書く事は考える事とは?
「書く事は考える事」とは、師範の言葉であるが…
「考える」とは?
「書く」とは?
何をどのように書く事が、考える事になるのか?
そもそも…
書くとは、何かを言葉・文字にする事。
その何かとは、見た・聞いた・感じた何かの物・事。
それは五感で感覚した何かの物・事。
この感覚した物・事には、
現在感覚している物・事と過去に感覚した物・事がある。
「物」なら名前を書ければ表現できるが…
「事」となると、その言葉が問題である。
今、食べている物ならば名前で書ける。
その食べ方は、となると「箸で取って口に入れて噛んで飲み込む」…。
しかし、これが正確な今の私の「食べ方」になっているか?
私が、「今の私の食べ方」を書こうとする時、
既に、「今の食べ方」は「さっきの食べ方」になっている。
「さっき」の食べ方は、既に現実になく、私の記憶の中である。
ここから言える事は、
外界を書く・文字化するには、
外界を一度記憶し、その記憶を想起して文字化する必要がある。
何故なら、何かを感覚すると同時に書く事はでき難い…から。
外界・対象を正しく記憶するには、
対象を正確に五感で感覚する必要がある。
外界・対象を五感で感覚して、
脳内に五感情像を描く事を「認識」と言う。
正確に「何か」を書くとは、
その言葉・文字の内容が、
「何か」と正確に一致しているかの確認・検証が必要であり、
その確認・検証には、どのように確認・検証すべきかを「考え」、
その確認・検証の結果が、書いたモノと異なっていたのなら、
どうして、何故異なっていたかを「考える」必要が生じる。
このような「書く事は考える事」の解釈があり得るが…。
また、以下のような解釈もあり得る。
師範言葉に、「考えるとは、止めた像を動かす事」がある。
この「止めた像」とは、「思っている像」であり、
「思う」とは、普通は変化・運動している認識を止めて、
その止めた像を見詰めている状態である。
何かを書く・言葉にするには、脳内の何かを見詰める必要があり、
その何かを見詰めるには、脳内の運動・変化している認識を止める必要があり、
止めたら、それを見詰めて文字化する。
ここで、「記憶の想起」と「像を止める」と関係を考えるなら、
「記憶の想起」には。自然と意識的な想起があり得る。
何かを書こうと思いたって、
自然に想起してきた部分を、
繋げていく事で、なかなか想起できなかった部分が、
浮かび上がってくる事か多々あり得る。
想起の為には、先ずは思う事。
それも正しく思える事。
正しく何か「思う」には、
その何かに関連するだろう諸々事の全てを想起する必要がある。
全てが全て一度に想起されれば問題はないが…
普通は「芋づる式」に…であろう。
「芋づる」は、芋の生長に合わせた伸び方であるが…
記憶の中の事実の関連は、
その人物の個性で決まっている部分も大きい…
これはこれで、記憶の中の事実と現実の事実の相違が問題化する。
さてさて…
ここまで、「書く事は考える事」について、
思い・考え書いてきたが…
果たして正確な想起が出来ていたか?
正しく像を止められていた?
止めた像を見詰められていたか?
止めた像を動かす事が出来ていたか?
「書く事は考える事」とは、師範の言葉であるが…
「考える」とは?
「書く」とは?
何をどのように書く事が、考える事になるのか?
そもそも…
書くとは、何かを言葉・文字にする事。
その何かとは、見た・聞いた・感じた何かの物・事。
それは五感で感覚した何かの物・事。
この感覚した物・事には、
現在感覚している物・事と過去に感覚した物・事がある。
「物」なら名前を書ければ表現できるが…
「事」となると、その言葉が問題である。
今、食べている物ならば名前で書ける。
その食べ方は、となると「箸で取って口に入れて噛んで飲み込む」…。
しかし、これが正確な今の私の「食べ方」になっているか?
