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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「認識と言語表現」・「事実と真実」の話

2025-01-11 17:29:05 | ♬~我が悟りへの道程~♬

「認識と言語表現」・「事実と真実」の話



先ずは以下のネット情報から~



>「現実」「事実」「真実」「真理」の違いは、次のとおりです。

>現実: 現実に存在する事柄

>事実: 現実に存在する事柄

>真実: 嘘偽りがない、本当であること

>真理: 誰も否定できず、変わることのない道理

>「真実」と「事実」は似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。「真実」は、抽象概念と具体的な内容をもった概念を表わします。抽象概念としては「嘘偽りではない」ことを、具体的な内容としては「実際の事実そのままでうそ偽りのないこと」を表わします。

>「真理」は、現実や事実とは特に関係なく、道理として全く正しいこと、だれもが認める本当のことを表わします。宗教や物理の世界で永遠に変わらないものを指す言葉として捉えることもできます。


「現実」「事実」は、人間の外界・物事表現
「真実」「真理」は、人間の内界・認識表現。


以下が「事実と真実の話」


>真実と事実は、似た状況で使われる言葉ですが、意味が少し異なります。

>真実~
>嘘偽りがなく本当であること、信頼する、信ずるという意味があります。人の解釈や心の動きであり、人の数だけあります。

>事実~
>現実に存在する事柄、結果、再現できる対象という意味です。人が関与しないため、反論できません。






さて~ここからは「事実と真実の話」ここで以下の問題です!


「たとえば、日本で軟水を出された外国人にとって~「これは水です」は事実ですが、
自分の認識している水とは違っているから「私にとってこれは水ではない」は真実です。」

上記の言語表現では、「日本での事実」と「外国人の真実は違う」と説いている。

本当に、そうだろうか?!


少々言葉・表現を加えてみます。

たとえば、
「軟水は、日本では日常生活での「飲み水」です。」事実。
でも、日常生活で、硬水を飲んでいる外国人には「飲み水ではありません」。

これは、出された「日本の水」が「外国人には水」ではない!…
ではなく、日本の飲み水(軟水)は、外国人には飲み水(硬水)はない…いう意味。

従って、「日本の水は、外国人にっても水である」ただ「飲み水ではない」だけ…


上記の場合は~

「水」レベルの事実の言語表現なら同じ<水と水>」
しかし「軟水と硬水」レベルの事実表現なら<水は水でも 異なった水>
そして「「飲料軟水・日本」と「飲料硬水・外国」とでは、<飲み水であり飲み水でない>


結論を書くなら、

日本では、「これは、飲み水です」
外国人である私にとっては「これは、飲み水ではない」


事実は、「日本の飲み水は軟水」
真実は、「外国人にとって軟水は飲み水ではない」


事実の言語表現対象は眼前の、「水というモノ」。
真実の表現は外国人には、それは「飲まない(飲めない)水」(眼前の水の性質)。



事実とは、現実のモノコトの変化・運動表現。
真実とは、その現実の変化・運動の、その者の観点・立場からの個人的な事実・意味。




~真実レベル色々~

個人的な真実、
組織・社会的な真実、
神的な真実、
絶対精神的な真実、哲学・学問的な真実、






この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!

2023-12-11 15:49:27 | ♬~我が悟りへの道程~♬
この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!


昨日書いていたなら「この不思議感は何なのだろうか?」
でも…今日書いているので「あの不思議感は何だったのだろう?」になるが…


この・あの不思議感とは、私の感情であり、それは「ある事」の妄想・幻想・夢想から生じた感情。

妄想とは、現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事。
幻想とは、現実に存在しないものや起こり得ない現象などを心に思い描く事。
無想とは、現実からかけはなれた場面を思い描く事。


感情は頭脳活動であり、そこには認識・像が伴なうモノ。
今回の「突然・再び」・「再びの突然」の想起から生じた「この・あの不思議感」の認識像とは?

私は、何年前からであろうか…その原因・理由も不明だか゛…
この・あの「想い」が、突然に生じてくる。
日頃は全く意識に上らない「あの・この認識」の正体とは?


初めて思った?考えた?時には、
特に今回のような「不思議感」はなかった。

その妄想・幻想・夢想とは~

私の死後の、この世界の様子である。
私はいない!でも、この世界はある。

私の、今この瞬間のような思い・考え・認識…がない!消えている筈…
それでも、そこに私がいる。

この私がいる・私の認識があるのに、そこに私はいない!

そこに私はいない筈なのに、私の認識がその世界を想像できるのに…
その世界に私はいない!

