(く)り/\やつてみると、手紙も亦(また)造作もなく書けた、尤(もつと)も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。これは私ばかりではない誰でも然(さ)うなので、現に此間も去る友人から「世界語」を一部送つて呉(くれ)ろと言つて来たから送つてやると、直ぐエスペラントで小版三頁程の手紙を寄越(よこ)した、尤も此友人は倫敦に永く居た人で英文に堪能である所為(せゐ)もあらうが、中々巧く書いてある、而(そ)してその言草が好いぢやないか、エスペラントの容易(やさ)しいのには驚いたトかうだ。が、実際その通りで驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目を透(とほ)しさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。さう容易しくては複雑な思想は言顕(いひあら)はせまいと思ふ人もあらうが、ところが然(さ)うでない。かの「世界語」の終りに載せた世界語既刊書目を見ても分るが、既にシェークスピヤのハムレットもエスペラントの飜訳になつてゐる、ヂッケンスのクリスマス、キャロルも飜訳になつてゐる、ハイネ、ゲーテの詩も飜訳されてある、バイロンも、プーシキンも、トルストイもシンキーウ※[#小書き片仮名ヰ、377-上-13]チも飜訳されてある、私が曾て苅心(かるしん)と署名して四日間といふガルシンのスケッチを反訳して新小説に出したことがあるが、あんなものまで最(も)う反訳されてある。是は皆美文だが、哲学書にしてもライプニッツのモナドロギイが反訳になつてゐる位だから、凡(およ)そ今の人間の言語で言顕はす事は、どんな事でもエスペラントで言はれぬといふことはない、それでゐて殆(ほとん)ど研究といふ程の研究をせんでも分るのだから、それから推(お)してもエスペラントの将来は実に多望だ。十年二十年と経つたら、今より数十倍応用の範囲が弘まり、五十年も経つたら、各国の小学校の必須科目になるかも知れん、現に既に必須科目にしてゐる地方もある位だから、そりや然ういふことになるかも知れん、私はエスペラントの将来に就いては大のオプチミストだ。
 まだ/\エスペラントに就いては大分言ひたい事がある、英語は今では日本にも大分弘まつてゐるやうではあるが、しかしまだ/\知らない人も多いだらうからさういふ謂はゞ外国語を習ひ後れた人には、是非エスペラントを勧めたい、それから英語なり独逸語なり、現在の外国語になると、何程手に入つたといつても、書いたものを直ぐ出版するといふことの出来る人は少からう、多くは是非一度英人なり独逸人なりに筆を入れて貰はなければ、安心して出版は出来まい、ところがエスペラントは何国(どこ)の言葉といふのでないから、同じ文法に依つて、同じ言葉を使ひながら、各国皆其スタイルが違ふやうだ、例(たと)へば英人は英語を、独逸人は独逸語を、仏人は仏語をそれ/″\エスペラントに引直して用ゐるから、英人のエスペラントには英語の臭味(くさみ)があり、仏人は仏語、独逸人は独逸語の臭味がある。だから日本のエスペラントは日本語の臭味があつたとて一向差支(さしつかへ)ないと思ふ。これは非常に都合の好い話だから、願はくば多数の力でエスペラントの日本式スタイルを作つて、日本語の精神でエスペラントを使つて世界の人を相手にドシドシ著作の出来るやうにしたい。此外まだ言ひたい事は沢山あるけれど、まあ、此位で止めて置かう。

(明治三十九年十月)





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底本:「現代日本文學大系 1 政治小説・坪内逍遙・二葉亭四迷集」筑摩書房
   1971(昭和46)年2月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:土屋隆
校正:Juki
2007年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:


南方熊楠   日本の②博■学者、生物学者(とくに③■類学)、④民■学者。菌類学者としては動

2008-08-07 07:04:52 | 4 教育ニュース {新聞・雑誌・テレビ}
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南方熊楠


①■■(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の②博■学者、生物学者(とくに③■類学)、④民■学者。菌類学者としては動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。主著⑤『十■支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。「歩くエンサイクロペディア⑥(■科事典)」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

[編集] 人物と学績
子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていた。何日も家に帰らず山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には⑦漢訳大■■を読破したといわれる。

彼のその学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、⑧■荼■のような知識の網が産まれた。1892年にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。⑨■■■■■東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、⑩■■國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での⑪■■人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』⑫『■陽』⑬『■■及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

彼にまつわるエピソードは膨大である。エキセントリックな行動が多く、酒豪であったが、半面、酒にまつわる失敗も少なくなかった。語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより⑭サ■■■リット語におよぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。また、田辺では、1906年末に布告された⑮「■■合祀令」によって神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて生物が絶滅したり、また生態系が破壊されてしまうことを憂い、1907年より⑯神社■■反対運動を起こした。今日、この運動は⑰自然■■運動、あるいは⑱■■■ジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年に⑲■■遺産(文化遺産)にも登録された熊野⑳■■が今に残る端緒ともなっている。なお、江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の文献研究を行ったことでも知られている。


[編集] 年譜
1867年(慶応3年)4月15日 - 和歌山城下橋丁(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という
1873年(明治6年) - 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)に入学 
1876年(明治9年) - 雄小学校卒業、鐘秀学校[1]に入学。岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶して筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等をも筆写
1879年(明治12年) - 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)に入学。教師鳥山啓から博物学をすすめられ、薫陶を受ける
1880年(明治13年) - 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる
1881年(明治14年) - 『和漢三才図会』をうつし終える
1883年(明治16年) - 和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6000点集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った
1884年(明治17年) - 大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。熊楠は、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業
1885年(明治18年) - 日光へ植物採集旅行
1886年(明治19年) - 中間試験で落第したため予備門を中退、和歌山へ帰郷
12月22日 - 神戸港より渡米 
1887年(明治20年)1月7日 - サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学
8月 - ミシガン州ランシング市州立農大入学
1888年(明治21年) - 寄宿舎での飲酒を禁ずる校則を違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴの地衣類学者カルキンスに師事して標本作製を学ぶ

