マイケル・フェルプスの最初の金メダル(400m個人メドレー)授賞式のあとで、
「ママを探してるんだけど見つからないんだ。」とうれしそうな笑顔を見て
家族愛にあふれたマイケルの顔、素敵でしたね。
デボラさんはホイットニー、ヒラリー、マイケルの3人の子を持ち、
片親であるが献身的な教育者で、現メリーランド州ボルチモアの中学校校長。
3人の子供達を誇りに思い、世界中を旅し、スポーツ観戦、主に水泳観戦、
余暇には読書や彼女の人生を見詰め直し執筆も考えています。
*不可能なことなどない。(デボラさんの言葉)
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断固たる決意がある私の息子はハードなトレーニングをし
パフォーマンスはそれを証明している。
アメリカで最高のオリンピックメダル受賞者を育てた片親の技量に賞賛、
専門家はオリンピック選手の母親も評価するべきと言ってます。
前代未聞の偉業を成し遂げたマイケル・フェルプスの母親として、
世界中のスポットライトを浴び、人生で最高の日々を過ごしたデボラさん自身、
片親で3人の子育ては辛い道のりだったと言います。
デボラさんとご主人のフレッドさんは1993年に別居、翌年離婚、マイケルは9歳。
その翌年から中学校の校長になるための学位を大学で、同時に医師とマイケルの
ADHD「注意欠陥多動性障害」の治療を始めることになったのです。
マイケル・フェルプス:1985年6月30日生まれ、23歳。
その道のりは、
◆幼少時
・一瞬たりとも落ち着きがなくじっと座ることができず、始終手を動かしたり、
他の子の注意を引くためくすくす笑ったりそっと突いていたりした。
・幼稚園の先生からも、いつもクレームの嵐。
・教師歴22年のデボラさんは引越先の幼稚園で以前のカリキュラムが
マイケルには退屈でフラストレーションがたまっていっただろうと推測。
女性教師に「たぶん彼にはそのカリキュラムは退屈でしょう」と言ったら、
「彼には何も才能はありませんよ」と教師であるデボラさんは
彼女に食ってかかる気もなく、
「マイケルを助けるために何をしてくれるの?」とただ訊ねただけ。
◆小学校時代1
・ボルチモア小学校に入学。
好きな事、体操、理科の実験はできる子になる。本を読むのは好きでなかった。
マイケルが写真を見ていたらそっとスポーツ紙のページを渡して興味を引かせた。
・成績はB,Cと少しだけD
・小学校に入学してからも「未熟な子」とレッテルを貼られる。
・片時も「マイケルは将来も、何に対しても集中することはできないだろう」
以降、デボラさんは教師のコメントを片時も忘れることがない。
・彼女にとってその当時は相当辛い時期。
州警察の警官の夫と離婚手続きと、学位取得で大学に戻った状態の時に、
四六時中、親としていなければならなかった。
●成長期
・妙におかしな成長、耳が大きい。走ると腕が膝の下にある。
・身長が 6 feet 4 inch、両手を広げると6 feet 7 inch。
(この当たりは、100mバタフライ折り返し7位からゴール直前で2位、
1位の泳者とは頭の位置では負けているが、腕の長いマイケルが1/100秒差で
神業に近いタッチで優勝したきわどいシーンを思い出して下さい)
・そんな感じなので子供たちはマイケルをいじめて、その子たちをやりかえした時、
スクールバス乗車停止命令(4~5日)
◆小学校時代2
・5年生(9歳)の健康診断で、ファミリードクターのワックス医師は
マイケルがA.D.H.D.の可能性をデボラさんと話す。
フェルプス家は水泳一家で、長女のヒラリーは15歳で200mバタフライで
米国1位にランクされながら 腰の痛みで引退。
ワックス医師の子供たちとフェルプス一家は水泳大会で会う。
・教師らの一致する意見は「じっとできない。静かにできない。集中できない」
ワックス医師はマイケルの評価表を教師に渡すことを提案。
・9歳の時にリタリン(中枢神経興奮剤の薬)を摂取し始める。
その薬の効果が見えたのか、集中する時間が少し長くなったように見え、