私が、「今の私の食べ方」を書こうとする時、
既に、「今の食べ方」は「さっきの食べ方」になっている。
「さっき」の食べ方は、既に現実になく、私の記憶の中である。
ここから言える事は、
外界を書く・文字化するには、
外界を一度記憶し、その記憶を想起して文字化する必要がある。
何故なら、何かを感覚すると同時に書く事はでき難い…から。
外界・対象を正しく記憶するには、
対象を正確に五感で感覚する必要がある。
外界・対象を五感で感覚して、
脳内に五感情像を描く事を「認識」と言う。
正確に「何か」を書くとは、
その言葉・文字の内容が、
「何か」と正確に一致しているかの確認・検証が必要であり、
その確認・検証には、どのように確認・検証すべきかを「考え」、
その確認・検証の結果が、書いたモノと異なっていたのなら、
どうして、何故異なっていたかを「考える」必要が生じる。
このような「書く事は考える事」の解釈があり得るが…。
また、以下のような解釈もあり得る。
師範言葉に、「考えるとは、止めた像を動かす事」がある。
この「止めた像」とは、「思っている像」であり、
「思う」とは、普通は変化・運動している認識を止めて、
その止めた像を見詰めている状態である。
何かを書く・言葉にするには、脳内の何かを見詰める必要があり、
その何かを見詰めるには、脳内の運動・変化している認識を止める必要があり、
止めたら、それを見詰めて文字化する。
ここで、「記憶の想起」と「像を止める」と関係を考えるなら、
「記憶の想起」には。自然と意識的な想起があり得る。
何かを書こうと思いたって、
自然に想起してきた部分を、
繋げていく事で、なかなか想起できなかった部分が、
浮かび上がってくる事か多々あり得る。
想起の為には、先ずは思う事。
それも正しく思える事。
正しく何か「思う」には、
その何かに関連するだろう諸々事の全てを想起する必要がある。
全てが全て一度に想起されれば問題はないが…
普通は「芋づる式」に…であろう。
「芋づる」は、芋の生長に合わせた伸び方であるが…
記憶の中の事実の関連は、
その人物の個性で決まっている部分も大きい…
これはこれで、記憶の中の事実と現実の事実の相違が問題化する。
さてさて…
ここまで、「書く事は考える事」について、
思い・考え書いてきたが…
果たして正確な想起が出来ていたか?
正しく像を止められていた?
止めた像を見詰められていたか?
止めた像を動かす事が出来ていたか?
自由びとさんが書いている「考えるとは像を止めること」という南郷さんの文言に興味をもってお調べしたのですが見当たりませんでした。確か『学城』のどこかで書いていたのを見た気もしますが。
代わりに『哲学・論理学原論』のp379に「(4)思弁的像を止めて言葉にしたのが概念で、概念の創出・駆使には弁証法を必要とする」なんてのを見つけました。
ここの南郷さんの「止める」というのは余り強く拘らないほうが良いように思います。というのも南郷さんは処女作の『武道の理論』の後書きを読んでも分かるように執筆活動を始めた30代のころからエンゲルスが『反デューリング論』に書いている「運動=弁証法的、静止=形而上学的」との思考フレームを氏のイワユル「技化」というか習慣化されていますから、ニュートンが考えたような機械論的世界観は例え力学的に動いていても同じことの繰り返し、循環、反復だという理由で「運動していない、静止している」と判断されるわけですよ。
常識的には「静止といったって動いているではないか!」思われる事柄でも、運動に対立する静止とされてしまうのがマルクス主義です。だから南郷さんの武道論では乱取りだとか自由組手は運動で、型稽古は静止だと呼ばれます。
しかし、そうした大きなカテゴリーからの思考に待ったをかけるのが海保静子の育児の認識論だったのだと私は理解していましたが。海保の五感情像による「認識」の原点は他の誰でもない「お母さん」という個人の識別であって、それはDNA鑑定のように特定個人を識別できるものですから、大雑把な概念形成なんかとは違うのだと理解してましたけどね。
結さんへ
コメントはとても、喜ばしいのですが…
折角コメントを書いてもらえるなら、
私の記述を確りお読み頂いてのモノで
あって欲しかったですね…残念…
以下の記述が間違っている部分です。
>自由びとさんが書いている「考えるとは像を止めること」という南郷さんの文言に興味をもってお調べしたのですが見当たりませんでした。確か『学城』のどこかで書いていたのを見た気もしますが。
↑~
見当たらないのは当然ですよ。
これはお宅の読み間違いです。
ここで私が書いたのは以下です。
<師範言葉に、「考えるとは、止めた像を動かす事」がある。>
こんなにも明確に書かれている
「考える」記述さえ正確に読めていないお宅が
南郷氏の著書・記述を正しく読めているとは、
全く思えません!ね
「考えるとは像を止めること」ではなく、
「考えるとは、止めた像を動かす事」であり、
より正確には、
「考えるとは、思う事によって止めた像を、
思い通りに自在に動かす事」です。
不思議な事に
こんな、お宅の間違いコメントでも、
使い方によって役立てられますね。
0コメントは、幾つあって0です。
でも、間違い・負コメントなら、
マイナスを掛けて反対運動を起こせば、
立派に役立つコメントになり得ますね♪♪♪
ついでに…以下の事も正しくないですね!
