新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

後少しもうすぐそこ、悟れそう「悟り得る」とは?を~

2023-12-31 13:35:34 | 「わたし事・学」
後少しもうすぐそこ、悟れそう「悟り得る」とは?を~


悟るとは、
その外界対象への観念内での「理性的問い掛け」と「感性的な問い掛け」が、
その外界の対象の変化・運動過程の反映・認識を通して
「理性vs感性の統一」を、統合・融合的に なされた結果。


悟りとは、
その対象の全体の一部分としての対象認識 と その部分的な全体像、
それらが構造的な認識化が悟り、それを自覚・認識し得たが「悟り得た」・「悟得」。

「氷山の一角」である対象に、理性・感性的に問い掛け、
最終的に、氷山全体の姿を理性・感性的に体得し得たが「悟得」。


「悟る」には、その人の人物の人柄を覚る。人間とは?を覚る。人類とは?を覚る」

こんな感じを、私の今の生活での出来事で、書ききれれば…いいのかな…


ただ…
「悟る」の感情的・納得可能な認識の言語化が、出来た事が嬉しい。
「悟る」とは?を悟る!


そうそう「悟る」と「覚る」にも…その論理レベルの相違があり得るだろうが…

例えば、「木」の全体像を悟ってから、花・葉・茎・根…の部分的な全体像を悟った場合。
または、花・葉・茎・根…と部分の全体像を悟ってから、「木」の全体を悟った場合。

それらの観念内での相違とは?
そうそう…問いかけ的な認識・全体の本質像が、世界観なのかな…と思っている。

唯物論的な問い掛けとは、理性的な問い掛け。
観念論的な問いかけとは、感性的な問い掛け。

世界観は唯物論的、でも、その問い掛けは観念論的~
世界観は観念論的、ども、その問い掛けは唯物論的~


認識論と心理学、
「心理と心裏の相違は?

「心理」は心の動きや状態を意味し、「心裏」は心の中や表意者の真意を意味します。
「心理」と「心裏」は同音異義語で、「心裡留保」の「心理」は「心裏」のことであり、心の中という意味です。

上記のネット解説の引用から、

「心裡」とは、人間の心の本質、
「心理」とは、その心の変化・運動。

この「心の変化・運動」にも、
本質的・構造的・現象的…が考えられるが…



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問い掛け的な認識について…

2023-12-31 09:12:26 | 「わたし事・学」
問い掛け的な認識について…


「問い掛け」と「問い掛け的認識」の相違は?

「問いかけ的な認識」を「氷山」に例えるなら、
その「問い掛け」はその「氷山の一角」。

問い掛け的な認識が「全体」なら問いかけは「部分」。


ブログ記事「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」は、
私の問い掛け的認識・氷山の一角・認識の部分。

では、その全体像とは、「私の死」についての問い掛け的な認識・全体像とは?


>「私の死後の、この世界の様子である」
>「私はいない!でも、この世界はある」

この上更に、追加で


「現世にいない私のいる来世・その様子」!
この考察が不足していた事に、今朝気付いた。

来世には、
天国と地獄的な「世界は二つ」・世界観。
世界は一つ・輪廻転生・生まれ変わってまた現生的な「世界は一つ」・世界観。


死とは「「肉体・頭脳の死滅」。
私・認識は「頭脳の機能」。



唯物論的世界観なら「私の死は⇒私の頭脳の活動停止⇔私認識の停止・消滅」。
観念論的世界観なら「認識・観念的な世界はある」だから「私認識はその後も永遠にある」


ならば、観念論的・唯物論的な統一結果、
「私肉体の死後の私認識とは」?

