・以前訪問した前方後円墳の近所にも前方後円墳が
以前訪問した最大級120m古墳は、実はある王族(豪族)の第四代墓と考えられているそうで、今回訪問したこの前方後円墳は、その一代前、つまり第三代のもの、と見做されているそうだ
三代と四代にもし、血縁関係があったなら、親子親戚の古墳が残っている事になる
これは相当にスゴイことなのではないか
そしてこの時代のこの地方には、全国的に大変珍しい”女王墓が、今回訪問の前方後円墳を含めて3例並列しており、”女王の時代”を形成していたそうである
女性の巨大墓は、古(いにしえ)の時代、前日本的な基層文化を想起させる
なぜ珍しいか?
それは、大陸から流れ込んできた弥生人が元々所属していた文化とは、基本的に、家族あるいは集団、そしてより上位のムラのリーダは男性であり、女性は男性の付属品である、というものだからである
古墳時代は、弥生人の時代の次に来た時代である
大陸の人達の、”男性重視、女性は付属品”という考え方は、現代においても中国や朝鮮半島住民に受け継がれており、家父長制的宗法制度が旧弊な男尊女卑的な価値観を生み出したもの、と解釈されている
いわゆる”男尊女卑”の程度そのものは時代時代によって変化しているものの、傾向は古代よりほぼ一貫している、とされる
朝鮮半島では、”女性は従属物”という価値観が特に強いとされているが、これは北方遊牧民の文化の影響、と見られているようだ
現在の中国や朝鮮半島の文化形成に大きく影響した遊牧民の文化では、”食料””装飾品”と同列に、”女性”とは戦利品なのだという
身も凍る話であるが、隣人はそういう文化の継承者なのである、とは頭の隅においておくべきなのだろう
翻って前日本、そして中世頃までの日本では本来、女性中心の母系社会が根幹に存在してきた歴史がある
簡単に言えば、相続するのは常に女性で、男性はその女性に見初められるよう女性の下に通い、結婚の決定権は女性の母が持つ、というものだ
これは文化であり、”父系が良い”、”母系が優れている”、という議論には多分意味がない
この、女性を中心とした文化とは恐らく、現在では、4方向からやってきたと考えられている縄文人の、最も大きなルートであったろう南方の文化を色濃く反映したもので、その起源は、新石器時代まで遡ることができる、と考えられている
しかし
この前方後円墳が造られたのは古墳時代、当時の日本列島の支配者側は、後の中国や朝鮮半島から流れ込んできた弥生人であったと考えられている時代なのである
さて、戦時下にアメリカ軍を迎撃するための高射砲設置過程で発見されたこの古墳だが、発掘が進み実にドラマチックな結果を生んだ
この前方後円墳のクライマックスは、被葬者の全身骨格が後円部頂上から出土した事であった
骨自体は400年代つまり今から1500~1600年前のものであるが、その価値は極めて高く、墓の持ち主が”古代の女王”であり、支配者の属する”人種”が判明した点にある
時代背景からも、地勢的にも、支配者は大陸から渡ってきた略奪者であればスッキリ単純化されるところだったが、この古墳の主は”彫りの深い立体的な顔立ちで長頭そして低顔”という、大方の予想を見事に裏切る、列島の元々の住人である土着縄文人の特長を色濃く残した”女性の王”だった
もちろん、縄文人は固定された単一の人種ではない(先述の通り現在は4系統が想定されている)し、弥生人と呼ばれる祖先たちも、いくつもの波があったのだろう
しかし両者の間には大きすぎる相違があり、子孫である後世の我々からは両集団には一定の傾向が見て取れる
左上は、上野の国立科学博物館で開催された”縄文VS弥生展”の宣伝ポスターである
特に右上の女性は、きつい印象の一重まぶたに高い位置の頬骨、ノッペリした高顔で高身長、と中国・朝鮮半島大陸から渡って来た弥生人の特長が大変良く出ているモデルさんである
左下は、日本土着の縄文系と、大陸から流れてきた弥生系の特長が顕著な小学生の姿
右上は縄文系と弥生系の、肌質から見た祖先の分布予想である(テレビ番組)
左の上下の写真は、典型的な縄文人と弥生人を表しているが、下左の女の子には下右の子と同じく蒙古ヒダが認められるし、右の子は頬骨が低い、これらは何を表しているか?
現代日本にはもはや、純粋な縄文人も弥生人も存在しないという事だろう
子孫である我々には、誰にも縄文的形質と弥生的形質が混在している
現代日本人はこれら土着縄文系と大陸由来の弥生系とがミックスされたものであるが、街行く人を見る限り、残念ながら(?)弥生系の特長を多く持つ人が多い印象だ
大雑把に言って、縄文2:弥生8、と言ったところではないか
またこの混合割合には地域差が大きく、基本的に周辺部に行くほど土着縄文人の特長が強く残っているし、近畿地方は日本の中でも特殊な地域で、大陸系の割合が際立って高い
そして時代経過によっても混合割合が変化している事がわかっている
さて現代日本には、”婿養子をとる”という言葉がある
そして一般の人には、これが古くからの日本の家のあり方だと言われて違和感を感じないだろう
誰言うでもなく男は家長であり、お盆には長男が中心となって祖先を弔う催しを主催する、これが日本の田舎の過ごし方だ、日本の文化だ、と皆なが疑わない
もちろん、北海道から沖縄に至る列島の本来の住人である縄文人も、土着的な祖先崇拝の気持ちを持っていたと思われるし、これは世界共通のものであるとはいえる
しかし、極端な男性中心社会や祖先崇拝は、後の時代に大陸から渡ってきた価値観が定着したものであり、縄文系の社会の概念とは異なるものだと考えられている
祖先崇拝はインド発祥の仏教には存在しない考え方であるため、恐らく漢民族の土着信仰である道教の概念が仏教と混合して日本で一般化したもの、と考えられる
この間約2000年の時間があるので、この変化は外から来たものではなく、自分自身の中から興ったものであると考える事も可能だろう
しかし、縄文の基層文化であった母系社会の構造は、広く日本列島に定着していたものの、当時の中国を模倣して作られた律令制下で”ムラ”および”家”が課税の対象になった辺りから崩れ始めた、と考えられている
律令制による課税・徴収の過程で残った記録には、当時の日本では依然として妻が代表して財産を保有していた証拠が残っているというから面白い
そして、最も大きな転換は、支配者側に誠に都合の良い、孔子様の論語の価値観が導入された事によるものだろう
論語では”女性”は徹底的に無視された
縄文社会では家の代表者であった女性だが、大陸人が到来し隅々まで広がり、時代が下って中国製思想が導入されその地位は下がり続け、遂には墓に名前を刻む事すらされない存在に貶められた
中世~近世の墓には、女性はこう刻まれるのが典型であった、”誰兵衛の妻”あるいは単に”女”
明治19年生まれの思想家、平塚らいてうはこう言っている
”元始、女性は太陽であった、真正の人であった”
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