何もない筈!私がいない!でも世界はある。



以前、映画「僕だけがいない街」を観たが…私のこの認識は、それ以前から時々起こった。
それは、ある時・ある瞬間に突然に生じてくる~

この「私の存在していない世界」での私の認識が、非常に「ふ・し・ぎ」!
特に、今回は、その不思議感が以前に増して強烈であった!

それも、昨日までの話であり、今日には薄らいでいるが…
これは、「感情の量質変化」であろうか…

当初めは、強烈な感情でも…その継続・時間がある程度伸びると、
その感情に慣れてしまい…当初の強烈さが減少していく。
この事は、「家内の死」に対する私の「強烈な悲しみ」感情にも言えている…



そう~数日前の私は理由もないのに何故か「ウキウキ」♪♪♪
でも、一昨日の私は「シズシズ」で何故か少々の落ち込み…
それでも、今の私は、訳も分からずに「ウキウキ」。


その理由は、今の私には薄ぼんやりと、みえてきている…
それは、私が、私自身の感情・変化を捉えようとしているから…
感情は、生活している瞬間・瞬間に変化している筈なのに…
それなのに…多くの人は、そんな自分の些細な感情変化を殆ど気にする事はない…のだろう。
私の潜在的感情は、何気ない出来事・他人の態度に過敏に呼応されている、ようだから…



今ここに生きている私が、私の死後の私の存在しない世界を想像する事は矛盾であろう。
そんな想像を妄想・幻想・夢想レベルで、やり続けた結果が、あの・この「ふ・し・ぎ」感であろう。


ありえない想像なのに、幻想・夢想なのに、私は、それを妄想だと認識し続けてきた結果であろう…
それとも、想像し続けた結果の量質転化化の結果が、想像・幻想・夢想が、
妄想(現実にはあり得ない事を事実だと信じ込む事)に量質転化したのだろうか…


まあ~こんな他愛のない妄想なら、私・他人へ害を及ぼす事のない話だから…問題ないだろうが…


この今の私・今のような認識が、永遠にない世界は、想像不能の筈なのに…
その想像を繰り返し・妄想を繰り返している私は、ある無意味精神異常者なのかも…


ただ…この妄想に囚われて日々を妄想的に生活したら、真の精神異常者だろう…
幸いに…私は非常に忘れっぽい者なので…
数日経つと妄想内容は覚えていても、その感情は忘れてしまう。
ただ「ふ・し・ぎ」だった言葉は覚えているだろうが…
この不思議感は、忘れているのだろう…








弁証法のイメージ

2023-12-10 12:08:51 | ♬~我が悟りへの道程~♬
弁証法のイメージ


弁証法をイメージ化したら以下のようになった。

点的弁証法、線的弁証法、平面的弁証法、立体的弁証法。


例えば、学校内で児童同士が大声で罵り合いの喧嘩を始めた。

点的弁証法での解決法は、即その場で喧嘩を止める。
線的弁証法は、その解決法が、その児童の未来に与える影響を考慮。
平面的弁証法は、周囲の児童達への影響も考慮。
立体的弁証法は、その場にいない教員・保護者をも考慮に加える。


この罵り合いが授業中なら、「授業中です。他の児童の迷惑です。直ぐ止めて下さい!」
そこで、止めない場合は、「止めないなら、職員室へ行って続けて下さい。廊下では他の授業の迷惑ですから」
それでも、行こうとしない・止めない場合は、「○○さん!職員室へ行って副校長先生を呼んで来て下さい!」


点的弁証法のみなら、「うるさい!止めろ!」、「二人とも出て行け!」…色々とあり得る。
でも、そこに線的・平面的・立体的弁証法を加えたなら、その方法は、ある程度制限される。


普通に立体的弁証法を体得したら、点も線の平面も…不要のように思われるが…
立体的弁証法を直接用いる時にも、点・線・平面的、それぞれの条件確認が不可欠であろう。

これが、教員が学校以外の場所で、児童同士の喧嘩・罵り合いの場合の対応。
それが、他校の児童の場合、自校の児童でも担任でない場合…
そ条件次第で対応が大きく異なってくるのが弁証法的であろう。


