80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

年頭に、夢物語

2016年01月12日 10時05分46秒 | 考える
この歳になって、いや、この歳だからこそ、自分の子供が欲しいと思う。

正月、子供もなく、ただ一人、母と過ごす。
どうにもわびしいものだ。
母も、孫と一緒に正月を過ごせたら・・・
  などと、今さら言ってみても、詮無きことだ。 

はっきり言おう。
私は幼い頃、小児麻痺を患った。

もしも、私が結婚出来たとして、子供が生まれたとしよう。
その子が障害者だったとしたら、私はどう感じるだろうか?
おそらく、私も、その子の母親も後悔するに違いない。


幸か不幸か、私、現在、すでに69歳。

それでも、もしかして、ひょっとして、70歳で結婚。
すぐに子供が出来て、20歳まで育て上げることが出来たとして、
私自身はその時、90歳以上・・・か。
(まぁ、30年前だったとしても、同じ事だったかもしれないな。)

しかし、私は子供好きだ。
本音を言えば、今からでも子供は欲しい。


おそらく、親としての私は、精一杯、子供を愛し、育てようとするに違いない。


今となっては、ほぼ実現不可能なことだから、そんなことが言える。

そう言われるかもしれない。
実際、そうかもしれない。  

はっきり言ってしまえば、分からない。
それが本音。

一方、こちらが心底、愛情いっぱいに育て上げることが出来たとしても、
当の子供自身の気持ちとして、自分をそんな風に産んでしまった両親を
素直に許すことが出来るだろうか?
 

確かに、健常者に生まれるのも、障害者として産まれるのも
フィフティ・フィフティ-。
それは両親が健常者であっても、何ら変わりが無い。

まぁ、今さら、あり得ない話ではあるが、
子供の立場で考えてみると、迷惑至極な話だよな。 

親と子供・・・、
どちらの立場であっても、考え込んでしまう問題だ。

正月早々、気づいた悲しい現実。
いずれにせよ、今となっては、何とも実現不可能、悲しい夢物語だ。

・・・それとも・・・ひょっとして・・・。
 

あけましておめでとうございます

2016年01月10日 19時20分45秒 | 考える
遅ればせながら、皆々様、新年 明けまして おめでとうございます。

昨日、伊勢崎から町田に帰ってきた。

外は晴れ。
「家にくすぶっている時間はないぞ。」 
誰かが耳元でささやく。

特に死に急ぐ事はないにしても、生き急ぐ必要はありそうな気がする。
そう、何か気が急ぐのだ。

連日の株安。 
金の無い私にはチャンスなのだが、それを生かすだけの資金が無い。
金を持たない私、まぁ、それは当然なのだが、残念至極。
何をするにも、最低限の資金は必要だということなのだろう。
何とも、間の悪いことだ。
もっとも、それが不幸となるか、はたまた幸となるか、神のみぞ知る・・・か。

すっごく美味しくなった。= すっごくまずかった。
 →保護され感。

無駄もまた人生。
思いどおりにいかないのが人生だよ。
しかし、「存在感ゼロ」っていうのも、何かなぁ・・・。 

はっきり言ってしまえば、私、けっこう真面目に生きてきたと思う。
だが、生きてきた時間のわりに、後輩に教えてやれることが、何一つ無い。

とは言え、今さら自分の生き方に異を唱えても何にもならない。
60を過ぎたら、自分の生き方は、自分自身で決めていくべきだ。  
他人のことばかり気にかけているのではなく、もっと「自分自身」を気にしてやろう。

1日前と、今日、私は別人になっていい。
「生の自分」を活かす方法を考える。
自分の「需要」を考えてみる。
それもまたトレーニングだろう。

初心・・・これが好きだというパワー。
で、これから、ここから、どこへ向かう?

結局、私も弟も、お互い、コミュニケーションが下手くそなのだ。

周囲に目を配る。= 人から見ると、うさんくさい。
何をやっても、空振りで、どう動いても、空回り。

余計なことはするな。
他人の気持ちなぞ、結局分かりはしないのだ。
なら、最初から考慮するな。
何事もタイミング次第。
結果が総てだ。 


私は、自分の気持ちの表現が、下手くそなのだろう。
今年はどう生きていけば良いだろうか?

町田と伊勢崎、場所が違っても、出るのは同じ太陽だ。 


古希 (こき。 原文の表記は古稀。 「稀」は常用漢字にはないので
現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。


唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)
「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」
(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。
(しかし)七十年生きる人は古くから稀である)
に由来する。 

還暦は数えの61歳(≒満60歳)であるが、
古希は数えの70歳(≒満69歳)のこと。
古希は長寿の祝いとされている。 
お祝いの色は、喜寿祝いと同じく、紫色。
 

長寿の祝いには、他に、還暦(かんれき)、喜寿(きじゅ)、盤寿(ばんじゅ)、
傘寿(さんじゅ)、米寿(べいじゅ)、卆寿(そつじゅ)、白寿(はくじゅ)、
百寿(ひゃくじゅ)
などがある。

清の乾隆帝は 「古稀天子」 と自ら称し印判などにも用いた。
中国史上古稀を迎えた天子は乾隆帝の他は梁の武帝、南宋の高宗などわずかしかおらず、統一王朝の皇帝となると空前といってよかった。


てぇと、私は既に 「古稀」 だということなのだ。

完璧でなくともいい。
もともと完璧など、とても無理だし、人は常に未完成なのが、つまり人生なのだから。

まずは、やる気。
他人に寄り添う心、他人を支える気持ち。

上滑りになるかもしれないが、まずは、気持ちから入る。
不完全でいいというわけではないが、そこにもまた「美」がある。

今年こそ、一つだけでも、完成、完了する。 (毎年、同様の事を言っていたっけ・・・。)
このところ気が急いて仕方がない。

「古稀」 だからなどとは、今さら言わぬが花だろうな。