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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

~学問的な解釈記述

2025-06-01 11:22:46 | 「わたし事・学」

~学問的な解釈記述~


昨日の以下の過去の記述について~


>そして、ある時にズボンをはいていたら、ズボンは見えていて、穿いている感覚もあるのに、でも…私は「このズボンは見えているが…きっと本当は存在していないし、穿いてもいない!に違いない!のでは?」と自分の視覚、触覚を否定して、感覚に疑いを抱いてしまった…のである。<

外界・感覚情報⇒>ズボンは見えていて、穿いている感覚<
内界・認識感覚⇒>ズボン…存在しない…穿いていない!<

上記二つの対立に対して、私の「問い掛け」的認識が~
⇒「変だ!」(感情的)「どうして(変)なんだろう?(理性的)」「どっちが正しい現実・事実(思考)?!」

この「どっち?」⇒「穿いているor穿いていない」の選択を、
私は、認識感覚情報ではなく、外界の感覚情報を優先して「穿いている!」にした!

その理由は、
「視覚情報-見えている」だけではなく…
「手での確認・触覚情報-ズボンのようなモノ感覚」があったから…


上記の「問い掛け」的認識―「何故・どうして?」―は「比較から生じている」~
たぶん私の認識中に「元認識像」(原風景)があり…

「見えているモノはある・存在する」・「触って感覚可能はモノはある・存在している」
これが、たぶん私の原則・元認識・原風景なのだろう。


それは、私が三歳の頃の遊び~
「金槌とクギ」で、毎日「ニー・トントン」と手当たり次第に、モノに釘を打ち込んでいた遊び~

母が生前に時々話していれた事。
叔父さんの革靴にクギを~
一度は、横になっている叔父さんの頭にクギを打ち込もうとしていた…そうです。
これは、進「視覚と触覚」を駆使した遊びだったのでしょうね…




「その時々の外界・対象」との相違に何故・どうして?」という問い掛け…
その「何故・どうして?」の解決法には「観念論」的・「唯物論」的があり得る。

観念論的とは、内界の認識・感情・情報優先…
唯物論的とは、外界からの現実的五感覚・情報優先…

上記の「ズボンの存在問題」に対して私は、
両目からの視覚情報・手の触覚情報を優先して「ズボン穿いている!」を信じた。


そもそも…ズボンが見えている・触った感じがあるのに…
「ズボンを穿いていない」という認識が変だ!おかしい!

初めにも「変だ!「おかしい!」と思わずに、「穿いていない!」思う事が異常事態だ!

この異常事態の発生が、日常心(平常心)が、普通のような生活なのに「非日常心(非常心)・異常状態の心状態)」…

しかし…そんな異常状態の「心」なのに…それでも私の中に正常な「理性」が存在していた。
それは、自分の内界認識ではなく外界の感覚情報・認識を「本当だと強く思えた・信じられたモノ(理性)」


どうですか?

「内界・感覚・感性と外界・感覚・理性」と「観念論的と唯物論的」~
「外界認識と内界認識」の対立物の統一から「問い掛け的認識の発生」~


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「弁証法性を帯びた」認識とは?!

2025-05-31 11:49:37 | 「わたし事・学」

「弁証法性を帯びた」認識とは?!


初めに、
現実界に~ある「mono」あり~

その「mono」と関わる~

認識内に~その「mono」が「物」現象形態化
↓↓
更に、その「物」と関わり続ける~
↓↓
認識内に~その物が「モノ」実態化~
↓↓↓
更に、その「物・モノ」と関わり続ける~
↓↓↓
認識内に~その「物・モノ」が、「もの」実体化~
↓↓↓↓
更に、その「物・モノ・もの」と関わり続ける~
↓↓↓↓
認識内に~その「物・モノ・もの」が「物自体」構造体化~


以上が、論理的に書かれた「弁証法性を帯びた認識」である!

この「弁証法性」とは~
ある「mono」⇒「物(現象形態)」生々→「モノ(実態)」生成→「もの(実体)」→発展「物自体(構造体)」の弁証法性~





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実感!「悟りを開くとは?何か!」を~

2025-05-29 18:49:20 | 「わたし事・学」


実感!「悟りを開くとは?何か!」を~

それは、自己の認識・像が、弁証法性を帯びた事の実感!
ならば、その「認識像が弁証法性を帯びた状態」とは?

そもそも…五感情像的な認識に論理レベルはない!
五感情像は、言うなれば経験・体験的な「本質像・概念像」ただ一つ!

