恋路橋から和束茶源郷、海住山寺、史跡恭仁京跡など。後編

2024-09-06 15:58:37 | 神社仏閣など
恭仁京跡へ行きたいなと書いたのは、2024/7/10のこと。
しかもコスモスの頃がいいかも、なんて勝手に書いてましたが、
和束迄来た勢いで、帰り道に寄ることにし、少しだけ西方面へ。


163号線に出て、ここら辺りを通るたびに大きな案内版が目につきます。
海住山寺」(カイジュウセンジ)と。
しかも、知人のFBを見ていたら傾斜が半端ないらしく、激急坂に挑む感じなんだろうか。
その勾配のキツさを実感して参りました💦
助手席に乗っていても思わず手を握りしめる感じ、
助手席のワタシはわぁ~素晴らしい眺めだとかなんとか言ってますが、
きっと運転手は必死だったかと(ゴメン、一人騒いで💦)、
こんなところへ行きたいとかなんとか言ってゴメン(口だけだったらなんぼでも言えるわなぁ)…

まぁそんなこんなの激坂の前に、ちょっと気になる看板を見つけたので、そちらを
 
ふるさとの用水路大井手(オオイデ)」説明版です。
鎌倉時代中期に灌漑用として造られた水路のようです。
いつぞやの「美旗新田水路」よりなお古い。
古のころから大きな泉川(現木津川)が流れているにもかかわらず、
農業水利に恵まれていなかったこの瓶原(ミカノハラ)郷の生命線となっている水路です。
総延長6,755mとか。
広々と見えるこの田園地帯は、「大井手用水路」のおかげさまだったんですね。

 

さて、そこからほんの少し先に「海住山寺」の案内がありました。
では挑みます!(道中あまりの厳しさに写真など撮っておりません、あしからず)
「大井手用水路」説明版から約8分、境内横の駐車場に着きました。

補陀落山 海住山寺

補陀落山とありますね、そういえばこんな記事を思い出しました。↓
『補陀落』って、過去記事より「南海浄土へ帰らぬ船出」(日経新聞より)
時間も遅かったので今回は下見っぽく、境内のお散歩って感じで…
 

境内に輝くように建つ「五重塔」。

なんだかこればかり見ていたような、相輪から雲が出てるように見えたり、
不思議な面持ちで、また紅葉も素晴らしく似合うんだろうなぁと。
まだ青もみじですが、これもなかなか素晴らしい景色です。
  

 

 
本堂と山門(雲が…)
山門から額縁のように。
 

※ご参考に「海住山寺に五色椿とヤマモモ」。

では山を下りますが、道中少しだけ写真が撮れました、
前後に車が来なかったおかげです。
   
向こうの景色には加茂駅とその近くのマンションであったり、
奈良側の景色がこんな感じで見渡せます。
なかなかの景色でしょ、でも道はヘアピンカーブ付き急勾配でした💦💦

本日(訪問日は2024/8/18)、最後の訪問地。
ここは【国史跡 恭仁京跡】(クニキョウアト/山城国分寺跡舊恭仁京跡とも)
  

  

場所を変えると「史跡 山城国分寺跡」の碑と共に「恭仁京大極殿跡」。
 

広い敷地の中、未完でありながらも大極殿などが建っていたのかと思うと、
またまた歴史ロマンを感じます。
≪平城京の大極殿が解体されて移築されたとされており、
都が去ってからは、国分寺の金堂として二次利用された≫とかで、
なかなかややこしい経緯を辿っている恭仁京跡のようです。

またどうしてもここを訪れたかったもう一つの思い、
それは仲間内で教えてもらった「みかの原」という地名
仲間内の新聞に投稿してもらったその一部をここで借りることにします。

『伊賀が源流』が嬉しい!
 真宗大谷派の官長だった俳人の大谷句仏(もちろん俳号)の「落ち合うて 川の名変はる 紅葉かな」。
これは伊賀を源流とする木津川が、京都で宇治川、桂川と合流して淀川で落ち合うた際、紅葉同士
お互いに 「お前、どこから来たんや」 「俺、木津川や」 などと話しているような擬人化の名句