それは、
肉体のない自己の認識内で、
永遠に覚めない夢の中にいる状態。

自己認識・夢の範囲内での自己運動。
それが、地獄と天国の世界の想像夢。


単なる唯物論的世界観なら頭脳の死滅は、
私認識にとっては「虚無」⇒「無い事」さえ「無い」状態。


そんな虚無・世界の想像は、生きている人間には不可能。
だから、
「私の死後の世界なんて、私の死後に考えても十分に間に合う事」。


そうそう~本当~
師範の御言葉に、
ヘーゲルは「大論理学」を書く前に「エンクロペディ―」を書くべき…。とある。


私も…もしかして…
今回の上記のような記述・思考・思惟…を
「不思議感その物の中身を問う前に」書くべきだったのかも…

以上は、「その問い掛け感情」という氷山の一角に「何故?」といかけるのでなく、
その「感情的問い掛け」の「下の氷山は?」と問い掛けたら、良かったのかも…


その氷山の構造が、
「唯物論」と「観念論」のハッキリした世界観二つの内の一つか?
それとも…
「観念論的唯物論」or「唯物論的観念論」の二つの混合した世界観二つの内の一つか?

それを、現実・今の私・観念の中に、存在している世界観(観念内・事実的)へ唯物論的に問い掛けるのが、先だったのかも…





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我が偉大なる悟りの今の我が境地を~

2023-12-30 13:25:01 | 「わたし事・学」
我が偉大なる悟りの今の我が境地を~

何から始めようか? 何処から書こうか?
今朝のさっきの 私の認識をから?
それとも昨日の私の認識から?






今朝さっきの起きがけに書いた以下のようなメモ…

対立物の統一について~

今日の朝、寝床で以下のような事を思った。

「種と花」の統一

「未体験と体験」の統一。
「体験と経験」の統一。
「未体験と体験と経験」の統一。
「未体験的事実と体験的事実の統一」。
「体験人と未体験人」の統一。
……
「勝者と敗者の統一」


その後も色々と想像・思惟・思考して、「対立物の統一」

「事実と対象の統一」・「事実と反映した対象の統一」・「反映した対象認識と問い掛け認識」の統一…

そう気づいた!

始まりと終わりの統一、初めと途中の統一、途中と終わりの統一…
事実と対象の反映との統一、対象と対象の反映の統一、対象の反映的認識と問い掛け的認識の統一、
そして、ここから更に、この統一結果で問い掛けた対象の反映とその問い掛け的認識の統一、

外界と内界の統一、…


そんな中で、悟った事は~
真の弁証法的な「対立物の統一」とは、
「対象の反映的認識と自己の対象に対する問い掛け的認識」(の統一と、その過程的統一の連続)
(内)は再読時の追加。


しかし…ほとんどの人々のそれは、無意識・無自覚的な「統一」であろう。
だから、ここに「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」の諺があろう。

これは、
自分が、反映した対象の外界の全体像・過去から現在までの全体像・敵を知り、
その問い掛けている己の感情・その感情の生々・生成・発展・衰退、過程を知れば、
何事も自分の学問的・社会的・個人的な納得が得られるだろう…という事。


哲学者は「驚きが哲学の始まり」と説く。
私は「私の不思議感が、わたし学の始まり」と説く。
その違いは、ここでのブログ「この不思議感は何?・あれは何だったのだろうか?!」である。


これは、その時の私は、過去の私の問いかけ的認識へ、
その時の私的な認識で問い掛けた結果の「不思議感」だった。


そして、「この不思議感」の理解・究明への
大いなるヒント・契機をtataさんから頂いた結果であろう。


そして、私がそのヒントを契機に、
「認識の集中」から問い掛け的認識・集中、
更にその実践で新たな問い掛け的認識の感情化、

それをtadaさんへの返信として書き続けた事の結果が。現在のわたし的問い掛け認識・感情であろう。
しかし…これが、ここまで一晩で量質転化化した理由の一つに、昨夜観た以下のNHKドラマへの問い掛けがあった。

ドラマの紹介は以下のネット情報から~
いや~「生成AI」とは、これ程に便利だとは…思わなかった♪!♪(喜びのビックリ!)


