龍さんに会いに…

2024-01-09 00:45:58 | つれづれ思うまま
意外とね、身近なところに「龍さん」はいらっしゃいます。
松が明けてから会いに行って来ました。行き当たりばったり系ですが…

平井神社(小田町)にて
 

お隣の「旧小田小学校」、素通りはできませんよね…


旧市役所~忍者市駅へは「地下道」を通ります、そこで
「おかえり、芭蕉さん」ポスター(古川たく氏/絵)

今年は「芭蕉翁生誕380年記念」。

そして、天神さん(上野東町/菅原神社)にて
 
楼門、輝く拝殿、
西陽があたっていい感じに…

  
龍さんだけではやっぱりね、
撫で牛さんも一緒でないと…
相変わらず艶っつやの牛さんです。

帰路、空を見上げたら「雲が龍に」見えたのはワタシだけかな(笑)
 


本日、新年あけまして「初会合」。
ちょっと気が逸ってます、落ち着け。
ではまた
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「高石垣」雑木伐採終わり、下まで見通せるスッキリ感。

2023-12-04 17:21:46 | つれづれ思うまま
先週、ずっとお世話をかけていた自衛隊さんも本隊に戻られ、
残された雑木の片づけはこちらの(依頼主)のお仕事でしょう。
見てるといろんな木片や蔦など、おまけの松ぼっくりも落ちてたりして、
落とし物にタカラモノはないかいなと探してみたら、自転車の車輪があったのにビックリ💦
まさか「お堀に捨てた」のではあるまいな…と、余計なことを考えてしまいました。
(写真には撮ってないのでワタシだけのヒ・ミ・ツですが)


高石垣の西側から北にかけて見てみました、そして夕方のお城など。
「高石垣スッキリ」です、
  
伐採前の石垣絵) 

  
石垣ばかり見ていると余計なものがなくなったので、よりいっそう足がすくみます💦
ゾクゾクっとしてきたので向きを変えてお城を見上げると、
小豆梨」も「実」しか残っていない…最後の一葉はいつ落ちるんだろうか、と。
四季折々歩いてた公園にも「あぁ冬が来たんだなぁ」。
9月の小豆梨春の花

 
巨木もしっかり紅葉、左側目の高さに「俳聖殿」の屋根が見え、
高石垣の高さを実感!

自衛隊員さんへの感謝しつつ、観光客の皆様にも伝えないと、ね。
冬の高石垣は一つ一つの石もはっきり見えますよ、おかげさまです。
そんなことを思いつつ、下から見ようといつものスポットに行くと…
 
釣り少年が二人、魚も良く見えるだろうか。

久しぶりにあの急坂を下って、ひかり保育園裏手の道から「平井神社」へお参り、
そしてこれも久しぶりの「花手水」(順序が逆になってしまってごめんやけど)へ。

いつも心づくしのお花がいっぱい、うれしいですね。

お隣の「旧小田小学校」の夕景。


もひとつ下に降りて「小六坂/竹の道」へ。
16時過ぎで、薄っすら暗くなってきたので灯り点灯してました…
散るもみじ 落ち葉絨毯 色彩々。(どうも「俳句」ってかんじにならないなぁ💦)
  

下まで降りずに途中の細道を左へ入ると…
 
崖の中腹に出ます、
この上の台地は藤堂藩時代「西之丸」で、「鉄砲場」(砲場とも)があった場所、かな。

現代は、伊賀鉄道の線路も見えますが、
ここから打ち方の練習でもしていたのかと想像すると、ちょっと楽しい。
 ※参考「福井健二氏/上野城と城下町」より
徳川の世になって平和?になったとはいえ、武士も鍛えなくてはいけないからねぇ…
勝手な想像に笑ってしまいますが💦
思うに、ここから電車は良く見えそう、おまけに関西本線の列車も見えるのか?と。
ここら辺りに「鍵屋の辻駅」があったとも聞きますが、はてどこやろう?