 百人一首27番「みかの原 わきて流るる泉川 いつみきとけか 恋しかるらむ」。
この泉川が今の木津川みかの原は聖武天皇の都があった恭仁京(現京都府木津川市)のこと
そしてこの作者は中納言兼輔こと藤原兼輔で今年の大河ドラマの主役紫式部のひい爺さん。」

へぇ~そうなんだ、こんなことを教えていただき何がなんでもこの地を訪れたかった。
そんなワタシの思いが叶った記念の日、でもあるわけです。
深緑色の木津川の流れを見るたびにきっと思い出す「みかの原と恭仁京」哉。


京都府立山城郷土資料館では、
京都府ミュージアムフォーラム合同展覧会連携展として
<聖武天皇即位1300年にあたる今年、50年にわたる発掘調査で
聖武天皇の恭仁宮跡がどこまでわかったのかのパネル展示>があるそうです。
但し9/8(日)まで。
ここは、閉館時間(~16:30)が迫っていたので残念ながら訪問せず💦

※ご参考に『未完の都/奈良時代最大のミステリー

※同じく「時空を感じる恭仁京跡

※ご参考「小倉百人一首』あらかるた/【151】みかの原はどこにある
※同じく『小倉百人一首』あらかるた【61】心は闇にあらねども」【(長岡京/小倉山荘より)

最後に「恭仁京跡」の草むらで

見えるんですよね、こんな小さなセセリチョウが・・・

(完)。
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美旗「新田水路」、加納大明神。そして江戸時代藤堂藩管理職エレジー…

2024-07-26 18:12:02 | つれづれ思うまま
美旗の「新田水路」のほんの一部を見学しただけでエラそうなことは書けませんし、
名張の方々の熱き思いを語るにはあまりにも何も知らなくて失礼なのですが、
高虎さんが赴任され、二代目三代目と続く初期の頃の「藤堂藩」。
国造り・土地造り真っ最中の頃、
養う士族は増えるわ、年貢は納めやなアカンわ、土地はないわ・・・
ナイナイ尽くしのなかで如何に土地を増やし、多くの米を作るか、
そのために一番大切なのは」が必要だったという話であると…
個人的には理解できました。

「秘蔵の国」の伊賀を与えられ、大阪西(豊臣)方を見張れとか、
大坂夏・冬の陣で勝てば今度は(東を守るには)「伊賀を最前線の拠点」にするぞ、とか言われてもなぁ…
伊賀上野の高石垣を見るたびに強く思うのがそこんところ。
太平の世?になったとはいえ、350~400年前の藤堂藩を思うと
外様とはいえ32万石何某かの禄高をもらっていた一大大名の高虎さん。
(ゲスな話、32万石って??
一石は:米2.5俵とか、現在に置換して、一俵:60㎏、2.5俵は約150㎏、金額にして30万円。
大人一人が一年間に食べる量が一石とも言われ、
藤堂藩三二万石=4千800万kg=96億円・・・メッチャ金持ちではないかとは知人の話)
詳しくはコチラ「石高ランキング

さてさて、そこで伊賀藤堂藩の「加判奉行/加納藤左ヱ門(直盛)」ってどこにお住まいだったのか…
伊賀ではあまり多くを語られていないのはなんでやろ?と素朴な疑問を持ちつつ、
福井健二氏著の「上野城と城下町」の古地図から
 慶安年間(1648-52)
「加判奉行/加納藤左ヱ門」のお住まいは城下東南隅。
その「下屋敷」は「忍町」に見つけました。
忍者データベースでは「伊賀加判奉行として1800石を有し『伊賀者』を創設した方のようですから、
「同じく石田清兵衛」さんもおられる。(地図では三郎左衛門ですが)

