風景居酒屋 ごじゃ満開

2011年03月11日14時46分、東日本大震災発生
(since 2007/8/15)。

1005) 私的岩手通史の旅 第84回(後三年合戦 第5幕)

2011年07月03日 | 私的岩手通史の旅
 先日の人事異動で新しい方が着任したのですが、同じ苗字の人と「はじめまして、Aです」と相互にあいさつする姿が妙に面白く感じられました。私は40ウン年の人生で、親族以外で同じ苗字の人に会ったことは1度しかありません。うらやましくはないですが、もしかしたら一生経験できないことかもしれません。


 私的岩手通史の旅、後三年合戦の続きです。清原真衡が急死した後、陸奥守源義家によって奥6郡は藤原清衡・家衡に分けられましたが、清衡を遇する分け方であったこと等から家衡は不満を募らせ遂に爆発、叔父の武衡と組んで清衡館(奥州市江刺区)にいた藤原清衡の妻子一族を殺害し、出羽(秋田県横手市)の沼柵に引きこもりました。

 小説「炎立つ」では清衡が家衡らに襲われるシーンが描かれていますが、清衡は池の泥の中に潜んで敵が去るまでをじっと耐え、「待つのはこれが最後となる。この先はただ攻めるだけ」と誓います。助かった清衡は義家と組み1086(応徳3)年、家衡のこもる沼柵に向いました。

 家衡軍がこもった沼柵は横手市から県道48号線を10数キロ西に進んだ所にあります。故宮脇俊三氏は「まず沼柵のある沼館に行くのが順序だろうが、遠いのでバスで往復すれば半日を費やしてしまうし、タクシーを使うと成果に比して贅沢が過ぎることになる(平安鎌倉史紀行)。」として訪問を割愛していますが、私は淡々とアクセルを踏んで愛車を西へ走らせました。


(沼館バス停 -秋田県横手市 2010/07/13-)

 沼柵があったとされる場所は現在、蔵光院というお寺になっています。周囲は水田と住宅に囲まれていますが、かつては西を流れる雄物川やその支流を利用した要害になっていたのでしょう。南へ回って全景を眺めると水田に浮かぶ島のようです。


(南から見た沼館柵跡 -秋田県横手市 2010/07/13-)

 義家・清衡軍が沼柵に至ったのは秋でしたが、攻めあぐねている間に季節は冬となり、野営する義家・清衡軍の兵は家衡の兵を相手にする前に寒さと飢えに遭い、次々と倒れてしまいました。義家軍は大雪の中、国府への撤退を余儀なくされたのです。


2010/07/03の一品・・・747)栃木散歩 佐野市(別されバス停)
2009/07/03の一品・・・お休みでした
2008/07/03の一品・・・300)盛岡散歩 仙北町界隈2(小鷹御仕置場供養塔)

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 千葉県情報へにほんブログ村「ふうん」と思ったらクリックして下さい
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1004) 栃木散歩 鹿沼市(県... | トップ | 1006) 南部津軽再訪 八戸市... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

私的岩手通史の旅」カテゴリの最新記事