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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・「悟りとは?」を悟る!

2022-07-19 08:43:44 | 悟りシリーズ



「悟りを悟る」の多重性~

「悟りとは?」というモノを知る。
「悟る為の方法」を知る。

「悟りの道」を知る。
「悟りへの道」を知る。

知る⇒識る⇒悟る


「悟りの道」を知・識・悟っても、
「悟りへの道」を知・識・悟っても、
その「悟り道を歩む」事なくば、「悟得」にはなり得ない。
悟得への到達なくば、その「悟り」は単なる自己満足に過ぎず。


道を創ったとしても、その己の道を振り返り・戻り、再確認をせねば、「道を忘れる」。
道を知っても、歩まねば、何も得られない。
道を歩いても、最後まで、歩めるとは限らない。
最後まで、歩んでも、気付かずに脇道に逸れてしまっている事もある。


自分で道を創る事、自分の創った道を歩む事は、そう難しくない。
他人の創った道を、その道から逸れる事なく歩み続けるのは至難であろう。

他人の創った道が、必ずしも、己の求める道とは限らない。
己の求める道ではなくても、その到達点が己の求めるモノなら…どうする?

その時は、他人の創った道を、その創始者とは、異なった歩み方をする。

高速道路を走る能力のない者は、その道路に沿った一般道を行けばよい。





「悟りとは?」を悟る!

2022-07-16 11:53:17 | 悟りシリーズ
「悟りとは?」を悟る!


「悟り」とは、
①  [仏教]心の迷いから抜け出して、真理を知る事。
➁ 物事を理解する事。

宗教の悟り、武道の悟り、学問の悟り、全て「悟り」と表現しているが…

それらの、「迷いから抜け出し方」・「その真理の中身・内実」が異なっている。

宗教的な悟りとは、宗教的な世界観=全てが「神」から生じた世界を悟る事。

武道的な世界観、「武技を駆使して生命を賭け勝負の道」連続の世界。
観念論的な世界観、絶対精神の自己運動・自己発展の過程・結果の世界。
唯物論的な世界観、モノの自体・実体の弁証法性による変化・運動の連続過程・結果が世界。

悟りとは、上記のような世界観で世界を捉え、
その世界観に基づく世界と自己との関係性を把握して、
己の目的達成の為の自分的な言動・行為・行動を知り得て確信した時が「悟り」である。
そして、その確信し得た、言動・行為・行動の実践が実感・体得した時が「悟得」であろう。


ギックリ首 事件~

2021-09-08 12:02:54 | 悟りシリーズ
ギックリ首 事件~

7月30日の夜中、トイレに起きたら耳の中がヅキヅキ痛い。
気にはなったが…そのまま寝入ったら、痛みは感じなくかった。

翌朝、起きたら、相変わらずの耳ヅキヅキ…。
早速、耳鼻咽喉科へ…そこでは「全く問題ない…」と言われ…

次に言った整骨院では、以下のように言われた。
「これはギックリ首です。ギックリ腰があるようにギックリ首にもなります…」

思い起こせば、
ここ数週間…首が回らず横を見るのに必ず体を横に向けて見ていた。

考えられる直接の原因は、今年初めに夕食の支度中の出来事である。
下を向いて野菜を切っている時、突然のクシャミで首の後ろにズキッと痛みが走った。
その後、段々に首の調子が変になっていった。

でも…更に思い起こせば、去年の事である。
子供達とのドッヂボール中に、
頭の上に向かって飛んでくるボールを追おうと上の向いた時、
首の後ろに強烈な痛みが走った…。その痛みは、いつの間になくなっていた…
この二つの事件は、言うなれば、首の捻挫…だそうである。

しかし、それまでは一度もした事のない「ギックリ首」が、なぜ二回の発生したのか?
整骨院の先生が言うには、私の顎・顔・頭が前に少し出ていて…
本来は少しカーブしている筈の首が「ストレート首」化している、そうである。

その為の治療が「マッケンジー療法」と言われるモノ。
それは、前に少し出ている顔・頭を、顎の先端を
指で押しながら少し後ろへ動かす体操であった。

週に二回、整骨院へ通った甲斐あって、
今は、殆ど普通に動く事になっている。

今回の事件で私は、以下のような事を学んだ。

首の頸椎が少しカーブ状態の上に頭が載っている時が
首の関節の可動範囲が最大となる事。

首の上下運動は首筋肉の働きで、
首の左右運動は肩の筋肉の働き。
どちらの動作も頸椎に少しのカーブがあって最大となり得るモノ。

今回の事件を起こした私は、
過去の私に比べて顔・頭が少し前に出ていた…ので、
頸椎の状態が過去と違っていた…
顔・頭に位置が過去と違っていた…
関節の連結状態が過去と違っていた…
それなのに…私は過去の私と同じ動きを首に求めて「上を向いてしまった」…

仮に…この「上を向く」動作が、
ゆっくりしたモノであれば、途中で痛みを感じ向くのを止めただろうに…
変化していた自分の首の状態に気付けなかった私だから…
今回のよう大失敗・事件となったのだろう…