大英博物館1891年(明治24年) - フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人、江聖聡の食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『Nature』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる
9月 - キューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(「グァレクタ・クバーナ」と命名)。サーカス団員として中南米旅行
1892年(明治25年)1月 - フロリダにもどり江聖聡と再び同居
9月 - イギリスに渡る
9月28日 - イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける
1893年(明治26年) - 科学雑誌『Nature』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く
1895年(明治28年) - ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る
1896年(明治29年)2月27日 - 母すみ、なくなる

孫文1897年(明治30年) - ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)
1898年(明治31年) - 大英博物館で暴力事件をおこす
1900年(明治33年) - 大英博物館を出入り禁止となる。14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(泉南郡岬町)次いで和歌山市の円珠院に居住する
1901年(明治34年) - 孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交をあたためる
1902年(明治35年) - 熊野にて植物採集、採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う
1903年(明治36年) - 論文「燕石考」完成
1904年(明治37年) - 田辺に家を借りる
1905年(明治38年) - ディキンズとの共訳『方丈記』完成
1906年(明治39年) - 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)
1907年(明治40年) - 前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動をおこす
7月 - 長男熊弥誕生
1909年(明治42年)9月 - 新聞「牟婁新報」に神社合祀反対の論陣を張る
1910年(明治43年) - 紀伊教育会主催の講習会場に押し入り、翌日「家宅侵入」で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという

柳田國男(1940年ころ)1911年(明治44年) - 柳田國男との文通がはじまる(1913年までつづく)。9月、柳田『南方二書』を出版
10月13日 - 長女文枝誕生
1912年(明治45年) - 田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される
1913年(大正2年) - 柳田國男、田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)
1914年(大正3年) - 『十二支考』連載(1923年まで)
1915年(大正4年) - アメリカ農務省スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査
1916年(大正5年) - 田辺に常楠(弟)の名義で家を買う
1917年(大正6年) - 自宅の柿の木で粘菌新属を発見
1920年(大正9年) - 小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する
1921年(大正10年) - 粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifia、長糸南方粘菌)と命名される。命名者は大英博物館の粘菌学者グリエルマ・リスター女史であった
1922年(大正11年) - 南方植物研究所設立資金募集のため上京
1926年(大正15年) - 『南方随筆』刊行。イタリアのプレサドラ大僧正の菌図譜出版に際し、名誉委員に推される
1929年(昭和4年) - 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講。当初の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された
1930年(昭和5年)6月 - 天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する
1935年(昭和10年)12月24日 - 神島が国の天然記念物に指定される
1941年(昭和16年)12月29日 - 自宅にて死去。死因は萎縮腎であった。享年75(満74歳没)。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られる。

[編集] 人物像
幼少時代の父は鍋屋を営み、鍋や釜を包むのに反古紙を山と積んでいた。熊楠は、反古に書かれた絵や文字をむさぼり読んで成長した。
とにかく奇行が多かったことで知られる。多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたとか、そのために「てんぎゃん」と呼ばれたという話ものこる。
渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の言葉をのこしている。
キューバ採集旅行中に資金の尽きた熊楠は、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなど2か月あまりサーカス団の一員となって生活したことがある。
ロンドン留学から帰国後も猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。
のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の身体を松枝に洗ってもらった。
熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。
柳田國男が田辺に来て熊楠と会おうとした際、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。
ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若舞などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。
生涯定職に就かず、ろくに収入がなかった。研究所設立のため、資金集めをしていた時、遺産相続の問題で弟・常楠と衝突し、絶縁状態になった。
自在にヘドを吐くことができる体質であった。小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いたという[2]。
元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方をいろいろ調べたことがあった。その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという[3]。
田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、“某氏”の話が出た。南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんな事をしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている[4]。
蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」[5]とのことばも残している。ただし、こんにち残された蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという[6]。
1929年に田辺湾の神島で昭和天皇に講義したとき、熊楠は標本をキャラメルの箱に入れて持っていったという(平民が直接皇族にものを手渡すことは、下手をすれば不敬罪。しかも中身は、粘菌。さらに、皇族にものを贈る際には桐の箱でなければならないとされている)。

[編集] 著作
『十二支考〈上〉』岩波書店<岩波文庫>、ISBN 4003313917
『十二支考〈下〉』岩波書店<岩波文庫> 、ISBN 4003313925
中沢新一編『南方熊楠コレクション 〈第1巻〉南方マンダラ』河出書房新社 <河出文庫>、ISBN 4309472060
松居竜五、中西須美、田村義也、飯倉照平訳『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇』集英社、 ISBN 4087813320
ワタリウム美術館編『南方熊楠菌類図譜』新潮社、2007年、ISBN 978-4-10-305551-8

[編集] 評価
生物学者としての昭和天皇が1948年(昭和23年)ごろ渋沢敬三(当時常民文化研究所所長)に熊楠の標本調査を依頼したことを機縁として、渋沢により「南方ソサエティ」が設立された。
1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて歌を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。
雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

1980年代ころより南方再評価の動きが生じ、地元和歌山県田辺市に南方熊楠顕彰会が設立され、生前資料の保存と研究、啓発行事などを行っている。
出生地和歌山市では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。

[編集] 家族
父:南方弥右衛門 - 世界一統創業者[7]
母:すみ
兄:藤吉
姉:垣内くま
弟:常楠 - 世界一統第2代社長
妹:藤枝
弟:西村楠次郎
妻:松枝
長男:熊弥
長女:文枝

