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森鴎外 「歴史其儘と歴史離れ」(大正四年一月)本文 3597文字

2008-08-08 21:04:33 | 17 ◎調べもの文芸文庫
歴史其儘と歴史離れ
森鴎外



 わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。しかし所謂 normativ な美学を奉じて、小説はかうなくてはならぬと云ふ学者の少くなつた時代には、此判断はなか/\むづかしい。わたくし自身も、これまで書いた中で、材料を観照的に看た程度に、大分の相違のあるのを知つてゐる。中にも「栗山大膳」は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど単に筋書をしたのみの物になつてゐる。そこでそれを太陽の某記者にわたす時、小説欄に入れずに、雑録様のものに交ぜて出して貰ひたいと云つた。某はそれを承諾した。さてそれが例になくわたくしの校正を経ずに、太陽に出たのを見れば、総ルビを振つて、小説欄に入れてある。殊に其ルビは数人で手分をして振つたものと見えて、二三ペエジ毎に変つてゐる。鉄砲頭が鉄砲のかみになつたり、左右良(まてら)の城がさうらの城になつたりした処のあるのも、是非がない。
 さうした行違のある栗山大膳は除くとしても、わたくしの前に言つた類の作品は、誰の小説とも違ふ。これは小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしだつて、これは脚本ではあるが「日蓮上人辻説法」を書く時なぞは、ずつと後の立正安国論を、前の鎌倉の辻説法に畳み込んだ。かう云ふ手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けてゐたのである。
 なぜさうしたかと云ふと、其動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
 わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ点は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた点にあると、わたくしは思ふ。
 友人中には、他人は「情」を以て物を取り扱ふのに、わたくしは「智」を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollinisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只観照的ならしめようとする努力のみである。
     ――――――――――――
 わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。
 まだ弟篤二郎の生きてゐた頃、わたくしは種々の流派の短い語物を集めて見たことがある。其中に粟の鳥を逐ふ女の事があつた。わたくしはそれを一幕物に書きたいと弟に言つた。弟は出来たら成田屋にさせると云つた。まだ団十郎も生きてゐたのである。
 粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒大夫伝説の一節である。わたくしは昔手に取つた儘で棄てた一幕物の企を、今単篇小説に蘇らせようと思ひ立つた。山椒大夫のやうな伝説は、書いて行く途中で、想像が道草を食つて迷子にならぬ位の程度に筋が立つてゐると云ふだけで、わたくしの辿つて行く糸には人を縛る強さはない。わたくしは伝説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。
 昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があつた。永保元年の冬罪があつて筑紫安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあんじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待つて、父を尋ねに旅立つた。越後の直江の浦に来て、応化の橋の下に寝てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買が来て、だまして舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕ぎ出して、山岡大夫は母子主従を二人の船頭に分けて売つた。一人は佐渡の二郎で母とうば竹とを買つて佐渡へ往く。一人は宮崎の三郎で、あんじゆとつし王とを買つて丹後の由良へ往く。佐渡へ渡つた母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良[#「由良」は底本では「山良」]に着いたあんじゆ、つし王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姉は汐を汲ませられ、弟は柴を苅らせられる。子供等は親を慕つて逃げようとして、額に烙印をせられる。姉が弟を逃がして、跡に残つて責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに参籠したのである。
 つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡つて母を連れ戻し、丹後に入つて山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはつたので助命せられ、末の三郎は父と共に虐けた[#「虐けた」はママ]ので殺される。これがわたくしの知つてゐる伝説の筋である。
 わたくしはおほよそ此筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。現代の口語体文に所々古代の名詞が插まることになるのである。同じく時代を蔑にしたくない所から、わたくしは物語の年立をした。即ち、永保元年に謫せられた正氏が、三歳のあんじゆ、当歳のつし王を残して置いたとして、全篇の出来事を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の間に経過させた。
 さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附かない、藤原基実が梅津大臣と云はれた外には、似寄の称のある人を知らない。基実は永万二年に二十四で薨じたのだから、時代も後になつてをり、年齢もふさはしくない。そこでわたくしは寛治六七年の頃、二度目に関白になつてゐた藤原師実を出した。
 其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があつたと云つてあるのを見た。就中太郎、二郎はあん寿、つし王をいたはり、三郎は二人を虐ける[#「虐ける」はママ]のである。わたくしはいたはる側の人物を二人にする必要がないので、太郎を失踪させた。
 こんなにして書き上げた所で見ると、稍妥当でなく感ぜられる事が出来た。それは山椒大夫一家に虐けられる[#「虐けられる」はママ]には、十三と云ふつし王が年齢もふさはしからうが、国守になるにはいかがはしいと云ふ事である。しかしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけにはいかない。それをさせる動機を求めるのは、余り困難である。そこでわたくしは十三歳の国守を作ることをも、藤原氏の無際限な権力に委ねてしまつた。十三歳の元服は勿論早過ぎはしない。
 わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である。伝説が人買の事に関してゐるので、書いてゐるうちに奴隷解放問題なんぞに触れたのは、已[#「已」は底本では「巳」]むことを得ない。
 兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りない[#「し足りない」は底本では「足りない」]やうである。これはわたくしの正直な告白である。

(大正四年一月)





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底本:「ザ・鴎外 ―森鴎外全小説全一冊―」第三書館
   1985(昭和60)年5月1日初版発行
   1992(昭和67)年8月20日第2刷発行
初出:「心の花」
   1915(大正4)年1月
※疑問点の確認に際しては、「鴎外全集 第二十六卷」岩波書店、1973(昭和48)年12月22日発行を参照しました。
入力:村上聡
校正:野口英司
1998年3月30日公開
2005年5月14日修正
青空文庫作成ファイル:

芥川龍之介 「 貉」 3003文字

2008-08-08 14:27:39 | 17 ◎調べもの文芸文庫

芥川龍之介



 書紀によると、日本では、推古(すいこ)天皇の三十五年春二月、陸奥(みちのく)で始めて、貉(むじな)が人に化けた。尤(もつと)もこれは、一本によると、化レ人(ヒトニナリテ)でなくて、比レ人(ヒトニマジリテ)とあるが、両方ともその後に歌之(ウタウ)と書いてあるから、人に化(ば)けたにしろ、人に比(まじ)ったにしろ、人並に唄を歌った事だけは事実らしい。
 それより以前にも、垂仁紀(すいにんき)を見ると、八十七年、丹波(たんば)の国の甕襲(みかそ)と云う人の犬が、貉を噛(か)み食(ころ)したら、腹の中に八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)があったと書いてある。この曲玉は馬琴(ばきん)が、八犬伝(はっけんでん)の中で、八百比丘尼妙椿(やおびくにみょうちん)を出すのに借用した。が、垂仁朝(すいにんちょう)の貉は、ただ肚裡(とり)に明珠(めいしゆ)を蔵しただけで、後世の貉の如く変化(へんげ)自在を極(きわ)めた訳ではない。すると、貉の化けたのは、やはり推古天皇の三十五年春二月が始めなのであろう。
 勿論貉(むじな)は、神武東征の昔から、日本の山野に棲(す)んでいた。そうして、それが、紀元千二百八十八年になって、始めて人を化かすようになった。――こう云うと、一見甚だ唐突(とうとつ)の観があるように思われるかも知れない。が、それは恐らく、こんな事から始まったのであろう。――
 その頃、陸奥の汐汲(しおく)みの娘が、同じ村の汐焼きの男と恋をした。が、女には母親が一人ついている。その目を忍んで、夜な夜な逢おうと云うのだから、二人とも一通りな心づかいではない。
 男は毎晩、磯山(いそやま)を越えて、娘の家の近くまで通(かよ)って来る。すると娘も、刻限(こくげん)を見計らって、そっと家をぬけ出して来る。が、娘の方は、母親の手前をかねるので、ややもすると、遅れやすい。ある時は、月の落ちかかる頃になって、やっと来た。ある時は、遠近(おちこち)の一番鶏(どり)が啼く頃になっても、まだ来ない。
 そんな事が、何度か続いたある夜の事である。男は、屏風(びょうぶ)のような岩のかげに蹲(うずくま)りながら、待っている間のさびしさをまぎらせるつもりで、高らかに唄を歌った。沸き返る浪の音に消されるなと、いらだたしい思いを塩からい喉(のど)にあつめて、一生懸命に歌ったのである。
 それを聞いた母親は、傍にねている娘に、あの声は何じゃと云った。始めは寝たふりをしていた娘も、二度三度と問いかけられると、答えない訳には行かない。人の声ではないそうな。――狼狽(ろうばい)した余り、娘はこう誤魔化(ごまか)した。
 そこで、人でのうて何が歌うと、母親が問いかえした。それに、貉(むじな)かも知れぬと答えたのは、全く娘の機転である。――恋は昔から、何度となく女にこう云う機転を教えた。
 夜が明けると、母親は、この唄の声を聞いた話を近くにいた蓆織(むしろお)りの媼(おうな)に話した。媼もまたこの唄の声を耳にした一人である。貉が唄を歌いますかの――こう云いながらも、媼はまたこれを、蘆刈(あしか)りの男に話した。
 話が伝わり伝わって、その村へ来ていた、乞食坊主(こじきぼうず)の耳へはいった時、坊主は、貉の唄を歌う理由を、仔細らしく説明した。――仏説に転生輪廻(てんじょうりんね)と云う事がある。だから貉の魂も、もとは人間の魂だったかも知れない。もしそうだとすれば、人間のする事は、貉もする。月夜に歌を唄うくらいな事は、別に不思議でない。……
 それ以来、この村では、貉(むじな)の唄を聞いたと云う者が、何人も出るようになった。そうして、しまいにはその貉を見たと云う者さえ、現れて来た。これは、鴎(かもめ)の卵をさがしに行った男が、ある夜岸伝いに帰って来ると、未(ま)だ残っている雪の明りで、磯山(いそやま)の陰に貉が一匹唄を歌いながら、のそのそうろついているのを目(ま)のあたりに見たと云うのである。
 既に、姿さえ見えた。それに次いで、ほとんど一村の老若(ろうにゃく)男女が、ことごとくその声を聞いたのは、寧(むし)ろ自然の道理である。貉の唄は時としては、山から聞えた。時としては、海から聞えた。そうしてまた更に時としては、その山と海との間に散在する、苫屋(とまや)の屋根の上からさえ聞えた。そればかりではない。最後には汐汲(しおく)みの娘自身さえ、ある夜突然この唄の声に驚かされた。――
 娘は、勿論これを、男の唄の声だと思った。寝息を窺(うかが)うと、母親はよく寝入っているらしい。そこで、そっと床(とこ)をぬけ出して、入口の戸を細目にあけながら、外の容子(ようす)を覗いて見た。が、外はうすい月と浪の音ばかりで、男の姿はどこにもない。娘は暫くあたりを見廻していたが、突然つめたい春の夜風にでも吹かれたように、頬(ほお)をおさえながら、立ちすくんでしまった。戸の前の砂の上に、点々として貉の足跡のついているのが、その時朧(おぼろ)げに見えたからであろう。……
 この話は、たちまち幾百里の山河(さんが)を隔てた、京畿(けいき)の地まで喧伝(けんでん)された。それから山城(やましろ)の貉が化(ば)ける。近江(おうみ)の貉が化ける。ついには同属の狸(たぬき)までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云う、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにいる越前の国の人をさえ、化かすような事になった。
 化かすようになったのではない。化かすと信ぜられるようになったのである――こう諸君は、云うかも知れない。しかし、化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間には、果してどれほどの相違があるのであろう。
 独り貉ばかりではない。我々にとって、すべてあると云う事は、畢竟(ひっきょう)するにただあると信ずる事にすぎないではないか。
 イェエツは、「ケルトの薄明(うすあか)り」の中で、ジル湖上の子供たちが、青と白との衣(きもの)を着たプロテスタント派の少女を、昔ながらの聖母マリアだと信じて、疑わなかった話を書いている。ひとしく人の心の中に生きていると云う事から云えば、湖上の聖母は、山沢(さんたく)の貉と何の異る所もない。
 我々は、我々の祖先が、貉の人を化かす事を信じた如く、我々の内部に生きるものを信じようではないか。そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。
 貉を軽蔑すべからざる所以(ゆえん)である。