>常識的には「静止といったって動いているではないか!」思われる事柄でも、運動に対立する静止とされてしまうのがマルクス主義です。だから南郷さんの武道論では乱取りだとか自由組手は運動で、型稽古は静止だと呼ばれます。
「常識的に…」正しいと思えなくても、
「弁証法的に」は正しいモノなのです。
これは、「運動・静止」概念の
常識的理解・把握と弁証法的把握・理解の相違ですね。
常識・知識的な世界で満足しているお宅には、
世界の弁証法的把握・理解なんて
思いもしないモノなのでしょうね。
私は自由びとさんの役に立とうと思って思考を重ねてきたわけでも無く、高校生の時に読んだ南郷さんの本の不可思議な記述の謎を解き明かしたいという自分自身の欲求に任せて考えていただけですから、もしもそれが会ったことも無い見知らぬ誰かの役に立つものならば、それなりに嬉しいものですよ。
自由びとさんの「常識、非常識」という独り言は私にとってどうでもいい記号の羅列でしかありませんから先に進みますと、既に述べたように私は南郷さんの「乱取り、自由組手=運動、型=静止」という発言がどうにも理解できなかったのです。いえね、確かに空手などやってれば自由組手と型とは対比的に考えられる対照的なものだとは解るんです。ですが、それがどうして「運動と静止」なのか?
それで南郷さんが私淑したという三浦つとむの種本といっていいエンゲルスの『反デューリング論』に既述したように「弁証法的と形而上学的」ということで「運動と静止」と書かれているようなんですが、エンゲルスもレーニンもヘーゲルの『哲学史』を凄く勉強したらしく、そのヘーゲルが古代ギリシャ哲学を重視したみたいなんですね。
で、古代ギリシャのゼノンの詭弁が正に「運動と静止」の「矛盾」を扱っていたわけなんです。ゼノンの詭弁が「運動と静止」を扱っているのは私なんぞでも理解できるわけですよ。ゼノンの詭弁でいう「運動」というのは「3次元空間で位置を変えること」ですし「静止」というのは「3次元空間で位置が変わらないこと」なわけですから。それで、ゼノンが出した答えが「矛盾している」ことも私なんぞでも理解できるわけです。
ヘーゲルに学んでエンゲルスもレーニンもギリシャ哲学を学んだみたいなんですが、ゼノンが空間の位置を変えることを話題に矛盾を考えたその具体的な内実を捨象して「矛盾とは全て運動と静止の対立なのであり、弁証法とは運動の一般的な科学なのである」なんて解答を導くのも、正直、すんなり納得は出来ないわけなんですよね。
現代社の薄井坦子さんと瀬江千史さんの生理学か何かの本で司会の編集者が「その「運動」というのがどうにも解らない」と言ってたのと同様に、私もそうなんです。