では、この崖道の先を進んで「西之丸」を通って帰ることにします。
  
「石仏さま」数体、ずっとここで見守ってくれてます、有難いこと。
元々、どこにいらした仏様やろね…

以上、撮影日2023/12/3。
ではまた
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「伊賀の里歴史ウォーキング2023」後編、旧小田小と桜、鎌田のかたやき、高石垣など

2023-04-04 10:32:12 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
「伊賀の里歴史ウォーキング」の前日、
今回のコースの予習を兼ねて旧小田小辺りをそぞろ歩き…
ここでこの の咲き具合なら喜んでもらえそうだなと思いました。
ちょっとその折の光景を先に~~
 
淡いピンクの花ばかりではない、深紅の「木瓜の花」も綺麗です。
 
お隣の「平井神社花手水」も…


さて、本番当日後半。
昔「西之丸」(現・西大手町)と言われた台地の縁から下りて、
「旧小田小学校」で小休止、と校舎の見事なマッチング。
やっぱり学校には桜が似合う

*「疑洋風建築」と言われる校舎で三重県では最も古い
*明治14年(1881)建築、「啓迪(ケイテキ)学校」とよばれた
(詳細は当blog「旧小田小学校①その②その③をご参考に)

ここでは「入館」することになっており、参加者の皆さん自由に見学。
ワタシも思い立って、今でしか見られない風景に会いに2階へ~~
1階の玄関ポーチの真上にある部屋で『奉安殿(ホウアンデン)』です。
そこにはギヤマンのガラスがあり、今はこんな感じに見えます。
  
明治時代のガラスなので微妙に歪んでる、
その「ゆらゆら感」がたまらなく素敵(個人の見解です) かと…

旧小田小を出て、ひかり保育園の前を通り、激坂を上り「堀の道」へ。
下から「高石垣」を見上げます、なかなかの迫力!
石垣の上にいる人を見れば、高さがわかるというものですが、
(当日は写真が撮れず、過去の写真です、あしからず)
  
参加者の方から質問が出て「石垣の草木はどうしているんですか?」
「自衛隊さんが訓練の一環として伐採しに来てくれます」と。

「崇広堂」の前で『御成門』だけ見学。
そこに『史蹟舊崇廣堂』と彫られた石碑が立っています。
」という字はなかなか読めないので覚えておいてください…
城下町西大手門跡から「鎌田製菓」で忍者の携帯食『かたやき』。
なんと今日は「焼きたて=やわらかいかたやき」をいただく、

それって何?という方のために、「かたやき」を鉄板の上で叩きつつ焼く、
その途中の行程の「やや柔らか目」をいただけるのです。
いつもの硬い!固い!というイメージとは全く違う食感なのです。
これは焼きのタイミングが合わないと食べられない「レアかたやき」です。
いつもこれがあるわけではない、通りに向かって焼いてくれているので、
ちょっと覗いてみて「今日は『やわ焼き』ありますか?」って、
聞いてみるといいかもしれません。
但し、これはその場で食べること!!これが鉄則です。
※「鎌田製菓」さんのかたやきの生地は「小麦粉、砂糖、山芋」(これが美味しさのヒミツ)。
※「焼き」作業の動画です。
伊賀のかたやき 鎌田製菓さん(取材:観光三重)


さて、いよいよ「上野公園」へは、いわゆる「城見北通り」を抜け、
「白鳳門」から入ります。

桜並木は花吹雪、歩道はピンクの絨毯。

さぁ、「桜と白鳳城(伊賀上野城の別称)」の撮影スポットをご紹介し、
見ごたえのある「(全国一・二を争う)高石垣」を上から覗きます。
「ブラタモリ」という番組でタモリさんも怖々覗いていた「高石垣」ですね。
「大坂城」の高石垣は東南側の一部が30m超えてますが、それは水中も図ってのこと。
伊賀では残念ながら水中は不計測、現在見えている部分が29mとか…

最後に「俳聖殿」でお疲れ様、解散となりました。
少々時間が押してきました、参加者の皆さんはこれからどこかで「昼食」に。
どこへ行けば良いのか?という質問もあったりします。
「伊賀牛炙り丼」の紹介やら、「和菓子街道」のことも伝えたり、
午後は自由に城下町を散策していただけるととても嬉しい。

