・ 【ゴジラ岩なんですが見える角度が釈然としませんね】
ゴジラに見えるのは見える角度があります、何処でも「ゴジラ」に見える訳ではありません
もっと手前に草食恐竜のような岩がありましたが、別に名前はついていませんでした
渚というのは「海岸」という意味なのでしょうか?
・ 【日本の渚100選というのがあるのです】
この辺は渚と岬の連続です、「渚」というのは
「海の砂浜から波打ち際までに至るまでの、広い砂地のこと」
というと無数にあるような気がします
遠浅の砂浜といより磯場が日本海に続いておりました!
・ 【宗谷岬のようでもありました】
遠浅の磯が並んでいて宗谷岬のようであります!岬や渚は地図上の世界だと思います
先端に灯台があれば間違いなく岬だと思います、でも稲取灯台は岬状の所に立っていません
(城ヶ崎灯台の次の位置を示すために高い所にたっているだけです)
「なまはげ」は男鹿半島の象徴です
・ 【男鹿半島にはいたる所に潜んでいます】
したがって至る所に潜んでいます、天狗のような鬼のような形相をした悪霊が「なまはげ」の固有名詞なのか
それとも地方に伝わる風習なのかは分かりません
「入道崎」という岬の先端の雰囲気がしてきました
・ 【いよいよ先端が近くになってきました】
荒々しい磯が見えてきまして、道路も断崖の上を行くようです
・ 【菅江真澄とはどのような人物だったのでしょう】
「菅江真澄の足跡や見聞資料を新たな歴史的観光素材として活用し、道の駅で「菅江真澄の足跡」等を
紹介するなど、地域の観光拠点として付加価値を高めるとともに、道の駅相互の連携強化により
利用者サービスの向上を図り、高速道路を利用した県外客の誘致などにより、地域活性化につながる
新たな取り組みを行っています」
これだけだと分かりませんね!
「菅江真澄は今から約250年前の1754年に三河国(現在の愛知県)で生まれたといわれています
30歳の頃から旅をはじめ、生涯を旅に暮らした人でした。
1784年初めて秋田を訪れ、以後青森、岩手、宮城、北海道を経て、1801年再び秋田へ戻ります。
その後は生涯を秋田で暮らし、1829年仙北で亡くなりました。
菅江真澄は旅の道すがら、各地の暮らしや習俗を深く観察し、日記や図絵などをたくさん残しています。
男鹿半島を訪れて書いた紀行文は5編あり、「男鹿の五風」と呼ばれています。
「男鹿の五風」とは「男鹿の秋風」「男鹿の春風」「男鹿の鈴風」「男鹿の島風」「男鹿の寒風」
という紀行文です。図絵も多く、当時の男鹿半島を知る上で大変貴重な資料となっています。
男鹿市内には、菅江真澄が男鹿半島を訪れた際の足跡の随所に「菅江真澄の道」と
書かれた標柱が83本、説明板が8つあります」
これが83本の標柱の一つでした、あと2,3本目撃もしています、彼も放浪の旅人です
「しいたけ」の場合は放浪でなくて全国徘徊と言われております
がっかりでした、半島案内板で確認したら先端はまだ先になります、地図も持たないし
旅の目的もありませんし、行き当たりばったりです、勿論ナビも貧乏で買えません
・ 【男鹿半島の先端はまだまだ先にあります】
男鹿半島の新潟県側と北海道側とでは景色がまるで違います
・ 【先端に行けば行くほど寂れていきます】
岬の先端は何も無い「襟裳岬」のようなのです、まだ先端ではないですが昔は栄華を誇っていたのでしょうが
今は無人のドライブインが朽ち果てているだけです、北海道でも岬には何もありません
「襟裳岬」「宗谷岬」「納沙布岬」「積丹岬」などはお土産屋さんしかありませんしあっても
無人の灯台が不気味に建っているだけです
これから行く北海道でも目撃しますが、まだ花の時期だと思います
・ 【「ハマナス」が実をつけていました】
ハマナスは食べられますが、僕は食べた事がありません
・ 【ここが「入道崎」です、お土産屋さんと灯台しかありません】
灯台も入場料を取りますから見物はしません、岬は何処も同じような所で何もありません
ゴジラに見えるのは見える角度があります、何処でも「ゴジラ」に見える訳ではありません
もっと手前に草食恐竜のような岩がありましたが、別に名前はついていませんでした
渚というのは「海岸」という意味なのでしょうか?