よく「虹のスペクトルが何色に見えるかは民族だとか個人によって違います」なんて言って24色に見える人もいれば7色に見える人もいて、中には「濃・淡」の2色にしか見えない珍しい人もいるでしょうから、何でも「運動と静止」の2つに収斂させてしまう南郷さんのような二分法というか二項対立の思考の人は光のスペクトルが濃淡というか陰陽というか、そういう頭の構造になってる人なんでしょうね。だって、私には乱取りが運動で型が静止なんて解らないわけなんですから。
自由びとさんが言っている「考えるとは止めた像を動かすこと」というのも私には理解できなくてね、まあ自由びとさんからしたならそれ以上の説明も解説も不要な明解で自明な発言らしいですが…。私が何かを頭に浮かべるとき、そしてその頭の中の映像に言葉を結びつけるとき、その映像は動いていて静止してはいませんからね。例えば空手の「正拳突き」だとか「前蹴り」だとか定まった名前のついているものを思い浮かべると構えた姿勢から片足の膝を曲げたまま上げて、その膝を開いていく一連の動作が頭に浮かんだ状態で「前蹴り」とか考えますから「像(ぞう)」は止まってませんよね。思考するとこ、考えること、反映することを止(や)めるのではなく「像(ぞう)」を止(と)めるって一枚の写真のような静止画にすることでしょうから、そんな思考の仕方って滅多にしていないでしょう。
相変わらず、お宅は私のコメントを誤解していますね。
私は、
何事も何の努力もせずに役に立つのではなく、
己の努力の結果、役立たせるモノ、
と考えています。
だから、お宅が私の記述を「何の役にも立たない」モノとい言い切るなら、
それは、お宅に役立たせる能力が不足している、という事なのでしょう。
そんなな能力不足だから、以下のようになる、のです。
>私は南郷さんの「乱取り、自由組手=運動、型=静止」という発言がどうにも理解できなかったのです。<
↑
このお宅の記述は、
私には、『お宅が自分は能力不足だ!』と
大声で誇るように叫んでいるアホ者のように
思えてしまう、のです。
>自由びとさんの「常識、非常識」という独り言は私にとってどうでもいい記号の羅列でしかありません
↑~
これも間違いです。
私は今回のコメントには、「非常識」とは書いていません。
本当にお宅は、確り私の記述を読まず、
いい加減な自分勝手な記述の書きまくりですね。
私の記述は以下です!
↓↓↓↓↓
「常識的に…」正しいと思えなくても、
「弁証法的に」は正しいモノなのです。
これは、「運動・静止」概念の
常識的理解・把握と弁証法的把握・理解の相違ですね。
常識・知識的な世界で満足しているお宅には、
世界の弁証法的把握・理解なんて
思いもしないモノなのでしょうね。
↑↑↑↑↑
結お宅よ!
他人のブログに長文書コメントを書き込むなら、
その記事の文字を確り読み取ってからにして頂きたい!