[編集] 子孫
熊楠の邸宅は熊楠死後、娘の文枝が管理していたが、2000年に文枝が死去し、その後は田辺市へ寄贈された後、整備されて南方熊楠顕彰館となった。粘菌標本は国立科学博物館の筑波実験植物園に収められている。

また、長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。


[編集] 南方熊楠を題材とした作品

[編集] 小説
江戸川乱歩 「緑衣の鬼」 - 松村喜雄『乱歩おじさん 江戸川乱歩論』(晶文社、1992年)p.157によると、この作品に登場する在野の粘菌学者夏目菊太郎は熊楠をモデルにしている。
神坂次郎『縛られた巨人』
津本陽『巨人伝』
中沢新一『森のバロック』
千秋寺亰介(あすかあきお)「怨霊記」シリーズ

[編集] 漫画
岸大武郎『てんぎゃん』
水木しげる『猫楠』
内田春菊『「クマグスのミナカテラ』
南方熊楠が脇役として登場
江川達也『日露戦争物語』
高田祐三『九十九眠るしずめ』

[編集] 映画
山本政志監督『熊楠・KUMAGUSU』(主演渡辺哲、町田町蔵、出演泉谷しげる・室井滋ほか、1991年6月に撮影開始、10月完成予定であったが資金難で中止。2007年10月、弁慶映画祭においてパイロット版を上映)
神坂次郎企画・製作・脚本『南方熊楠・その人と生涯』(教育映画)

[編集] 脚注
^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。
^ 『南方熊楠 人と思想』 290頁
^ 『南方熊楠 人と思想』 280 - 281頁
^ 『南方熊楠 人と思想』 281頁
^ 「平家蟹の話」
^ 紀田(1994)
^ 株式会社 世界一統 【熊楠】

[編集] 関連項目
南方熊楠記念館
南方熊楠顕彰館
博物学
菌類学
民俗学
粘菌
江戸川乱歩
柳田國男
熊野古道
鎮守の森

[編集] 参考文献
飯倉照平『南方熊楠 人と思想』平凡社、1974年 
神坂次郎『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』新潮社<新潮文庫>、1991年、ISBN 4-10-120912-X
鶴見和子『南方熊楠:地球志向の比較学』講談社<講談社学術文庫>、1981年、ISBN 4061585282
鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想―未来のパラダイム転換に向けて』藤原書店、2001年、ISBN 4894342316
松居竜五『南方熊楠:一切智の夢』朝日新聞社<朝日選書>、1991年、ISBN 4022595302
荒俣宏「世界のクマグス、日本の熊楠」『小学館版 学習まんが人物館 南方熊楠—自然を愛した「人間博物館」』小学館、1996年、ISBN 4-09-270104-7
紀田順一郎『日本博覧人物史―データベースの黎明』ジャストシステム、1994年、ISBN 4883090779
松居竜五・ワタリウム美術館 『クマグスの森―南方熊楠の見た宇宙』 新潮社、2007年。ISBN 9784106021657。

[編集] 外部リンク
南方熊楠記念館
田辺市 文化振興課 南方熊楠顕彰館
南方 熊楠:作家別作品リスト(青空文庫)
岡本清造『岳父・南方熊楠』
南方熊楠資料研究会
南方熊楠顕彰館
『南方熊楠を知る事典』
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カテゴリ: 日本の民俗学者 | 日本の生物学者 | 自然保護活動家 | 和歌山県出身の人物 | 明治時代の人物 | 神道に関連する人物 | 1867年生 | 1941年没

最終更新 2008年4月30日 (水) 13:19。Wikipedia®



【解答】
①=
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南方熊楠


1891年渡米中の熊楠南方
熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。菌類学者としては動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。「歩くエンサイクロペディア(百科事典)」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

[編集] 人物と学績
子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという特殊な能力をもっていた。何日も家に帰らず山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。

彼のその学風は、ひとつの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、土蔵や那智山中にこもっていそしんだ研究からは、曼荼羅のような知識の網が産まれた。1892年にはイギリスにわたって、ロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。帰国後は、和歌山県田辺町(現、田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を、広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較人類文化学を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。民俗学の研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

彼にまつわるエピソードは膨大である。エキセントリックな行動が多く、酒豪であったが、半面、酒にまつわる失敗も少なくなかった。語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。また、田辺では、1906年末に布告された「神社合祀令」によって神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて生物が絶滅したり、また生態系が破壊されてしまうことを憂い、1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。なお、江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の文献研究を行ったことでも知られている。




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【大学】 71 - 80 件目  75位国立大学法人 室蘭工業大学76位東京電機大学

2008-08-07 07:04:07 | Weblog
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【大学】 71 - 80 件目 


71位
武蔵野美術大学
小平市。大学案内、学部・学科紹介、通信課程、美術資料図書館。
www.musabi.ac.jp/ - 12k - キャッシュ - 関連ページ


72位
成蹊大学
武蔵野市。概要、大学院・学部・学科ガイド、授業関連情報、キャンパス案内、学生生活情報。
www.seikei.ac.jp/university/ - 49k - キャッシュ - 関連ページ


73位
佛教大学
- 総合案内京都市北区。文科系学部と大学院。附属機関・施設紹介。入試情報。
www.bukkyo-u.ac.jp/ - 17k - キャッシュ - 関連ページ


74位
神奈川歯科大学
横須賀市。入学案内、各学科や施設の紹介。
www.kdcnet.ac.jp/ - 2k - キャッシュ - 関連ページ



75位
国立大学法人 室蘭工業大学
室蘭市。入学案内、学科や公開講座など学内イベントの紹介。
www.muroran-it.ac.jp/ - 25k - キャッシュ - 関連ページ