(大正六年三月)





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底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月~11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1998年11月7日公開
2004年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:

与謝野晶子離婚について(『東京二六新聞』一九〇九年四月八―一一日)

2008-08-08 14:24:34 | 17 ◎調べもの文芸文庫
与謝野晶子



 陸軍軍医正(せい)の藤井氏と東京音楽学校助教授の環(たまき)女史との離婚が、新聞紙の上で趣味の相違から生じた離婚だとか、陸軍と芸術との衝突だとか大袈裟(おおげさ)に報道せられ、これについて諸先生方の御批評なども見えております。陸軍と芸術とがもし衝突致すものなら、只今(ただいま)の我国の有様ではとても筆や楽器は鉄砲に叶(かな)いませんから、素直に鉄砲に屈従して離婚沙汰(ざた)などには立至らずに納まりそうなものでしたが、どういうものでしょうか。

 また趣味の相違が原因だと決(きめ)る前に、その趣味とはどんなものか、それを質(ただ)す必要があるかと存じます。湯屋の三助(さんすけ)や床屋の小僧でも今日盛んに使う「趣味」という語(ことば)と同じ意味の趣味ならば余りありがたくもないものであるし、音楽学校の先生であるからと申して一概に芸術の真の趣味が解っていると断じかねる場合もありましょう。新聞記者の目には水死の女が必ず皆美人に見えるという得(とく)な事もあるのですから、音楽学校の先生といえば皆芸術の趣味を理解せられたいわゆる「芸術家」と見えぬとも限りません。

 また趣味の相違というと、双方に何らかの趣味があってそれが衝突したようにも聞えますが、今の陸軍の高い位地にいられる多数の方方(かたがた)に果して趣味――円満な教育を受けた文明人の理解する趣味と申すようなものがありましょうか。私は先ずそれを観察の鋭敏な新聞記者の皆様から承わりたいと存じます。藤井氏は陸軍軍医正、環(たまき)女史は音楽学校助教授、二氏の職業はかように明白ですが、二氏が趣味の人であるかどうかと申す事が明白でない以上、この離婚が趣味の衝突に起因したとは肯(うべなわ)れません。

 私は陸軍と衝突するほどに我国の芸術が強い力を出すようになるならば面白かろうと存じて、そういう盛(さかん)な時節の到来せん事を祈っております。また社会に地位ある男女が趣味の相違から離婚するというような事が起るならば、それも文明国にして初めて見られる事柄であって、むしろ日本の家庭の進歩したために生ずる行き違いであると考えたいので御座います。しかし我国の今日の有様ではまだ容易に陸軍軍医正たる藤井氏の趣味が其処(そこ)まで進んでいるとは想像致しかねます。これは新聞記者たる方方のもっと深い観察を煩さねばなりません。

 離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少(すくな)くないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜(よろ)しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教や、乃至(ないし)神様の語(ことば)などを十分知り抜いてしかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が喰違(くいちが)って面白くないという場合もあるのですから、其処に至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。

 私は気の毒に感じます事は、教育界の諸先生がこういう事件に出会(であわ)れる度(たび)に、心にもない世間受(うけ)の好(い)い事をいわれたり、また正直に自分の不明を告白せられたり致す事です。『朝日新聞』に出た諸先生の御説を拝見しますと、女子音楽学校長の山田源一郎(やまだげんいちろう)先生は「既に一個の家庭を持った以上はやはり夫唱婦和でなければ成立って行かぬであろう」と申されましたが、今の世の中に男も女も人形のような者でない以上、この夫唱婦和という子供の飯事(ままごと)みたいな手緩(てぬる)い生気のない家庭は作れまいかと存じます。
 夫唱婦和などと申す事は男の方が自分の都合のいいように設けられた教で、根が女を対等に見ぬ未開野蛮のあさましい思想から出ております。片方(かたっぽう)の都合のいいように途中で設けられた道徳以上に、私どもは人の心が完全に発展して行けば必ず其処に達せねばならぬというものを土台にした道徳に由(よ)って安住致したい。もし夫唱婦和が人の本性(ほんしょう)に基いたものであるなら、諾冊二尊(だくさつにそん)が天(あめ)の御柱(みはしら)の廻り直しもなさらないでしょうし、また畏多(おそれおお)い事ながら教育勅語の中に「夫婦相和し」と夫婦の対等を御認めにもならなかったでしょう。山田氏などの教育家の御説が正しいものならば、教育勅語にも「夫唱婦和し」と仰せらるべきはずです。

 昔には夫唱婦和で表面(うわべ)だけにせよ家庭が治(おさま)った御治世もありましたから当時の道徳としてはそれで好(よ)かったかも知れませんが、婦人の目が開(あ)き掛けて男と対等の地位を自覚しようとする今日に、まだそのような未開野蛮時代の道徳で婦人を圧(おさ)え附けようとする教育家諸先生の頭脳(あたま)の古風なのに驚かねばなりません。道徳は教育家ばかりの私するものでないのですから、その古風な頭脳のみで御判断なされずに、今の世の識者の意見を遍(あまね)く参照して、文明人が安心して実行する事の出来るもっと堅固な、もっと立派な道徳を教育家自身が先ず体得して、それを以って水が低きにつく如く無理のない自然な教育をなされてはどうでしょうか。私どもからかような事を申上げるのは教育家の頭脳がまだ十八世紀以前に固定しているからであって、諸先生のために甚だ惜まねばなりません。

 婦人がかような正しい道理を教育家に対して申上るようになったのは、今の婦人が生意気なからでもなく、澆季(ぎょうき)の世になったのだといって御歎息なされる訳もありません。文明の結果教育の結果は必ず婦人の目が開(あ)いて此処(ここ)に到るべきものなのです。もしこれが悪いと致せば教育を普及せられた諸先生の方が悪いという事になりましょう。

 常日頃(つねひごろ)私は今の女子教育がまだまだ真の文明教育の趣意に遠(とおざ)かっていると思っております。女子大学などと申す立派な名義の学校まで出来ながら、多数の生徒は何を習っているかといえば、良妻賢母主義の倫理と家政科と言う割烹(にたき)の御稽古(おけいこ)とが主になっております。教育家の考では自分が教育家となるために学問をして教育界の事の外には何も他の社会が解らず、使途(つかいみち)のない人間になって一生を送られる如くに、一切の女を良妻賢母ばかりに仕立上(あげ)る御積(おつもり)でしょうが、生憎(あいにく)な事には、女は妻となり母となる前に娘という華やかな若い時代があります。良妻賢母教育の前に先ず「令嬢教育」というものを何故(なぜ)施されないのか。女に早く年を寄らせようという主義の教育は無粋(ぶすい)というよりむしろ惨酷でしょう。令嬢教育即(すなわ)ち娘として世に立つ大切な年頃の教育を主として授けず、御門違(おかどちがい)な人の妻となり母となった後の教育を一足飛(いっそくとび)に授けて置いて、女学生の不品行問題などが起ると責任を女学生に帰せられるのは甚しい不道理です。近頃の問題に上(のぼ)った小林氏の令嬢などは私から見れば娘としての教育が不完全であったためだと存じます。もし今の教育家の立場から見れば、祖父の如き田中伯爵に嫁して進んで老伯爵のために良妻賢母となろうとするのはむしろこれを褒(ほ)めるのが当然でしょう。

 家庭において、社交において、男女交際において、一人前の娘として恥しからぬ娘を仕立てる事は良妻賢母主義の教育に比べて遙(はるか)に優っており、かつまた急務だと存じます。一人の夫や両人の舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)や自分の生んだ子供に対する心掛などは、その場に臨めば大抵の女に自然会得が出来るものです。また割烹(にたき)の法とか育児法とか申す事位は、台所で母や下女(げじょ)と相談したり、出入の医者に聞いたり、一、二冊の簡便な書物を読んだりしても解る事です。かような事を倫理だとか学問だとか申して高等な学校で教えるのは馬鹿げていると私は常に考えております。

 目が開(あ)きかけた今の若い婦人は、今の教育家の教などに屈従するほどに柔順(すなお)でありませんから、学校でこそ教師の前で良妻賢母主義に甘んじたような顔附を致しておりますけれど、教師が学校内にばかり閉籠(とじこも)っているのと違(ちが)い、若い婦人は学校の門を一足出れば直ぐに「娘」としての自由な天地に遊んで、自身で新代の令嬢教育を不完全ながら試みております。学校では賢母良妻主義だけの教育を授かっているにかかわらず、今の家庭になお多数の娘らしい娘を見受けるのは、学校外の社交の経験や、教科書以外に古今の文学書などを読んで自ら教育した結果に相違ありません。教育家が学校にばかり閉籠って世の中を見ずにいると、その教育はかように空疎な物になってしまいます。

 仮に夫唱婦和が昔の道徳の保存として好(よ)い事であるとしても、今の多数の男子は夫として妻に対し何を唱えるでしょう。学校時代の教師の教にさえ内心では十分に服せぬ娘が、妻となりましたからといって夫の言葉を一一(いちいち)御無理御尤(ごもっとも)と和するほどに今の教育は女を愚に致してはないはずです。さすれば夫たる者の唱える所は妻を心服せしめるだけの準備が是非必要であると存じます。今の多数の男子は勿論婦人に比べて数倍の学問も智慧(ちえ)もありましょう。けれども完全なる「人」としての教養はどうでしょうか。私は良妻賢母主義に対して男子にも良夫賢父主義とでもいう教育を授けてはどうかと揶揄(やゆ)せられた或人の議論を一理あると考えます位に、多数の男子は今以(もっ)て妻に対する心掛が野蛮であると存じます。

 それならば少数の男子――社会において人としての教養を最(もっとも)多く積んでいられるらしい男子の方はどうかと申すと、その例には女子教育家であって度度(たびたび)女子問題に御説を出(いだ)される三輪田元道(みわたもとみち)先生などを引くのが都合が宜しいと存じます。先生は今の教育家として御立派な方(かた)でしょうが、近年夫人が御亡(おなく)なりになって間もなく再婚を致された際の先生の御話を雑誌で拝見した時に私は厭(いや)な気持が致しました。先生の再婚の理由として「小供らの教育を托(たく)する人を得て冥途(めいど)の妻の心を喜ばすために後の妻を貰(もら)ったのである」という意味の事を述べられていましたが、教育家という諸先生はこうまで自分の心をも社会をも欺いて嘘を吐(つ)かれる者か。もしまたこれが嘘でなければ教育家ほど物の分別の附かれぬ者はないと私は少からず驚きました。こういう男子の相手としては如何にも益々(ますます)柔順なる良妻が必要かも知れませんが、その偽善や不道理を一一御尤と和している婦人は今後益(ますま)すなくなる事でしょう。

 この三輪田先生が環(たまき)女史の離婚を評して「二人の職業から来る趣味の差別などは夫婦としての情愛に一毫(いちごう)も加うる所がないはずでなければならぬ」と申されましたが、夫婦の情愛というものが水の上の油のように別になって「人」のする百般の事柄と何の関係(かかわり)もないと考えていられるのは余(あまり)に浅浅(あさあさ)しくはありますまいか。男女の愛情がそう単純なものならば古来恋愛から起った悲劇があれほど沢山にないはずです。先生はまた女は或程度まで自己の職業より来る趣味は捨てても良人(おっと)のそれと迎合し同化するというようにせねば到底円滑には立行かぬといわれましたが、これはやはり「夫唱婦和」の間違った御考であって、良人の説に迎合せよなどと強(し)いるのは教育勅語の「夫婦相和し」の御趣旨が徹底しておらぬ証拠で御座います。こういう態度で男子が妻に臨みますから家庭はかえって円滑に治らないのだと存じます。もし妻が対等の位地からこれと同様な事を夫に強いて、今の教育は自分の趣味と合わぬから教育家たる事を止めて欲しいと申したならば、三輪田学士は直ぐに快く妻の心に迎合して教師生活を捨てられるでしょうか。夫婦が対等の位地で互に尊敬し自然に相和して行かれるような立派な道徳の上に家庭を作る事を教えないのは未開野蛮の遺風です。