・ 【日本の渚100選というのがあるのです】
この辺は渚と岬の連続です、「渚」というのは
「海の砂浜から波打ち際までに至るまでの、広い砂地のこと」
というと無数にあるような気がします
遠浅の砂浜といより磯場が日本海に続いておりました!
・ 【宗谷岬のようでもありました】
遠浅の磯が並んでいて宗谷岬のようであります!岬や渚は地図上の世界だと思います
先端に灯台があれば間違いなく岬だと思います、でも稲取灯台は岬状の所に立っていません
(城ヶ崎灯台の次の位置を示すために高い所にたっているだけです)
「なまはげ」は男鹿半島の象徴です
・ 【男鹿半島にはいたる所に潜んでいます】
したがって至る所に潜んでいます、天狗のような鬼のような形相をした悪霊が「なまはげ」の固有名詞なのか
それとも地方に伝わる風習なのかは分かりません
「入道崎」という岬の先端の雰囲気がしてきました
・ 【いよいよ先端が近くになってきました】
荒々しい磯が見えてきまして、道路も断崖の上を行くようです
・ 【菅江真澄とはどのような人物だったのでしょう】
「菅江真澄の足跡や見聞資料を新たな歴史的観光素材として活用し、道の駅で「菅江真澄の足跡」等を
紹介するなど、地域の観光拠点として付加価値を高めるとともに、道の駅相互の連携強化により
利用者サービスの向上を図り、高速道路を利用した県外客の誘致などにより、地域活性化につながる
新たな取り組みを行っています」
これだけだと分かりませんね!
「菅江真澄は今から約250年前の1754年に三河国(現在の愛知県)で生まれたといわれています
30歳の頃から旅をはじめ、生涯を旅に暮らした人でした。
1784年初めて秋田を訪れ、以後青森、岩手、宮城、北海道を経て、1801年再び秋田へ戻ります。
その後は生涯を秋田で暮らし、1829年仙北で亡くなりました。
菅江真澄は旅の道すがら、各地の暮らしや習俗を深く観察し、日記や図絵などをたくさん残しています。
男鹿半島を訪れて書いた紀行文は5編あり、「男鹿の五風」と呼ばれています。
「男鹿の五風」とは「男鹿の秋風」「男鹿の春風」「男鹿の鈴風」「男鹿の島風」「男鹿の寒風」
という紀行文です。図絵も多く、当時の男鹿半島を知る上で大変貴重な資料となっています。
男鹿市内には、菅江真澄が男鹿半島を訪れた際の足跡の随所に「菅江真澄の道」と
書かれた標柱が83本、説明板が8つあります」
これが83本の標柱の一つでした、あと2,3本目撃もしています、彼も放浪の旅人です
「しいたけ」の場合は放浪でなくて全国徘徊と言われております
がっかりでした、半島案内板で確認したら先端はまだ先になります、地図も持たないし
旅の目的もありませんし、行き当たりばったりです、勿論ナビも貧乏で買えません
・ 【男鹿半島の先端はまだまだ先にあります】
男鹿半島の新潟県側と北海道側とでは景色がまるで違います
・ 【先端に行けば行くほど寂れていきます】
岬の先端は何も無い「襟裳岬」のようなのです、まだ先端ではないですが昔は栄華を誇っていたのでしょうが
今は無人のドライブインが朽ち果てているだけです、北海道でも岬には何もありません
「襟裳岬」「宗谷岬」「納沙布岬」「積丹岬」などはお土産屋さんしかありませんしあっても
無人の灯台が不気味に建っているだけです
これから行く北海道でも目撃しますが、まだ花の時期だと思います
・ 【「ハマナス」が実をつけていました】
ハマナスは食べられますが、僕は食べた事がありません
・ 【ここが「入道崎」です、お土産屋さんと灯台しかありません】
灯台も入場料を取りますから見物はしません、岬は何処も同じような所で何もありません
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます