「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

島崎城跡発掘調査報告

2020-10-01 19:05:41 | 歴史

【島崎城跡縄張図】

【調査組織】

調査事業名 文化庁補助事業調査島崎城跡 第四年次学術調査

調査主体 牛堀町教育委員会(教育長 藤原鑅司郎)

 調査実施 島崎城跡発掘調査団

調査担当者 西ヶ谷恭弘(日本考古学協会員)

調査協力 茨城県教育庁文化課・日本城郭史学会・牛堀町文化財保護審議委員会・牛堀町郷土文化研究会・地元有志の皆様

 

【調査目的】

 鎌倉時代から戦国末期に亘って島崎氏の居城であった島崎城は、廃城後四百年を経た今日、土中に埋もれたまま、現存している。開発の波が押し寄せて文化財・史跡が犠牲となっている中、島崎城はその全域が良好な状況で保存されている。

 牛堀町では、昭和六十一年に堀之内大台城の破壊消滅を機に、島崎城の保存整備の町民の声に応えるべく、四ケ年計画の学術調査を立案、文化庁補助事業として、調査に着手した。調査は①島崎城の埋没状況を知る。②島崎城の規模構造とその範囲を確認する。③各時代(重複遺構)の築城工事の様子の一部でも明らかにする。④島崎城中での生活・文化を知る。⑤発掘調査をはじめとする学術調査をもとに、今後の史跡保存の手掛かり・手法を見いだすことなどを目的として実施した。

四年次五次調査の調査対象は次のとおりである。

昭和六十一年次 第一次(八月)   一曲輪御札神社前方を試掘

        第二次(十一月) 島崎城全域を測量、一曲輪土塁セクションを試掘

昭和六十二年次 第三次(十一月) 一曲輪中央部を発掘、火災、石組遺構を検出

昭和六十三年次 第四次(平成元・二月) 一曲輪外周堀、馬出空堀、東二曲輪南を発掘、塁書土器、船戦青花等を検出

平成元年次   第五次(平成元年十二月・二年一月)東二曲輪北側、西二曲輪外周堀を発掘

【調査区設定】

第五次調査は、調査計画に従って、六地点にグリット及びトレンチを設定した。

東二曲輪一号調査区 約150㎡を調査対象地区として、うちA・B・Cグリットを発掘し、二曲輪南方向の遺構検出にあたった。

東二曲輪二号調査区 一号地区の南側約50㎡、東西方向の遺構検出にあたる。一号地区と第四次グリットとの関係を明らかにすることを目的とする。

西二曲輪三号調査区 一曲輪に次いで大きな西二曲輪内の建築遺構等を検出するため、約200㎡を調査対象とした。

西二曲輪四号調査区 一曲輪外周空堀を横矢掛り(凸凹をつけて見張り、攻撃台とする施設)とし、虎口(出入口)の監視台もしくは橋台とみられる出張り部、約80㎡を対象とした。

西二曲輪五号調査区 島崎城大手口の真上、城中で最も高所に当たる個所に約50㎡のグリットを設定、物見台の検出にあたった。

二曲輪外周空堀b号調査区 東二曲輪北側の空堀埋没状況を知るため、約20㎡のトレンチを設定した。

【発掘調査で検出した遺構】

 池状遺構 一号C区より検出。深さ1.25mを測る。二の丸主殿建築に伴う庭園の一部と見られる。

 カマド遺構  一号C区より検出。カマド壁・焼土・スミがともなう。カマド焼土中より鉄砲弾丸(銅弾丸)が出土。

 土間状遺 一号C区より検出。カマド状遺構につづく叩き土間。

見張台地形(地業)遺構 空堀道が西二曲輪への坂道となるクランク状通路を見張る概形横矢台。自然地形の先端部を方形プランになるよう地形土もって堅めている。一曲輪への橋台であった可能性もある。