 この先生はまた趣味をば捨てられるもののように思っていられます。趣味というものが好(よ)く解っておらぬためでしょうが、これは辞表を出してしまえば倫理の先生が明日から帳場に坐(すわ)れるといったようなものではありません。学問でも芸術でも宗教でも恋愛でも、それが人格と同化してしまって、芸術が自分か、自分が芸術か分らぬほど面白くなれば、それらの各々(おのおの)の趣味が最も高い程度に達しているものだと私は心得ます。既に人格と全く一緒になっておる趣味がどうして捨て得られましょう。それから趣味が人格を形造(かたちづく)るほどに高くなれば、甲と乙と趣味の種類が違っていても双方互にその趣味を尊敬し合うようになってその間に調和が出来るものです。それが夫婦の場合ならば必ずその趣味に由(よっ)て相和して行かれるものだと、私は自分の経験から堅く信じております。もし世評のように環女史と藤井氏との離婚が趣味の相違に原因しておりますならば、両氏の趣味が其処まで高くなかったか、あるいは両氏のどちらかに趣味が欠けていたのであろうと想います。言換(いいかえ)れば両氏の人格の修養が不完全であったのでしょう。人格の相違は女を良人が屈従させ得た時代ならば知らぬ事、多少でも教育を受けた今日の男女間では離婚の結果に立ちいたるのが至当(あたりまえ)であろうと存じます。これはつまり結婚前の選択が粗漏であって双方の人格を尊重し合わなかったのが悪いので、それはまた今の教育が単に学校を卒業した男子と、時世遅れの良妻賢母主義に合う女子とを作る事にのみ急で、肝腎(かんじん)の「人格を完備した男女」を作る事を忘れ、人格を尊重し合うべき事を息子(むすこ)のため娘のために教えて置かぬ罪に帰せねばなりません。

 この問題について男の教育家は揃(そろ)いも揃って「夫唱婦和」主義で環女史を批難していられるのに、東洋婦人会長の清藤秋子(きよふじあきこ)女史はなかなか面白い事をいわれました。「男の方(かた)に自由選択の権利ある現在の状態では夫婦になって始めてその妻に不満を抱(いだ)きこれを虐待するなどという事は、取(とり)も直さず自分を辱(はずか)しめるものではありませんか。」これは尤もな御説だと存じます。如何にも一般の家庭では男子の権利がまだ偏(かたよ)って強い今日、男が微弱な妻を圧服する事は容易でありそうなものですのに、妻に逃(にげ)を打たれるというのは男の敗北として恥ずべき一大事でしょう。藤井軍医正の場合は陸軍と音楽との衝突でなく、陸軍が女に負けたとも申すべきでありませんか。

 秋子女史はまた「某実業家は常常子弟に向い、世に処して成功しようと思うには女房に惚(ほ)れなくては不可(いか)んと言われたそうですが、誠に味(あじわ)うべき言葉で、気に食わぬ点はなるべく寛大に見て、自分の妻以外世間に女はないというほどに取扱ってこそ家庭は円満に参るものだろうかと存じます」といわれました。これは反対に男を柔順にして妻に服従させようという意気込が見えて、女史の内心を包まず語られたのが気持の宜しい事です。しかし男子の非道に反抗してこういう逆襲の態度に出(い)でる事は暴を以て相酬(あいむく)いるので、本本(もともと)互に謙遜し、互に尊敬し協和して男女各自の天分を全くすべき真理に悖(もとっ)ておりますから、一方を服従させようというのでなく、服従するなら互に真理の前に服従し得(う)る立派な人格を養って後に結婚するのが大切でしょう。

 離婚は悲しむべき事で或場合には罪悪と名(なづ)けても可(よ)いと考えますが、また或場合には罪悪から逃(のが)れる正当な手段と見る事も出来ますから、十分その真相を調べた上でなければ是非の判断は困(むずか)しい。現に藤井女史の離婚は新聞紙の報道や教育家諸先生の御意見だけを伺ったのでは何とも申しかねます。これは近頃専(もっぱ)ら事実を尊ばれる小説家の微妙な観察に由(よっ)て委(くわ)しく描写して戴(いただ)いたならば明白になるかも知れません。藤井氏の場合に限らず、離婚という面白からぬ事件はこの後追追(おいおい)殖(ふ)えて行くでしょう。学校教育と家庭とが全き人間を作る事を忘れて、畸形(かたわ)な賢母良妻主義や夫唱婦和説を固守している間はやむをえない現象だと存じます。

 三輪田学士はまた「環女史の離婚は何か女史の方から進んで請求したように伝えられてあるが、果して然(しか)りとすれば飛(とん)でもない心得違である」といわれましたが、これは弘化(こうか)年度に生れて今まで存在(ながらえ)ている老人(としより)の言草(いいぐさ)のように聞えます。離婚は講和(こうわ)でなく戦争です。宣戦の布告を先に出すという事は双方の自由であって、先に出した方が勝利に帰する例も少くない如く、離婚の場合にも都合の好い事かも知れません。離婚は笑って出来る事でなく互に気拙(きまず)くなって致す事ですから、既に離婚せねばならぬ状態に立到った以上その場合にまで夫唱婦和を強いるのは実際の人情に通ぜぬ迂濶(うかつ)な御考です。昔の歴史を見ましても后(きさき)の方から御離別を申し出(い)でられた例(ためし)はしばしば御座いますけれど、それが御歴代の御聖徳に影響しているとは思われません。石之姫(いわのひめ)が筒木宮(つつきのみや)に怒(おこ)って籠(こも)られ、帝(みかど)をして手を合さんばかりに詫言(わびごと)を申さしめ給いし例などは随分烈(はげ)しい事ですが、それが仁徳(にんとく)帝の御徳を煩(わずらわ)しているでもなく、帝は現に今の教育家の倫理の御本尊になっておられます。かような手続の前後(あとさき)にまで目角(めかど)を立てられる教育家の不心得の方がよほど怪(け)しからん事かと存じます。枝葉の事を弥聒(やかま)しくいわれるよりは、忌(いま)わしい離婚沙汰などを出(いだ)さぬように今の教育を根本から改めて、自(おのずか)ら夫婦相和して行かれる完全な人格を作る事を心掛け、教育家自身の迂濶と怠慢とを鞭撻(べんたつ)せらるるように希望致します。
 
 今の家庭や学校教育が頼みにならぬとすれば、若い女子自身が各々自分の「娘」時代を尊重して我手で立派な人格を修養せられる事が何より大切な急務だと思います。浅薄(あさはか)な表面(うわべ)の装飾や衒(てら)いでなく、全人格を挙げて立派に装飾し、それを女子の誇とするように力(つと)めねばなりません。美しい衣服を著るにも、読書をするにも、文学や美術を嗜(たしな)むにも、常に立派な娘に成る、完全な人間に成るという心掛が必要です。かような自尊自負の心ある女子が軽軽しく他の誘惑に陥る訳もなく、離婚沙汰を惹起(ひきおこ)すような結婚を致す訳もなく、社交や処世において不都合を仕出かす訳もなく、夫に対しては貞淑な妻、子に対しては賢明な母と成り得るに違いありません。『更級日記(さらしなにっき)』の著者は、東国の田舎(いなか)にいた娘の時代から文学書を読んで、どうか女に生れた上は『源氏物語』の夕顔(ゆうがお)や浮舟(うきふね)のような美しい女になって少時(しばらく)でも光源氏(ひかるげんじ)のような情(なさけ)ある男に思われたいと、専らその心掛で身を修め、終(つい)に都に上(のぼ)って『狭衣(さごろも)』の如き小説を書くに到りました。今の若い女子にこれ位の自負もないのは口惜しゅう御座います。光源氏の恋人になろうと申すのと、拙(つたな)い絵や音楽に騙(だまさ)れて、沢山の女学生や夫人までが輒(たやす)く電小僧(いなずまこぞう)の情婦になるのとは大変な相違です。

(『東京二六新聞』一九〇九年四月八―一一日)  



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底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「一隅より」金尾文淵堂
   1911(明治44)年7月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
ファイル作成:野口英司
2002年1月10日公開
2003年5月18日修正
青空文庫ファイル:

【早稲田大学中央図書館:①~⑩】

2008-08-08 14:09:28 | 26 学生街散歩・古書店街巡り
【早稲田大学中央図書館:①~⑩】 の検索結果 約 14万1000 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 早大:早稲田大学図書館:開架式
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村

閉架式⇒開架式
約250万冊
日曜開館日あり
午前9時~午後10時!!!

早稲田大学図書館早稲田大学図書館のWeb. 図書館の総合情報をはじめ蔵書検索や学術情報検索、データベース検索などができます。 ... 2008.7.2. 夏季休業期間中(8月1日~9月20日)のサービス時間について詳しくは中央図書館/全学図書館をご覧ください。 ...
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中央図書館 | 施設案内 | WBSについて | 早稲田大学ビジネススクール世界有数の図書館建築としても知られる早稲田大学中央図書館では、250万冊以上の蔵書、13000タイトルの学術雑誌をはじめ、様々なデジタル媒体の利用が可能です。 またオンライン情報検索システム(WINE)により情報検索の飛躍的な効率化が実現されています ...
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早稲田ウィークリー2008年6月12日 ... 早稲田大学における図書館の歴史は、1882年、東京専門学校の創立と同時に設置された図書室から始まる。 以来、何度かの改築・増築を経た後、1991年、国際会議場と中央 図書館からなる総合学術情報センターが建設され、 学術情報の収集と ...
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早稲田大学中央図書館 | アジア情報機関ダイレクトリー | アジア情報室 ...アジア情報機関ダイレクトリー > 機関名一覧 > 早稲田大学中央図書館 サイトマップ ... (4)中国文化大革命時期の資料. 概要. 323種1187枚。文革中、さまざまな組織、機関から発行された新聞、中共中央から発布された通知等のコレクション ...
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早稲田大学 西早稲田キャンパス 中央図書館 - 東京都新宿区の大学 ...早稲田大学 西早稲田キャンパス 中央図書館(東京都新宿区大学)の情報。住所や電話番号、地図、行き方や周辺情報など。
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専門学校&大学・短大 > 早稲田大学 中央図書館早稲田・西早稲田エリアガイド - 早稲田 大学・早稲田駅周辺のレストラン、カフェ、 居酒屋から病院やショップ情報など. printer 印刷 Skip Navigation Links 早稲田・西早稲田 > 学ぶ・教室・スクール > 専門学校・大学・短大 > 早稲田大学 中央図書館 ...
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日本史日誌写真館 - 早稲田大学中央図書館サムネールをもっと見る. 早稲田大学中央図書館. 早稲田大学中央図書館 · 20071125 · FinePix S6000fd · 6.2mm f/5.0. color_k color_b. Trackback - http://f.hatena.ne.jp/sanraku2/20071125102936. 日本史日誌 - 西早稲田キャンパス撮り歩き/新宿区.
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慶應義塾図書館 <早稲田大学図書館の利用>早稲田大学の図書館(中央・戸山・理工・所沢図書館)を利用できます。 中央・戸山・ 理工・所沢図書館以外の図書室(高田早苗記念研究図書館を含む)の利用を希望する場合は、レファレンスカウンターにご相談ください。 ...
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CiNii - 早稲田大学中央図書館の海外ILL : 現状と課題早稲田大学中央図書館では1968年から海外ILLを開始し,受付・依頼共に活発に行ってきた。 特にOCLC-WorldCatへの日本語図書データ登録,北米のARL-Japan Project-Waseda参加館とのILL,ロシア国立図書館や韓国の高麗大学校とのILL等はユニークな特色と ...
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高橋晶子 著 - 2002