弁証法とは、その時々の、その対象・その周囲・環境と自分との関係性、

その場・その時点での周囲の条件・状況、その対象の関係者と自分の関係、更には、その解決法と常識・法律との関係性。

授業中の喧嘩・口論…授業の邪魔な事の全ては「禁止!」(教師による当事者間の問題解決不要)…
ただ身体的危険性がある場合は、授業を中断しての対応が必要。

休み時間での喧嘩・口論…は、教師介入での解決は、その両者の希望次第。

弁証法とは、対象の変化・運動性の法則化~

それは、
その対象の自体・自己の変化・運動性の法則化、
その対象の環境の変化による変化・運動性の法則化、

物体なら、変化しないで、そのモノであり続けるようとする運動性。
(それでも環境の変化で物体も変質し続ける)
生物なら、同じ生物・状態であり続ける為に自己変化を続ける運動性。
(そして、環境の変化による他力・強制的変化の運動性)
そんな物体・生物の本質を加味する事も弁証法使用条件であろう。

弁証法とは、自覚的・目的意識的に対象の変化・運動性の法則化であり、
その弁証法の使用・駆使状態も、自覚・意識的であり続ける事が求められる。

その弁証法に自覚・目的意識が喪失したなら…
その弁証法が、その弁証法であり続ける事は至難であろう。

弁証法とは、対象の変化・運動性を自己の変化・運動し続ける頭脳内での法則化であるから…
その弁証法も、自己の身体変化と共に変化・運動していくだろう。

頭脳内の弁証法自体は変化しなくても、
その人間の感覚器官の衰退・老化…で、
その人間の若い頃に比べて、その五感情報が変化してしまう。

その結果。その弁証法駆使の条件に、その加齢による変化・運動性を加味が、求められるのだろう。

それは、若かりし時、以上の弁証法の自覚・意識であろう。
それは、弁証法の弁証法的再確認であろう。

立体的弁証法⇒平面的弁証法⇒線的弁証法⇒点的弁証法の確認であり、
その立体・平面・線・点の時々の条件再確認であろう。

昨日が私の悟り記念日

2023-12-03 10:26:07 | ♬~我が悟りへの道程~♬
昨日が私の悟り記念日


本来の表題は「今日は私の悟り記念日」と筈だったが…
色々と忙しく、書けずに時が過ぎってしまった。

さて、この「私の悟りの記念」とは、
どの様な悟りを、私が求めているかを「悟った」・自覚したと言うこと。

このような自覚をしたきっかけは、
テレビ番組 「笑わない数学 第2シリーズ」
 11月15日放送 『ケプラー予想』の以下の場面・言葉から~

聖職者を志した事もあるケプラーは、
「神は完全なる世界を創造したので、宇宙は幾何学原理で支配されている筈だ、という強い信念を抱いていました。」

グーグルで検索したら、ヨハネス・ケプラーは、16世紀、ヘーゲル以前の天文学者…

この瞬間に私の中の過去の「悟り」が、一つまとめられた。
旧・「悟りを求めて…」ブログでは、
「悟り」を「学問的悟り」・「宗教的悟り」・「武道的悟り」に分けて考えていた。
それらが、この瞬間に一つになり、その一つが私の求めている「悟り」なのだろう…と痛感した。
(これが、たぶん急速・急激な量質転化化、なのだろう…と実感した)
そう~私が求め続けている「私の悟り」とは、
私の中に、
私・人類・神・自然・宇宙・全てを超えた絶対的な「何か」を創り出したい♪♪♪
そして、その姿が見えた時、それが「私の悟り」であり、
また、その「何か」が、私の中に創出された時、それが「私の悟得」なのだろう。

そんな「私の悟りとは」を、悟った私でも、
悟得への道は、まだ遥か…と思って今後の生活を進めていくのだろうが…


新宿支部の井上先生の以下のような言葉を思い出された~
この言葉は、当時の練習記録・ノートに書かれているモノ~
新宿支部への入門当初に言われた言葉~
「…過去の空手を忘れ・棚上げ…して新たに創る覚悟で練習…」てな感じだろうか…


私が、私以上・私を超えた何かを求めたのは…
小学生時代に、
小三の担任教師が話してくれた、忍者への憧れ、
小五の時の筋力・運動神経抜群な転校生への憧れ、

人間関係に悩んだ、高校時代に、「人間を知りたくて」…手相・人相…の本を読んだり…

大学時代に読んだ、植芝盛平伝の「我黄金体と化す」のくだり、

また教員時代に読んだ「変身の原理」 桐山 靖雄…で、一時、密教に嵌っていた。
彼の著書に「チャンネルをかえる」と称して、過去・未来へタイムトラベルをする…と言った事が書かれていた。
そうそう実際に密教の道場?への行ったが…
密教の修業は「?法具」という道具に自分を魂をうつす事…てな事を言われて、
「え!その?法具が壊れたら、どうするの?」と心配になった事を想い出した。