 元禄年間(1688-04)
加納名なくなる…


そして、加納さんの嗣子(跡取り息子)直堅さんの残念なお話は…
要するに「疑獄事件」に巻き込まれたとしか言いようのない歴史が書かれておりました。
以下、
岸宏子著「江戸管理職哀歌」藤堂藩伊賀城代家老の日誌より
大阪道頓堀の祖・銅山疑獄事件・汚職の責任のとり方、とらせ方
としてまとめてみました。
なぜこのような形になったかと言い訳をしますと、
先ず「岸宏子」さんの著書は大方が廃版もしくは絶版になっており、
読みたいと思っても図書館へ足を運ぶしかない状況でした。
これは何としても手に入れたいと思ったので、
最近のネット「古本屋」で探したわけです。
なんと運よく見つけることが出来、手配してもらったのが7/22、届いたのが7/24。
凄い早業だと有難く感謝しています。
  

届いてから気になる部分を読み出しますと、これがなかなか面白い。
なんというかまさに「管理職はツラいよ…」みたいな話がてんこ盛り。
岸さんの御本ってほんとうにおもしろい、もちろんテレビドラマでもいろいろ見た記憶もありますが、
遠に忘れていること多々。
そういえばこんなドラマもありましたよ、同じく「藤堂家城代家老の日誌より/不熟のとき」(NHKドラマスペシャルより)
あんなことこんなこと思い出す良い機会を与えてくれたのが…
「美旗新田水路」と「加納神社」見学だったわけです。

名張では大絶賛され「加納大明神」として祀られている加納藤左ヱ門さま、
伊賀では余程のことがない限り、一言「世俗ニ日請(いわくうけ)銅山事とハ是ナリ」です。
これは「備中石塔山の銅山開発事件にからまる一大疑獄事件であった」ということ。
顛末を読んでいるとこれはどうしても自分なりに岸さんの本を通じて記憶に留めておきたいし、
現在でもニュースなどをみていると「あるある事件」だなぁと、
背中がゾクゾクッとするお話、今も昔もよくある「トカゲのしっぽ切り話」だった…

まとめるのに、少々時間を要してしまいました。

最後に、偉大なる大仕事をやってのけた加納父子ですが、
ちゃんとお墓もあって、その隣には「顕彰板碑」もあります。
そこをお伝えして、この話は「完」とさせていただこうかと思います。
  

藤堂玄蕃さまの墓所でもあります。
 

ちなみに藤堂采女家歴代墓所」はココ

ではまた
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美旗で「新田水路」探検。その3

2024-07-20 00:51:05 | つれづれ思うまま
「美旗古墳群ハイキングマップ」の上部を見て、
今から「新田水路」と並行する「旧初瀬街道」を走ります。
実際に通る道はカラー舗装されているのでわかりやすい。


ここで、簡単に『新田水路』って…いろんな資料を読ませてもらって、
ザっと箇条書きで
*承応3年(1654)藤堂藩の政策として加判奉行であった加納藤左ヱ門直盛は同役の三浦少之介と共に、
 原野の開拓を立案し、藩主の藤堂高次の許可を得て、伊賀地方最大規模の開拓に着手。
*西島八兵衛の指導の元、大池を二つ造り村づくりが始まる。
*明暦4年(1658)頃、大阪の豪商:安井九兵衛が出資する。
*度重なる豪雨で被害甚大となる。延宝元年(1673)加判奉行直盛病死。
*直盛の嗣子直堅(ナオカタ)が加判奉行となり父の跡を継ぎ、池の修復ではなく、
*延宝3年(1675)、第二次計画として新しく「水路」の工事を始めた。
*青山の尼ヶ岳に発する前深瀬川等の水を引くため、約14kmの「水路」の築造。

 
※写真㊟美旗市民センター「歴史資料館」のジオラマより

*約2年を費やし、延宝5年(1678)頃完成したとのこと。
ざっとこんな歴史を持つ一大工事の末の「新田水路」です。

その水路のほんの一部でもいい、見てみたいと…
行程を現実の7/14に戻しまして、旧初瀬街道の途中で
『新田用水の日時計』なるものがありまして、新田水路の歴史の生き証人のようなものかと。
  
「水路」から引かれる水は農家にとっては大切なもので、
新田用水路から各農家の水田に水を入れる時間を決めるのに、
この「日時計」が使われていたそうです。

『歴史ある水路を未来へ』というお話の再掲です。


旧初瀬街道には
  
左)「提側庵ギャラリー」、中)登録文化財で茅葺の「住川家住宅、右)住川さんちのツバメの出入り口。
なんて優しい心遣いなんだろうってほこほこしてました
実際にツバメちゃんが入る様子を見たので余計です(笑)。撮れてませんが💦