 構状遺構 概形横矢台の北側より検出、排水用か別の用途かは不明。

 長屋状建築遺構 四号区に掘立建築遺構に伴う柱穴群が多数検出されている。

 主殿建築遺構 西二曲輪中央寄りから数度建てかえられている大型建築の遺構が検出された。最も下限とみられる戦国期の建築遺構は最大で5間に3間の規模とみられ、柱穴はいずれもピッシリとスミが混入。火災で焼け落ちたと推定される。各ピット(柱穴)の掘り方は、径80cm平均の円形もしくは楕円形で、掘り込み深さは、いずれも70cm~80cmと深く、底には粘土地業もしくは砂岩で地業をほどこしている。検出プランおよび規模からみて、中世武家住宅の基本である主殿建築とみられる。

 土壙(どこう)     主殿建築の北側より検出。土壙とは食料等の貯蔵穴のこと。90cm径で、70cmの掘り込みの土壙で、石ケンに用いた岩が検出された。

 周濠状遺構 主殿建築遺構を囲むように溝がめぐっていたようである。検出遺構の北側より幅25cm、深さ50cmの溝が検出された。

 工房状建築構 五区より検出。東西2.5m、南北4.2mの楕円形の粘土貼り、周囲は20~40cmの壁面が立ちあがり、深さ20cmほど東北側に次第に底が深くなる。南側は凸状に窪みがあり、作業に伴う空間が設けられていたと考えられる。粘土貼り周囲からは径30cm~40cm円形のビット六ヶ所(うち五ヶ所を検出)が整然と並び、履屋である建築が存在していたことが判明した。この履屋は北側は粘土壁に接し、南側は空間を設ける構造である。明らかに水を溜める施設で、池としたら履屋の必要はない訳で、工房跡と推定される。なお、北西のビットには、材料が炭化したままの状況で出土した。

 物見矢倉遺構 五区西側の先端部より検出。西曲輪西側は29.0mを測り、城域中心部ではいちばん高く、大手(字・表門)の真上に位置する所である。斜面は砂岩であるため、地表をはじめ風雨により大きく欠落し、遺構の消失が心配されていた。今次調査によって、その淵縁部(標高地点個所)を発掘、記録保存を企てることとなった。発掘の結果、地形土(地業土)をもって基礎をつくり、数度に亘って建て替えられた物見矢倉建築とみられる柱穴が、区域内で十七ヶ所確認できた。柱間は1.5cmと2.0cmでおそらく四間(6m)四方の物見矢倉が聳えていたと考えられる。大手口と古宿、古屋、遠くは宿、芝宿、霞ヶ浦を監視する目的であったとものだろう。

【主たる出土遺構】

古 銭 一~五区までの全域より十数枚出土。いずれも中国からの渡来銭で永楽通宝・洪武通宝などからなる。

鉄 釘 三区・五区・一区から凡そ八点出土いずれも角釘で大小がある。

鉄砲弾丸 一区と三区から出土。銅製の弾丸で一区はカマド内より出土した。

染 付 中国景徳窒産の船載青果花。皿片が多数出土。

自 磁 中国もしくは朝鮮半島の高麗系の碗片が数点。

灰釉陶器 いずれも室町~戦国期の美濃・瀬戸でつくられた碗・鉢・皿で、中でも縁釉溜りに酢漿草文が隠刻される重要美術品級の皿や天目茶碗等が注目される。

自然釉陶器 常滑系の壺・水甕・茶壷に用いられた。

内耳鍋 三区より多数出土。中世独特の内側に計三個の吊るし耳がある。

灯明皿・カワラケ 全域より出土。鉢状・皿状・盃状の三個よりなる。

瓦 器 火舎(火鉢)に用いられ、外面に捺印文がある。

砥 石 三区ビット内より出土。 

五輪塔 笠石が五区より出土。

            

引用 鹿行の文化財 第20号  鹿行文化財保護連絡協議会 発行


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