そこで、「生成AI」で、「生成AI」検索したら以下です。

「生成AI(Generative AI)とは、画像、文章、音声、プログラムコード、構造化データなどさまざまなコンテンツを生成することのできる人工知能のことです。

大量のデータで訓練し、パターンや傾向を学習したモデルによって、人間が作成するような絵や文章を生成することができます。

生成AIは、コンピュータが学習したデータを元に、新しいデータや情報をアウトプットする技術です。これまで人間が実施していた「考える」や「計画する」をAIが実行し、アイディアやコンテンツを生み出します。

生成AIは、機械学習を活用して膨大なデータを学習し、そのデータを使って予測することをシステムに教えます。従来のAIは「学習済みのデータの中から適切な回答を探して提示する性質」を持っていましたが、生成AIは「0から1を生み出す」性質が特徴的です。

画像生成AIは、ユーザーがテキストを入力すると、その内容に応じてAIがオリジナル画像を生成するシステムです。デザイン業界をはじめとして、さまざまなクリエイティブ業界において、業務のサポートや新たなアイデアの創出などの幅広い活用が期待されています。」



因みに「生成AI」検索で「シンパーシー」を検索したら以下~

>「シンパシーとは、相手の感情に寄り添って自分事のように考えることを表すカタカナ英語です。

シンパシーには「同情」「共感」「あわれみ」といった意味があり、相手の痛みや不幸、悩み、悲しみを気の毒に思ったり、気にかけたりすることを表します。また、ある個人や状況に対して何かしてあげたいと思う気持ちを指すこともあります。

シンパシーとよく似た言葉に「エンパシー(empathy)」があります。エンパシーは「共感」という意味で、シンパシーと混同されやすい言葉です。エンパシーは、相手の立場に立って相手の考えや感情を想像することであり、シンパシーとは異なるニュアンスがあるといえるでしょう。

シンパシーは、ギリシャ語の「syn(一緒に)」と「pathos(苦痛)」が由来といわれています。シンパシーには「気の毒に思う」という意味もあるため、相手を哀れに思うニュアンスが強い言葉です。」<


このシンパシーを息子に聞いたら、「同調」と即答してきた!
私は「同情?」と聞き返したら「同情でなく、「ど・う・ちょう」と強調された。

私は、その息子の「同調」に大いに納得した!
何故なら、私の「シンパシー」疑問は、
自分の恋人を女友達に奪われた歌「杏里の悲しみが止まらない」の中での
♫「ふたりはシンパシー感じてた」♫、という歌詞だったからである。

(この曲名も「歌シンパーシー感じていた)とネット検索した結果である。
(忘れっぽい私に実に便利な道具♫♫♫)
しかし、この「生成AIの同情」では、私には違和感であったから…



以前も息子に、私の違和感があった別の「英単語の意味」を尋ねたら、
それもまた納得いく解説だった。

その時、息子は、(質問したカタカナ)は(そのカタカナ)として覚えている。
(聞いたカタカナ語を忘却)

これを「シンパシー」に言い変えるなら、
私は息子に、「英単語、どのよう覚えているの?」
息子曰く、「シンパシー」を日本語訳ではなく「シンパシー」として覚えている。
その時、理解できなかた「英単語・シンパシー」を「英単語・シンパシー」として覚えている意味を~


その後の私は、「同調」の言葉を聞いた私は以下のよう尋ねた!
私―「シンパシーを感情で覚えているのでしょう!」
息子―「…ニュアンスで記憶している!」

さてさて私は、早速「ニュアンス」を検索!以下~

>「ニュアンスとは、言葉や表現に含まれる微妙な意味や感じを指す言葉です。

ニュアンスは、直訳では表現しきれない細かな感情や意図、雰囲気を伝えるために用いられます。言葉の選び方や文脈、話者の意図によって大きく変わるため、正確な理解にはコミュニケーションの経験や文化的な背景知識が必要となります。

