MIYAGI VILLAGE

夏は雷、冬はからっ風、人は義理人情を重んじる・・・。

近代をめぐる

2007-10-21 20:41:52 | 旅・鉄道
人間、時々、旅に出たくなります。

昨日はどこへ行こうか悩んで、金もないので近場へ。

初・横須賀です。

横須賀といえば、近代から現代まで一貫して海軍の街。
近代に興味を持つ俺としては必ず訪問しなければならない街でした。

横須賀へは、最寄りの京急・上大岡から快速特急で17分。実は驚くほどに近かったのでビックリしました。鎌倉より近いくらいか。にしても、快特は速いです!

で、駅を降りると、驚くほどに都市。

え、こんなに都会なの?と地方都市の趣を期待していた俺としてはちょっとビックリ。岡田屋・さいか屋・西友…、デパートも3つありますし・・・。駅から放物線上に伸びた直線道路…。ちょっと入ったオシャレな路地…。めっちゃ、いい街じゃないか!

昔は丸井もあったみたいです。消えかけた丸井のマークの入った飲み屋ビルがありました…。

横須賀中央駅から徒歩15分ほどで、目的地の三笠公園へ着きました。

ここは、日露戦争・日本海海戦の連合艦隊の旗艦であった戦艦三笠が保存されている公園です。



この船は、連合艦隊司令長官・東郷平八郎、参謀・秋山真之が全艦隊に司令を出した伝説の船。
この船のZ旗掲揚で日本海海戦は始まった。

※Z旗…「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。」の信号

また、秋山参謀が大本営に打電した「敵艦隊見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」のくだりも、あまりに有名。

Z旗掲揚と同時に、連合艦隊は空前絶後の敵前大回頭(丁字戦法・トーゴーターン)を決行。三笠は、その際、敵艦から40発を被弾するも、見事にこれを成し遂げた。東郷司令長官が、凄まじい砲弾の嵐の中、艦上から動かなかったという情景もこれまたすごい。

丁字戦法を成し遂げた連合艦隊は、砲撃の腕で、バルチック艦隊のそれを大いに上回り、次々と敵艦を炎上させた。(燃焼性にきわめて優れる下瀬火薬の影響も大きい。)日中の決戦で勝敗をほぼ決定づけ、敵海軍をほぼ撃滅。日本海の制海権を確固たるものとした。

※ロシアは旅順に旅順艦隊というこれまた世界屈指の強力な艦隊を有しており、これとバルチック艦隊が合流した場合、日本は海軍力で及ぶことのできない差をつけられ、日本海の制海権を消失。輸送路を断たれ、満州での戦争継続は不可能となってしまうところであった。日本は203高地の死闘を経て、旅順艦隊をバルチック艦隊到着前に撃滅。海上に残す脅威はバルチック艦隊のみ。この艦隊を打ち破り、なんとしてでも講和の道を選ぶしか日本には選択肢がなかった。(奉天会戦の結果勝利はしたものの、補給能力で劣る日本は、これ以上満州で陸戦を継続することが困難な状況であり、一刻も早い戦争終結が望まれた。)

そんな、凄まじい日露戦争の生き証人が、この戦艦三笠。
青空に、その姿が映えていました。

そして、昨日はもう一か所行かなくてはいけなかった。

それは猿島要塞。

猿島は東京湾唯一の自然島で、明治以降、要害の地として、要塞が気付かれた場所です。横須賀から船で10分とかなり近い場所にあります。



戦後も、海水浴場が浜辺に設置されたものの、島の中心部にあった要塞の跡はそのままの姿で残された。かなり早い時期に要塞化されたため、この島のレンガ積みはイギリス式ではなく、フランス式の貴重なものなんだとか。

第二次世界大戦では、ここから、飛来するアメリカの爆撃機に対し、地対空の砲撃を浴びせ続けたが、それほどの効果は出ないままに、役目を終えた。

島自体は1~2時間で一周できる小さな島ですが、あらゆるところに史跡のある、魅力あふれる島なんで、ぜひ行ってみてください。

で、船で、横須賀へ戻り、三笠の艦内を見学。艦内はかなりリフレッシュされているものの、司令官室の近辺などは当時の姿に近い状態で復元されており、当時のものも残るなど、なかなか感慨深い。また、艦内の資料も貴重なものが多く、2時間くらい、艦上から降りることができませんでした。



なかでも、上写真の機雷には目を見張りました。この機雷で、日本は旅順港を封鎖し、また自身もロシアの機雷によって大きな被害を被った、日露戦争の行方を大きく左右した爆弾だからです。こんな形をしていたんですね。

艦上のマスト・煙突は戦後の復元ながら、かなり立派。堂々とそびえたっていました。

日露戦争の生き証人・戦艦三笠。
ぜひ、また訪れたい場所ができました。