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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

真剣な冗談の応酬・禅問答

2023-04-01 17:32:10 | ~認識~
真剣な冗談の応酬・禅問答


前日、知人と深大寺に山門前、鬼太郎茶屋前で待ち合わせした。

山門近くの茶屋で
私「おに太郎茶屋はどこですか?」と聞いたら…
茶屋員「すぐそこです!…「でも…太郎ですがね…」…
私「ワ♪ ハ♪ ハ♪」と大笑い🎵
茶屋員「まあ~どうでもいいですがね…」
私、あらためて大笑い🎵



私は、「墓場の鬼太郎」も「ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎も…」昔、好きでよく読んでいたり…
何故、「鬼太郎」ではなく、「おに太郎」だったのか?
また、何でその茶屋が「鬼太郎」なのか?

後で知ったのは、山門近くに、写真が貼ってあった。
それはNHKドラマ「ゲ・ゲ・ゲの女房」の深大寺近くでとれたワンカットシーンだった。

そして今日、近くのスーパーで「梅酒の梅・おたべ梅」を買ったら、いつもの機械音「年齢確認商品です」が聞こえた。

何を思ったか?・(分からないが)
なんと私は過去に一度も発したことないレジ店員への言葉かけ~

私 「年齢確認しないの?」言う
レジ店員<仏頂面にこちらを見もしない無言>
私 <笑顔で>「冗談です♪♪♪」言う
レジ店員<相変わらずの仏頂面で>「1258円です。
私 <普通の顔に戻して>「え…と千二百何円?」
レジ店員<仏頂面で>「58円」
私 「どうも…」

深大寺の「私と茶屋員」と「私とレジ店員」での…
区別と連関をどう考えますか?

茶屋店員に冗談ではない事実を指摘された私は、間違えた自分に大笑い。

この時、私がレジ店員の立場なら~

私のような客 「レジ確認しないの?」
レジ店員の私 「お客様の顔で確認しました!
私のような客 「俺って心は未成年なのに…」
レジ店員の私 「今、心を確認しましたが…」「親への贈り物のようなのでOKです」
私のような客「……よかった!分かっていただけて…」


さてさて…雲海君、君に私が伝えたい事がわかるかね?
以下こそ…相手と「コミニケション」しない姿で~

私 「年齢確認しないの?」言う
レジ店員<仏頂面にこちらを見もしない無言>
私 <笑顔で>「冗談です♪♪♪」言う
レジ店員<相変わらずの仏頂面で>「1258円です。
私 <普通の顔に戻して>「え…と千二百何円?」
レジ店員<仏頂面で>「58円」
私 「どうも…」


これが、冗談の応酬なのです。
もっとも…現実にレジ員と客の間で以下のような冗談の応酬はありえない…
とってみれば、禅問答的試合であり、相手を「無言」にした勝ちである。

従って、
雲海お宅が、生きてここの記事・コメントを読んで、コメントを寄越さなくなれば「私の勝ち」。
お宅orの私の更新停止・「死」なら…ノーゲーム。
私が、お宅へコメントを書かなくなれば「私の負け」。

勝負は、永遠なる「互いに滅ぼし合い続ける対立物の統一」ですかね。


私は、家内から「冗談が分からない…」と言われていました。
付き合い初めは…なかったのですが…
結婚して家内が、傍から見て冗談に思える「私への言葉に、私は不快になり怒っていました。
その内、気付いたら家内は、私には全く冗談を言わなくなっていました。


悲しい…冗談が分からない「過去の私」…。
家内の生前に「今のような冗談が分かる私になっていたかった…のに…」





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主観と客観の話

2023-03-28 08:35:06 | ~認識~
主観と客観の話

「主観」とは、自分の観念。
「客観」とは、他人の観念。

「主観と客観の話」は、観念の話。
観念は認識だから認識の話。

「主観と客観の話」は認識に関わる話」。

自分の主観を自分の主観から話すのは無理。
そこで、主観を客観的に語ろう。

今ここで、「主観を主人の観念」・「客観を客人の観念」と「概念規定」する。
この概念規定とは、私の主観の中で同様な概念とする。

「規定とは、物事の仕方や手続き、また概念などを、それに基づいて行為や議論ができるように、はっきり定めること。またそのさだめ。」

何故なら、「主人と客人」の話なら、私の主観では、客観的な「主人と客人の話」だから…

さて、上記の私の主観的な考え方の内容に了解し得た訪問者・客人・読者は続きをどうぞ!
納得でき難い読者は、どうぞ退席下さい!