さぁ、いよいよ交差点付近、
   

上の水路のある反対側の提に行くと、こちらも
「水路」があり当然水は流れています、そして「桜並木」、春の楽しみですね…
 
そして「旧初瀬街道の常夜燈」。
   

もう少し進むと
情報You記事にもあった猫型?「円形分水筒(工)」。
上から見ないとわかりませ~ん、実際目の前ではこんな感じです。
   
中を覗くとなるほどねこんな感じで水が流れている、これはぜひ実際に見ていただきたい。
「青蓮寺ダム」からの水と「前深瀬川」の水の供給を調節しているそうです。
1977年に設置されたそう。
 

もう一度「水路」や「桜並木」を
 

青山方面へ
 

もう一つ、名張で唯一湧水がこんこんと溢れるところ…
「竜王水」。湧水は1時間に3.4tってすごい量です。
もちろんとても気持ちよく、長くは浸けてられないほど冷たかったです。
  

ここから近くにある『滝川氏城跡』。


最後に、前方後円墳型の「美旗市民センター」に寄らせていただき、
資料館を見学、日曜日にもかかわらず見せていただけてとっても勉強になりました。
 

実は、加判奉行加納直盛さんのお墓参りもしてきました、次回そのことをもう一回だけ書こうかな…と。
ではまた
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美旗のひまわりと、「美波多神社」そして「新田水路」探検へ。その2

2024-07-18 16:19:28 | つれづれ思うまま
青山出合辺りの「前深瀬川」からの水がここを流れていると教えられ、
えぇっ、そんなんけっこう遠いじゃないですか、
江戸時代にそんな一大工事をしてたんですか?
重機などのない時代、果てのない工事であったことはわかりますが、
正直想像不可能に近い。ともかく一部でも見てみたい…
 
水路から西側、東側。

ここ「みはたメイハンランド」のある場所、実は『毘沙門塚古墳』(リンクは「美旗古墳群」)のあるところ。
多分上空から見たらそれなりによくわかるのでしょうが、
目の前の古墳を見て、まわりには「堀」があるんだなと…ということはわかりました。
解説を読めば
≪5世紀中頃築造、前方後円墳(造りだしあり)、竪穴式石室≫と。
 

同じくこの場所には
美波多神社』があります。中には「加納神社」もあるとか…
さて加納さんてだれ?
   
※≪加納直盛(ナオタダ)公
​慶長十五年(1610) 伊賀上野生まれ
藤堂藩に仕え、伊賀加判奉行職
当時、水の便悪く荒野原であった新田地区の開発に尽力し、用水家としても名を残す。
延寶元年(1673) 六十三歳で病死
現・伊賀市上野寺町の大超寺に墓所がある。≫
(お参りに行かねば…
また上野城下町絵図にもちゃんとお屋敷がございました。そして、
加納藤左ヱ門直盛)さま、なんと加判奉行として「伊賀者」の創設者だったとは…

   
中)これは『かけひ(樋)』というもの。詳しくは美波多神社/御案内ページで。
※新田水路と川が交差するところに使われたものだそう。

お参りも終わって、もう一度
「美旗古墳群ハイキングマップ」を眺め、
 
青山方面を見るも、曇天の中で「尼ヶ岳・大洞山」を探すのは難しいなぁ💦
 
と思っていたら、15時16分まさかのアーバンライナー通過、見えるかな?
撮り鉄ウーマンではないのでまったく上手く撮れませんが、
ここに一日いたらきっとたまにはいい写真が撮れるのではないかと思ったり(笑)。
電車が目的で来たわけではない、
たまたまの副産物が電車 だったというオマケみたいなものです。

一旦、ここで中休みを、というのも、
加納藤左ヱ門直盛・直堅父子を調べていたら、
いろいろ知らないことがたくさん出てきたので、ちょっと整理する必要があるなと…
中途半端でごめんなさいですが、
各種資料で誤魔化すワタシ・・・
※「美濃波多新田開発のあゆみ」(名張市史より)