【高井有一 秋山駿 早稲田文学:①~⑩】

2008-08-08 14:01:44 | 14 用語集:②人物以外
【高井有一 秋山駿 早稲田文学:①~⑩】 の検索結果 約 201 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」早大文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (福島)渡辺(前橋)宮 (大阪)西村



【高井有一秋山駿展:ふたりの「早稲田大学芸術功労者」の歩み
 平成20年7月1日~8月3日

会場;早稲田大学大隈記念タワー10階(見晴らし最高!)
時間:10時~18時
主催:早稲田大学文化推進部  03-5272-4783
協力:「早稲田文学」

オープンキャンパス(8月1日・2日・3日)
学生街散歩・学食巡り・会津八一記念博物館・学生会館(現&第二学生会館)
中央図書館(閉架式⇒開架式:明治大正昭和の雑誌閲覧!!!)・戸山図書館


1位
125記念室展示案内 ― 早稲田文化2007年3月に秋山駿氏(文芸評論家)、2008年4月に高井有一氏(小説家)が本学芸術功労者として表彰されました。 ... を見せ、1969年からは復刊「早稲田文学」の編集委員を務め、連載「歩行と貝殻」を執筆、創設された早稲田大学文学部文芸科にも出講。 ...
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2位
早稲田大学芸術功労者 秋山駿講演会 ― 早稲田文化高井有一講演会. 日時 : 2008年6月 10日(金)13時~15時30分; 会場 : 早稲田大学小野記念講堂; 主催 : 早稲田大学; 協賛 : 早稲田文学; 問合せ:早稲田大学文化推進部文化企画課; TEL 03-5272-4783; http://www.waseda.jp/cac/ ...
www.waseda.jp/cac/pf27a_20080610.html - 7k - キャッシュ - 関連ページ


3位
「早稲田文学」フリーペーパーに第七次早稲田文学編集会議、昭和四十三年。 新庄嘉章、巌谷大四、三浦哲郎、立原正秋、 高井有一、暉峻康隆、 平岡篤頼、後藤明正、松本鶴雄、秋山駿。 84 :吾輩は名無しである:2005/04/10(日) 22:55:19: >>80 なら『早稲田文学』にヌーヴォー・ロマンが ...
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後藤明生年譜川正芳、高井有一、遠丸立、兵藤正之助等の同人および顧問の埴谷雄高、藤枝静男、本多秋五を知る。八. 月、「犀」第四号に「原因不明の世界-小島 .... 小島信夫、秋山駿、 平岡篤頼との座談会「文学における『私』」を「早稲田文学」一月号(終刊号)に掲 ...
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高井有一 - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]高井有一のつながりとプロフィール。あのひと検索SPYSEE[スパイシー]は、ひとに関する情報をウェブから取り出し、まとめて見せる次 ... 高井 有一(たかい ゆういち、男性、1932 年4月27日 -)は、日本の小説家。東京都出身。「内向の世代」の作家の一人。 ...
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近現代日本文学史年表(1966~1975)夜あけの土地(高井有一・新潮)5 冬の旅(立原正秋・読売新聞)5~44・4 ▲フランス、五月革命 5 「少年愛の美学」(稲垣足穂)5 .... 歩行と貝殻(秋山駿・早稲田文学)2~45・2 リアリズムとは何か(佐々木基一・文学)3 「芸術の幻」(中村光夫)3 ...
uraaozora.jpn.org/1966.html - 84k - キャッシュ - 関連ページ

90年代論文三田誠広『地に火を放つ者』評, 早稲田文学, 1993-1 通巻200号, p109-113. 文学に抗うもの -坂口安吾論, 国文学解釈と鑑賞, 1993-2 第58巻第2号, p23-30. 座談会『批評の力』(with菅野昭正、秋山駿、霤絓秀実), 群像 ...
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【古本・古書】スーパー源氏:在庫登録情報:秋山駿現代文学は何処へ行くか(特集)-利沢行夫・黒井千次・後藤明生・秋山駿・小川国夫/ 早稲田文学会/昭46/10発行/\1575/ ... 創作-桂芳久・池田みち子、対談学校と文学- 高井有一・田久保英夫 随筆-秋山駿、石坂洋次郎、野口冨士男、庄野潤三、辻 ...
search.newgenji.co.jp/cgi-bin/rsearch.pl?CID=1&sm=s&of=1&gf=author&gk=%8FH%8ER%8Fx&ff=0 - 71k - キャッシュ - 関連ページ

参考文献座談会「文学の責任」群像・1996・3 (黒井千次、後藤明生、坂上弘、高井有一、 田久保英夫、古井由吉、三浦雅士) ●後藤明生論 ... 秋山駿「内向の世代の文学とは何か」朝日ジャーナル・1974・2・8 神谷忠孝「四十歳のオブローモフ」解釈と ...
www.geocities.jp/gensisha/sankou.htm - 10k - キャッシュ - 関連ページ

津島佑子資料閲覧室「不器用なフーガ」津島佑子(「早稲田文学」'73.9). Pbule01.gif (978 バイト) 我が父たち <講談社>(昭和50年4月8日) ..... 「創作合評『野一面』」秋山駿・清水邦夫・ 月村敏之(「群像」'81.2) 「受賞の言葉」津島佑子(「新潮」'83.6) ...
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【大学 国内旅行業務取扱主任者:①~⑩】

2008-08-08 12:42:28 | 19 ▽資格・検定・応募(文学賞)
【大学 国内旅行業務取扱主任者:①~⑩】 の検索結果 約 5万7400 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 早大文学部史学科国史専修

一橋大学・明治大学・同志社大学・大阪大学・立命館大学
東京工業大学・横浜国立大学・上智大学・関西学院大学・広島大学




1位

社団法人日本旅行業協会名古屋, 中京大学名古屋キャンパス(名古屋市昭和区八事本町101-2) 名古屋工学院専門学校高等部(名古屋市熱田区伝馬2-24-14) ... 旅行業約款、運送約款及び宿泊約款. (4)「国内旅行業務取扱主任者有資格者かつ主任者研修修了者」 ...
www.jata-net.or.jp/seminar/exam/15haihu_v.htm - 22k - キャッシュ - 関連ページ



2位
一般旅行業務取扱主任者試験平成16年度 受験案内/社団法人日本旅行業協会2004年8月11日 ... 東 京, 早稲田大学戸山キャンパス(新宿区戸山1-24-1) 早稲田大学理工学部(新宿区大久保3-4-1) 立教大学(豊島区西池袋3-34-1 ... 旅行業約款、運送約款及び宿泊約款. (4)「国内旅行業務取扱主任者有資格者かつ主任者研修修了者」 ...
www.jata-net.or.jp/seminar/exam/16haihu_v.htm - 23k - キャッシュ - 関連ページ
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3位
旅行業務取扱主任者(国内・総合) | RYUKA -流通科学大学-国内旅行業務取扱管理者・総合旅行業務取扱管理者試験 合格 豊岡 浩太さん(サービス産業学部 観光・生活文化事業学科) 目標を持つこと、計画的に取り組むこと。 大学生活での目標として資格取得に挑戦しました。 講座で勉強することにより、勉強に対し ...
www.umds.ac.jp/cms/?lm=4075 - 24k - キャッシュ - 関連ページ

Amazon.co.jp: まるごと覚える国内旅行業務取扱主任者―ポイント ...Amazon.co.jp: まるごと覚える国内旅行業務取扱主任者―ポイントレッスン: 小松 公映: 本. ... 立命館大学卒業。1973年に一般旅行業務取扱主任者資格取得。近畿日本ツーリスト( 株)、中華航空、晴海汽船、トラベルジャーナル旅行専門学校を経て、現在、 ...
www.amazon.co.jp/.../dp/4405026580 - 133k - キャッシュ - 関連ページ

JTBトラベル&ホテルカレッジ|旅行とホテルの専門学校|大学にはない ...国内旅行業務取扱管理者資格[国家資格] ●総合旅行業務取扱管理者資格[国家資格]. ●総合・国内旅程管理主任者(ツアーコンダクター) ●旅行地理検定 ●アクセス実用検定 ●実用英語技能検定 ●コンピュータサービス技能評価検定(ワープロ・表計算 ...
www.jtb-college.ac.jp/license/ - 24k - キャッシュ - 関連ページ

中央大学生活協同組合教育事業部中央大学一般国内旅行業務取扱主任者 (一般), 中央大学一般国内旅行業務取扱主任 者 (国内) ... 試験内容/, [1]旅行業法令 [2]約款 [3]国内旅行実務 [4]海外旅行実務 国内旅行業務取扱主任者を取得している方は、[1]・[3]の2科目を免除されます。 ...
www.chudai-seikyo.or.jp/shikaku/s_14.html - 13k - キャッシュ - 関連ページ

一般旅行業務取扱主任者資格&お仕事紹介hi-ho学びそれで、3年生のときに「国内旅行取扱業務主任者」を、4年生のときに「一般旅行 業務取扱主任者」の資格を取り、旅行代理店の東武 ... 大学・専門学校を調べる このコンテンツは別ウインドウを開いて「リクルート進学ネット」の情報にリンクしています。 ...
study.hi-ho.ne.jp/content/oshigoto/qualify/no006/index.html - 18k - キャッシュ - 関連ページ

阪南大学 | 就職・資格 | 旅行業務取扱管理者講座(国内・総合)旅行業務取扱主任者は旅行会社の支店・営業所の責任者として旅行業務を取り扱うのに必要な国家資格です。旅行業者は営業所ごとに1人以上の旅行業務取扱管理者をおかなければならないと規定されています。 国内旅行のみを取り扱うことのできる「国内旅行 ...
www.hannan-u.ac.jp/recruit/shikaku/st9plj0000001a3n.html - 23k - キャッシュ - 関連ページ

産業能率大学:通信講座(通信教育) 国内旅行業務取扱管理者SANNO, 学校法人 産業能率大学 総合研究所 ... 受講対象者, 国内旅行業務取扱主任者 をめざす方. ねらい, ■「国内旅行業務取扱管理者」の資格取得をめざす受験指導コースで、初心者の方でもやさしく、体系的に学習できます。 ...
www.hj.sanno.ac.jp/.../wa/read/108fc8d8ef3/?index_view=108dc438af7&content_view=108d60ae4d2 - 41k - キャッシュ - 関連ページ

大東文化大学 地域連携センター[資格受験対策講座]総合旅行業務取扱管理者(平成17年度より名称変更、旧一般旅行業務取扱主任者)試験は、 国土交通大臣が実施する国家資格試験です。あらゆる旅行業者の営業所で勤務することが可能な資格で、国内旅行管理者資格の上位資格にあたります。旅行業界への就職・ ...
www.daito.ac.jp/exten/2008/spring/307.html - 7k - キャッシュ

【大学 公認会計士 :①~⑩】

2008-08-08 12:37:36 | 19 ▽資格・検定・応募(文学賞)
【大学 公認会計士 :①~⑩】の検索結果 約 116万 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早大第一文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村 (前橋)宮 (大阪)神島・西村

ハーバード大学・東京大学・早稲田大学・慶應大学・京都大学



1位
公認会計士 - 教えて!goo2006年12月27日 ... 平成16年公認会計士2次試験合格者出身校別ランキング 1378名中1361名(判明率98.8%) ​http://www.kaikeijin-course.jp/acc2-7.html​ 慶應義塾 208 大阪大学 32 大阪市立 11 大阪府立 5 早稲田大 153 横浜国立 28 九州大学 11 神戸商科 5 ...
oshiete1.goo.ne.jp/qa2628004.html - 32k - キャッシュ - 関連ページ