さて、納得できた読者なら、「主観と客観の話」と「主人と客人の話」という「対立物の統一」が可能であろう。

なので、ここからは、
「主観と客観の話」を「主人と客人の話」に置き換えた「弁証法を用いた話」例え話。


客人とは、他人の家に訪問した人間の事。
主人とは、その家の主・所帯主。

家とは、人間・家族・ペット…の生活・空間。
その家が持ち家or借家は、全く無関係。

また、肉親・家族は、主人ではないが客人でもない。
主人が世帯主、その家の家族・親族は「同一世帯」者で客人ではない。

ブログへの訪問者とブログ主の関係は「客人と主人」。
私は、ブログ・仮想空間・非現実的・観念的空間…内で存在・生活不能。
でも、自由びと的認識は、生活・活動可能。
だから、ここでの私は自由びと的存在である。

「自由びと⇒私の認識」、
自由びと的な認識=ここに書かれている言葉・記述・認識…
私の主観にとっては、「自由びと」という客観…と考えられる。
こう考えるなら、主観は頭脳の中の認識。言葉・記述…は客観(主観の客観的表現)

言葉・言語…=主観であっても、主観≠言語・言葉…
人は、自分の主観を、全てを言葉・言語で表現する事不能。
主観を語る時、態度・表情・動作…その身体の全てが、その人の主観の表現になり得る。
もっとも…無感情・無言・不動…あえて主観の表現になり得る…

自宅で、親族・家族同士の喧嘩・殴り合いはあり得る。
しかし、客人との殴り合い・喧嘩は、よほど親しい友達・親友…出ない限りあり得ない。
従って、他人の家で、暴言・乱暴…する者は、そく追放or110番となり得る。

それでも、自宅で、友人・客人…の議論・討論…最中の過激な感情的表現はあり得る。
それらを、認める・認めないは、主人・世帯主・ブログ主の認識・主観が決定するモノ。

ここまでの言葉・記述・内容が理解でき信じられる客人なら分かる~
このブログ内での、雲海お宅の数々言説・記述…の何が、社会的に問題であるか…理解可能であろう。

私が、雲海お宅の言葉・記述・コメントを拒否しないのは~
私にとって、主観の暗黒面を客観的に観る事ができるから…
まあ…雲海お宅へコメントへの不満…は多々あるが…
彼の主観的コメントを、自由びとが受け入れ、私の主観に取り言えられる事は、私の主観が少し客観性を帯びた…と言う事になり得る。

それは、私の暗黒面・闇に他人の闇が追加…
と同時に他人の光輝面も追加…可能であろう。

長々書いたが、結論的には、
主人が客人の振る舞いを許し・認めてなら、その家では客人にとって過ごしやすい家となり、多くの人達が訪問してくる明るい・暗い・面白い・悲しい・苦しい・愉快…とても広く・豊かな・賑やかな家となり得よう。


それでも、主も認められない非社会的な客人…
最低限のマナーの心得のない客人…
主人が許しても、客人としては絶対にやってはいけない事をやる客人…
それは、自分の「客人としての立場」が分からない馬鹿。
客人なのに、主人を止められる客人。

「常識外れ」と「常識を超えた」の違い…
「はずれ」とは、「当たりに対して外れ」、「当たり」たいのに「外れた」。

私は彼の「常識外れ」を「非常識=常識外れ」と認識しようとしている・

「常識外れは」、無意識。
「常識を超え」は、意識的(良い・悪いに関係なく)

私に向けられて「悪意」を、彼の中の悪意・暗黒面…として…
「私事」ではなく、「他人事」と捉えている。


彼の悪意・他人の認識を識る事で、自分の中の暗黒面を識り、それを他人にみせない努力をする事。
これが、できた時、
客人の暴言・悪意・暗黒面・賞賛・善意・光輝面…を私のモノ・主観にする…

この時、主観は客観性を帯びた主観となり得る。
弁証法的に、言い得返るから~
対象との、「滅ぼし合う対立物の統一」過程で、
己の主観が客観性を帯びの事が可能であり、
多くの対象との「対立物の統一」が続けられれば、
己の中の古い客観性が、外からの新たな客観性と「相互浸透」を起こし、
更には「量質転化」化をして、「旧主観」とは「新主観」へ止揚されえる…

どうですか?如何でしたか?