宿題をしてる最中も歩き回ることがなくなる。
それでも成績はBとC。マイケルの宿題は4つの文章を書く。
それに対してマイケルも単に4つの文章を書くという感じ。
・そうこうしているうちに、マイケルは選手として頭角を現し、10歳までに
国内年齢グループにランク付けされる。
4時間も教室に座れない子が、水泳大会のレースまで待つ5分間の"価値"をわかるようになる。
◆11歳
・昼食時間に保健室で薬を飲まなければならなかったマイケル自身が
薬を飲むのをやめたいとデボラさんに頼のむ。
何の前触れもなく彼は「お母さん、もうこれ以上薬は飲みたくない。
友達も飲んでないし、僕には必要ない。薬なしで僕はできるから」と言う。
デボラさんは非難されたような気持ちになった。
・親としていつも厳格な態度を取っていたが、子供が意思決定をした大切な日が出現。
そしてワックス医師とカウンセリング後に薬物療法を止める。
・水泳選手である大好きな二人の姉に勇気つけられ水泳が治療にもつながる。
ヒラリー左、マイケル(3歳)、ホイットニー右(1988年)
◆ボブ・ボーマン水泳コーチ(現在もコーチ)
・北ボルチモア・アクティック・クラブのボーマンコーチはマイケルが11歳の時、
彼の天賦の才能について語っている。
コーチは、
「2000年までにオリンピック選考会で彼の姿を探す。
2004年までにオリンピックに出場する。
2008年までに世界記録を作る。
2012年までにはオリンピックはニューヨーク開催かな?」
デボラさんは「やめて、ボブ!マイケルは11歳の中学生よ。」と言う。
後で分かったことだが、コーチの予測より4年早く達成した。(NYオリンピック招致もナシ)
◆12歳
・代数の家庭教師を必要とする。
いつも不安でソワソワしてる状態で、後方席に座るように教師に提案。
マイケル自ら毎日6:30に起床、90分の朝練。午後2~3時間の練習を毎日続ける。
◆高校時代
・宿題は、コーチから渡される彼の出場した国際大会のビデオテープ。
「お母さん、TVの前でテープを見ながら食事をしたいんだ」彼は自分の試合を批評。
「ターンを練習してる時どこで頭を上げるのか?」
デボラさんは彼が何を話しているか皆目わからなかったのです。
何度も何度も彼女曰く、「ワオッ!」
◆16歳
・最初の世界記録達成。
◆19歳
2004年のアテネオリンピック、世界記録達成。8個の内6個金メダル獲得。
◆彼のメンタル能力:時計のような正確な能力
・例えば200mバタフライの最初の50mを24.6秒の記録を作るなら、
マイケルの頭と体は正確に24.6秒で泳ぐ。
◆北京オリンピック
・マーク・スピッツの偉業を超える。
「マイケルがメダルを4個取ろうが8個取ろうが、私は彼のレースをサポートをするために、ここにいるの」
400mフリーリレー金メダル受賞式のあとでデボラさんにキスするマイケル。2008年8月13日
マイケルの偉業後、デボラさんの頭の中は沢山の感情が渦巻いてました。
沢山のことが同時進行し、離婚、マイケルの病気、転校。何が功を奏したのか?
薬を飲むのが良かったのか?どっちつかずの状態。その時に精一杯の選択をしてます。
57歳になったデボラさんのA.D.H.Dの息子が成し遂げた偉業と同時に、
彼と家族の無視できない人生にスポットライトをあててみました。
彼女には母親大賞という金メダルが似合いますね。
ちなみにA.D.H.Dの有名人としては、
クリントン大統領、ヘミングウェイ、ベンジャミン・フランクリン,バートン卿、エジソン、黒柳徹子。
こちらはA.D.H.Dの詳細がわかります。
デボラさんの運営するADHDオンラインコミュニティサイトは
こちら。
source:
Phelps Mother Recalls Helping Her Son Find Gold-Medal Focus
Always here for you - Deborah Phelps
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