もっとも、どうしようも無いというのは私にとっての価値ですから、この世の中のどこかには自由びとさんを必要として役に立たせられる人間がいないとは言えませんけどね。
人間が自分にとって役に立つものと役に立たないものとを選別して関係づけるなんてことは企業の人事や個個人の生き方をみても常識的に理解できるものですよ。
ま、自由びとさんに隠された某かの能力があったとしても、代わりはいくらでもいますから不要な人間と無理に関わり合う必要目無いでしょう。
非常識という言葉を使っていなくとも「常識的には~でも、弁証法的には…」という記載に現された思考構成が「弁証法的というのは常識的では無いのだ」という意味を表しているのは小学生の国語の読解指導なんかを見ても理解できる論理でしかありませんよ。
そもそもが小学生の学校教育に関わっている人間ならば、学校という公的なところで国家的に共通したものとして教えられていることが「常識」となっていくわけですから、「常識」というものを重視するのは当然に理解できるはずのものですよ。でなければ、自分がお金をもらってやっている仕事に誇りなどもてるはずがありませんからね。
ま、書いてる支離滅裂な内容からいって実際に小学生の、それも障害児の教育指導に携わっている人間だとは信じていませんけどね。
私がやりたかったのは「像を止(と)める」という、ほとんど何も言ってないに等しいことから想起するのは、録画された映像の一時停止ボタンを押して画像を静止させるようなことであって、まちがっても「思考を中断する」のような録画の映像を「消す」ことでもなければ、「別のことを考える」のような「映像が全然ちがうものに移行する」ことでもないな、ということをアウトプットしたかった、ということですよね。
つまりは、自由びとさんのコメントは私にとって何の役にも立たないものですけど、このブログの掲示板は私の考えを一時的にでもアウトプットするのに役に立つ人工的なノートみたいなものだ、ということですよね。
だからエンゲルスや三浦つとむの系列にある人間が「運動、静止」だとか言っていたら「動かす→運動→弁証法→矛盾→あれもこれも→二重」といったふうに南郷さんが「あらゆる物事を二重に考えろ」なんて言ってるのは「弁証法的にしろ、動かせ、運動させろ」ということか、なんて連想が働いたっておかしくないでしょうけれど、著書でしか南郷さんのことを知らない私よりも南郷さんの考えを熟知しているはずの何十年もの直門の自由びとさんの「考えるとは止めた像を動かす」の解釈・理解は本記事に書かれたとおりのものですよね。
エンゲルスの『反デューリング論』からの「弁証法的=運動、形而上学的=静止」という知識があらかじめ頭にあれば、「運動を止める」というのはイワユル形而上学的にする、絶対的なこととして規定する=一重化して規定することかと想像したって構わないはずですし、「止めたモノを動かす」というのは絶対的なことだと規定したことを別の事柄との二重化を図って「1+1は2にならない」「いつもそうとは限りませんよ」(三浦つとむ)と考えることかと想像するのも自由でしょう。
どちらが阿呆か馬鹿かと罵声を浴びせてナジリ合うよりも、実際に発言している中身が自ずから知性の水準を語らしめるほうが気品を感じるものだと感じる次第ですが。
世に隠れて研鑽しているのでは?と南郷さんの団体に本格派の魅力を感じた読者も少なくなかったであろう1980年代が遠く過ぎ去って、「自由びと」なる匿名の南郷さんの弟子を声高に吼えるお宅の書いてる内実には残念過ぎるくらいのゴミ屑を感じている私の心情はお宅には感じ取れないでしょうねえ。
全く分かっていない結お宅!
捉え方が非弁証法的なのに…
その己の理解力が全く分かっていない。
それなのに、それを自由びとの記述のせいにしている事も分かっていない。
そもそも…私とお宅の言葉・「役立つ」という言葉の概念が違っている。
そんな事も分からず相変わらずの以下の記述~
>笑、相変わらず、ああ言えばこう言うのどうしようも無い思考ですね。
…なんて…
「どうしようも無い」のは、私の思考ではなく、
お宅の「言葉の理解能力」の方なのに…
それなのに「笑、」なんて書ける精神が
私からみれば「哀。」なのです。
例えば、「道端の石ころ」なんて普通・殆どの人にとって役立たないモノ。
しかし、ある子供は、『この石、水切りにいいぞ』と思い川に投げる。
または、野球ボールのように遠くへ投げる…
この時、この子は、「道端の石ころ」を十分役立てている。
お宅のように
>「役に立つものと役に立たないものとを選別して関係づける<
という事は、
初めから「役立つもの」と「役立たないもの」があるという事になり、
そこには、「廃品利用」とか「リサイクル」なんて、ないでしょう。
常識・非常識にしても、
「土足で畳みに上がる」日本人なら「非常識!」と言えても、
同じ事を外人がした時、「お前は非常識!」と言えますか?