以上が、現在の私の主観で書く・表現する語る事が可能な
現時点での「認識を弁証法的に考える」、「認識論を弁証法的に考える」道程・過程」でした。














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私は、何故に、「アキレスと亀」を考え続けるか?

2023-03-25 08:06:58 | ~認識~
私は、何故に、「アキレスと亀」を考え続けるか?


「アキレスと亀」は、「ゼノンのパラドックス」とか「ゼノンの詭弁」とか言われ続けいたモノ。
それを南郷師範は、「絶対矛盾」と言い切っている。

そこで、私は考えた「何と何の絶対矛盾なのか?」

現実界では、足の速い者は遅い者に追いつけるのに…
「アキレスと亀」の競争で追いつけない事。
現実で正しい事が「アキレスと亀」の世界では正しくない。
同じ事が、正しくて、正しくない…矛盾?

ゼノンの真意は詭弁でないのに、「詭弁」と捉えている矛盾?
ゼノンの真意はパラドックスではないのに、パラドックス…?

ゼノンが「アキレスと亀」で伝えない認識を誤解しているのに…理解していると思っている事?

アキレスは亀に追いつけると確信している認識…?

ここで再度、「アキレスと亀」でのゼノンの思考法を振り返るなら、

初めに、アキレスは100m先の亀の位置を目標に、その完全一致を目指した。
次に、アキレス到達時の少し先の亀の位置を目標に、その完全一致を目指した。

普通の競争で目指すのは、前のライバルの位置ではなく、目標であるゴール。
また相手を捕獲する時には、相手のいる位置を目目指す。
でも、その時には捕獲する瞬間には減速の必要がある。

確か、師範は、「ゼノンのように考えるなら」アキレスは亀に追いつけない(追い越せない・到達できない)…と書いていた。

現実の競争では速い者が遅い者の横・上・下を通過する事ありえるが、
遅い者が走っている、その者の身体・空間を通過して追い越す事は不可能。
もっとも…幽霊なら身体を通過するが…

もっとも…自然界には、人間・物質・原子を通過する素粒子がある、そうですが…

ゼノンの真意は、その表現である「アキレスと亀」は、相対的独立関係。
ゼノンの真意は認識、「アキレスと亀」は言葉。


確か…どこかに、ゼノンは「運動はある」を「運動はない」と否定の為に…?

初めは一つ、そこから今の万物?
万物は、初めから万物?


一つのモノの変化・運動から今の万物?
万物が運動・変化して今の万物?



結論的に書くなら、「アキレスと亀」から、ゼノンの真意を正しく知り理解したいなら、この記述を書いた当時のゼノンを知らねばならない。
当時のゼノンの立場、ゼノンの人柄、ゼノンの生い立ち…知り得る全ての情報が、己の中に「ゼノンの概念」の創像が必要である。
「ゼノンの概念とは、ゼノンという人物の「概略的観念」・アバウト像と言えよう。

そう「概念」とは、外界の対象を人間が概略的観念として認識したモノ。
概念⇒観念⇒⇒認識⇒人間の頭脳内…

例えば「イヌの概念」は、現実のイヌのにない、人がイヌと関わる事で、その人の頭脳内に創像する・創像し続けるモノ。

人が、セノンを知らず・ゼノンの真意を知らずに、「アキレスと亀」を否定続ける姿が、「絶対矛盾」?
人が、己の認識している対象の概念が、現実との対象と「完全に一致」とする判断・認識が「絶対矛盾」?
人が、どんなに頑張っても、人間の認識が対象と完全一致する事はない。

異なった二つ以上の運動体が、同一空間で同時に一致する事は不可能。
これを「一致する」と考える事は可能である。
このような「自分の考え・認識は、現実と完全一致する」と考える・認識する事が「絶対矛盾」。