76位
東京電機大学
「実学尊重」「技術は人なり」「学生主役」の理念を核に、技術で社会に貢献する人材を育成。2007年9月に学園創立100周年を迎え、さらなる発展を目指します。
www.dendai.ac.jp/ - 18k - キャッシュ - 関連ページ



77位
武蔵工業大学|2009年4月東京都市大学に校名変更予定概要、入試情報、世田谷と横浜のキャンパスのページへのリンク。
www.musashi-tech.ac.jp/ - 19k - キャッシュ - 関連ページ



78位
福岡大学
福岡市城南区。学部・大学院、キャンパスライフ、図書館、研究施設などの案内。大学病院や付属学校の紹介もある。
www.fukuoka-u.ac.jp/ - 25k - キャッシュ - 関連ページ


79位
白鴎大学
栃木県小山市。受験生の方へ・在学生の方へ・保護者の方へ・一般の方へ・教職員の方へなど.
www.hakuoh.ac.jp/ - 14k - キャッシュ - 関連ページ


80位
学習院大学
学習院大学の公式サイトです。大学概要、入試情報、学部・大学院情報等、各種情報がご覧になれます。
www.gakushuin.ac.jp/univ/ - 24k - キャッシュ - 関連ページ



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田中正造 直訴状※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された

2008-08-07 07:02:54 | 24 ◎調べもの〔随筆・講演会〕文庫
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直訴状
田中正造



     謹奏

田中正造 ※[#○付き「印」、5-4]
草莽ノ微臣田中正造[#「田中正造」は小字]誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。伏テ惟ルニ臣[#「臣」は小字]田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ

鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ
陛下深仁深慈臣[#「臣」は小字]ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[+近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[久シク→之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。[而シテ鉱業ノ益々発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク加フルニ→加フルニ]比年山林ヲ濫伐シ[+煙毒]水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身[+激]変シテ洪水[頻ニ臻リ→又水量ノ高マルコト数尺]毒流四方ニ氾濫シ毒[屑→渣]ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及[+其下流ノ]地数万町歩ニ[及ビ→達シ]魚族[絶滅→斃死]シ田園荒廃シ数十万ノ人民[+ノ中チ]産ヲ失ヒ[+ルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ]業ニ離レ飢テ[泣キ寒ニ叫ビ→食ナク病テ薬ナキアリ。]老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レ[リ→ルアリ]。
臣[#「臣」は小字]夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後[-毎期]議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施ス[+コト]ナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ[+シテ]群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ[+又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ]人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク[破壊→頽廃]セラレ[飢餓→貧苦疾病]及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
伏テ惟ミルニ

陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ
陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ奉リ下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サヾルニ[因→在]ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦
陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦
陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ
陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣[#「臣」は小字]ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。
 伏シテ惟ルニ政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ以テ
陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ恩ニ光被セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ[破壊→頽廃]セルモノヲ恢復スル其五ナリ。[+加毒ノ鉱業ヲ止メ]毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊[ヲ塗炭ニ→ノ死命ヲ]救ヒ[+居住相続ノ基ヘヲ回復シ]其人口ノ減耗ヲ防遏シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家[-富強]ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ[予防→断絶]スルヲ得ベケンナリ。若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣[#「臣」は小字]ハ恐ル其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。
 臣[#「臣」は小字]年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ
聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣[#「臣」は小字]痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
明治三十四年十二月

草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首 ※[#○付き「印」、7-16]





--------------------------------------------------------------------------------

底本:「田中正造全集 第三巻」岩波書店
   1979(昭和54)年1月19日発行
※「直訴状」は幸徳秋水によって起草され、田中正造によって修正された。ファイル中では、田中によって手直しされた箇所を、「[]」におさめて示した。「→」の元が幸徳案、先が田中による変更。「+」は田中による加筆、「-」は削除箇所である。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2003年5月13日作成
青空文庫作成ファイル:

奥の細道 日本の文学作品 | 江戸時代の文学

2008-08-07 07:02:13 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
ポータルサイト 検索(情報)の達人 IT事典(書物・人物・他:文学作品)
高大連携情報誌「大学受験ニュース」 早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村


奥の細道

①■■■■(おくのほそみち)とは、②■■■■が元禄時代に著した紀行本。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品である。また、原文の題名は「おくのほそ道」であり、③中学校■■の検定済み教科書ではすべてその表記法をとっている。作品中には多数の④■■が読み込まれている。

芭蕉が弟子の⑤河合■■を伴って、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し⑥(行く■や■啼■の■は■)、⑦全行程約■■■里(2400キロメートル)、⑧日数約■■■日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。奥の細道では、旧暦8月21日頃⑨大■に到着するまでが書かれている⑩(■のふたみにわかれ行■ぞ)。


































目次 [非表示]
1 旅程
1.1 江戸、旅立ち
1.2 日光
1.3 黒羽 雲巌寺 光明寺
1.4 那須 温泉神社 殺生石
1.5 白河の関
1.6 多賀城
1.7 松島
1.8 平泉
1.9 山形領 立石寺
1.10 新庄
1.11 象潟
1.12 越後 出雲崎
1.13 市振の関
1.14 越中 那古の浦
1.15 金沢
1.16 小松
1.17 加賀 片山津
1.18 山中温泉
1.19 小松 那谷寺
1.20 大聖寺 熊谷山全昌寺
1.21 福井あわら市 吉崎
1.22 敦賀
1.23 大垣
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 旅程

[編集] 江戸、旅立ち

日光道中千住宿入り口元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。

草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家
3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む。

矢立の初め
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

[編集] 日光
4月1日 栃木県日光市

あらたふと 青葉若葉の 日の光

[編集] 黒羽 雲巌寺 光明寺
4月4日 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪の元に投宿。