言葉の意味は辞書に書かれていても、
現実の言葉は、それを発した人物の個性が混じるモノなのです。
だから、その言葉は、その人の個性に合わせて理解・把握・解釈できて、
初めて「その人の言葉が分かった!」なのです。
なのに、お宅は私の言葉・記述をお宅の個性に合わせて解釈しているから、
だから、私から「お宅は全く分かっていない!能力不足!」
なんて書かれるのです。
そもそも初めから、
私が「師範言葉に、「考えるとは、止めた像を動かす事」がある。」書いているのに、
お宅は、>自由びとさんが書いている「考えるとは像を止めること」
なんて書いておいて、今更言い訳はしても説得力ないね。
改めて読み直したら、以下の結お宅コメント、
なかなか面白いので、書く事にした。
~~~~~
結(コメント)
・コメント
笑、相変わらず、ああ言えばこう言うのどうしようも無い思考ですね。
もっとも、どうしようも無いというのは私にとっての価値ですから、この世の中のどこかには自由びとさんを必要として役に立たせられる人間がいないとは言えませんけどね。
~~~~~
↑
私コメント
「ああ言えばこう言う」のは、
結お宅の記述が、私の書きたい事を捉えていない、と思えるから…
敢えて、結お宅とは、真逆な視点から書いている、だけ…
それを「どうしようも無い思考」と言うのなら、
そこまで私に書かせているお宅も「どうしようもない」モノですね、
~~~~~
結(コメント)
人間が自分にとって役に立つものと役に立たないものとを選別して関係づけるなんてことは企業の人事や個個人の生き方をみても常識的に理解できるものですよ。
~~~~~
私コメント
例えば、自動車を組み立てようとしたなら、
ただの鉄は全く役立たない。
でも、自動車部品の製造なら、ただの鉄も材料として役立つ。
上記の「常識的理解」が、どのレベルなのか?
部品として「役立たない」が、原材料としてなら「役立つ」モノ、
と考えるのか、
それとも、「部品でないから全く役立たない」なのか…
そもそも私が「役立つ」に拘っているのは、
結お宅が、このブログが「役立たない」書き切ったから…
仮に、そうであるなら、何故にここにコメントしている。
それは道理が通らない!
普通に考えて、自分にとって「役立たないモノ」は、認識されないモノ。
それなのに、このブログを見た・読んだ…だけてなく、
コメントまで書き込んだという事は、少なくとも
「コメントを書く事に役立っている」という事。
また、結お宅の思考発展に役立っていないなら、
それは、このブログを「役立てられるように捉えてない」・「捉えられない」と言える。
それが、部品と原料、役立つ・役立たないという事例なのです。
~~~~~
結(コメント)
ま、自由びとさんに隠された某かの能力があったとしても、代わりはいくらでもいますから不要な人間と無理に関わり合う必要目無いでしょう。
非常識という言葉を使っていなくとも「常識的には~でも、弁証法的には…」という記載に現された思考構成が「弁証法的というのは常識的では無いのだ」という意味を表しているのは小学生の国語の読解指導なんかを見ても理解できる論理でしかありませんよ。
~~~~~
私コメント
私の思考と違っている。
常識的に正しくなくても、
弁証法的に正しい、
お宅的に、言い換えるなら、
常識的に正しくなくても、
非常識的には正しい、
「非常識的に正しい」とは変です。
更に、「弁証法的=非常識」なのですか?
ならば、弁証法をもって考え人々は、
全て非常識の人々…と言えるの?
違った角度から説くなら、
常識的とは、いわば常識・知識の言葉通りの使い方、
弁証法的とは、いわば常識・知識の臨機応変の使い方。
だから絶対的に、ここで「非常識」言葉の使用は、
私の記述を正しい理解していない。
馬鹿ね!⇒「…小学生の国語の読解指導…」なんて~
小学生ではない、お宅だから、使った論理なのに…
お宅って、小学生レベルの論理でないと理解不能なの…
もっとも…小学生なら、お宅より柔軟な思考するから、
常識的…弁証法的…を間違っても
常識⇔非常識にはしないでしょうが…
~~~~~
結(コメント)
そもそもが小学生の学校教育に関わっている人間ならば、学校という公的なところで国家的に共通したものとして教えられていることが「常識」となっていくわけですから、「常識」というものを重視するのは当然に理解できるはずのものですよ。でなければ、自分がお金をもらってやっている仕事に誇りなどもてるはずがありませんからね。
~~~~~
私コメント
「…「常識」というものを重視するのは当然…」
当然ですよ!