2位
2007年度公認会計士試験結果発表 (中央大学オフィシャルブログ | Chuo ...さてご存知ない方もいらっしゃったかもしれませんが、順位表にある通り、中央大学は公認 会計士試験についても高い合格実績を誇ります。 ... 公認会計士をめざしてみようかな? と思われた方は、ぜひ中央大学で一緒に頑張りましょう! ...
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3位
公認会計士・監査審査会/講演等「神戸大学 ~「監査の信頼性と公正な ...平成20年1月21日(月)神戸大学において、金子会長より「監査の信頼性と公正な投資市場の確立」という題目で講演が行なわれ、多数の方に参加いただきました。当日は、 監査の信頼性や公認会計士・監査審査会の役割等について講演が行われましたが、その中 ...
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公認会計士試験 大学別合格者数公認会計士試験は主催の金融庁が大学別の合格者数を公表しないため、 合格者数ランキングは日本公認会計士協会や大手予備校の調査によるものであり、 判明率は100%に近いですが完全な数字ではありません。 93~04年大学別合格者数 ...
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公認会計士@milkcafe掲示板2007年1月10日 ... (12)/ 11- 大学の合格者数 (9)/ 12- 質問… (13)/ 13- 薄記 (5)/ 14- 電卓 (3)/ 15- 簿記が苦手なんです。 (11)/ 16- 基本書 (9)/ 17- 簿記質問スレ (68)/ 18- 会計士受験しようかどうか迷ってる人が読む負の情報 (29)/ 19- 公認会計士の ...
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USCPA(米国公認会計士) BATICの専門校 プロアクティブ/グアム大学 ...USCPA(米国公認会計士)を目指すならプロアクティブ/グアム大学日本事務局。東京都港区虎ノ門.
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曇りのち晴れんで、今回の試験をもって、僕の会計士受験を一時凍結します。 あの膨大な量の試験を働きながらやるというのはちょいと厳しいです。 .... ( by 20060417さん ); 米国公認 会計士になりたい! ( by fortune77さん ); 防災・防犯対策ブログ ...
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公認会計士と簿記検定試験(明治大学:経理研究所)明治大学のオフィシャルサイトです。大学案内、受験生向けの入学案内、在学生向けコンテンツ、また一般の方向けの公開講座情報など、明治大学 ... 特に、その頂点ともいえる公認会計士へのニーズが高まっており、現在、多くの人材が必要とされています。 ...
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法政大学 公認会計士講座(多摩)の案内2007年4月5日 ... 法政大学 公認会計士講座(多摩)の案内. 公認会計士には、企業が作成する会計書類の信頼性を保証する業務である「会計監査」が独占業務として認められています。また、 それ以外にも税務・コンサルティングなど多方面にわたり企業に高度 ...
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東北大学会計大学院公認会計士コースまた、会計士としての職業倫理観、国際的な感覚なども必要とされるでしょう。東北大学 会計大学院では、「知の修得の場」として高度な分析力を持つ国際的に通用する公認会計士 を養成するためのプログラムを用意しています。 ...
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伊藤玄二郎 関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科教授、同大学法学部講師である

2008-08-08 12:21:16 | 13 用語集:①人物一覧   
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伊藤玄二郎

伊藤玄二郎(いとう げんじろう、1944年- )は、関東学院大学人間環境学部現代コミュニケーション学科教授、同大学法学部講師である。

目次 [非表示]
1 学歴・経歴
2 研究
3 著書
4 編著



[編集] 学歴・経歴
中央大学法学部政治学科卒業。
河出書房に勤務。
1970年かまくら春秋社を設立する。『かまくら春秋』編集長。
ポルトガル国立リスボン工科大学客員教授。
2004年、ポルトガル政府より、エンリケ王子勲章コメンダドール章叙勲を賜る。

[編集] 研究
メディア論、有島家(名家)の異端児の批評、里見論。




[編集] 著書
「風のかたみ」(1988年、朝日新聞社) のち文庫
末座の幸福 鎌倉編集日記 小学館 2003

[編集] 編著
遠花火 高岡智照尼追悼 (編)かまくら春秋社 1995
父の肖像 芸術・文学に生きた「父」たちの素顔 野々上慶一共編 かまくら春秋社 1999
言葉は躍る (編)かまくら春秋社 2000
子どものための日本小百科 みずほの国 三木卓、養老孟司共編 みずほホールディングス 2002
道元を語る (編)かまくら春秋社 2003
父の肖像 2 野々上慶一共編 かまくら春秋社 2004
鎌倉の文学小事典 文学を歩く(編)かまくら春秋社 2005
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カテゴリ: 神奈川県出身の人物


最終更新 2008年7月27日 (日) 19:26。


福島県立安積高等学校

2008-08-08 11:59:43 | 15 高校・中学一覧(全国)
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福島県立安積高等学校


福島県立安積高等学校
過去の名称 福島県立安積中学校
国公私立の別 公立学校
設置者 福島県
設立年月日 1884年9月11日
共学・別学 男女共学
分校 御舘分校
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科(9学級)
学期 2学期制
所在地 〒963-8851
福島県郡山市開成5-25-63
北緯37度23分28.2秒東経140度21分0.7秒
電話番号 024-922-4310
FAX番号 024-931-5313
外部リンク 公式サイト

■テンプレート/■ノート福島県立安積高等学校(ふくしまけんりつあさかこうとうがっこう)は福島県郡山市開成にある県立高等学校。通称「安高(あんこう)」。

目次 [非表示]
1 概要
2 沿革
3 校歌・応援歌
4 部活動
5 著名な出身者
5.1 政界
5.2 文化界
5.3 その他
6 交通
7 関連項目
8 外部リンク



[編集] 概要
旧制安積中学校を前身とする福島県内有数の進学校。2001年からの男女共学開始に伴い、制服が廃止され私服になった。「文武両道」、「質実剛健」を校訓としている。学校正面に立つ旧福島尋常中学校本部(旧本館)は1977年に国の重要文化財に指定され、現在は安積歴史博物館となっている。

交通の便が比較的良好な郡山市に立地しており、県南・会津から通学する生徒もいる。

近年は、旧安積女子高校(現福島県立安積黎明高等学校)の上位層が入学してくるようになったため、大学合格実績は男子校時代よりも格段に上昇し、進学実績は、東北六県で常に10位以内をキープするまでとなった。


[編集] 沿革
1884年 - 福島県福島中学校として開校。
1884年9月11日 - 授業開始。
1886年 - 福島尋常中学校と改称。
1887年 - 福島県尋常中学校と改称。
1889年 - 校舎を現在地に移転。
1898年 - 福島県第一尋常中学校と改称。
1901年 - 福島県立安積中学校と改称。
1920年 - 授業を開始した9月11日を創立記念日とする。
1921年 - 校歌・校旗制定。
1948年4月1日 - 学制改革により、福島県立安積高等学校となる。普通科を設置。
1949年 - 同窓会「安積桑野会」発足。
1951年4月1日 - 2学期制開始。
1960年 - 新校旗披露式挙行。
1967年4月 - 福島県立田村高等学校から御舘分校が移管される。
1968年 - 理数科を設置。
1973年 - 旧本館が福島県指定重要文化財に指定。
1974年 - 「思索の森」造成。
1975年 - 第1回校内駅伝競走大会開催。
1977年 - 旧本館が国の重要文化財に指定。
1982年 - 学校祭を「紫旗祭」(しきさい)と改称。
2000年 - 理数科を閉科。
2001年4月1日 - 男女共学開始、私服校となる。
2002年4月1日 - 文部科学省より、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定(2004年度まで3年間。その後2006年度まで延長された)。

[編集] 校歌・応援歌
新入生は4月に行われる、一週間に亘る応援歌練習にて應援團幹部より教わる。練習は厳しいが、これを乗り越えることで新入生は「安高生」と認められ、加えてここでの経験は高校生活を送る上での糧となる。覚えた歌は運動部の試合や各種行事で歌われ、卒業後もOB会などで歌われる場合が多い。最近では共学化の影響もあってか、応援歌練習の厳しさは年々緩和されていく傾向にある。

校歌
紫の旗行く処
迎歌(勝利の歌)
送歌
凱歌(天地の正気)
嗚呼天日の輝きに
霜に乱るる
チャカホイ節
唯に血を盛る
新風歌

[編集] 部活動
体育系
野球部(2001年春の甲子園に「21世紀枠」で出場)
ラグビー部(1998年、2005年に花園出場)
ハンドボール部
バレーボール部
バスケットボール部
サッカー部
陸上競技部
山岳部
テニス部
ソフトテニス部
卓球部
柔道部
剣道部
弓道部
水泳部
バドミントン部
ソフトボール部
ゴルフ部
文化系
吹奏楽部
合唱部
生物部
地学部
化学部
物理部
美術部
文芸部
演劇部
将棋部
写真部
同好会
ギター同好会
スキー同好会
囲碁同好会
弦楽合奏同好会
イングリッシュクラブ同好会
應援團



[編集] 著名な出身者

[編集] 政界
佐藤栄佐久(元自民党参議院議員、前福島県知事)
原正夫(郡山市市長)
藤森英二(前郡山市長)
根本匠(自民党衆議院議員)
玄葉光一郎(民主党衆議院議員)
荒井広幸(自由民主党・無所属の会参議院議員)
増子輝彦(民主党参議院議員)
安田貴六(元自由民主党衆議院議員)
川田昌成(元福島県議会議員)
吉田公男(福島県議会議員)

[編集] 文化界
高山樗牛(作家 校内に高山樗牛の碑がある)
朝河貫一(歴史学者 校内に朝河貫一が在学中に根もとに暗記した辞書の背表紙を埋めたと言われる「朝河桜」がある。)
箭内亙(歴史学者 、東京帝国大学教授)
鈴木善太郎(小説家 / 中退)
小西重直(昭和8年に京都大学総長 滝川事件に関わった)
久米正雄(作家)
中山義秀(作家 第7回芥川賞)
東野辺薫(作家 第18回芥川賞)
玄侑宗久(作家 第125回芥川賞)
古川日出男(作家)
船山隆(音楽学者)
永井陽之助(国際政治学者)
菅生浩(児童文学作家)
湯浅譲二(作曲家)
大内登(元ビビる・卒業生の中で唯一のタレントだった)
箭内道彦(クリエイティブディレクター)
渡辺弘(元日本テレビプロデューサー)
宗像孝(フジテレビ「とくダネ」チーフプロデューサー)
山崎章郎(医師、随筆家『病院で死ぬということ』の作者)
佐藤静司(彫刻家、日本美術展覧会参与 / 中退)

[編集] その他
古川清(元外交官、前東宮大夫)
宗像紀夫(元名古屋高検検事長)
高橋敬三(トヨタF1技術コーディネーション担当ディレクター)
坪井栄孝(前日本医師会長、世界医師会長)
小針暦二(元福島交通・福島民報社・ラジオ福島社長、旧制安積中学中退)
大高善兵衛(元ヨークベニマル社長)

[編集] 交通
JR東北本線・磐越西線・磐越東線・水郡線郡山駅より福島交通バス利用安積高校バス停下車

[編集] 関連項目
福島県高等学校一覧
私服校の一覧
福島県立安積高等学校御舘分校
旧制中学校
旧制中等教育学校の一覧

[編集] 外部リンク
福島県立安積高等学校



この「福島県立安積高等学校」は、学校に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育/PJ学校)

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カテゴリ: 学校記事 | 学校に関するスタブ | 福島県の公立高等学校 | 郡山市

最終更新 2008年8月3日 (日) 08:42。

高山樗牛  「人生終に奈何」(明治二十四年六月) 1763字 

2008-08-08 11:54:44 | 17 ◎調べもの文芸文庫
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福島中学・東京帝国大学・「帝国文学」



