パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

231111 数学者たちの楽園

2023-11-11 08:19:59 | パロディ短歌(2011年事件簿)
     数学専攻のシナリオライターが続々


 サイモン・シン著 青木薫訳『数学者たちの楽園』(新潮社、2016年)を読んだ。アメリカ在住の旧友からの推薦である。


 この本の原題は The SIMPSONS and their Mathematical Secrets  となっている。The SIMPSONS(シンプソン一家)とは、アメリカで27年以上(この本の出版当時)続いている人気アニメ作品で、タイム誌が「20世紀最高のテレビ番組」に選んだほど。エミー賞、ピーボディ賞、アニー賞なども受賞した作品だが、日本の文部省推薦などのイメージとは違って、「みごとな知性と悪びれないお下劣さ」が受賞の理由だという。原題を訳すと「シンプソン一家と数学の秘密」ということになる。

 アニメがどんな魅力にあふれているかは、実際に観てみないと分からないだろう。ドタバタ劇といっても何か一筋縄ではいかないイメージがある。本の中であらすじが示されているケースもあるが、なかなかに手ごわい。旧友の勧めもあって、アニメ作品は措いておいて、書籍だけの内容を追うことにした。

 面白いテーマがある。円周を求めたり、円の面積を求めたりする際に使う円周率π(パイ)は誰にもおなじみの記号だ。3.14159…と無限に続く無理数で、便宜的に3.14で計算したりする。The SIMPSONSで使われたのは、シンプソン一家の長女・リサ(8歳、小学2年生)が「イジメを誘発するフェロモンをつきとめた」ので、科学大発見会議で発表しようとしたところ、会場が騒然としていたため、司会者が「円周率は3だ!」と発言して会場をシーンとさせるくだりである。余りにも非常識な発言の効果というべきであろう。

 場面はこれで終わるのだが、実はこの発言には下敷きがある、と著者はいう。1897年にインディアナ州の政治家たちが「π=3.2」とする法律を作ろうとした史実に基づいているのだ。この馬鹿げた法案は、数学の専門用語が詰め込まれていたため、途方に暮れた政治家たちは、議会から財務委員会へ、さらに沼沢地委員会へ、最終的には教育委員会へ法案をたらいまわしにした。法案の提案者(医者)は「π=3.2を使ったものからは使用料を徴収する。半分は州に納めて公共のために使ってもらう」と宣言した―なども伝わっている。

 政治と世相の戯画として、これほど完璧なものはないと思えるが、The SIMPSONSのシナリオライターたちは、こうした背景を承知した上で「πは3だ!」という発言を引き出しているのである。この発言に反応して静粛になる群衆が想像できるだろうか? こんな場面が起きるとしたら、相当な知能指数の群衆だということになる。この一事をもってしても、The SIMPSONSが「知性と下劣」の混合体だということが分かるだろう。

 何故、女性の数学者が少ないか―というテーマで悪ふざけをする場面も忘れ難い。女性向けの数学がないからだ―という理由をつけて、女性向けの講義を始める場面も笑わせる。
「数はあなたをどんな気持ちにさせる? +記号はどんな匂いがするかしら? 7という数は、奇数なのかしら、それとも単にちょっとかわっているだけかしら?」(訳注、奇数の英語oddには「変わっている」という意味がある)

 これはもはや数学ではない。詩(ポエム)の時間である。ただし思い返すと、πにせよ、女性の数学にせよ、私は数学の巻き起こす余波に思いを致して笑っていただけである。いわば数学にまつわるゴシップ探しである。しかし、全編を読み返すと、The SIMPSONSには数学そのものに対する敬意が異常なまでに払われているのに気づく。


 The SIMPSONSの主人公ホーマーが、黒板に上記のような数式や記号を描いたことがある。別にテーマと関係があるわけではなくて、黒板は間もなく消える。しかし、三つの式は数学の歴史上、非常に大切な公式を示していて、愛好者にはすぐに分かるものらしい。一番目はヒッグズ粒子の重さを導き出す式で、実際にCERN(欧州原子核研究所)がこの粒子を捕まえる14年前の計算だとすると、かなりいい線を行っているらしい。

 二番目の計算式は、1995年に証明されたフェルマーの最終定理の「ニアミス解」であるという。フェルマーの定理とは、Xn+Yn=Zn(ただしn>2でn乗を示す)という方程式をみたす解はない、というものだから、黒板の方程式を見ればフェルマーの定理が破られたと早合点しそうだ。このいきさつについては、9ページにわたり解説してあるこの本へ。

