「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2020-12-17 19:59:34 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

 

【島崎盛衰記その1】

義経に従う平宗幹「嶋崎盛衰記」巻頭を飾る

 往古、牛堀に島崎左衛門尉あり。旧八代村大字島須にあった島崎城、代々の城主。ご多聞にもれず、桓武平氏の流れをくむ常陸大掾氏の一統、常陸の名族である。それは十七代、四百年に及んだ。

 そこで、この地方の旧家に残る写本、「島崎盛衰記」により、桓武平氏のおいたち、島崎氏の隆盛からその滅亡までをたどってみることにする。

 人皇五十代、桓武天皇から出た流れは葛原親王、高見王、高望とつづき高望の代に平氏を名乗るようになる。次いで国香、繁盛、維幹、為幹,重幹、清幹、忠幹、宗幹とつづく。ここで注目されるのは、その宗幹が源義経にしたがい、はからずも同じ流れをくむ平家一門を向こうにまわし、一の谷や屋島で戦っているのである。この戦いのありさまは嶋崎盛衰記中、島崎家由緒のこととしてしるされ、巻頭を飾っている。

 宗幹、常州行方郡に在住して、威名遠近にふるう。しかるに、人皇八十二代後鳥羽院の治世、元暦元年(1184)右兵衛佐義明公にうながされて出陣、九郎冠者義経公の幕下属して忠誠をはげみ、大津栗津で木曽義仲を攻め滅ぼし、引き続いて一の谷、三草山の合戦に打勝ち、平家一門を追い落した。

文治元年(1185)正月10日、九郎義経は御所にでむき、大蔵卿奏径を通して天皇に申し上げたものだ。

平家何時族は没落したといえども、いまだ四国屋島に都をたて、このところ他国の客□を□□し民百姓を悩ましており、まったく西□の□である。だから、かの軍をことごとく討ってしまいましょう。もし失敗に終わるようなことがあれば、ふたたび□族へ戻りません、と。

 宿舎に帰った九郎判官は、東国の諸将にむかって、このたび院宣を受け鎌倉家の代官として平家を追い討ちする。陸は馬が通らないところまで、海は櫓のきかないところまで攻めていこう、戦いに加わりたくない者はすぐ鎌倉にくだることだともいったが、それぞれどこまでもお供しましょう誓いあった。

そして、2月3日に都をたち、西海に向った。供人には、遠江守義定、大内太郎推義、田代冠者信綱、三浦義澄、岡崎四郎義実、和田小四郎義家、和田次郎義茂、三浦平六義村、佐原十郎義連、多々良五郎義春、土肥次郎実平、土肥弥太郎遠平、畠山次郎重忠、後藤兵衛自実茎、後藤新左衛門基忠、渋谷庄司重国、熊谷次郎直実、平山武者所拳蔵、梶原平太景時、佐々木三郎盛綱、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、常陸大掾宗幹ならびに義経郎党の亀井、中岡、伊勢、駿河、佐藤兄弟、武蔵坊、常陸坊をはじめとして都合軍勢二万余騎。□□で船揃いした。

 2月12日、出船しようとしたおり、激しく西風が吹いたため、そこに一泊。ところが大将義経と梶原景時とが、船のやりくりのことで、論争となった。ときに、三浦、畠山、土肥、多々良らが左右をたしなめ和睦したものの、景時は三河守□□の手に属してしまった。翌17日は北風に変り大嵐となった。義経は大いによろこび、急ぎ船を出すことになったが、水主□取はとたもこの風では無理、もう少し弱まるのを待ってはといい、出発をしぶったから、義経は真っ赤になって怒った。むかい風はねがうところだ。このような不意を討つことこそ良策、早く船を出せ、ださなければ朝敵として切捨てくれようと義経がいえば、そばにいた伊勢三郎もまた、太刀を抜きはなち同じ言葉をくりかえした。驚いたのは水王梶取、殺されてはたまらんと早々に船をだした。一番船に半官、二番に畠山重忠、三番に土肥実平、四番に川越太郎重房、五番船には常陸大掾宗幹、佐々木兄弟など、かれこれ250騎ほどであった。

島崎盛衰記その2に続く。

 



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