人生終に奈何
高山樗牛



 人生終(つひ)に奈何、是れ實に一大疑問にあらずや。生きて回天の雄圖を成し、死して千歳の功名を垂る、人生之を以て盡きたりとすべきか、予甚だ之に惑ふ。生前一杯の酒を樂しむ、何ぞ須ひん身後千載の名、人は只行樂して已(や)まんか、予甚だ之に惑ふ。蝸牛角上に何事をか爭ふ、石火光中に此身を寄す、人は只無常を悟りて終らんか、予甚だ之に惑ふ。吁、人生終に奈何。將(は)た人は只死するが爲に生れたるか。
 嘗て一古寺に遊ぶ、檐(のき)朽ち柱傾き、破壁摧欄、僅に雨露を凌ぐ。環堵廓然として空宇人(ひと)を絶ち、茫々たる萋草(さいさう)晝尚ほ暗く、古墳累々として其間に横(よこた)はれるを見、猛然として悟り、喟然として嘆ず、吁、天下、心を傷(いた)ましむる斯の如きものあるか。借問(しやもん)す、是れ誰(た)が家の墳ぞ、弔祭永く至らず、墓塔空しく雨露の爲に朽つ。想ふに其の生れて世に在るや、沖天の雄志躍々として禁(た)ふる能はず、天下を擧げて之に與ふるも心(こゝろ)慊焉たらざりしものも、一旦魂(こん)絶えて身異物とならば、苔塔墓陰、盈尺の地を守つて寂然として聲なし、人生の空然たる、哀しむべきの至ならずや。後人碑(ひ)を建て之に銘するは其心素(もと)より其の英名を不朽に傳へんとするにあり。然れども星遷り世變り、之が洒掃の勞を取るの人なく、雨雪之れを碎き、風露之れを破り、今や塊然として土芥に委するも人絶えて之を顧みず、先人の功名得て而して傳ふべきなし。思ひ一たび此に至れば、彼の廣大なる墓碑を立てゝ名の不朽を願ふものは何等の痴愚ぞや。嗚呼劫火烱然として一たび輝けば、大千旦(あした)に壞(ゑ)す、天地又何の常か之れあらん、想ふに彼の功業を竹帛に留めて盛名の※[#「窮」の「弓」に代えて「呂」、242-下-2]りなきを望むものは、其の痴之れに等しきを得んや。
 悟れ、一瞬の須臾なるも、千歳の久しきも、天地の無※[#「窮」の「弓」に代えて「呂」、242-下-4]なるに比すれば等しく是れ一刹那なるにあらずや。名、其の死と共に滅するも、死後千年を經て亡ぶるも、其の終りあるに至つては一なり。人、生を此世に享け、此一時の名を希ふ、五十年の目的、遂に之に過ぎざるか。予甚だ之に惑ふ。
 功名朝露の如し、頼むべからず、人生終(つひ)に奈何。藐然(ばくぜん)として流俗の毀譽に關せず、優游自適其の好む所に從ふ、樂は即ち樂なりと雖も、蛄草露に終ると孰(いづ)れぞや。栖々遑々、時を匡(たゞ)し道に順(したが)ひ、仰いで鳳鳴を悲み、俯して匏瓜を嘆ず、之を估(う)りて售(う)れざらんことを恐れ、之を藏めて失はんことを憂ふ、之れ正は即ち正なりと雖も、寧ろ鳥獸の營々として走生奔死するに等しきなきか。光を含み世に混じ、長統の跡を尋ね劉子の流を汲み、濁醪一引、俯して萬物の擾々焉たるを望むは、快は即ち快なりと雖も、醉生夢死、草木と何ぞ擇ばん。吁、人は空名の爲に生れたるか、將(は)た行樂せんが爲に生れたるか。果して然らば是れ夸父(くわふ)日を追ふの痴を學ぶにあらざれば、禽獸草木と其命を等しうせんとするものなり。予甚だ之に惑ふ。
 南華老人は言へらく、大覺ありて其の大夢なるを知ると。佛氏は諭すらく、離慾の寂靜は四諦を悟る所以なりと。已(や)めよ、若し人生を以て夢となさば、迷へるも悟れるも、等しく是れ夢にあらずや。縱ひ身を觀じて岸頭籬根の草とし、命を論じて江邊不繋の船となすも、期する所は一の墓門にあらずや。生前の事業、夢中の觀の如く、死後の名聞、草露の如くんば、茫然たる吾が生、夫れ何くにか寄せん、大哀と謂はざるべけんや。嗚呼人生終に奈何。予、往を顧み來を慮り、半夜惘然として吾れ我れを喪(うしな)ふ。

(明治二十四年六月)





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底本:「日本現代文學全集 8」講談社
   1967(昭和42)年11月19日発行
入力:三州生桑
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:

【三田文学 佐藤春夫 永井荷風:①~⑩】

2008-08-08 11:48:14 | 24 雑誌・本(受験関係)
【三田文学 佐藤春夫 永井荷風:①~⑩】 の検索結果 約 1190 件

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慶應義塾大学・慶大予科・三田文学・耽美派



1位
荷風歡樂: 佐藤春夫『佐藤春夫 人と作品』 昭和57年第2刷 福田清人/岡田純也編 清水書院『作家の友情』 昭和59年 河盛好蔵 新潮社 新潮選書『三田文学 秋季号 第三号』 昭和60年11月 三田 文学会『<望郷の詩人・偉大な文学者>図録 佐藤春夫』 1990年 佐藤春夫記念館『大正 ...
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2位
佐藤春夫 - Wikipedia慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学ぶ。兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった『断腸亭 ... 1909年から『スバル』『三田 文学』に叙情詩、傾向詩を発表し、識者の注目を集める。1917年に神奈川県都筑郡に ...
ja.wikipedia.org/wiki/佐藤春夫 - 33k - キャッシュ - 関連ページ



3位
慶應キャンパス新聞 : 塾統~慶應義塾の伝統 第41回 「三田の文人 ...『三田文学』は明治四十三年(一九一〇)に創刊され、その年度に慶應義塾大学文学部主任教授に聘せられた永井荷風が編集長となって、教壇で折目正しい講義をすると共に、 編集長としても尽力して、久保田万太郎、水上滝太郎、佐藤春夫らを世に送った。 ...
www.keiocampus.net/archives/2006/12/post_990.html - 16k - キャッシュ - 関連ページ



4位
慶應義塾ホームページ「朝顔」の久保田万太郎、「山の手の子」の水上滝太郎を筆頭に、堀口大學、佐藤春夫、 松本泰、小島政二郎、南部修太郎など、『三田文学』は多くの才能を文壇へと送リ出した。 大正4年になると永井荷風は編集主幹を退き、しばらくして『三田文学』は休刊を ...
www.keio.ac.jp/staind/194.htm - 9k - キャッシュ - 関連ページ

港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (佐藤春夫)同級生は佐藤、堀口を含めて3人だけでしたが、文学部の教授には永井荷風、先輩には水上滝太郎、久保田万太郎らがいました。『三田文学』で次々と詩を発表するものの、創作と交友活動に熱中するあまり大学には5年8か月在籍して1学年しか進級していません。 ...
www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=47&CGISESSID=b392481758c7f0125ee074e63c44294a - 12k - キャッシュ - 関連ページ

佐藤春夫雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙犬の家」を発表してその才能が注目されつつありましたが、大正7年(1918 ... 『小説永井荷風伝』 『詩の本』 『 極楽から来た』『美の世界』 『詩文半世紀』 『愛の世界』 『佐藤春夫文芸論集』 ...
www.rifnet.or.jp/~haruokan/haruo.html - 6k - キャッシュ - 関連ページ

:作家事典:ほら貝佐藤春夫 ( さとうはるお ). 加藤弘一 ... この年、永井荷風が慶應義塾文科の教授となったので、堀口とともに慶應予科に入学。在学中から「三田文学」、「中央公論」に寄稿。1913年、慶應義塾を退学。文学に行き詰まり、油絵に向かう。 ...
www.horagai.com/www/who/21satoh1.htm - 関連ページ

日本近代文学論究 潤一郎・荷風永井荷風と谷崎潤一郎との交友関係は、永井荷風の推挽によって華々しく世にで、耽美主義を自己の文学観となしていたわりに ... のように、明治44年、荷風の「谷崎潤一郎氏の作品」(「三田文学」11月号)で、荷風が強力に彼を推賞したことによる。 ...
tanabe.easy-magic.com/user/index.php?menu_id=2&mode=view_content&news_content_id=34&page=1 - 58k - キャッシュ - 関連ページ

はてなブックマーク - 永井荷風はてなブックマーク > キーワード > 永井荷風. キーワード「永井荷風」を含む注目エントリー ... 「永井荷風」を含む注目エントリー. 注目エントリーの閾値3users 5users. storage-system.fujitsu.com. www.keyman.or.jp ...
b.hatena.ne.jp/keyword/永井荷風 - 62k - キャッシュ - 関連ページ

佐藤春夫の価格 中古価格・オークション落札相場ちくま日本文学全集 佐藤春夫, \300, 1件, 02月17日. 佐藤春夫「小説 有馬晴信」昭18 初版 三田文学|, \1000, 1件, 02月14日. 筑摩現代文学大系 佐藤春夫 田園の憂鬱・神々の戯れ 他, \700, 1件, 02月03日. 佐藤春夫(小説永井荷風傳記)昭35年初版/帯無/ ...
www.priceman.jp/cid106829/ - 14k - キャッシュ - 関連ページ

【坪内逍遥 森鴎外:①~⑩】 2位:坪内逍遥と森鴎外の論争

2008-08-08 11:42:20 | 14 用語集:②人物以外
【坪内逍遥 森鴎外:①~⑩】 の検索結果 約 3万8800 件

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高大連携情報誌「大学受験ニュース」 東大・早大・森鴎外・坪内逍遥



1位
セブンアンドワイ ヤフー店 マクベス 森鴎外自筆稿本 ...著者/訳者名:〔シェイクスピア/著〕 森鴎外/〔訳〕 坪内逍遥/注 出版社名:雄松堂出版 発行年月:1999年04月 関連キーワード:マクベス モリ オウガイ ジヒツ コウホン まくべす もり おうがい じひつ こうほん、 シエークスピア,ウイリアム ...
store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/30542497.html - 20k - キャッシュ - 関連ページ


2位

CiNii - 坪内逍遥と森鴎外の論争 (<特集>明治期における西洋思想の受容 ...Vol.7(19801200) pp. 15-18. 大正大学 ISSN:02862379. 書誌情報. 坪内逍遥と森鴎外の論争 (<特集>明治期における西洋思想の受容と反応). The Meaning of the Controversy between Shoyo and Ogai (<Symposium> European Thought in the Meiji Era) ...
ci.nii.ac.jp/naid/110000312581/ - 17k - キャッシュ - 関連ページ
大嶋仁 著 - 1980



3位
作家別作品リスト:坪内 逍遥作家名:, 坪内 逍遥. 作家名読み:, つぼうち しょうよう. ローマ字表記:, Tsubouchi, Shoyo. 生年:, 1859-06-22 ... 関連して同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げたこともあった。また演劇にも熱心で、文芸と同じく論文や「桐一葉」 ...
www.aozora.gr.jp/index_pages/person141.html - 9k - キャッシュ - 関連ページ



4位
<美文天皇>と<観音> : 坪内逍遥対森鴎外<没理想論争>について ...タイトル: <美文天皇>と<観音> : 坪内逍遥対森鴎外<没理想論争>について. その他のタイトル: The Emperor of Belles-lettres and the Goddess of Mercy : Shōyō TSUBOUCHI versus Ōgai MORI : their dispute on "anti-idealism" (a more realistic ...
eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33718 - 15k - キャッシュ - 関連ページ