だから、常識的に正しくなくても、
弁証法的に正しい場面・状況に出会った時、
常識的に行動するか、
弁証法的に行動するかの選択に迫られるのでしょう。
例えば、帰宅して空き巣に出くわした時、
常識に従って靴を脱いで畳に上がって空き巣を捕まえるか、
素早く捕まえる為(=弁証法的)に土足で上がるか…選択です。
常識的とは、平常時の知識的行動であり、
弁証法的とは、非常時の知恵的対応なのです。
お宅には、ここまでの思考活動は無理でしょう。
~~~~~
結(コメント
ま、書いてる支離滅裂な内容からいって実際に小学生の、それも障害児の教育指導に携わっている人間だとは信じていませんけどね。
~~~~~
私コメント
「支離滅裂な内容」に思えるのは、
お宅が、私の記述を論理的に理解できてないから!
結(コメント)
私がやりたかったのは「像を止(と)める」という、ほとんど何も言ってないに等しいことから想起するのは、録画された映像の一時停止ボタンを押して画像を静止させるようなことであって、まちがっても「思考を中断する」のような録画の映像を「消す」ことでもなければ、「別のことを考える」のような「映像が全然ちがうものに移行する」ことでもないな、ということをアウトプットしたかった、ということですよね。
つまりは、自由びとさんのコメントは私にとって何の役にも立たないものですけど、このブログの掲示板は私の考えを一時的にでもアウトプットするのに役に立つ人工的なノートみたいなものだ、ということですよね。
~~~~~
私コメント
「このブログの掲示板」って、何を指しているの?
もしかして…記事の表題から内容を連想しているの?
まあ~どうでもよいのですが…
「像を止める」とは、正確には師範の言葉「思うとは像を止める」であるから、
「止める」を考えるには、「思う」という認識活動を想起する。
でも、直接「思う」という認識活動の想起ではなく、
例えば、「昨日の夕飯」を思う・思い出す、とします。
この時、一瞬で「昨日の夕食」が思い浮かぶ人には、
「思い出す・思う」という認識活動は見て取れません。
しかし、なかなか思い出せない人は、色々と昨日の出来事を思い出そうとします。
夕飯は何時ごろ?誰と一緒?どこで?昼間は外出?……
「昨日の事を思い出す」という事は、
昨日・夕飯に関する認識活動に限定されます。
何故なら、そうしないなら、
「昨日の夕飯」は思い出せないからです。
このように、ある事を思う・思い出そうとする時、
認識活動は、その事に関する範囲に限定されます。
この認識活動の範囲の限定・制限を、
私は「像を止める」と理解・解釈います。
その認識活動=像の展開過程は、制限なく自由は楽ですが…
上記のような範囲限定・制限活動には、意志の働きが必要です。
~~~~~
結(コメント)
だからエンゲルスや三浦つとむの系列にある人間が「運動、静止」だとか言っていたら「動かす→運動→弁証法→矛盾→あれもこれも→二重」といったふうに南郷さんが「あらゆる物事を二重に考えろ」なんて言ってるのは「弁証法的にしろ、動かせ、運動させろ」ということか、なんて連想が働いたっておかしくないでしょうけれど、著書でしか南郷さんのことを知らない私よりも南郷さんの考えを熟知しているはずの何十年もの直門の自由びとさんの「考えるとは止めた像を動かす」の解釈・理解は本記事に書かれたとおりのものですよね。
エンゲルスの『反デューリング論』からの「弁証法的=運動、形而上学的=静止」という知識があらかじめ頭にあれば、「運動を止める」というのはイワユル形而上学的にする、絶対的なこととして規定する=一重化して規定することかと想像したって構わないはずですし、「止めたモノを動かす」というのは絶対的なことだと規定したことを別の事柄との二重化を図って「1+1は2にならない」「いつもそうとは限りませんよ」(三浦つとむ)と考えることかと想像するのも自由でしょう。
どちらが阿呆か馬鹿かと罵声を浴びせてナジリ合うよりも、実際に発言している中身が自ずから知性の水準を語らしめるほうが気品を感じるものだと感じる次第ですが。
世に隠れて研鑽しているのでは?と南郷さんの団体に本格派の魅力を感じた読者も少なくなかったであろう1980年代が遠く過ぎ去って、「自由びと」なる匿名の南郷さんの弟子を声高に吼えるお宅の書いてる内実には残念過ぎるくらいのゴミ屑を感じている私の心情はお宅には感じ取れないでしょうねえ。
~~~~~
私コメント
書物には色々と書かれていますが…
それらの言葉から考えるのも必要ですが…
可能な限り自己の経験・体験・事実から考える事が重要です。
「弁証法的=運動、形而上学的=静止」という知識があらかじめ頭にあれば」…
これがあっても、
自分の認識している「弁証法的」と、この書物のと同じ?