4月5日 栃木県大田原市の雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。

木啄も庵はやぶらず夏木立
4月9日 栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。

夏山に足駄を拝む首途哉

[編集] 那須 温泉神社 殺生石
4月19日 栃木県那須町の温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。

野を横に馬牽むけよほととぎす

[編集] 白河の関
4月20日 福島県白河市
「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」


[編集] 多賀城
5月4日 壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。


[編集] 松島
5月9日 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)芭蕉は「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」とここでは句を残さなかった。「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだといわれるのは後の人々が考え出した作り話である。


[編集] 平泉
5月13日 藤原3代の跡を尋ねて:
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」
「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと
五月雨の 降り残してや 光堂

[編集] 山形領 立石寺
5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。

閑さや岩にしみ入蝉の声

[編集] 新庄
5月29日 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。

五月雨を あつめて早し 最上川(もがみがは)

[編集] 象潟
6月16日 象潟(きさがた)は松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容した。

象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
西施は中国春秋時代の美女の名。

[編集] 越後 出雲崎
7月4日 出雲崎(いずもざき)での句。

荒海や 佐渡によこたふ 天の河

[編集] 市振の関
7月13日 親不知(おやしらず)の難所を越えて市振(いちぶり)の宿に泊まる。

一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

[編集] 越中 那古の浦
7月14日 数しらぬ川を渡り終えて。

わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)

[編集] 金沢
7月15日から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。曾良は体調勝れず。

塚も動け 我泣聲(わがなくこえ)は 秋の風
秋すゝし 手毎(てごと)にむけや 瓜天茄(うりなすび)
  当地を後にしつつ途中の吟

あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風

[編集] 小松
7月25日から27日 山中温泉から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。

しほらしき 名や小松吹 萩すゝき

[編集] 加賀 片山津
7月26日 平家物語(巻第七)や源平盛衰記も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。

むざんやな 甲の下の きりぎりす

[編集] 山中温泉
7月27日から8月5日 加賀の国山中温泉で大垣を目前に安堵したか八泊後、腹を病む曾良を先に帰し二人はここで別れた。和泉屋に宿する。

山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
今日よりや 書付消さん 笠の露
行行(ゆきゆき)て たふれ伏(たおれふす)とも 萩の原  曾良

[編集] 小松 那谷寺
8月5日 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。

石山の 石より白し 秋の風

[編集] 大聖寺 熊谷山全昌寺
8月7日 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。

庭掃(にわはき)て 出(いで)ばや寺に 散柳(ちるやなぎ)
終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山 曾良

[編集] 福井あわら市 吉崎
8月9日 西行の一首にて数景尽たりと吟せず。蓮如ゆかり吉崎御坊の地。

夜もすがら あらしに波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松 西行

[編集] 敦賀
8月14日頃、敦賀に到着。

ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月
月清し 遊行(ゆうぎょう)が持てる 砂の上
名月や 北国日和(ほっこびより) 定(さだめ)なき

[編集] 大垣
8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。

結びの句
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

[編集] 関連項目
柿衞文庫
陸羽東線(奥の細道湯けむりライン)
陸羽西線(奥の細道最上川ライン)
中田英寿 「人生は旅である」と奥の細道の序文と良く似た表現で引退発表をした。
宮脇俊三 「時刻表おくのほそ道」という著作がある(全国のローカル私鉄の紀行文集)。
姫神 デビュー曲およびファーストアルバムのタイトルが「奥の細道」である。
ギャグマンガ日和 増田こうすけ作の漫画。本作のパロディーである「奥の細道シリーズ」が存在。

[編集] 外部リンク
芭蕉翁「おくのほそ道」ネットワーク 
奥の細道

カテゴリ: 日本の文学作品 | 江戸時代の文学

最終更新 2008年3月17日 (月) 11:34。Wikipedia®





















www.shirabemono.com/i/

奥の細道

奥の細道(おくのほそみち)とは、松尾芭蕉が元禄時代に著した紀行本。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品である。また、原文の題名は「おくのほそ道」であり、中学校国語の検定済み教科書ではすべてその表記法をとっている。作品中には多数の俳句が読み込まれている。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴って、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。奥の細道では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれている(蛤のふたみにわかれ行秋ぞ)。

目次 [非表示]
1 旅程
1.1 江戸、旅立ち
1.2 日光
1.3 黒羽 雲巌寺 光明寺
1.4 那須 温泉神社 殺生石
1.5 白河の関
1.6 多賀城
1.7 松島
1.8 平泉
1.9 山形領 立石寺
1.10 新庄
1.11 象潟
1.12 越後 出雲崎
1.13 市振の関
1.14 越中 那古の浦
1.15 金沢
1.16 小松
1.17 加賀 片山津
1.18 山中温泉
1.19 小松 那谷寺
1.20 大聖寺 熊谷山全昌寺
1.21 福井あわら市 吉崎
1.22 敦賀
1.23 大垣
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 旅程

[編集] 江戸、旅立ち

日光道中千住宿入り口元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。

草の戸も 住み替はる代(よ)ぞ 雛の家
3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む。

矢立の初め
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

[編集] 日光
4月1日 栃木県日光市

あらたふと 青葉若葉の 日の光

[編集] 黒羽 雲巌寺 光明寺
4月4日 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪の元に投宿。

4月5日 栃木県大田原市の雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。

木啄も庵はやぶらず夏木立
4月9日 栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。

夏山に足駄を拝む首途哉

[編集] 那須 温泉神社 殺生石
4月19日 栃木県那須町の温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。

野を横に馬牽むけよほととぎす

[編集] 白河の関
4月20日 福島県白河市
「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」


[編集] 多賀城
5月4日 壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。


[編集] 松島
5月9日 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)芭蕉は「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」とここでは句を残さなかった。「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだといわれるのは後の人々が考え出した作り話である。


[編集] 平泉
5月13日 藤原3代の跡を尋ねて:
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」
「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと
五月雨の 降り残してや 光堂

[編集] 山形領 立石寺
5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。

閑さや岩にしみ入蝉の声

[編集] 新庄
5月29日 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。

五月雨を あつめて早し 最上川(もがみがは)

[編集] 象潟
6月16日 象潟(きさがた)は松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容した。

象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
西施は中国春秋時代の美女の名。

[編集] 越後 出雲崎
7月4日 出雲崎(いずもざき)での句。

荒海や 佐渡によこたふ 天の河

[編集] 市振の関
7月13日 親不知(おやしらず)の難所を越えて市振(いちぶり)の宿に泊まる。

一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

[編集] 越中 那古の浦
7月14日 数しらぬ川を渡り終えて。

わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)

[編集] 金沢
7月15日から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。曾良は体調勝れず。

塚も動け 我泣聲(わがなくこえ)は 秋の風
秋すゝし 手毎(てごと)にむけや 瓜天茄(うりなすび)
  当地を後にしつつ途中の吟

あかあかと 日は難面(つれなく)も あきの風

[編集] 小松
7月25日から27日 山中温泉から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。

しほらしき 名や小松吹 萩すゝき

[編集] 加賀 片山津
7月26日 平家物語(巻第七)や源平盛衰記も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。

むざんやな 甲の下の きりぎりす

[編集] 山中温泉
7月27日から8月5日 加賀の国山中温泉で大垣を目前に安堵したか八泊後、腹を病む曾良を先に帰し二人はここで別れた。和泉屋に宿する。

山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
今日よりや 書付消さん 笠の露
行行(ゆきゆき)て たふれ伏(たおれふす)とも 萩の原  曾良

[編集] 小松 那谷寺
8月5日 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。

石山の 石より白し 秋の風

[編集] 大聖寺 熊谷山全昌寺
8月7日 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。

庭掃(にわはき)て 出(いで)ばや寺に 散柳(ちるやなぎ)
終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山 曾良

[編集] 福井あわら市 吉崎
8月9日 西行の一首にて数景尽たりと吟せず。蓮如ゆかり吉崎御坊の地。

夜もすがら あらしに波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松 西行

[編集] 敦賀
8月14日頃、敦賀に到着。

ふるき名の 角鹿(つぬが)や恋し 秋の月
月清し 遊行(ゆうぎょう)が持てる 砂の上
名月や 北国日和(ほっこびより) 定(さだめ)なき

[編集] 大垣
8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。

結びの句
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ行く 秋ぞ

[編集] 関連項目
柿衞文庫
陸羽東線(奥の細道湯けむりライン)
陸羽西線(奥の細道最上川ライン)
中田英寿 「人生は旅である」と奥の細道の序文と良く似た表現で引退発表をした。
宮脇俊三 「時刻表おくのほそ道」という著作がある(全国のローカル私鉄の紀行文集)。
姫神 デビュー曲およびファーストアルバムのタイトルが「奥の細道」である。
ギャグマンガ日和 増田こうすけ作の漫画。本作のパロディーである「奥の細道シリーズ」が存在。

[編集] 外部リンク
芭蕉翁「おくのほそ道」ネットワーク 
奥の細道

カテゴリ: 日本の文学作品 | 江戸時代の文学

最終更新 2008年3月17日 (月) 11:34。Wikipedia®


壱岐 壱岐の島 麦焼酎発祥の地 ②「■■■人伝」に記されている一大国(一支国)

2008-08-07 07:01:12 | 21 ▽大学受験 論述・穴埋め問題
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」

壱岐

①■■(いき)

長崎県北部の玄界灘上に位置する島。用法により、指し示す範囲が若干異なってくる。
壱岐で最も面積が広く、壱岐の大半の部分を占める壱岐島(壱岐本島とも言う)
壱岐島とその周囲にある属島をまとめた呼称。現在、全域が壱岐市。
律令制下において制定された壱岐国
②「■■■人伝」に記されている一大国(一支国)
福岡市西区にあった地域名。もと福岡県早良郡壱岐村(1941年に福岡市へ編入)。地名としては残っていないが、「壱岐」の名を冠した団地・交番・郵便局・小中学校・バス営業所などが存在する(ただし「壱岐団地」は正式な町名である)。
大日本帝国海軍の戦艦「壱岐」については壱岐 (戦艦)を参照。
日本人の姓の一つ。

カテゴリ: 曖昧さ回避


最終更新 2008年4月4日 (金) 14:40。 Wikipedia®












壱岐

壱岐(いき)

長崎県北部の玄界灘上に位置する島。用法により、指し示す範囲が若干異なってくる。
壱岐で最も面積が広く、壱岐の大半の部分を占める壱岐島(壱岐本島とも言う)
壱岐島とその周囲にある属島をまとめた呼称。現在、全域が壱岐市。
律令制下において制定された壱岐国
「魏志倭人伝」に記されている一大国(一支国)
福岡市西区にあった地域名。もと福岡県早良郡壱岐村(1941年に福岡市へ編入)。地名としては残っていないが、「壱岐」の名を冠した団地・交番・郵便局・小中学校・バス営業所などが存在する(ただし「壱岐団地」は正式な町名である)。
大日本帝国海軍の戦艦「壱岐」については壱岐 (戦艦)を参照。
日本人の姓の一つ。

カテゴリ: 曖昧さ回避


最終更新 2008年4月4日 (金) 14:40。 Wikipedia®

桃太郎が、お婆さんから黍団子を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

2008-08-07 06:59:05 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 岡山大学


桃太郎



桃太郎一行桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。

桃から生まれた桃太郎が、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。

目次 [非表示]
1 あらすじ
2 成り立ち
3 解釈・改変
4 唱歌
5 吉備団子
6 関連書籍
7 派生用語
7.1 選挙
7.2 野菜
7.3 菓子
7.4 鉄道
7.5 企業
7.6 桃太郎に関連する作品
8 関連項目
9 外部リンク