ニュアンスは、「意味合い」の言い換え表現としてよく使われます。ニュアンスという言葉が使われるのは、誰かの発言に含まれる微妙な意味合いや言葉の裏に隠された意図を示す時です。言葉での説明が難しい細かい違いや雰囲気を伝えたい場合には、ニュアンスという言葉を使うことが多いでしょう。

ニュアンスには、次のような意味もあります。

ある語・語句の持つ表面的な意味以外の、情緒的な意味や細かな意味
語句や文章の言外に表わされた意味や話し手の意図
絵画で、色の明度・彩度・色相の微妙な変化の現われ 」<


いや~息子の賢い中身を垣間見た気がした…



さてさて…

結論的に書くなら、

弁証法の認識論的な「対立物の統一」とは、

「対象の反映的認識と自己の問い掛け的認識の
「観念内・認識の統一」・「認識内・観念的な統一」の法則化~

そこでは、「反映されている対象像」と「その対象の全体像・想像とその部分像」の統一過程、
そして、「自己の問い掛け像と自己の理想とする問い掛け像」の統一過程、

端的には、
「現時点の事実的問い掛けと自己の求めている未来像的問い掛け」の統一過程、


反映されている現実への「人類的・社会的人間的・個人的人間的」視点からの問い掛け、
別言するなら、対象への「現象的・構造的・本質的」問い掛けでの統一、


これが、上記が私の現在の悟りの境地であろう。


いや~再読したら、分かるよで、良く分からない。
私の書きたい事のようで、でも少し違っている…ような違和感が…


それは、弁証法の「対立物の統一」を「悟った」!
それは、(認識内で「悟り」の「感情的・理性的」な統一が可能になった)状態。





対象との感情的統一とは、師範が説いている「風との統一」例で書くなら~
以下のような「風」感情で、現実の風への問い掛けでの、微妙な感情的統一の連続であろう。





>「また、風の強さを表す単位として「風力」があります。これは、風が物体に与える力の大きさを定義したもので、1806年にイギリスの海軍提督ビューフォート氏が提唱した13段階の風力階級が、1964年に世界気象機関に正式に採択されました。

風の強さは、急に吹く強い風(突風、疾風、陣風、早手)によっても表現されます。突風は、突然吹き出す強風で、数分間続いてのち収まるものです

小風、軽風、微風、薫風、軟風、光風。


風の哲学的表現としては、次のものがあります。

表現主義

感性論哲学

イメージ学

表現主義は、1905年からドイツ革命期にかけて展開されたドイツの芸術傾向です。美術を中心として文学、建築、演劇、音楽、映画に及んでいます。主観的な視点から世界を知覚し、感情的な表現を伝えるために形態を極端にゆがめることが特徴です。

感性論哲学は、哲学者の芳村思風が確立した「感性」を原理とする独創的な哲学です。日本人の哲学的思想的原理が「感性」であるとすれば、感性論哲学は、日本人による日本精神の哲学的な自覚表現であるとされています。

イメージ学は、風の表現を試みています。


風を表す文学的表現には、次のようなものがあります。

風薫る

風声鶴唳

花信風

風の音を表す四字熟語には「風声鶴唳」があります。「風声」は風の音、「鶴唳」はつるの鳴き声で、わずかな物音にもおびえるたとえです。

また、爽やかな風を表す表現には、次のようなものがあります。

小風、軽風、微風、薫風、軟風、光風。

冬の風の呼び方には、次のようなものがあります。

空っ風・乾っ風(からかぜ、からっかぜ)

寒風(かんぷう、さむかぜ)

木枯らし(こがらし)

北風(きたかぜ、ほくふう)

雪風(ゆきかぜ)

隙間風(すきまかぜ)

北颪(きたおろし)  」<


「生成AI」とは実に便利であろう。
しかし、検索している人間の感情が加味されていない…のが…機械であろうが…



私の現在・現時点での私の
「現実的な対象の反映と自分内の問い掛け的認識の統一」とは、

私の補助員生活での「眼前の不勉強な児童を勉強したい児童」へと
如何に、その児童の感情・認識を「変化・運動させるかを、
その児童の感情の「生々・生成・発展・衰退・消滅」を法則化する事であろう。