※「広報なばり/2013/8月号」転記↓
 

※「美旗の新田開発」(みのりみのるプロジェクトより)

※「名張の沃野(よくや)をうるおす新田水路」(あおやま風土記より)

※「美旗地区の初瀬街道と新田水路」(なばり四季のブログより/教えてガイドさん)

ではつづく、暑さで頭が混乱してきたので中休みです💦
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美旗(名張市ミハタ)でひまわり、そのまま「新田水路」探検へ。その1

2024-07-16 15:16:34 | 花や風景など
情報You記事を目にしたので、これは今でしょ!
午後のお出かけでしたが、意外や意外の充実ミニ探検になりました。

まずは美旗駅近く「みはたメイハンランド」を目指して、その駐車場に車を止め、
遠景に黄色い層のようになっているところが見えるので、多分あれが「ひまわり」。


と、そこへ行く前にここの「広大な畑」になみなみと水が流れる「水路」がありました。
 
先ず、ここで「水路探検」が始まりますが、
歩きながらこの「水路の歴史」を聞いており、
江戸時代に遠く青山の「前深瀬川」から取水し、
ここまで水を流すための一大工事が行われていたと。
いやいやちょっと待って、そんな工事を誰がするねん?と
話は続きそうなので、まずはその水路の一部が「近鉄本線の上を通っている」とか。
は?それもまた奇怪なはなし、俄かには信じられませんが、その証拠があると…

おっと、アーバンライナーが通る…
 
左)大阪方面から、右)伊賀神戸方面へ
この写真を撮っている橋というか歩道というか、その下が見えないけど「水路」って
信じられないですよね。

  
この「水路」を少し離れた場所から撮ると…わかっていただけるかな?
電車の線路の方がはるかに新しいので昔は獣道のような道があったのか、
はてさてどんな経緯でこうなったのかは知る由もないのですが、
名張の語り部さんに聞いてみる必要はあるかもですね。

では、「ひまわり畑」へ
訪問日は2024/7/14の午後で、曇天。
青空でのリベンジが生るかどうかはわからない。
ひまわりは元気に咲いてくれているのでビタミンカラーに元気をもらいます。
 

 

  

  
14時50分ごろ、アーバンライナーか


「ひのとり」、14時51分通過。
一瞬のことなので「ひのとり&ひまわり」は撮れず💦

 
ここは「田園歴史文化/ミュージアムの里」(美旗まちづくり協議会)。

 
「段々のひまわり畑」だなぁと見ていたら、今度は快速電車か、14時56分通過。

さすが近鉄本線、忙しいのなんのって、
ひまわりと電車に大わらわでしたわ

追記記事
時系列ちょっと遡って…

近鉄本線上の水路からどれどれ?と覗いたら、すぐにやってきた電車があります。
これは、今日(7/16)になって調べた結果報告みたいなものですが、実は
近鉄電車ミャクミャクラッピング車』が一瞬のうちに通過していきました💦
そんな電車があるとは知らなかったし💦
スマホを構える間もなかった出来事。
多分、来年の万博に行くことはないけど、
珍しいもの見たな!という記憶は残るので
・水玉・近鉄」のキーワードで検索すると出てきたのが「ミャクミャクさん」だった(笑)。

伊賀鉄道界隈に住んでいて、最近近鉄電車に乗る機会のないワタシとしては、
必死に探したくなる強烈な色彩の電車でした。
緑の田園風景のなか、
もう一度見てみたい気はしています(どこまでもミーハー仕様なワタシなので)。

HPでは
「大阪・関西万博オリジナルデザインのラッピングトレイン」について
▽運行期間
2023年 11月 30日(木)から2025年10月13日(月)まで(予定)

▽運行区間
主に近鉄奈良駅 ~ 神戸三宮駅間
主に大阪上本町駅 ~ 伊勢中川駅間

▽対象列車
9820系 6両1編成
5820系 6両1編成


こんな電車を水路の上から見ました✋。
(2024年7月3日 4:00 Web日経記事から)

では続き「新田水路探検」はまた。
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