[編集] あらすじ
昔々、ある所に子供のいない老夫婦が住んでいた。ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、大きな桃が流れて来たので、お爺さんと食べようと持ち帰った。二人で桃を割ると中から男の子が生まれたので、「桃太郎」と名付けて大事に育てた。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを知り、鬼退治を決意する。両親から黍団子を餞別に貰い、道中にそれを分け与えてイヌ、サル、キジを家来に従える。鬼ヶ島で鬼と戦い、見事に勝利を収め、鬼が方々から奪っていった財宝を持ち帰り、お爺さん・お婆さんの元に返り、幸せに暮らしたという。

優等生型桃太郎
お爺さんとお婆さんの期待通り働き者の桃太郎に育ち、自ら鬼が島に鬼退治に出かける。
寝太郎型桃太郎
優等生型と同じように力持ちで大きな体に育つが、怠け者で寝てばかりいる。村人や殿などに言われて鬼退治に出かける。

[編集] 成り立ち

桃太郎の人形桃太郎の事跡は、岡山県の吉備津彦・温羅伝説。本家争い等舞台に付いての異論もある。

発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。

明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春型の話の方が主流であった。この他にも『赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた』、『川上から2つの桃が流れて来たのでお婆さんが「緑の桃はあっちゃいけ、赤い桃はこっちゃ来い」と言うと赤い桃が寄って来た』など、物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。明治20年に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。因みに舞台の一つとされる岡山県で桃の栽培が始まったのも明治時代以降である。

また、香川県では桃太郎が女の子だった、とする話がある(生まれてきた女の子があまりにも可愛らしいので鬼にさらわれないように桃太郎と名づけた)。

その後語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。

なお、太平洋近海の国に伝わる御伽噺に『樽』や『果実』の中に入った子供が出てくる話が多数あり、日本人の先祖の一つに海洋民族があることを示している証拠だとする説もある。

桃太郎は大和朝廷(桃太郎たち)と吉備(鬼たち)との争いを話したものであるという説もある。

語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。


[編集] 解釈・改変
上流から流れてきた桃を食べて老夫婦が若返ったというくだりには、道教やさまざまな神話が影響していると見られる。『山海経』や西王母伝説、或るいは日本神話のイザナキの逸話に見られるように、桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊力のある果実とされている。また、山奥に住む仙人にも桃は欠かせない存在である。桃太郎を齎した桃は、こうした霊力のある桃が山から流れて来たものとも考えられる。

鬼は、風水では丑と寅の間の方角(北東)である「鬼門」からやって来ると考えられている事から、桃太郎はそれに対抗して、裏鬼門に位置する動物(申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ))を率いた、という解釈がある。敵役である鬼が牛の様な角を生やし、虎の腰巻きを履いているのも、風水の考えによると考えられる。しかし丑と寅の逆の方位に当たるのは、申、酉、戌ではなく、未と申である事から、率いている動物には別の意味があるともされる。 また、陰陽五行説では桃、申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ)はどれも金を意味する。 儒教的解釈では、サルは智、キジは勇、イヌは仁を表すともされている。

解釈の範疇を超え、一種のパロディ作品も多く生んでいる。有名なところでは桃太郎を鬼の面から解釈した尾崎紅葉の『鬼桃太郎』、極力ユーモラスに桃太郎を書いた巌谷小波の『桃次郎』(明治44年)などがある。

また、時代によりさまざまな思惑から物語に改変が加えられている。

日露戦争の際には『日露ぽんち桃太郎のロスキー征伐』(明治38年)という版が出ている。内容は「昔は南の国に鬼がいたが、今は西方にロスキー(露西鬼)がいる」というものであった。
太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。
しかし、現在では「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている。しかし、この場合、どこからどうして金銀財宝が出てくるのか、判然としない。また、「金銀財宝」の獲得、つまり経済的成功こそが正義とする思想も価値観が多様化する現代においては受け入れられ難くなっている。
福沢諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓『ひゞのをしへ』の中で、次のように非難している。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」

(桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝を獲りに行くためだ。けしからん事ではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなく獲りに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成す事があれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめる事はとても良い事だけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲の為の行為であり、大変に卑劣である)

「桃太郎」というネーミングはジェンダーバイアスを押し付けるものだとして主人公が「桃子」になっているものも存在する。だが、現在男性名によく使われる「○太郎」がジェンダーバイアスの押し付けであるとすれば、現在女性名に良く使われる「○子」も同じく押し付けということになり矛盾している。なお、「桃子」のストーリーは前述したような、話し合いによる解決となっている。これは「男性=暴力性・攻撃的⇔女性=穏やか・平和的」とする日本におけるフェミニズム的な先入観からストーリーが改変された可能性がある。その一方で、桃子が鬼と肉弾戦を行う女性の活躍を描いたものも存在する。
また、男性であるお爺さんが「山へ柴刈りに」、女性であるお婆さんが「川で洗濯」をするというのもジェンダー的な作業分担であるとされることもある。
最近の例を挙げると、NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映されたもの(出演・朗読はFLIP-FLAP)では桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」(ニート、引きこもり等を連想させる)であり、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる。現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっていた。

[編集] 唱歌
唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年の「尋常小学唱歌」に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。

桃太郎
桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍團子、一つわたしに下さいな。
やりませう、やりませう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりませう。
行きませう、行きませう、あなたについて何處までも、家來になって行きませう。
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼ヶ島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
萬萬歳、萬萬歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
暴力性を感じさせるという理由からか、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。余談だが福岡ソフトバンクホークスが得点すると応援歌としてこの「桃太郎」の替え歌が歌われる。

