新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

発達障害・情緒障害について…

2019-06-26 19:10:11 | 悟りシリーズ


情緒障害は、直接見る事は出来ない。
私は、
特別支援学級の中で情緒障害児とされている児童の中に、
それを視て取ろうとしてきた。

実体的事実として情緒障害はない。
機能的事実としてはある。

実体があっての機能であるなら、
実体の変化・運動を通して情緒障害を視て取る事は可能だろう。
では、それはどんな発達障害なのだろう?

私には、自己の感情コントロールの発達障害と思えた。
正確には、感情表現の社会的化・社会的制御と言える。
感情は個人的モノでも、その表現は社会的モノ。
もっとも…周囲に誰もいない状態ならば別であるが…


赤ちゃんが、何かあると大泣きして保護者に訴える。
一年生が、それと同様に、大泣きで訴えたら…
二年生が、やったら?
三年生が…四年生が…

それでも、
周囲の人々が、その子の大泣きの理由を理解でき、
そうなんだ…と共感可能なら、それは障害とは言い難い。
何故なら、それは誰もが起こり得るモノだから…




情緒障害児達は、五感・感覚が過敏で、
そんな・こんな事でそこまで怒る?泣く?笑う?

そして
そこまで狂暴になる?
そこまで荒れる?
そんな事をそこまでする?

普通の児童なら、
越えられないラインを軽々と越えてしまう子供達と言える。
それは、良い事も、悪い事も…色々とである。


例えば、
怒って、担任・先生の髪の毛を思いっ切り引っ張る。
悔しくて、給食をひっくり返す。
喧嘩中に転んだ友達の顔面を蹴る。
普通に話していて、突然に友達の顔面をパンチする…
嬉しくて、担任・先生に抱き着いてくる。
嬉しくて、担任・先生の後ろから思いっ切り飛びつく。


感情の豊かさ・大きさ・敏感さ…は個性であろう。
しかし、その感情の表現は社会的モノとなり得る。

その表現が、他人の許容範囲を越えたなら、
それは個人的ではなく、社会的な問題となり得る。


社会的な感情表現の習得には、その手本・見本が不可欠である。
社会的な感情表現の修得なら、同年代の子供との共生が必要だろう。


ならば…自閉症とはどのような障害なのだろう。
端的には、感情表現が苦手で、感情の変化・運動を避ける事を求めたモノ?


情緒障害が、積極的な感情表現の制御障害・出し過ぎなら、
自閉症は、障害による積極的感情表出の放棄…かな?


それらは、
情緒障害が、感情の変化・運動の過剰な表現状態なら、
自閉症は、それを避けて安定した世界の中にいる状態。


一方が、過激な感情表現で周囲と上手くいかない状態なら、
他方は、感情表現ないが故の周囲からの無理解状態だろう。










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事実と論理、そして論理性~

2019-06-26 17:14:13 | 言葉・概念


私は、いつか必ず死ぬ。
生命体は、非生命体化する。
生あるモノは、必ず死ぬ。
万物は、流転する。

「私は死ぬ」とは、事実であろうが…。
でも、あった事でも、ある事でもない。
言うなれば、将来に必ず「ある事」である。
これは、「事実的な論理」と言うのだろう。



生命体は事実として存在しない。
存在するのは、犬の個体とか…
具体的な生物・生命体の個体である。

生あるモノも…万物も…も同様である。


私にとって、
万物は流転する。
生あるモノは滅びる、
生命体は必ず非生命体化する…
は、実感し得ない言葉である。


それでも、
私は、いつか必ず死ぬ、
なら少々の実感が湧いてくる、と言える。

しかし、仮にこれが、
医者から言われた以下のような言葉なら、
「あなたは末期ガンです。」
「あなたの余命は三か月です。」なら、
かなりの実感があるだろう~
もっとも…これは予想であり、事実ではないが…


上記の四つは、それぞれ「論理」と言い得るだろう。
でも、それらの「論理」レベルが異なっている。
これは換言するなら、その論理性が異なっている。


論理性とは、論理の性質、論理のレベルの違い…
そのようなモノだろう。

人は誰もが、一人一人の実感可能な論理レベルがあるのだろう。
実感とは、感情的に分かる事であろう。

ならば、論理として理解するとは?

それは、
「言う事は分かるが…」
「でも……」と言ったような事だろう。

実感し得ない論理は、
事実的な体験、または論理的体験が必要なのだろう。


事実的体験と論理的体験の区別と連関は?