ここで、「考えるには以下のような「二重性」がある。

それぞれの言葉の知識・意味を使って考える⇒
⇒「言葉・知識で考える」

それぞれの言葉の意味を知り・理解して、その言葉の対象と関わって創像した言葉の概念を使って考える⇒
⇒対象認識・概の像で考える

対象を概念・認識像で考えても…
その考え・認識像とその運動体である現実の対象との、完全一致はあり得ない「絶対矛盾」。

従って、「アキレスと亀」は、ゼノンのように考える限り、アキレスは永遠にカメを追いつけない…という結論である。


そうそう今、突然想起した事がある。
それは、昔々聞いた以下のようなクイズである。

「止まっている時計」と「一分進んでいる時計」とでは、どちらが「正確」。
答えは、「止まっている時計」。

理由は、必ず一日に、二回(午前・午後)は、ピッタリな時刻を示しているから…
時刻とは、一日の中の今を知りたいモノである。
しかし、止まっている時計の針の時刻が、現実の変化・時刻と一致しているかどうか、他の時計を持たない人間には判断不能である。


時計の針の時刻を人間の認識とするなら、
殆ど変化・運動しない頑固な認識でも、変化・運動している現実と一致する瞬間はある。
止まっている認識・観念を、変化・運動している現実が通過する瞬間である。


では、現実と完全一致のない認識は、どうすれば、よいか?
それは、一分・(一秒ベスト)進んでいる時計の針のようになれればよい。
一分・一秒進んでいる時計から、一分・一秒後の現実を振り返って、現実・時の一致を確認しながら前に進める。
その時、針が合わねば、時計を修正すればよい。

そして、時計は、人に「一分・一秒進んだ時計」と知らせ続ける。
もっとも…現代の音波時計は、自動的に時刻修正をし続けているので…


人間の認識なら、先を読み続けながら過去を振り返る。
前に進みながら、反省を繰り返す。
目標・夢を設定しながら、反省を続ける。

反省とは、自分の目標・目的・夢の実現・達成に対する反省。

過去を振り返るのがマズイのではなく、
未来を見続けないで、過去だけを見るのがマズイ。

年寄・老人が、マズイのは近づく自己の肉体の死・人生の終わりを見続けるから…
そのてん…宗教は、死後の世界をみる事ができる。
天国の存在を信じ、目指して頑張れるのは、目標・目的・夢になり得る。
これなら、老い先短い老人でも前を見続けられる。



老い先短い今の俺の前にあるのは、「悟りの世界」~
知る⇒識る⇒悟る。
悟った内容・概念が、その人の「悟り」。

「悟る」は、皆が共通な運動・変化であっても、悟りの中身・概念は、人それぞれ…

その人の発した言葉、その人の認識は、その人のもの。
でも…言葉・認識は、社会のモノ。

言葉・認識というも文字の意味・内容・概念は社会的人々のモノ。
でも、その人の発した言葉・内容・概念は、その人だけのモノ。

この二つは、相対的独立関係にある。
言葉の二重性とは、社会的かつ個人的。

自分の言葉が、正しいと信じるなら「絶対矛盾」
言葉の意味は、時・状況・場合によって変化する。
また、同じ言葉をでも、人よって異なって理解している場合もある…


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借地権の不思議…

2023-03-24 09:38:04 | ~認識~
借地権の不思議…

これから書く事は、実際に私の体験しから感じた「借地権の不思議」。
もっとも…他の人も私と同様に感じるとは限らないが…

事の始まりは~
父が借地権を所有している土地を私に買うように勧めた事から。
借地権とは、他人の土地を自由に使う権利。
借地権の所有者が、地主から土地を買う場合は、土地の相場の60%となる。

土地の購入後、税金の事で税務署からハガキ?(電話?)が来て、
「借地権はどうする?(一緒・残す)」と尋ねられた。

当時は、借地権についてよく分からなかったので…
その違いを尋ねたら~、

一緒だと税金が、数十万円(正確数字は忘れた)で、そのままだと十数万円…
そのままとは、父が借地権を所有している事である。
節税の為に父に借地権を残した。


更に年月が流れた…
夫婦喧嘩の結果、継母が実家へ帰ってしまい、私が父と同居を始めた頃…
私と継母の遺産相続の問題を簡単にする為に、
私は、土地上の建物を父から生前贈与してもらった。

その後、前回と同様に税金の事で税務署へ行くと…
「借地権も相続しますか?」と尋ねられた。

相続すると税金が数十万。
相続しない場合、生建物の評価額が、
生前贈与免金額を越えた場合の金額。
そこで、税金を安くする為に土地の借地権の相続はしなかった。

土地も、その上の建物も私の所有物。
なのに…借地権は父の物。

もともと、借地権とは、土地所有者に使用者が払うお金。
土地が私で、上の建物が父の所有なら借地権は当然。
でも、土地も建物も私の所有、なのに借地権は父のモノ。

この借地権という権利は、何の為の権利なの?
実に不思議、考えれば考える程に不思議…

でも…「観念的実体」という概念を使って考えるなら以下である。

普通なら、このような事態にはならない。
しかし、このように不思議になった経緯・瞬間を考えるなら、


初めに、地主から土地を購入⇒借地権は父の物…問題なし。
それは、新しい地主の私が了承した事だから。
この時、建て前として(確定申告)、父は私に年間土地使用料を支払う。
問題は、建物の生前贈与の時であろう。