また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。

モモタロウ
桃から生まれた桃太郎、気は優しくて力持ち、鬼ヶ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。
日本一の黍団子、情けにつきくる犬と猿、雉子ももろうてお伴する、急げものどもおくるなよ。
激しい戦に大勝利、鬼ヶ島をば攻め伏せて、とった宝はなになにぞ、きんぎんさんごあやにしき。
車に積んだ宝物、犬が引き出すえんやらや、猿が後押すえんやらや、雉子が綱引くえんやらや。

[編集] 吉備団子
吉備団子は、黍団子に因んで江戸末期に売り出された物。吉備とは、備前・備中・備後・美作地方の古名で、現在の岡山県にあたる(備後は広島県)。


[編集] 関連書籍
柳田国男『桃太郎の誕生』1933年 (角川文庫 1983年)
滑川道夫『桃太郎像の変容』東京書籍 1981年
野村純一『新・桃太郎の誕生 日本の「桃ノ子太郎」たち』吉川弘文館 2000年
芥川龍之介『桃太郎』(サンデー毎日の臨時増刊 1924(大正13)年7月)

[編集] 派生用語

[編集] 選挙
桃太郎(ももたろう)は、選挙運動の方法の一つ。はちまきをした候補者を先頭に、候補者の名前の入った幟を持った運動員や、ウグイス嬢、カラス、その他の運動員が固まって街頭を練り歩く活動。

[編集] 野菜
桃太郎(ももたろう)は、タキイ種苗が販売するトマトの品種の1つ。

[編集] 菓子
もも太郎(ももたろう)は、新潟県を中心にセイヒョー、さかたや、第一食品が販売しているアイスキャンディーの商品名。

[編集] 鉄道
ECO-POWER桃太郎は、日本貨物鉄道(JR貨物)の電気機関車・EF210形の愛称。
鬼無桃太郎駅は、四国旅客鉄道(JR四国)の予讃線、鬼無駅の愛称。
四国桃太郎貨物駅は、日本貨物鉄道(JR貨物)の予讃線・高松貨物ターミナル駅の愛称。
西日本旅客鉄道岡山支社の吉備線及び津山線の入線メロディ(岡山駅では山陽本線ホームでも使用)。

[編集] 企業
株式会社桃太郎(桃太郎映像出版、桃太郎ピクチャーズ)は日本のビデオ製作会社
有限会社 藍布屋(らんぷや) - 「桃太郎ジーンズ」というブランドを展開
株式会社ランシステム - コンピュータゲーム販売「TVゲームショップ桃太郎」、ゲームセンター「アミューズメント桃太郎」を展開。

[編集] 桃太郎に関連する作品
『桃太郎侍』
『桃太郎の海鷲』
『桃太郎 海の神兵』
『桃太郎伝説』 - ハドソンのテレビゲームソフト。この作品から設定を拝借した『桃太郎電鉄』シリーズも知られる。一般的には後者の方が有名。
『ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ』 - ドラえもん映画作品。
『The Momotaroh』 - にわのまことの漫画。週刊少年ジャンプに連載された。
『つっぱり桃太郎』 - 漫☆画太郎の漫画。週刊ヤングジャンプに連載された。
『桃太郎まいるっ』 - 楠桂の漫画。りぼんに連載された。
『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島』 - 任天堂が制作発売したファミコン用アドベンチャーゲーム。桃太郎の鬼退治を物語の原案としている。
『PEACHBOY』 - シガニー・ウィーバーのナレーション、坂本龍一の音楽で綴られた紙芝居風のビデオ作品。
『HUMANITY THE MUSICAL~モモタロウと愉快な仲間たち~』 - 地球ゴージャスのミュージカル。
『新・桃太郎』(台湾映画) - 台湾でも桃太郎は有名で映画化された。主題歌の曲は鳩ポッポの曲であった。
岡山県立倉敷商業高等学校応援歌「桃太郎サンバ」 編曲は中桐實(おかやま山陽高等学校)
古典落語『桃太郎』 - 子どもに桃太郎の読み聞かせをしようとした親が、逆に子どもから作品の別の意味について講釈を受けるという内容。
『Dancing Blade かってに桃天使!』 - 株式会社コナミ販売のアドベンチャーゲーム。
『桃組+戦記』 - 左近堂絵里の漫画。主人公の桃園祐喜が桃太郎の生まれ変わりという設定。
『仮面ライダー電王』 - モモタロスというキャラクターが登場する。
『魁!!男塾』 - 剣桃太郎というキャラクターが登場する。魁!!男塾の登場人物を参照されたし。
『燃えろ!熱血リズム魂』 - かつて鬼を退治した勇者として登場。すっかり年をとっており74歳の爺さんになっている。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』 - 主人公(モモ)とお供の3匹(犬・サル・鳥)の構成は、桃太郎をモチーフとしたものである。
『どんぶらこ』-山下文吾による漫画。
『獣戦士ガルキーバ』 - 主人公(桃矢)と3匹のアニマノイド(犬(狼)・サル(ゴリラ)・鳥)のキャラクター設定は、桃太郎をベースとしており、さらにこれに金太郎が加わる。

[編集] 関連項目
桃太郎神社
四道将軍
浦島太郎
金太郎
竹取物語
瓜子姫
児童文学
絵本
紙芝居
まんが日本昔ばなし
犬養毅
鬼無
鬼無駅
上笠居村
おかやま桃太郎まつり

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、桃太郎 に関連するカテゴリがあります。桃太郎公園 桃太郎神社
桃太郎 - 青空文庫

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最終更新 2008年4月14日 (月) 20:18。 Wikipedia®