今なら、これは「認識のタイムトラベル」、意識的に夢の世界を現実の如く創れる宗教力なのだろう思えるが…

過去の私は、私を変えたい・変身した!思いだったが…
現在の私は、私の中に、全てを超えられる何かを創出したい!である。

しかし…ここで問題が~
それは、私の中での「矛盾」であろう。

この矛盾は、教育過程で生じる矛盾でもある。

「先生の正しい」と「児童の正しい」が一致しない時…これは矛盾ではない。
この時、先生の「正しい」が、
受け入れられない児童は「めんどくさい!嫌だ!やりたくない!」
そして先生に…一喝されてやる児童と、それでもやらない児童に分れる…

過去の教育界では「一喝されてやらない児童には体罰」だったが…
今は……別の手段で解決されている…


しかし、私の中での「私とその何か」の正解の不一致は、矛盾として現れる。

その時、私が、どっちの正解を選ぶか、が問題である。
これは、「感性vs理性」の格闘でもある…

理想vs現実、絶対精神vs人間精神、

そうそう…「絶対精神」というヘーゲル用語を使うなら、

私の中の「私の人間精神vs絶対精神」の格闘…

なんて事ない……(ヘーゲルの言葉で書くなら)
私の「悟り」は、私の中にある、
人間精神をヘーゲルの理想としている「絶対精神」へと育て上げる事。

ヘーゲル観念論なら「絶対精神」は、初めから・生まれつき、人間の中にある。
それは、即ち絶対精神に到達可能な「精神」は初めからある。

しかし、唯物論では、そんなモノは初めからない!
精神さえも、初めからない!

全ては、創り創られていくモノ。
初めからあるのは、ただ「可能性」だけ、である。

「ひと」は、人間になり得るか可能性を持って誕生し、
人間達に、人間への教育をされ続けて、初めて「ひと⇒人間」なのだろう。

ここで、「事実と論理」にいて、
ヘーゲル自身が信じ切った「絶対精神」は、ヘーゲルにとっては、観念的な頭脳の中での「事実」である。
それでも、現実界での絶対精神の存在は、科学的に証明できていない。

事実の二重性とは、
現実界の事実的「現実に続いている事・過去に起こった事」、
観念内・反映・認識・「その人間が思った事・思っている事」、


その人が「思った事」は(思ったという)事実でも、
その思った「内容」は事実の反映であり事実ではなく(問い掛け的)「反映像」。


論理とは、反映された五感情像の言葉的な表現が「論理」?なの、だろうか…
もしかして…言葉も一つの「論理」なのかも…











日常生活での「残心」~

2023-09-28 13:26:27 | ♬~我が悟りへの道程~♬
日常生活での「残心」~

「残心」とは、武道・勝負においては、技を決めた・決まった!
と確信・安心した瞬間でも、決して気を抜かない・心を相手に対して残して置く事。

「残心」の解説で大学時代に読んだ武道関係の本に以下のように書かれていた。
「残心とは、コップに入れた水を、思いっ切り投げ捨てた後に、そのコップに残っている水滴のようなモノ。」

これは、自分が対手に、思いっきり必殺技を決めた・決まったと確信しても、
まだ残っている自分の中の「勝負心」のようなモノ…

日常生活で、最近、気になる事がある。
それは、部屋の電気の消し忘れである。

朝夕洗面後に洗面所を出で、居間に入る時、フット横から洗面所の灯りが…
その時、『しまった!消し忘れだ…』と気付き、戻って消している。
それでも…時には、部屋を出る瞬間に、「電灯を…」と気付く事もある。

この両者の相違は、
忘れてしまう時は、気が急いて、次の事を思っている場合、
特に、急いでやるべき事がない場合は殆ど消し忘れがない。


今、電灯の消し忘れがない時に「残心あり」、
ない時に「残心なし」と考えるなら。

勝負における「残心」とは、「心の余裕」とも思える。
余裕とは、先を急がない心、今この瞬間を大切に味わおうと、する心…。

勝負においては、勝負の勝ち・負けの決定を急がない心…
技を決めた・決まったと確信し得ても…勝敗が決まったとは限らない!

現代のような「生死を賭けた勝負が常識的にはありえない」時代での勝ちとは、
自分決めるのではなく、相手が自分から納得する事、また審判が決めた事に相手が納得し得るか…


チョットした気遣いで、武道・勝負に関係なく、
普通の日常生活での、日々「残心」の養成・形成は、可能なのだろう…