ではこれでお仕舞い、
帰り道に公園で「コバノミツバツツジ」が咲き出し、
「上野高校垣根のからたちの花」も開き、春の花々も入れ替えの様子です。
 

「伊賀の里歴史ウォーキング」、無事に終わりました。
参加者、関係者の皆様、お疲れさまでした。
ではまた
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「旧小田小学校」③ 2階で出会ったもの…

2023-03-03 11:13:10 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
2階へ上がるその時、まぶしい光に圧倒されました、これが噂の「ギヤマンか?」と、
まるでステンドグラス風で、丁度いい塩梅に太陽の光が当たって、
いちばん映える時間帯に来たのかもしれないと一人感動
 
「踊り場」で、前回「燭台付きピアノ」を紹介したところ。
この窓からの景色も素晴らしい
おそらくこのバルコニーの下は玄関ポーチでエンタシス風の白い柱のあるところ
「疑洋風」といわれる由縁のバルコニーを望む。
 

では、教室内に入りましょう…

今では有り得ないけど、覗けばここにも階段!
おそらく「職員室」への出入り口で先生専用だったのかも…
わぁわぁ騒いでる子どもたち、ここから先生が覗いたらビックリ!ですね。

2階もやはり「展示室」になっていますが、
天井は低い、当時の疑洋風建築の特色でしょうか?
ここでこんなものが展示されており「わっ、鉄筆!だ」と懐かしく思う方は、
きっと同年代の方ですね(笑)。
 

最近は小学校も中学校も合併に次ぐ合併で、
校名だけ聞いてもそれはどこの地区の学校?と、悩むこと多々。
これを見ていると懐かしく思い出される方いらっしゃるかもしれません。
校章・記章いまむかし
  

花垣小学校のお人形」のおはなし。
 

各学校の鬼瓦
鬼瓦には個性があって楽しい(最近ちょっと注目して見るようになりました…)


自然生(ヒトリバエ)」版画。


では、少し特別なお部屋に入ります。
ここは、1階の玄関ポーチの真上にある部屋で『奉安殿(ホウアンデン)』。
当時の上野市長豊岡益人氏の書による校名額。
  
「旧小田小学校」は
*『啓迪学校』と呼ばれました。
(「啓迪(ケイテキ)」=中国の書経からとったもので「教えを導く」という意味)

*小田地区は長田川と服部川の合流点に近く、度々水害に見舞われていました。
明治3年の大水害より全村高台へ移転の際、学制が公布され、
その対応に苦慮していたが、村の移転事業がほぼ完了した時点で、
心配のない高台(藤堂藩の城の中腹)に建てられたという歴史を持ちます。
それまでの学校は明治8年に創設され、いわゆる寺子屋風の授業だった。
先生二人、児童は男22人・女18人らしいですが、
どこの場所にあったのかは資料などが水に流されており、定かではない*というお話です。

奉安殿」から外の風景、なんかゆらゆら~~
 
いわゆる「ゆらぎガラス」なんですが、そのゆらゆらふわふわ感がたまらなくいい。
「ゆらぎ」=「模様」に見える(笑)。
数枚残っていたギヤマンの色ガラス※を元にして、復元。
※建設当時、小田村の代表が神戸まで買い付けに行っており、
 「ギヤマンの学校」として有名になったそう。
*「ギヤマン」(ガラスの歴史)

「川崎克氏」の書もあり、その下の展示物を何気に読んでいて、
 
「送辞・答辞」、卒業式にふつうに読まれるものとちょっと違うなぁ…


5年間通い続けた学校の最後の日を迎えるにあたっての決意のようなもの、
西小学校へ行くことになるし、卒業生をここで送らねばならぬその別れの言葉でもある。
最後に名前を読んだ時、
「転校してきた彼」をそこに見ました…

実は、同窓会をしようと情報収集中に「泉下の人」となっていたことを知った、
その彼の名前です。
(受付では展示物全ては本人の許可を得ております、と聞いてはいたものの)
まさかここで同級生の名前を知ることになるとは思ってもいませんでした。
しばし佇み、落ち着いた文字に遠く50数年前を思い浮かべておりました…)

