昨晩のテレビ番組で40歳前後のビジネスマンによる覆面座談会が放送され、「給与が上がらない」「昇進できない」という厳しい意見が飛び交っていました。(多少乱暴な表現ですが)その原因がその上の「バブル世代」の大量採用にある・・というのが番組の結論だったように解釈しましたが、自分が言われているような気がし、普段ニコニコしながら私を持ち上げてくれるあの人も、裏を返せば・・・なんて考えてしまいました。
私的成田街道の続きです。本日は「宗吾霊堂」詣でです。記憶の中では35年以上ぶりだと思います。宗吾霊堂と申しましたが、真言宗の東勝寺(とうしょうじ)です。寺伝によると坂之上田村麻呂が創建したと伝えられています。同寺には佐倉藩主堀田正信の重税に苦しむ農民を救うため、徳川4代将軍徳川家綱に直訴し1653(承応2)年に処刑されたと伝わる、佐倉惣五郎の墓があります。
(1958年建立の仁王門 -成田市宗吾 2020/01/05-)
先程、佐倉惣五郎が直訴したと申しましたが、直訴が史実なのかは「?」のようです。私は「史実」として学んだのですがね。ただ、伝承によって創作されたイメージが後世に大きな影響を与えたことは確か(by千葉県の歴史散歩)とされています。
(惣五郎の霊を祀る大本堂 -同上-)
大本堂の裏側には大きな顕彰碑がありました。福沢諭吉が発起し建立されたものです。読んだことはありませんが、福沢諭吉は「学問ノススメ」の中で惣五郎の直訴を絶賛しているそうです。
(碑文は読めません・・・ -同上-)
大本堂の右手には真新しい「宗吾殿」がありました。処刑の後、歴代佐倉藩主は惣五郎の霊を営み続けました。それは堀田家が佐倉藩から紆余曲折を経て近江宮川藩(滋賀県長浜市)となった以降も浅草下屋敷地内にて祀られ供養され続けてきました。
宗吾殿は19世紀初頭には供養堂として建てられていたとされ、震災戦乱の後、台東区寿に再建されましたが、同地で再開発のあった2017(平成29)年に宗吾霊堂境内に移築建立されました(by説明板抜粋)。説明板を読むと惣五郎の直訴を史実としていますね。
(真新しい宗吾殿 -同上-)
目的地の成田山新勝寺までもうひと息ですが、佐倉から歩いた第5日目はここまででございます。
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過去の3月5日・・・こちら
私的成田街道の続きです。本日は「宗吾霊堂」詣でです。記憶の中では35年以上ぶりだと思います。宗吾霊堂と申しましたが、真言宗の東勝寺(とうしょうじ)です。寺伝によると坂之上田村麻呂が創建したと伝えられています。同寺には佐倉藩主堀田正信の重税に苦しむ農民を救うため、徳川4代将軍徳川家綱に直訴し1653(承応2)年に処刑されたと伝わる、佐倉惣五郎の墓があります。
(1958年建立の仁王門 -成田市宗吾 2020/01/05-)
先程、佐倉惣五郎が直訴したと申しましたが、直訴が史実なのかは「?」のようです。私は「史実」として学んだのですがね。ただ、伝承によって創作されたイメージが後世に大きな影響を与えたことは確か(by千葉県の歴史散歩)とされています。
(惣五郎の霊を祀る大本堂 -同上-)
大本堂の裏側には大きな顕彰碑がありました。福沢諭吉が発起し建立されたものです。読んだことはありませんが、福沢諭吉は「学問ノススメ」の中で惣五郎の直訴を絶賛しているそうです。
(碑文は読めません・・・ -同上-)
大本堂の右手には真新しい「宗吾殿」がありました。処刑の後、歴代佐倉藩主は惣五郎の霊を営み続けました。それは堀田家が佐倉藩から紆余曲折を経て近江宮川藩(滋賀県長浜市)となった以降も浅草下屋敷地内にて祀られ供養され続けてきました。
宗吾殿は19世紀初頭には供養堂として建てられていたとされ、震災戦乱の後、台東区寿に再建されましたが、同地で再開発のあった2017(平成29)年に宗吾霊堂境内に移築建立されました(by説明板抜粋)。説明板を読むと惣五郎の直訴を史実としていますね。
(真新しい宗吾殿 -同上-)
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