「私は死ぬ」の事実的体験は、可能でも無意味である。
体験しても、それを経験として生かせない。
人は死んだら終わりだから…

でも、他人の死の中に自分の死を想像・実感可能なら、
それは、論理的体験となり、
その体験は自己の経験として生かせる、のだろう。

弁証法性は事実としてはない。
事実の中に弁証法性を見て取るのだろう。







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弁証法と目的意識

2019-06-26 14:25:48 | 弁証法

弁証法は弁証法性を法則的に捉え、
それに則って対象を変化・運動させる事。

図工の授業終了時の後片付けの時~
4人一班で、早く片付け終わった順に解散。

私の担当児童のいた班では、
周囲の床、工作机の上、所持品の片付け…
全てを一番に終わらせて先生の確認を待っていた。

その時、隣の机の児童が、机の上の消しゴムのカスを指摘した。
すると指摘された場所に座っていた児童が、
自分の図工バックを消しカスの上に乗せた。
結局、先生は、その消しカスに気付かずに解散となった。


解散の条件は、ゴミを片付けて、綺麗にする事。
ゴミが残っていたら、ゴミを片付けるのが正解である。

なのに…早く解散したいという願望・目的達成の為、
時間の掛かるゴミの片付けではなく、
すぐ簡単にできるゴミをバックの下に隠す方法を選んだ。


「ゴミを片付ける」とは、
その場しのぎでの「ゴミを見えなくする事」ではなく、
その「ゴミを永遠に目の前から消し去る事」である。
その「ゴミを永遠に消し去る」とは、「ゴミ箱へ捨てゴミ収集に出す事」。


なのに、早く解散する為に、
眼前から永遠に消し去るのではなく、
その場しのぎの他のモノで隠す事をした。


弁証法性を正しき把握し得て、
弁証法を正しく駆使していても、
その目的意識の相違で結果が違ってくる。


何でもいいから、早く解散したいのか?
後片付けを確りした上での早く…なのか?


動物なら目的意識は不要、その全てが本能に従ってであろう。
人間は弁証法を修得しても、その人の目的意識が結果を左右する。


また、その弁証法性の体得・修得も、
その人の目的意識がその弁証法性のレベル・内実を左右する。










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生きると活かす

2019-06-25 10:37:21 | 想いのままに…

生きるとは、生きている事。生命活動している事。
活かすとは、生きている生命体を役立てる事。

自然の生き物は、生きているだけで、自然の中で役立っている。
それは、その生物の本能に基づいて自然の一部となっているから…
本能のない植物なら、その遺伝子情報に基づいてであろう。

ならば…人間はどうなのだろう?
動物的な本能が希薄になって、認識的実在である人間は?

本能的実在であれば、生きている事=活かしている事、だろうが…
認識的実在では、活かそうという認識なしでは、
自分の身体・能力が活かせない、のだろう…


生きる為なら、食べて動いて休めばよい。
それらは、ほぼ本能的と言ってもよい
でも、活かす為なら、活かせるような身体・能力の使い方が必要だろう。

何処で、どのように活かすか?
何処で、とのように生きるか?


人間が、人間として、生きる為には、自分を活かす必要があろう。
例え、それが、どのような活かし方であっても…


人の為に自分を活かす!
人の利益になるように活かす!

モノの為に自分を活かす?
人の害になるような活かし方で…


一人の人の利益為に、万人に不利益を及ぼす活かし方。
万人の利益の為に、一人に害を及ぼす活かし方。


より確かな生き方の為に、食事・運動・休息の在り方を識り、
より確かな活かし方の為に、宇宙・世界・地球・社会・人間…を識る。







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言葉の弁証法性

2019-06-23 11:23:45 | 弁証法

弁証法性と書くなら、
それはモノ自体の変幻自在の変化・運動性。

弁証法と書くなら、
それは、モノ自体の弁証法性の法則化したモノ。

弁証法性も弁証法も、ただ一つ。


でも、モノ自体が変化してモノ化して、
弁証法性も変幻自在からただの変化・運動性へと変化したなら。


それは、
○○の弁証法性であり、
○○の弁証法と言える。


モノ自体の弁証法性が、
自然の弁証法性へ、
社会の弁証法性へ、
精神の弁証法性へ…


自然の弁証法性から自然の弁証法、
社会の弁証法性から社会の弁証法、
精神の弁証法性から精神の弁証法…



モノ自体は、有っても無いモノ。
その理由は、モノ自体が変化・運動していて、
モノ自体をモノ自体として捉えられないから…


弁証法性は、有っても無いモノ。
それは、
変化・運動性だから、
実体の変化・運動だから、
実体の機能だから…


機能は有っても無いが如く感覚不能。
実体の変化・運動が機能だから、

実体は五感で感覚可能。
機能は五感で感覚不能…。


実態は五感で感覚可能。
実体は五感で感覚不能。

モノ自体の弁証法性は?
自然の弁証法性と
社会の弁証法性と
精神の弁証法性を 通して、
やっとモノ自体の弁証法性へ~


事実から事実の性質へ、
事実の性質から事実の論理性へ、
事実の論理性から個々の弁証法性へ、
個々の弁証法から弁証法の論理性へ、
弁証法の論理性からモノ自体の弁証法性へ、
そこから学問・唯物論的弁証法へ~


言葉遊びが、言葉遊びで、終わらずに、
言葉の労働へと変化・運動できたら…
そこから弁証法が~~~~~~~










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