彼も眺めていたであろう2階の窓からの景色、西~北方角です。
「お斎峠・高旗山」ももちろん見えます。
   

階下へ降りる時にもう一度じっくりと「ギヤマン」を…
2階教室から階段を見ることができます、もちろん手摺り付いてます。


  

「啓迪学校の鬼瓦」群。
そして、「玄関ポーチ」を中から見たら「額」みたいだった。
 
これを見てから、外に出て校舎外から屋根を見上げてみた…
 
*正面「竜虎の戯れ」
*西南隅「獅子と牡丹」 ん?わかるかなぁ

最後に、とても気になる「太鼓楼」。
「版画:平井神社境内図」にも描かれており、
南から見上げると「『學』の鬼瓦」と「太鼓楼」です。
最後の写真は「太鼓楼」のシルエット。
   
この学校を正面から見る時、必ずこの太鼓楼が見えます。
当時の「疑洋風建築」で建てられた建物には必ずセットで付いている気がします。
*明治の初めころの「洋風建築」のシンボル。
 明治時代末期には無くなっていたようです。
 平井神社の絵図によって、存在は裏付けられている。
 保存修理前の調査によって柱や垂木の位置が判明したので
 平成の大修理時に復元されました。
 この中には「太鼓」がつるされ、合図に使われていたとのこと。

お隣に「平井神社」
 

並んで「旧小田小学校」
 

長々と失礼しました、
文明開化期に建てられた建物で、大変貴重な「疑洋風建築」、
大工さんも左官屋さんも見様見真似だったとか。
令和の今、これらの建物をよくぞ残してくれたと思いますし、
当時建築に関わった人たちの技術の粋を見せてもらった気がします。
ぜひ、上野高校明治校舎とともに訪れていただきたいです。
三重県ではこの2校が現在地に当時のまま残っています。
旧三重県庁舎」、「重県尋常師範学校・蔵持小学校」などは犬山市の「明治村」にあります。

では。
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春の風にゆれる花手水。モコモコの毛はだれ?

2023-02-28 13:37:46 | 花や風景など
2023/2/27 午後、平井神社(小田)にて


2023/2/28 朝から、陽射しがまぶしい、けど家の中は寒い。
ほわッとした毛皮を見ていると、ほっこりぬくたく感じます。
“ぬくたい”って通じるやろか?
 
2月も末、抜け殻になってしまったモコモコの皮、
1月中旬にハハんちからもらってきた「枝」に付く皮はまだ固そうだった…

 
やっと咲いた花を裏から撮る、まだ毛皮が付いていたので(笑)

始めの頃の硬さはなくなり、触ってもほんに柔らかい肌触り
何とも言えません…
 

実はこのモコモコした皮を持つ植物は…
 『シデコブシ
調べれば、
*≪神前に供する紙を折ったものを「しで(垂・四手)」と呼びます。
細くて多数ある花被片が四手を連想させるので「四手辛夷(こぶし)」
この木は平成18年度までは環境省により絶滅危惧種に指定されていました。
野生のシデコブシは岐阜、愛知、三重の極限られた地域にしかありません
現在では少し安心できる準絶滅危惧種となりましたが、
生育条件の変化によっては再び「絶滅危惧」に戻る可能性もある。≫(学芸大HPより)

*≪かつては中国原産と考えられていたが、
伊勢湾を中心とした里山や丘陵地の湿地で限定的に分化したことが判明
自生地は開発が進むにつれて荒れ、現代では野生種の絶滅が危惧される。≫(uekipediaより)
園芸種ならともかく、野生では東海三県にしかない、とか。
実家にあるこの木は、多分父親がどこかで買ってきたのか、
ハハがもらってきて植えたものかはわかりませんが、
我が家では「春を呼ぶ木」みたいなものなのです。

さぁ、何処へ行こうか…クロ


ではまた
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「平井神社」重陽節句の花手水。八重ひまわりも…

2022-09-13 14:06:27 | 神社仏閣など
籤取り式の記事のその横に…「平井神社/重陽節句」の記事。(9/10掲載)
しばらくご無沙汰だったので、「あっ、行かなくちゃ」。