5位
参考資料明治二〇年代に坪内逍遥がシェークスピアの作品をそのように規定したことに対して、 理想派の森鴎外が論争をいどみ、いわゆる没理想論争が展開された。 三十三観音, 三十三観音(さんじゅうさんかんのん): 観音が衆生済度(しゅじょう‐さいど:仏教語。 ...
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6位
坪内逍遥 - ウラ・アオゾラブンコ同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げた。また、「桐一葉」(明治27,28) などの戯曲やシェイクスピアの紹介 ... 坪内逍遥@近現代日本文学史年表 回想録 君の身体は貧弱で、文学者の常として長らく不眠症に悩み、眠薬を借らず快眠を得る ...
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7位
森鴎外 - Wikipediaちなみに、そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草子』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争 .... なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していた ...
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8位
坪内逍遥とは - はてなダイアリー坪内逍遥 - つぼうちしょうよう 1859年(安政6年)~1935年(昭和10年) 美濃国生まれ 評論家 翻訳家 劇作家 作家 明治18 ... 主観(理想)を直接的にあらわさずに客観的な描写に終始すべきという創作観を森鴎外に反駁され論争に発展、没理想論争として ...
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9位

5月22日没理想論争理想や主観を直接表さないで、事象を客観的に描くのを主とすること。また、 そのような態度で描かれた作品の特質。明治二〇年代に坪内逍遥がシェークスピアの作品をそのように規定したことに対して、理想派の森鴎外が論争をいどみ、いわゆる没 ...
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10位
坪内 逍遥 (著) - 暇つぶし青空文庫坪内 逍遥 (著) ... 関連して同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げたこともあった。また演劇にも熱心で、文芸と同じく論文や「桐一葉」などの実践的脚本をものし、1909(明治42)年改組された文芸協会の責任者となってシェイクスピアを ...
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国木田独歩  武蔵野      ■本文 17898文字   抜粋一万字

2008-08-08 11:35:32 | 17 ◎調べもの文芸文庫
武蔵野
国木田独歩



     一

「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間(いるま)郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原(こてさしはら)久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒(たんちょ)をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美(び)今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣(ししゅ)といいたい、そのほうが適切と思われる。

     二

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷(しぶや)村の小さな茅屋(ぼうおく)に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。

九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌(きら)めく、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲(あまぐも)の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気(すいき)を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜(もり)にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野(や)にみつ、浮雲変幻(ふうんへんげん)たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端(ほったん)として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。

九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭(ぬぐ)うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出(い)で野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪(おとな)う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日――「月を蹈(ふ)んで散歩す、青煙地を這(は)い月光林に砕く」
同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑(まじ)ゆ。小鳥梢(こずえ)に囀(てん)ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟(こうぎん)し、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日――「夜更(ふ)けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐(なつか)し」
同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久(とこしえ)の夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに連山の上に聳(そび)ゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面(たおも)に水あふれ、林影倒(さかしま)に映れり」
十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日――「雪初めて降る」
三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日――「今朝大雪、葡萄棚(ぶどうだな)堕(お)ちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒(よさむ)の凩(こがらし)なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭(しょうとう)針のごとし」
二月八日――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁(のが)れし」

     三

 昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢(なら)の類(たぐ)いで冬はことごとく落葉し、春は滴(したた)るばかりの新緑萌(も)え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞(かすみ)に雨に月に風に霧に時雨(しぐれ)に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈(てい)するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。

「秋九月中旬というころ、一日自分が樺(かば)の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生(な)ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合(そらあ)い。あわあわしい白(し)ら雲が空(そ)ら一面に棚引(たなび)くかと思うと、フトまたあちこち瞬(またた)く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧(さか)し気(げ)にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空(あおぞら)がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦(そよ)いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌(しゃべ)りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語(ささやき)の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末(こずえ)を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈(くま)なくあかみわたッて、さのみ繁(しげ)くもない樺(かば)のほそぼそとした幹(みき)は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢(こうたく)を帯(お)び、地上に散り布(し)いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨(わらび)の類(たぐ)い)のみごとな茎(くき)、しかも熟(つ)えすぎた葡萄(ぶどう)めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
 あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬(またた)く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪(さ)めてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡(ぬ)れたばかりの細枝の繁みを漏(も)れて滑りながらに脱(ぬ)けてくるのをあびては、キラキラときらめいた」

 すなわちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭(ぼうとう)にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類(たぐ)いでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重(ちんちょう)するに足らないだろうと。
 楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨(しぐれ)が私語(ささや)く。凩(こがらし)が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体(はだか)になって、蒼(あお)ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視(ていし)し、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適(かな)っているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
 鳥の羽音、囀(さえず)る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢(くさむら)の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車(からぐるま)荷車の林を廻(めぐ)り、坂を下り、野路(のじ)を横ぎる響。蹄(ひづめ)で落葉を蹶散(けち)らす音、これは騎兵演習の斥候(せっこう)か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高(こわだか)に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音(つつおと)。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪(おとな)い、切株に腰をかけて書(ほん)を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥(ね)ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹(くりのき)もずいぶん多いから。
 もしそれ時雨(しぐれ)の音に至ってはこれほど幽寂(ゆうじゃく)のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜(もり)を越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過(ゆ)く時雨の音のいかにも幽(しず)かで、また鷹揚(おうよう)な趣きがあって、優(やさ)しく懐(ゆか)しいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨(しぐれ)のさらに人なつかしく、私語(ささや)くがごとき趣はない。
 秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ヶ谷、または小金井の奥の林を訪(おとな)うて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭(せいしょう)を感じ、永遠(エタルニテー)の呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干(せいとらんかん)たる時、星をも吹き落としそうな野分(のわき)がすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風の音は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄(すご)い風の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。
 熊谷直好の和歌に、

よもすから木葉かたよる音きけは
   しのひに風のかよふなりけり

というがあれど、自分は山家の生活を知っていながら、この歌の心をげにもと感じたのは、じつに武蔵野の冬の村居の時であった。
 林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々(こずえこずえ)の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末(はずえ)葉末に砕(くだ)け、その美しさいいつくされず。日光とか碓氷(うすい)とか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林が隈(くま)なく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろかろう。林が尽きると野に出る。

     四

 十月二十五日の記に、野を歩み林を訪うと書き、また十一月四日の記には、夕暮に独り風吹く野に立てばと書いてある。そこで自分は今一度ツルゲーネフを引く。

「自分はたちどまった、花束を拾い上げた、そして林を去ッてのらへ出た。日は青々とした空に低く漂(ただよ)ッて、射す影も蒼ざめて冷やかになり、照るとはなくただジミな水色のぼかしを見るように四方に充(み)ちわたった。日没にはまだ半時間もあろうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄いろくからびた刈株(かりかぶ)をわたッて烈しく吹きつける野分に催されて、そりかえッた細かな落ち葉があわただしく起き上がり、林に沿うた往来を横ぎって、自分の側を駈け通ッた、のらに向かッて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑(くず)を散らしたように煌(きらめ)きはしないがちらついていた。また枯れ草(くさ)、莠(はぐさ)、藁(わら)の嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛(くも)の巣は風に吹き靡(なび)かされて波たッていた。
 自分はたちどまった……心細くなってきた、眼に遮(さえぎ)る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な鴉(からす)が重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回(めぐ)らして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上がッて、声をちぎるように啼(な)きわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩(はと)が幾羽ともなく群をなして勢いこんで穀倉のほうから飛んできた、がフト柱を建てたように舞い昇ッて、さてパッといっせいに野面に散ッた――アア秋だ! 誰だか禿山(はげやま)の向うを通るとみえて、から車の音が虚空(こくう)に響きわたッた……」

 これはロシアの野であるが、我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。






     五

     六

     七

  しかしその市の尽(つ)くる処、すなわち町外(は)ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外(はず)れを一の題目(だいもく)とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂(どうげんざか)の近傍、目黒の行人坂(ぎょうにんざか)、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神(きしもじん)あたりの町、新宿、白金……
 また武蔵野の味(あじ)を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台(こうのだい)等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包(つつ)まれている首府東京をふり顧(かえ)った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並(やなみ)があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴(てんてつ)している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋(れんたんかおく)を描写するの必要がある。
 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
 また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸(かめいど)の金糸堀(きんしぼり)のあたりから木下川辺(きねがわへん)へかけて、水田と立木と茅屋(ぼうおく)とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分(いちりょうぶん)である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子(ずし)の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波(つくば)でわかる。筑波の影が低く遥(はる)かなるを見ると我々は関(かん)八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
 しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢(ちせい)のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
 そこで僕は武蔵野はまず雑司谷(ぞうしがや)から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円(まる)く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子(まるこ)から下目黒(しもめぐろ)に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――

     八

 
 大根の時節に、近郊(きんごう)を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。







     九

 かならずしも道玄坂(どうげんざか)といわず、また白金(しろがね)といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道(おうめみち)となり、あるいは中原道(なかはらみち)となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地(りんち)田圃(でんぽ)に突入する処の、市街ともつかず宿駅(しゅくえき)ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈(てい)しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚(よ)び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹(ひ)くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外(まちはず)れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎(いなか)の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹(ほうふく)するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点(とくてん)をいえば、大都会の生活の名残(なごり)と田舎の生活の余波(よは)とがここで落ちあって、緩(ゆる)やかにうずを巻いているようにも思われる。
  日が暮れるとすぐ寝てしまう家(うち)があるかと思うと夜(よ)の二時ごろまで店の障子に火影(ほかげ)を映している家がある。理髪所(とこや)の裏が百姓家(や)で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家(となり)が納豆売(なっとううり)の老爺の住家で、毎朝早く納豆(なっとう)納豆と嗄声(しわがれごえ)で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉(せみ)が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃(すなぼこり)が馬の蹄(ひづめ)、車の轍(わだち)に煽(あお)られて虚空(こくう)に舞い上がる。蝿(はえ)の群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
 それでも十二時のどんがかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。





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底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年10月21日公開
2004年6月17日修正
青空文庫作成ファイル:

横浜市立大学の人物一覧

2008-08-08 11:25:36 | 16 全国大学一覧(国・公・私)
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早稲田大学文学部史学科国史専修
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横浜市立大学の人物一覧

横浜市立大学の人物一覧は横浜市立大学に関係する人物の一覧記事。

目次 [非表示]
1 政治
2 経済
3 行政
4 その他著名人
5 学界
6 教員OB
7 名誉教授



[編集] 政治
米田健三 - 元衆議院議員(自由民主党)
岩瀬良三 - 元参議院議員(自由民主党)、元佐原市長

[編集] 経済
久田宗弘 - DCM Japanホールディングス社長
太田孝 - 近畿日本ツーリスト社長
木内政雄 - 西友CEO
畔柳昇 - 名古屋証券取引所社長
幡掛大輔 - クボタ社長
馬場彰 - オンワード樫山会長
末安堅二 - 中京銀行頭取
浦野光人 - ニチレイ社長
秋谷浄恵 - 日清オイリオグループ会長
伊藤雅俊 - イトーヨーカドー設立者、横浜市立商業専門学校卒
野並豊 - 崎陽軒会長
遠藤淳一 - 日産自動車常務執行役員
奥田楯彦 - 西日本高速道路社長
大久保千行 - 横浜銀行代表取締役
志賀浦伴昭 - 浜銀総合研究所主席コンサルタント
足立誠一郎 - 前トヨタフランス社長
後藤光男 - 元野村企業情報社長
熊谷史人 - 元ライブドア代表取締役
穂谷野一敏 - アラビア石油社長
多賀英典 - キティレコード創業者

[編集] 行政
矢部丈太郎 - 元公正取引委員会事務総長、元大阪大学大学院法学研究科教授
白川光徳 - 駐ボリビア特命全権大使
石田仁宏 - 駐ペルー特命全権大使
篠原勝弘 - 駐カンボジア特命全権大使
坂場三男 - 外務省外務報道官
足立純子 - HEC経営大学院(フランス)日本代表
森博幸 - 鹿児島市市長
若松勇四郎 - いわき市東京事務所長