この時、父の私物・建物には「、建物の所有権と建物使用権」が一体的にあった。
その建物が、私の所有になった時、「建物の所有権」は移った。

その時、「借地権を残した」と考えていたが…、
これは、借地権ではなく、「建物の使用権」…という事になる。
これも、建物の新所有者の私が、免税の為に「父に残した権利」である。


初めに、土地は買っても、土地の所有権は残した。
次に、建物の相続はしても、建物の使用権は残した。


初めに父が地主から土地を借り受けた時~
発生した観念的実体・権利とは、父の土地使用の権利・「借地権」、

次父が建物を建てた時、
父の「借地権」・父の「建物所有権・使用権」は一体的に存在していた。

しかし、問題は、私が地主から土地を購入時に発生。
私の土地の購入は、「借地権を持っている父の了承の上」だった事。
そして、父の借地権を私が了承した。

どうやら法律上、地主は、借主(借地権所有者)の了承なく、その土地を他人に売れない。
しかし、借地権を持っている父の了承の上に私が土地を購入。そして、私は、父の借地権を了承した。

普通は、このような事はないのだろう。
父と息子の関係で発生して、特別な事態。
ここでは、地主が変わっただけで、父には「借地権」・「建物所有権・使用権」に変化なし。

次に、私が建物を父から生前贈与した時、
建物の所有権が私へ移った。
建物が無くなったから、下の建物の為の「借地権」は消える筈だが…

ここで、私は「借地権」を相続しなかった。
「借地権」が残った事で、一体的だった「建物使用権」が残った。

そこで、今度は建物の為の「借地権料」は消失、でも残った「建物使用権」が顕在化した。
その結は、それまで父の収入(確定申告時)だった土地の上の貸店舗の月々の家賃は、
全て、私の収入となった。

その代わりに、私は月々「建物使用料」として、それら家賃の全額を父の口座に振り込んでいた。


上記のような思惟が可能になり得たの~
父が生前に、自宅の土地(国有地)の購入を考えた際に、
国から言われた事は、土地の購入権利は元地主にあり…と言われた事。

その土地が、元は田んぼ・畑で、戦前・戦中・戦前?に
国が地主から没収・借り受けた…モノだから…

土地の借主の土地には、地主の了承がいる…
と同様な論理だと考えられる。

概念とは、頭脳内のそのモノ・コトの認識・像である・
意味とは、その言葉・物事の説明・解説である。

概念は、人間の頭脳内にあり。
意味は、人間の外にある。












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「変化・運動」は、あるorない?

2023-02-05 10:41:17 | ~認識~


現実界をみるなら~
肉眼で直接見られるのは、今はこの瞬間だけ、だろう。

我々が、八ミリフィルム映画を見る時、
スクリーンでスムーズに流れ変化する映像が一連の運動として認識できる。

運動とは、運ばれ動く事・位置が変化する事。
フィルムの位置は変化しない。
ただ一枚一枚のフィルムが映し出されているだけである。

その一枚一枚の連続を見た人が頭脳内で「運動・動いている」と認識しているだけである。

我々が「走っているイヌ」の姿を見ている時、
頭脳内の残る今この瞬間の次から次への「イヌの姿」を記憶し…
それら一つ一つの像を同じイヌの連続の姿として認識した時、それを「変化・運動」と表現している。

現実界のどこにも、事実としての「変化・運動」は存在しない。
存在するのは、今この瞬間を事実・像である。

あるモノの姿・変化した像を、同一のモノであると認識するのにも、それなりの実力が必要であろう。
また、一つ一つの記憶像を連続体として捉えるのにも実力が必要であろう。

ある人物の生誕から大人までの一枚一枚の写真を、成長の流れに即して並べ直す作業は、その人物の全く知らない人にとっては難しい。ましてや他人の写真が混じった一枚一枚なら殆ど至難であろう。




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