その為には~……この辺で…また「つづく」~




ドラマ「あれからどうした」は、2023年12月26日から12月28日までNHK総合で放送された作品です。佐藤雅彦、関友太郎、平瀬謙太朗による監督集団「5月」がオリジナルで、作・編集・演出を担当しています。

「あれからどうした」は、人間の「表と裏」を暴き出す、新しいスタイルのドラマです。居酒屋で飲んだ後、なにをしたかと聞かれた6人が、それぞれの思惑が入り交じった話をします。その嘘のできごと(音声)と、実際に体験したできごと(映像)が同時に提示されます。


たとえば、居酒屋で飲んだ仕事仲間の男女が、翌日会社で「あれからどうした?」と尋ね合うシーンがあります。それぞれが語る昨夜の出来事(音声)と、実際に体験した出来事(映像)が大きく食い違っています。



たとえば、居酒屋で飲んだ仕事仲間の男女が、翌日会社で「あれからどうした?」と尋ね合うシーンがあります。それぞれが語る昨夜の出来事(音声)と、実際に体験した出来事(映像)が大きく食い違っています。

【放送日】
NHK総合テレビ
12月26日(火) 夜11:00-11:44 第1話 「虚実の社員食堂」
12月27日(水) 夜11:00-11:44 第2話 「久保家の隠しごと」
12月28日(木) 夜11:00-11:44 第3話 「制服を脱いだ警察官」


(1)「虚実の社員食堂」

人間の表と裏を暴き出す新しい形のドラマ。夜、居酒屋で飲んだ仕事の同僚、西秀樹(戸次重幸)、三宅仁美(臼田あさ美)、斉藤和也(中島歩)、長谷雄大(田村健太郎)、小宮山浩(森田甘路)、山内陽菜(飯豊まりえ)の6人。翌日、社員食堂で昼食を共にし、前夜のその後の出来事を「あれからどうした?」と尋ね合う。

戸次重幸さん、臼田あさ美さん、中島歩さん、田村健太郎さん、森田甘路さん、飯豊まりえさんが出演する。ビジネス街にある証券会社。前夜、居酒屋で飲んだ6人の同僚が、社員食堂にたまたま集まり、昼食をともにすることに。そして前夜のその後の出来事を互いに尋ねあう。「あれからどうした?」と……。




(2)「久保家の隠しごと」

初回放送日: 2023年12月27日

久保家は、父・彰彦と母・祥子、高校生の娘・絵梨花と小学生の息子・航平に、犬のジョン。朝食を終えた久保家の4人は、それぞれ仕事や学校へ出かける。そして、1日が終わって夜の食卓についた4人は互いに尋ね合う…「あれからどうした?」それぞれが語る日中の出来事(音声)は、それぞれが実際に体験した出来事(映像)となぜか大きく食い違っている。


(3)「制服を脱いだ警察官」

初回放送日: 2023年12月28日

警察署の地域課に勤務する5人の警察官。昼休憩の談話室に集まった5人は、前日の夜、居酒屋を出た後、何をしていたのか互いに尋ね合う…「あれからどうした?」それぞれが語る昨夜の出来事(音声)は、それぞれが実際に体験した出来事(映像)となぜか大きく食い違っている






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集中認識とは?

2023-12-29 11:05:55 | 「わたし事・学」
集中認識とは?