[編集] その他著名人
秋田建三 - NHKアナウンサー
野瀬正夫 - NHKアナウンサー
松井みどり - フジテレビ元アナウンサー
米本和広 - ジャーナリスト
馳星周 - 小説家
平井堅 - 歌手
オオゼキタク - 歌手
今岡信治 - 映画監督
関野吉晴 - 医師・探検家、グレートジャーニー
荻野目悠樹 - 小説家
ジンカーズ - お笑いコンビ
たけだつとむ - 漫画家
今野寿美 - 歌人
新戸雅章 - 作家
奥浩平 - 学生運動家(「青春の墓標」の著者)
吉俣良 - 作曲家
星野涼子 - タレント
亜門虹彦 - 心理アナリスト

[編集] 学界
中内啓光 - 医学者、東京大学医科学研究所教授
田村智彦 - 医学者、東京大学大学院医学系研究科准教授
松井啓之 - 経済学者、京都大学大学院経済学研究科准教授
鴨池治 - 経済学者、東北大学大学院経済学研究科教授
岡嶋孝治 - 物理学者、北海道大学電子科学研究所准教授
西條美紀 - 言語学者、東京工業大学留学生センター教授
佐藤公彦 - 歴史学者、東京外国語大学外国語学部教授
毛利勝彦 - 国際政治経済学者、国際基督教大学教授
池田寛二 - 社会学者、法政大学教授
早川洋行 - 社会学者、滋賀大学教授
毛利聡子 - 国際関係学者、明星大学准教授
内田賢 - 経営学者、東京学芸大学教授
小木曽洋司 - 社会学者、中京大学社会学部准教授
加藤幸治 - 人文地理学者、国士舘大学准教授
吉沅洪 - 臨床心理学者、広島市立大学准教授
和田喜彦 - 経済学者、同志社大学准教授
末近浩太 - 中東政治学者、立命館大学准教授
吉田俊純 - 日本史学者、筑波学院大学教授
鈴木修一 - 哲学者、神奈川大学教授
吉野樹紀 - 日本文学者、沖縄国際大学教授
北山研二 - フランス文学者、成城大学教授
大上正直 - フィリピノ言語学者、大阪外国語大学教授
鈴木健之 - 中国文学者、東京学芸大学教授
竹本洋 - 経済学者、日本学士院賞、関西学院大学教授、商学部卒
平坂文男 - 言語学者、関東学院大学教授
島田修三 - 国文学者、歌人、愛知淑徳大学教授

[編集] 教員OB
三枝博音 - 哲学者、科学史家
毛里和子 - 国際政治学者
浅島誠 - 発生生物学者、東京大学名誉教授。日本学士院賞・恩賜賞受賞
森泰吉郎 - 森ビル創業者
野本三吉 - ノンフィクション作家、沖縄大学教授
セルゲイ・ブラギンスキー - 国際経済学者、ニューヨーク州立大学バッファロー校
唐亮 - 国際政治学者、法政大学教授
毛利勝彦 - 国際政治経済学者、国際基督教大学教授
黒川修司 - 国際政治学者、東京女子大学教授
宮澤健一 - 経済学者、元一橋大学学長、日本学士院会員

[編集] 名誉教授
青柳文司 - 会計学、元商学部教授
今井清一 - 日本近現代史、元文理学部教授
遠山茂樹 - 日本近代政治史、元文理学部教授
西郷信綱 - 日本古代文学、元文理学部教授
伊豆利彦 - 日本近代文学、元文理学部教授
宇南山英夫 - 会計学、元商学部教授
佐藤経明 - ソ連・中国経済研究、元商学部教授
矢吹晋 - 中国研究、元商学部教授
佐々木一郎 - 政治学、元国際文化学部教授
布施勉 - 国際法、元国際文化学部教授
大西文行 - 教育学、元国際文化学部教授
田中正司 - 社会思想史、元商学部教授
都築卓司 - 物理学、元文理学部教授
山極晃 - 国際政治史、元国際文化学部教授
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7" より作成
カテゴリ: 大学に関する人名一覧


最終更新 2008年7月19日 (土) 21:01。
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横浜市立大学

2008-08-08 11:22:09 | 16 全国大学一覧(国・公・私)
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横浜市立大学

横浜市立大学

金沢八景キャンパス
大学設置 1949年
創立 1882年
学校種別 公立
設置者 公立大学法人横浜市立大学
本部所在地 神奈川県横浜市金沢区瀬戸22番2号
キャンパス 金沢八景(横浜市金沢区)
福浦(横浜市金沢区)
鶴見(横浜市鶴見区)
舞岡(横浜市戸塚区)
学部 国際総合科学部
医学部
研究科 国際総合科学研究科
医学研究科
ウェブサイト 横浜市立大学公式サイト
表・話・編・歴
横浜市立大学(よこはましりつだいがく、英称:Yokohama City University)は、神奈川県横浜市金沢区瀬戸22番2号に本部を置く日本の公立大学である。1949年に設置された。大学の略称は横市(よこいち)、市大(しだい)、浜大(はまだい)、YCUなど。

目次 [非表示]
1 概観
1.1 大学全体
1.2 教育および研究
2 沿革
2.1 略歴
2.2 年表
3 基礎データ
3.1 所在地
3.2 象徴
4 教育および研究
4.1 組織
4.1.1 学部
4.1.2 大学院
4.1.3 附属機関
4.2 研究
4.2.1 21世紀COEプログラム
4.3 教育
5 学生生活
6 大学関係者と組織
6.1 大学関係者一覧
7 施設
7.1 キャンパス
7.1.1 金沢八景キャンパス
7.1.2 福浦キャンパス
7.1.3 鶴見キャンパス
7.1.4 舞岡キャンパス
8 公式サイト



[編集] 概観

[編集] 大学全体
横浜市立大学は、横浜市立横浜商業学校(Y校)専修科を母体として設立された横浜市立横浜商業専門学校(Y専)、私塾鎌倉アカデミア、横浜医科大学を母体として、1949年の学制改革に伴い新制大学として誕生した。

現在の校名は、学制改革による大学昇格時に決定した名称である。官立の新制大学(前身は旧制横浜経済専門学校・旧制横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校)、横浜市立の新制大学(前身は旧制横浜市立経済専門学校)、旧制横浜専門学校の3校がともに「横浜大学」を名称として申請したため、協議を行うこととなった。その結果、各校がともに譲歩し「横浜大学」の名を使用しないことを決定した。その際、官立の新制大学は「横浜国立大学」、横浜市立の新制大学は「横浜市立大学」、旧制横浜専門学校は「神奈川大学」を使用することとされ、現在の大学名が決定された。


[編集] 教育および研究
国際総合科学部は国際総合科学科1学科のみで構成され、その中に国際教養学系・理学系・経営科学系の3学系を設置し各学科には2つのコースが設けられている。プラクティカルなリベラルアーツ(実践教養)を理念としている。

国際的に通用する人材を育てることを目標とし、英語教育を重視している。3年次に進級するにはTOEFL PBT500点程度以上の成績が無ければならない。英語教育は週3日必修となっている。


[編集] 沿革

[編集] 略歴
2005年4月に、商学部・国際文化学部・理学部の3学部を統合し国際総合科学部を設置、看護短期大学を医学部へ統合するなどの大幅な改組が行われた。


[編集] 年表
1882年 旧商学部の起源となる横浜商法学校(後の横浜商業学校)設立。
1928年 横浜市立横浜商業学校(Y校)専修科を母体として横浜市立横浜商業専門学校(Y専)設立。
1949年 学制改革により横浜市立大学となる。
1952年 横浜市立医学専門学校を前身とする市立横浜医科大学と統合し、医学部・文理学部を設置。
1963年 国鉄鶴見事故で三枝博音学長が死去。大学葬が執り行われた。
1987年 福浦キャンパス設置。
1995年 文理学部を改組し、国際文化学部・理学部を設置。看護短期大学部を設置。
1997年 医学部附属高等看護学校廃止。
2005年 商学部・国際文化学部・理学部の3学部を統合し国際総合科学部、看護短期大学を医学部に統合し医学部看護学科を設置。公立大学法人に運営を移行。

[編集] 基礎データ

[編集] 所在地
金沢八景キャンパス(神奈川県横浜市金沢区瀬戸22-2)
福浦キャンパス(神奈川県横浜市金沢区福浦3-9)
鶴見キャンパス(神奈川県横浜市鶴見区末広町1-7-29)
舞岡キャンパス(神奈川県横浜市戸塚区舞岡町641-12)

[編集] 象徴
校歌は、西条八十作詞、古関裕而作曲である。歌詞は大学公式サイト内に掲載されている。
シンボルマークは英略称"YCU"の3文字を組み合わせたものであり、2005年4月の公立大学法人移行を機に制定された。

[編集] 教育および研究

[編集] 組織

[編集] 学部
国際総合科学部
国際総合科学科
国際教養学系
人間科学コース
国際文化創造コース
理学系
基盤科学コース
環境生命コース
経営科学系
政策経営コース
国際経営コース
融合領域
ヨコハマ起業戦略コース
医学部
医学科(6年制)
看護学科

[編集] 大学院
国際総合科学研究科
国際文化研究専攻(博士前期課程・博士後期課程)
経営学専攻(博士前期課程・博士後期課程)
理学専攻(博士前期課程)
基盤科学系
環境生命系
ナノ科学専攻(博士後期課程)
バイオ科学専攻(博士後期課程)
生体超分子科学専攻(博士前期課程・博士後期課程)
医学研究科
医科学専攻(修士課程)
生命分子情報医科学専攻(4年制博士課程)
生体機能医科学専攻(4年制博士課程)
生体システム医科学専攻(4年制博士課程)

[編集] 附属機関
研究所
木原生物学研究所
大学病院
附属病院
附属市民総合医療センター
図書館
学術情報センター
医学情報センター

[編集] 研究

[編集] 21世紀COEプログラム
21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。

2003年
医学系
細胞極性システム研究に基づく未来医療創成(からだの形づくりの仕組みの解明から病気の克服へ)

[編集] 教育
現代的教育ニーズ取組支援プログラム
学生が作る地域の子ども健康プロジェクト-医学生と看護学生による取り組み-
特色ある大学教育支援プログラム
実践的な医療安全教育

[編集] 学生生活
学生の規律ある自治共同の生活を通して、その人間形成と厚生の充実を目的として、男子寮(夕照寮)と女子寮(萌生寮)を設置している。それぞれ、男子寮は約70名、女子寮は約30名の学生が生活している。


[編集] 大学関係者と組織

[編集] 大学関係者一覧
横浜市立大学の人物一覧

[編集] 施設

[編集] キャンパス

[編集] 金沢八景キャンパス
使用学部:国際総合科学部、医学部(1年次)
使用研究科:大学院国際総合科学研究科
使用附属施設:学術情報センター
交通アクセス:京急本線・シーサイドライン金沢八景駅より徒歩5分

[編集] 福浦キャンパス
使用学部:医学部
使用研究科:大学院医学研究科
使用附属施設:医学情報センター、附属病院
交通アクセス:JR根岸線新杉田駅、京急本線金沢八景駅、シーサイドライン市大医学部駅より徒歩3分

[編集] 鶴見キャンパス
使用学部:なし
使用研究科:大学院国際総合科学研究科(生体超分子科学専攻)
使用附属施設:なし
交通アクセス:JR京浜東北線鶴見駅、京急本線京急鶴見駅より川崎鶴見臨港バス利用、またはJR鶴見線鶴見小野駅より徒歩15分

[編集] 舞岡キャンパス
使用学部:なし
使用研究科:なし
使用附属施設:木原生物学研究所
交通アクセス:横浜市営地下鉄ブルーライン舞岡駅より徒歩10分

[編集] 公式サイト
横浜市立大学
この「横浜市立大学」は、大学関連の書きかけの項目です。この記事を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています。(P:教育/PJ大学)





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最終更新 2008年8月5日 (火) 11:20。

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