例えば、2022/1/15の花手水

2021/6/14には紫陽花

そして、ここは「避水徒民碑」のあるところ。(過去ログ
元々、この神社は違う場所にありました。
今は民家の一角の隅に…ひっそりと、「碑」だけが建っています。

さて、お馴染みの鳥居をくぐり、「平井山手水舎」へ
 

 
黄の八重ひまわりと真ん中が赤い猩々草がアクセントの美しい花手水でした。(撮影日2022/9/10)

さて、境内に入ると今度は可愛い花のハート型、
 
一緒に写真撮ってみませんか?って。

静かな境内で設えの生花にホッと一息させていただきました。

ではまた
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伊賀の冬「花」手水 その2 旧小田小学校から お隣の 平井神社(小田)へ

2022-01-15 14:05:28 | 神社仏閣など
さて、場所を変えて市内小田地区へ
 「旧小田小学校」と青空
明治14年(1881年)に建てられたもので、現存する小学校校舎としては三重県で最も古い建物
そういえば昭和40年頃?同級生の中に小田小学校から編入してきた人たちが何人かいましたね、
近くて遠かった「隣の小学生」が仲間になりました…

そのお隣に、
「平井神社」(リンクは過去ログより
 
「花手水舎」、季節の花が清い水とともにいつも添えられています、
それを楽しみに時折訪れます
 

 

徒歩で来たので帰り道に「鍵屋の辻の公園」へ

池に映る景色の方が色鮮やか
心洗われる、冬の爽やかな景色、自画自賛(笑)。
 
枯れ木も 池の賑わい 哉…

なんてことを書いていて、昨日(1/14)「お城の公園」に行ったら
 
高旗山は見えませ~ん
でも、ここらは積もらなかったです…

真冬の「透けるような青空」と「山をも隠す雪雲」
ここ2・3日、めっちゃ寒いですね、ご自愛くださいね。

では、また
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伊賀の冬「花」手水 その1 二つの猪田神社と…

2022-01-14 18:14:03 | 神社仏閣など
たまのお参りですけど、行くたびに「凛と」した気持ちになります。
そして、お花がいつも綺麗なのです…

「猪田神社」(下郡)……(リンクは「紫陽花の頃」の様子。)
 
何度伺っても、スッキリと美しい景色を撮ってしまいます、
順序は逆になりましたが、活けられたお花たちをじっくり見たかったので…
 
睦月らしく、綺麗でしょ
やはり「本殿」も見たいです…

この本殿は17世紀初頭の建立のようです。
側壁の装飾がとても鮮やかで美しい…
拝殿横から上がればいつでも拝めるので嬉しい場所です。

田んぼの中の道を少し西へ走ると、ここに出ます。
「猪田神社」(猪田)……(リンクは「近くに二つ、猪田神社」です)
  
以前、お参りした時にはなかったものが増えていました、
「さざれ石」(牛サンノヨウニ 見エルノハ ワタシダケ?)、令和3年正月に設置されてました。
桃山時代の粋を集めた、極彩色の「本殿」(国重文)、楽しみなんですよね…
三重県内で最も古い建物と聞き及んでいます。
  
防災設備もバッチリです。(他にもいろいろ設備はあるんですよ)

「猪田神社 天真名井(アマノマナイ)
  
2020年6月に伺った時は、ちょっと行けなかったんです(鬱蒼さが怖くて )
冬なら大丈夫です、竹林も綺麗だし、新年をお迎えしてるので歩きやすく…
  「天真名井覆屋(アマノマナイオオイヤ)」
竹藪も冬の光に輝いて、通るのが嬉しかったデス(夏とはエライ違いです )。
 
天真名井(アマノマナイ)」とは、
≪この天真名井は神事に使う神聖な聖泉で、
倭姫命(ヤマトヒウメノミコト)が穴穂宮(現・神戸神社)に巡幸された時に掘ったとされる井です。
元旦の早朝、若水取りの神事・御井祭が行われる名井で、伊勢神宮外宮の忍穂井と通じており、
大干ばつにも枯れない井≫だそうです。

元旦に「神事」が行われていたようで、
おかげさまで竹林はスッキリととても通りやすかったです
神聖で心落ち着くいい日です。(2022/1/9訪問)