 3番目は宇宙の密度を計算する式で、主人公が黒板に書いたままなら、宇宙はそれ自身の重さでつぶれ、激烈な爆縮(ビッグクランチ)で一生を終える。不等号の向きが変われば、宇宙はいつまでも膨張を続ける。アニメでは主人公のホーマーが不等号の向きを変えた途端に、地下室で爆発が起きる仕掛けになっている。

 一番下の記号はトポロジー(位相幾何学)のパロディ。トポロジーでは、ドーナツとコーヒーカップは区別がつかない(同じもの)という話は聞いたことがあるだろう。穴が一つ空いている、という意味では全く同じだから。従って、ドーナツと野球のボールは全く違うものである。トポロジーでは、図形を切ったり貼ったりしてはいけないことになっている。ドーナツを一個所でも切ったら、穴がなくなってしまう。それはボールと同じ位相になる、ということだ。切るのは(貼るのも)厳禁である。ところで「ドーナツを齧るのは禁止されていないよね」というのがシンプソン一家の考え方だ。なにしろ、美味いドーナツなんだから、というのが言い訳になっている。齧ったら、ドーナツがボールと同じになっちゃったという、トポロジーではあり得ない解を描いたのがこの絵である。

 私に分ったのは、最後のトポロジーだけだった。あとはチンプンカンプンである。それでもこの本の解説を読むと、おぼろげながら意味が分かってくる。なにか似た体験があるなあと思ったら、将棋や囲碁の解説を聞いたあとに似ている。名人の指し手を「ああ、なるほど」と分かった気にさせる、あの解説だ。指し手の背後にある情熱が伝わる点でもよく似ている。

 著者の解説を読むと、このアニメにおける数学への情熱もひしひしと分かる。最初に紹介したπの値は、円に内接する正N角形と外接する正N角形の周長を求め、共通する部分を円周の近似値として定めることができる。アルキメデスは正96角形で円を囲み、3.141と3.143の間にπの値がくることを突き止めた。17世紀にはオランダの数学者が、40億の10億倍という正多角形で円を挟み、πを小数点以下35桁まで確定した。2011年には、コンピューターを使って10兆桁まで計算されている。

 それにもまして、驚くのはπの値を暗記している人がいるということ。それも生半可な桁数ではない。1973年カナダ人が1,000桁を突破、1978年にはアメリカ人が10,000桁、1980年にはイギリス人が20,013桁、1981年にインド人が31,811桁、1987年に日本人が40,000桁、2005年には中国人が67,890桁を暗記して、これがこの本の発行当時の世界記録である。(今では、どこまで伸びているか恐ろしい)

 πの値を暗記していることに、どれだけの意味があるかというと、かなりの人が疑問に思うだろう。そもそも、πの値は小数点以下38桁が求められたら、宇宙の大きさを原子1個分の精度で規定することができる、と著者のサイモン・シンが言っている。実用のレベルで考えれば、39桁以上を求めるのは徒労だということ。それにもかかわらず、人間は計算を止めないし、暗記する人間もあとを絶たない。これは人間に備わった情熱にしかみえない。客観的にみれば「暴走」の気味があるにしても。

 しかも、πにまつわる長々とした解説の裏にあるのは、The SIMPSONSの登場人物の一人が、自分の記憶力を信用してもらおうと、次のようなセリフを吐くから。
「πを4万桁まで言えるんですから。4万桁目の数字は1です」
 このセリフを吐くには、膨大なπの歴史を要する。

 最後に重大な問題提起をしておこう。The SIMPSONSにこれだけの数学が隠されているのには理由がある。ハーバード大学で数学を専攻し、ハーバード大学院やカリフォルニア大学バークレー校で博士号をとった数学の天才たちが、研究室には進まないで、The SIMPSONSの脚本に名を連ねているからだ。主なメンバーだけで5人。文系、理系と姑息な分け方をして壁を作っている日本の現状からは、とうてい想像できない編成なのである。アメリカは凄い、と思わされる機会は多々あるが「数学専攻者の脚本家チームが腕をふるうアニメ」にも驚かされる。日本はどれだけ遅れているのだろう、と考えると悲しくなる。

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