今日の私の・私の今日の体験から、分かった事は以下です。

認識の集中は、目的意識的行為の結果の「ひとまとまり」。
目的意識の元に、集中して実行した事は、それは、「ひとまとまり」の感情化する。

以下が、その体験談である。

今日は、今年最後の燃えるゴミ「最終収集日」で、
朝起きて、「床の中での二分間の足上げ腹筋」・そのまま腕のストレッチ。
床から出て着替えて、カレンダに今日の気温・湿度(天気…今日は失念)。
愛猫マニャの二つの餌入れ・トイレの中の毎日の睡眠・トイレメモを持って一階へ、
そこでテレビを付けて石油ストーブに点火…
ここまでは徒然まま~今日出来事、それは、日によって少し変化するモノ。

さて、それからが、私の目的意識的な日々の習慣的な行為であり、今日の行動だった。
それは、今年・最終収集日の「ゴミ出し」。

その手順は以下。

先ず、一階の居間・食事部屋の屑籠の中のビニール袋を取り出し、それを持て二回へ
次の、二階では、息子の部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
次に、その隣の私が寝起している畳部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
二部屋の間の短い廊下に集められた「マニャの猫トイレの砂」を入れ、
また一階へ戻り、応接間の屑籠(二つある筈が今日は一つしか見つられず)のゴミビニール袋へ、
風呂場の脱衣所の屑籠のゴミ、最後に、居間・食事所のもう一つの屑箱を~
そして台所の屑籠、流しの排水溝と三角コーナーの水切りネットのゴミを全部集めたら、
最後に、それらを市指定の有料のゴミ袋へ入れて、
家の前の道路沿いに上からスーパーカゴを被せて置いて終了。

以上の記述は、「ゴミ出し」認識の集中の結果を言語表現したものである。

さてここから更に、
初めに、一階の台所の隣りの居間・食事所での「ゴミ入れ」認識の集中、
同様に、二階の息子部屋、畳部屋、その廊下…
そして、再度、一階の部屋・部屋…と外への「ゴミ出し」と続いて、完璧な「ゴミ出し」終了。

今、ここで私が、何を? 読者へ! 伝えたい!か?…は
tada氏分かって頂けるだろうと推測するが…


そう「ゴミ出し」認識が、全体的な「ひとまとまり」集中認識なら、
一階・二階の「ゴミ集め」認識は、部分的な「ひとまとまり」集中認識、
更に、二階の各部屋の「ゴミ集め」・「ひとまとまり」集中認識も部分集中認識。

ここの「ひとまとまり」の部分的な集中認識は、全体的な集中認識に「包括・包括」されているモノ。
私の「ゴミ出し」方法は、この元おやじ宅へ引っ越して以来、数年の自然成長的な「ゴミ集め・出し」の結果である。
元々の私のマンションでは、ゴミ集めも・出しも…もっともっとシンプルだった。

私は、オヤジ宅での、自然成長的な「ゴミ集め・出し」方法を確立して、
それらを「ひとまとまり」認識としている、のだろう~


そう~「全体的な集中認識」と「その部分としての集中認識」がとが、考えられる。
しかし、問題は、その全体も部分も、その当人が決めたモノ…
当人に目的意識的なの集中行為・行動の量質転化化した認識。


何を全体て、何を部分とするかは、
当人の目的意識の問題であり、非常に個性的な設定と言えよう。


これは、師範が御著書に書かれていた、
人類が、「森羅万象」から「万物」への概念創出・形成に数千年かかった…という言葉の想起。

もっとも…今まで、の私は、その理由・訳も分からずに「そうなんだ!」であったが…
また、空手技の「闘いから全体の部分的独立⇒個別技の誕生」も想起。


これは、人類が当初、現実界を「森羅」と「万象」に分け、
ここから対立物の統一として、「万物」と「ひとつにまとめ上げた?!