では「平井神社」へつづきます…

2022/1/19 追記
【猪田神社】(猪田)
『三重のステキな歴史的建造物』という冊子(三重県教育委員会発行)で
猪田神社本殿の修理」というページを見つけました。

これを読んでいて、自分の撮った写真の中にあるかしら?と
探していたら、丁度コレ☟
  2022/1/9撮影
かろうじて見えました(笑)
※戦国時代 大永7年(1527年)の棟札が残っており、
 三重県最古級の建造物のひとつ。

猪田神社の本殿は、すぐ後ろの山裾から見ることことができます、
是非一度行かれてみてはいかがでしょ?
令和元年に修理が終わったばかりなので、ほんとに極彩色は綺麗ですよ
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伊賀の「自然災害伝承碑」その3、小田:平井神社「避水徒民碑」(ヒスイシミンノヒ)へ

2021-06-14 00:39:33 | 伊賀自然災害伝承地
   
「平井天神宮」と「平井神社」二つの鳥居、
そしてお出迎えのサツキ(珍しい八重っぽいのも咲いています)。
その鳥居と鳥居の間に可愛い花がいっぱいの嬉しい「花手水」
  心洗われる手水舎です

(今回は寄るところが多く🚙で行きましたので、
駐車場は平井神社の裏手、「ひかり保育園」横の駐車場に止めさせていただく、
そこから、ちょこちょこッと歩くと神社の横に出ます、
神社の案内もありますので、ぜひどうぞ…)

一旦、表に回って鳥居から進んで上の写真、
そして、石段を上るその途中左側に
 【避水徒民の碑】(ヒスイシミンノヒ)はあります。

彫られた文字は読めないので、この碑の横に解説碑がたっています、
そちらを読むと、水に悩まされ続けた人々の歴史が刻まれています…


『わが小田地区は、伊賀の北西部で長田川と柘植 服部川が
合流する位置にある
ため、古くから水による被害に
悩まされ続けてきた。
 安政地震により地盤沈下してからは、さらに河川の氾濫
による水害が度重なり
、ついに明治三年(一八七〇)の
午年の水害で多くの田畑が流失、水死者五人、潰家八五戸
という大被害を受けた。
 この時 居住地をそっくり高台に移す計画がなされ
移居世話係となった村田順造氏の卓越した指導のもと
地区民は一致協力して同六年四月より工事をはじめ、
同十年十月に完了した。
 この遊水移居(ヒスイイキョ)事業を成し遂げることに努力した人々の
功績を後世に残すため、同十二年二月にこの碑が建てられた。』 表碑

『明治十二年二月馬苦労町※地内に建立
 大正十年五月 平井神社境内に移築
 平成十年十二月現在地に修復移築
          小田町自治会
      施工 株式会社石の中原』 裏側

※馬苦労町(バクロウチョウ)=現在の鍵屋の辻辺りといわれる
参考資料(リンクしています)

その「鍵屋の辻」にある浸水の記録 
 撮ってきました…
昭和時代の記録ですが、地震による地盤沈下を起こした所に、
度重なる浸水、、、
現在は「遊水池」もでき、来年度には「川上ダム」もできます、
二度と怖い目に合わないことを願うばかりです

「芭蕉野分して 盥に雨を 聞く夜かな」  芭蕉
※台風の風が激しく庭の芭蕉の葉を吹き荒らしている夜、雨が打ちつけている。
家の中では雨漏りがしていて盥(たらい)に落ちる雨の音を聞く、そんな夜であるなあ※

芭蕉は風流を詠んでいますが、
伊賀では野分(=台風)はとても恐ろしいものです、
それを忘れないための「自然災害伝承碑」かもしれません。
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伊賀の「自然災害伝承碑」その2、島ケ原:正月堂・野間:慶明寺(ノマケイミョウジ)へ

2021-06-13 09:41:09 | 伊賀自然災害伝承地
せっかく登録された国土地理院の「自然災害伝承碑(伊賀版)」なので、
6/12の午後、確認のため走りました(笑)🚙