自分り認識している「而上学的」とは同じ?
また、この「運動」は?この静止は?
その一つ一つの確認が不可欠なのに…
言葉があるのではなく、
ある物事を言葉で表現しているのだから、
その元になる「物事」を識る・創像するが不可欠。
その物事を識り創像できた時、
必ずしも書物と同じ言葉になるとは限らない…
という事なのです。
>実際に発言している中身が自ずから知性の水準を語らしめるほうが気品を感じるものだと感じる次第ですが。
↑~
私が、「考えるとは、止めた像を動かす事」と書いているのに。
それを「考えるとは、像を止めること」と読み取っているお宅に…
私の実際の発言ではない中身を、
私の発言の中身と認識している
お宅の「感じる気品」とは、
それはお宅自身の気品なのでしょうね!
きっと、それは「下品」でしょう。
コロナ騒ぎでイベントが常にzoomになってますから、昨日は30歳の若き学者のタマゴさん(女性ですがね)の講演にコメントして、今日は70代の学者さんの講演に参加して、2日続けて心が通い合う素敵な経験がありましたが、お宅のコメントを読むとガッカリした気分に引き戻されますね(嘆息)。
お宅は直門ですから南郷さんの文章は誤りの無い真理が書かれていて自分は自分の生きた経験からそれに具体性をもたせるのだと考えるのは構わないんですよ。ですが、私のような他派の者にもそうすべきだと強要するのは考え直したほうが宜しいですよ。
私の経験からいって「思うとは止めた像を動かす」なんてことはしませんし、一旦は止めた像を動かすのが思うことだなんてバカでも解るように単なる詩☆ポエムかなんかでしょう。誰々の詩集なんてのを本屋で開けば、似たような言語表現はいくらでもありますね。
ま、詩の解釈なんて個々人で自由ですけど、思考の範囲が狭くなることを「像を止める」だなんて感性的に言葉を紡ぎ出す詩人や文学者でもなければ書かないでしょう。老人介護の看護師さんなんかに聞いてみれば宜しいですが、自分よりも何十年も長く生きている人が書いてることを自分と同じ時代を同じように生きた人だと時代が永遠に変わらないかのように先入観をもつべきじゃありませんね。
止めた像を動かすのが「思う」なら、止める前は既に思っていたのでしょうし、止めてた間だけ「思う」じゃない頭の働きしてて、再び動かしたらまた「思う」になったという、私なんぞにはワケ分かりませんやな。
とりあえずお宅に私を諭すというか指導するような能力はありませんからバカのくせに虚勢を張って指図するのはお止しなさいな。「書くことは考えること」というのは自分が書いた文章を自分で再吟味して、他人に誤解されるような書き方してないか?とか、もっと良い表現を選べないかな?と反省しながら自分で自分を向上させることですよ。
お宅のは「(自分が)書くことで(他人に)考えさせる」になってますから、もっと自分を知るべきでしょうね。