万神様から自然神、そして仏が神…
そうそう~多神教から一神教…

以上で~す♪♪♪また、続きを書く・書きたいかな…



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~これからここで始まる「自由びと物語」~

2023-12-24 13:09:49 | 「わたし事・学」
~これからここで始まる「自由びと物語」~

「これからここで」と「ここでこれから」の違いは?
「このブログ場所が重要か?」or「今この時が重要か?」
「先に書いた方が重要か?」or「後に書いた方が重要か?」

結局は~
~「これからここで・ここでこれから」「始める・始まる」わたし・自由びとの物語~

因みに、
ドラマと物語の違いは、
ドラマは「フィクション」。
物語は、ノンフィクションもある…そうである…

前回の検索だと↑だったのに…再度検索したら、
「ドラマと物語の違いは、ドラマは、ドラマならではの要素や設定、演出が採用されている。

これは、ある事実に対して「要素・設定・演出」が入るなら、
「それは、元は事実でも、ドラマ化されたらフィクション」。

真実の物語に、要素・設定・演出…がないなら「ノンフィクション」。と言う訳だろう。
真実の物語でも、要素・設定・演出に拘ったなら「フィクション」。


まあ~
上記のような「自由びと事・わたし事」を書きつつ、
その変化・運動性を自覚・認識する事で、
それらを「わたし自由びと学問」に仕立てられたらラッキー♪♪♪

さて~何故に「わたし学」なのか?
それは、家内が「五ヶ月ではない半年」の医者からの余命宣告を受けた時…
彼女が始めた「終活」ノートを少し読んだからである。
今から再度丁寧に読みここに書くなら、
以下のような記述~を読んだから~

↓↓↓

しゅうかつ を 考えなくてはいけなくなった。

こんなに唐突に

なんかだか魂が浮遊している~



何がいけなかったと
考えるのはよそう

免疫機能は強い方
つとめて笑顔で
カラオケやマッサージ、グルメで
ストレスもなし… 
              ま、よそう


心残りはいろいろあるけど
あきらめ きれないものはない

いろいろ先のばしにしてきたことが
今となっては くやまれる

       8、22


この前の数ページには、
過去の生育・成長…過程が箇条書きに書かれている。
それらの次のページ、上記の「8、22」の前ページには、


皆さんのおかげで
ここまで生きてきました
ほんとうにありがとう!!


今ここに、息子の家内への手紙が挟まっていた(私が挟んだのを忘れていた…)



ままへ


1~5歳の話聞けて嬉しかった。なんか手のかかる子どもだったらしいね。
育ててくれて、何より産んでくれてありがとう。
こんな幸せな人生を送れてとても感謝している。

優しいところ、我慢強くて努力家なところとか実は尊敬、

親と二人で
カフェとか買い物とかに行っている友達って
けっこう少なくて、いつも自慢してた。
親子だけど友達みたいに
話せたりしてめっちゃ楽しい。
すごくいい親子だと思う。
できる限り一緒に思い出を振り返りたいね。


育ててもらった恩返しがまだできない、  ま〇

↑の下にもう一枚!
私は「一枚だけ!」と問い掛け、「一枚」だと思い込んでいた。


どうやら…それが先の手紙だった、ようだ!

ママへ


突然のことで、ママが一番ショックを受けていると思う。気付けなくてごめん。
退院したら普通に買い物行ったり、テレビ見たり、ファミレス行ったりしたいね。
     日常のありがたさをすごい実感している。
今日もご飯つくったんだけど、ママに食べてほしい。美味しく作るから。

いつも優しくしてくれてありがとう。
口では大したこと言えなくけど、本当に感謝にしている。
面会はできない(コロナ流行で禁止)かわりに、お家で2人+2匹で待っている。

                2022 7 28

もう一冊の別ノートには~


2019 4 10  (まだ平成31年)、最近 むかしのちょっとしたことをふいに思い出す、脳の引き出しがさびつく前に書いておこうと思う

これって…以前、読んだ時から「終活」か、と思い込んでいたが…
実は、違っていた!


この間違いも、私の「問い掛け間違い」、
家内が元気な時に、読んでいたら、絶対に起きない「問い掛け」ミス!



さてさて…以上のような感じで、今日から、今から、このブログで
テーマ・「わたし自由びと事」から「わたし自由びと学」~初めての始まり・始まり」

略して「わたし事・学」かな…



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