島ケ原・正月堂前【山津波災害記念碑】(ヤマツナミサイガイキネンヒ)
 正月堂正面にサツキと共に

 
伊勢湾台風より6年も前(昭和28年/1953年/8/14)に起きた大豪雨により
山崩れや土石流が各所で発生し、土砂が濁流のごとく奔流し、
一瞬にして多数の人命を奪った…
その記憶を残すための「災害伝承碑」です。

 
観菩提寺正月堂の山門と本堂(国重文)、
ここにおられる『観菩提寺正月堂御本尊「木造十一面観音立像」』は、
33年に一度御開帳されています。
次は、多分2048年だと思います。
(前回の御開帳時から換算すると…)
 ぶんと通信より

 広報いがしより

島ケ原から西山※に抜け、JR関西線を跨いで北上。
旧上野市西山地区の土石流について
≪三重県上野市では、1953年8 月15日午前0 時を過ぎた頃から激しい豪雨となり、
1 時間最大雨量81mm、総雨量287mm に達した(上野市史・自然編,2004)。
この豪雨により,木津川断層帯の急斜面地帯である上野市西山で土石流が頻発し、
死者・行方不明14名の被害を被った、
島ヶ原村史(1983)によれば、15名の死者を出している。≫とのことです。
まさに、その一帯を通りましたが、ワタシが生まれる前の事で(ハハのお腹の中にはいたけれど)、
こうやって話を聞いたり、記録を読むことでしか知ることのできない
災害の歴史がそこここにある…

さて、次なる「自然災害伝承碑」を訪ねたのは、
野間・慶明寺【安政伊賀上野地震供養塔】(アンセイイガウエノジシンクヨウトウ)
慶明寺さんの駐車場に車を止め、
  慶明寺と六地蔵様

はて?石碑はどこにあるものかとgoogleさんの航空写真で探す…
(新聞記事ではたしか「墓地」にあるとのこと)
google navi の仰せの通り歩いて進むと、、、
 説明版がありました…


googleさんのテキストコピーによると…

『市指定有形文化財(歴史資料)
安政伊賀上野地震供養塔 (伊賀市野間)
 この塔は、嘉永七(一八五四)年六月十四日に発生した伊賀上野地震
における野間村の横死者を埋葬した場所に、安政七(一八六〇)年三月
に七回忌追善法要として建てられた供養塔です。
 当時野間村には浄土宗の空照山慶明寺と、天台真盛宗の平楽山西雲
寺の二か寺があり、慶明寺の檀徒二十六人と西雲寺の檀徒九人が横死
し、合わせて三十五人がこの地に埋葬されました。
 二段積みの花崗岩製の基礎石(高さ五十二㎝)の上に、三層の台石(計
六十四㎝)を重ねていて、三層のうち、下二層は四角柱の石材を組み合
わせていますが、最上層は一石積みとなっています。その上に高さ八十
一cmの石碑を載せていて、総高は百九十七㎝です。
 石碑の正面には「南無阿弥陀仏」と陰刻され、他の三面には横死者三
十五人の戒名が陰刻されています。三層の台石のうち、最上段のものに
は、三面にわたって建碑の由緒が刻まれています。
 安政伊賀上野地震の供養塔
として「法華経塔」(服部町)が ありますが、
本供養塔も地震による災害を今に伝える貴重 な資料です。』

『建碑の由緒
(南面) 嘉永七寅 六月十四日の夜
大地震に家潰れ 当色に死者三十五人
此処にこれを葬
(西面) ことし七回忌に当れば 横死菩提の
為にこれを建て 追善を営むもの也
(北面) 安政七庚申三月発起 善三郎
世話人 周吉 住僧 戴誉
(平成二十四年三月二十八日指定) 伊賀市教育委員会』

 
≪供養塔そのものは、江戸末期/1860年(安政7)に造られ、
2段積みの花崗岩製の基礎石の上に、3層の台石(計64㎝)を重ねている。
下2層は四角柱の石材を組み合わせている≫(文化遺産オンラインHPより)

※安政伊賀上野地震:参考資料として
「blog:三重県伊賀地域の情景」
をリンクさせていただきます

では、「避水徒民碑」(小田・平井神社)へつづく
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