これは「技」という言葉・概念を使って書くなら~
生後の数十年の生活体験・経験から、
私は、正しい頸椎の状態、その使い方を自然成長的に体得していた。
これは、意識的に創出した「技」ではないが、
体験・経験的、無意識的に体得し駆使している行為・動作「自然・成長的な技」と言えよう。

そんな私も…
環境の変化、生活の変化、加齢による身体状態・運動の変化…
そんな様々な状態変化によって、「ストレート首」状態化してしまっていた。
実体の状態=実態は変化していた私の身体なのに…
過去に可能だった同じような動きを身体に強制した今回の私は…
結果的に身体の故障を得てしまった。

この治療・改善の為の体操・方法が、意識的に顎・首を後ろに引いて、
そこから上下・左右の動作を実行する方法である。

これは、言うなれば、「マッケンジー療法」の首体操の動作の「意識的な技化」ある。
この「意識的技化」とは、「顎・首を後ろへ」の動作を意識的に繰り返す事で、
無意識的にできるよう量質転化化する事である。
その為には、一日数回、1セット五回ずつ「指で顎の先端を後ろへ押す」体操の実行である。

昔から、写真撮る時に、「顎を引いて!」と言われていたが…
過去の私が「顎を引く」事は、人間にとって正しい姿勢・姿形・身体構造の維持、
関節の正しい状態維持の為、健康の為…と言った事も認識・意識できていたら…

そして、その正しい状態を確りと知って分かっていたら…
今回のような私にとっての大事件には至らなかったのだろう…
この事は、過去の右足小指関節脱臼・骨折…事件にも言えるのだが…






壁を越える…

2021-05-09 12:41:08 | 悟りシリーズ

ゴールデンウイークからアニメ「キングダム」を見始め、
今日やっと、シーズン3の#5話まで見終わった。
第六話は、5月10日である。


アニメの中でよく使われている言葉…
と言うより私が意識した言葉に
「壁を越えてやる」とか、「超えるべき壁」…があった。

この「壁…」とは、天下の大将軍を目指している主人公の一人である童の「信」が
敵対する大将軍・軍隊との戦いで「…越えるべき壁…」と表現したモノである。

それらは主人公である「信」の行く道の前に立ちはだかった障害物…。
では、何故に「越えるべき壁」であって、「迂回すべき壁」ではないのか…

それは、その「道」によって決める

「天下の大将軍になる為の道を邪魔する壁」か、
「天下の大将軍として戦う道を邪魔する壁」か…


大将軍になるには、実力養成が不可欠である。
それには、強者との戦いを避けていてはダメである。
とは…言っても強者と戦って死ねば「道」は立たれる。


目の前に「壁」が聳え立った時、
先ず、すべきことは、「壁」を直視する事。
次に、己の「進むべき道」の再確認である。

例え…高く自分には越えられそうにないと思える「壁」であっても、
取り敢えず最大限の神経を使い「登る事を試みる」。
自力でダメなら、他力を借りてでも「登る試み」をする。

それでも、越えられない壁なら、壁をぶち破って進む。
壁のぶち破りなら、自力・他力・爆薬力…とあらゆる工夫もあり。

それでもダメなら…
一度退却して、道具・武器・爆薬…を揃えて再度の挑戦であろう。
もっとも…それだけの時間的猶予がある…ならばだが…

「天下の大将軍への実力養成への道」では、
避けていては実力養成にはなり得ない。
だから、何としても一度退却しても「壁は越える」べきモノ。


しかし、
「天下の大将軍の道」なら、敢えて「壁を越える」必要はなく…
「壁を越える」事が、唯一の勝利への道なら越えるべきモノ。



大将軍への道なら、実力養成が全て、
大将軍の道ならば、戦の勝利が全て。

「同じ壁」ても、目的の相違が
「違う壁」になり得てしまうモノ。





何の為の「悟り」だろうか?

2021-03-29 15:16:40 | 悟りシリーズ


「悟り」は何の為?
より良き人生の為!

より良き人生とは?
納得・満足できる人生!

納得・満足とは?
幸せと思えるコト。

それは精神的?肉体的?
精神的かつ肉体的モノ。


それは自由な精神と窮屈な肉体。

自由とは?
自己の想いのままに…

窮屈とは?
自由な想いが肉体の制約を受け続けるコト。


精神的な自由の獲得、
肉体的な自由の獲得、

肉体的制約の中での
精神的な自由の獲得。


誰かが、言っていた。
自由とは、不自由である…と。

人が自由を求める時そこに不自由が発生する。

人は不自由を感じるから自由を求めるのではなく、
人は自由を求めるから不自由を感じるものである。

人が自由の求める理由は、
人の精神が自由そのモノ。

自由である人の精神が自由を求める時、
その肉体的な制約から不自由を感じる。


結局、人は制約ある不自由の中で、
自由を求め続ける存在なのかも…

人は、不自由を自覚しつつでも、
自由を求め続けていられる限り、
そこに自由を実感するのだろう。