その一つの概念像を人は、その人の現実的な生活レベルで「論理的な事実レベルで表現・駆使している」
そんな自己の概念像を その人が言語表現しようとうしても、それは、その人の論理レベル的な言語像にしかなり得ない。
専門家なら、その専門の概念像を、自己の能力レベルに合わせた専門用語で言語化するだろう。

しかし、その人の認識・頭脳活動が弁証法を帯びたなら…
その本質的な概念を「現象論・構造論・本質論」として言語化可能…

ただ…その時、その人が、その己の概念像を、
自己の求めるレベルで表現可能な言語能力があれば…だが…


概念像⇒言語表現とは、直接つながらない…モノだろう。
概念像⇒「言語表現能力・実力」⇒求める論理レベルの言語表現。



例えば、怒りの感情なら、

「相手に殴り掛かる」程の全身的な表現!
「バカ野郎!」と怒鳴って表現!
「私はとても怒っています!」と冷静な言語表現!
「腹が煮えくり返っている!」と感情的な言語表現!
「無視・無言」と無感情的な表現!



その認識は「怒り」という一つでも…
その感情色は、「十人十色」、その表現は「千差万別」!






弁証法性豊かな児童でも、言語表現能力がないなら、その自己の感情を教師の求めるレベルで表現不能。
または、自己の感情を、先生の求める姿形・行為・行動で表現不能。

児童・子供は、弁証法性が豊かでも…その表現方法が未熟(無知)!
本当は、その児童の、その概念に即して、合社会的な表現方法を叩き込むのが「学校教育」。


それは、教師が、眼前の児童の概念レベルの認識に即して、
集団における、その概念の正しい表現方法を習得・体得させる。


でも…でも…

悟りを開いた、弁証法を帯びた認識・頭脳活動なら、
その児童の言語表現・態度・表情のレベルに合わせた教育・指導が可能になり得る、のだろう。











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三位一体の話

2025-05-24 15:08:17 | 「わたし事・学」
三位一体の話


今の私の中には、二人の私の存在がある。

それは例えば今日なら~

ひとり目―「廊下にマニャ(愛猫)トイレの砂が零れているから掃除しよう!」と思う私。
ふたり目―「面倒だから今日はいいよ!今度にしようよ!」と思う私。
そして、二人で「そうだね…家には私独りだから、今日はまあいいっか!」と納得する私。

更に~この二人のやり取りを見ている・認識している私…

<正の私>⇔<反の私>⇔<合の私>(を見詰めている私)


「今タイピングしている『私』+『その私の中の[二人の私]」=三位一体の<独りの私>。


どうですか?
読者の皆さん!
この「三位一体」型は?!






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夢のお告げとは?

2025-05-17 08:06:21 | 「わたし事・学」

夢のお告げとは?


「夢とは脳が認識を使って勝手に描く像」(夢講義)
夢には、夜見る普通の夢 と 昼間見る白昼夢、がある。


熟睡中は人間の頭脳活動は、意志が眠っている故に本能的である。
その本能とは、その人間の本能レベルの変化運動。
夜見る夢は、その人間の本能レベル。
昼視る白昼夢は、その人の意志・希望・欲望・感情が絡んだ像。

さて…今日の「夢のお告げ問題」は、夜中三時頃にトイレに起きて、
眠れなくなった結果の私の葛藤から始まった。

今日・今回は以下の夢~

眠れず眠ろうと努力・頑張っている過程…目を閉じ「自律神経訓練法」的なリラックス~
その過程で…ある瞬間に「脳内像が、目を閉じているのに、鮮明化されている事」を感覚(気付く)。
そこで…ゆっくり落ち着き…その鮮明化を更に進める取り組みをする。
(これは、過去には何回もやり続けて来た行為…)

今回は、それが、今までより上手に出来て…更に、その像は以下のような鮮明化~

初めは、遠くにあった暗い街並み…それらがをゆっくり移動をしてくる(私が移動?)…
遠くに影絵のように黒く丸い頭、丸太棒のような手足・体…が動いている…
時に大勢人々の間を移動…そんな中で横に、顔に見覚えはないが全身ハッキリ見える一人男性…

これは「夢だ!」という自覚で見続けられる夢。
以前の同様な夢見の時は、とても速い移動だったが…今回はずっとスローレベルの移動だった。
全てが人工的な建物・町並みで…以前のように自然をイメージしたが…周囲の変化はなし…(変化不能)
これは、自己の意志で夢像を変えられない夢。
過去には、意志で人工建物から自然の空・雲・山々・樹々…と変えられたのに…
この両者の違いは、その時の意志の強弱・効果の相違。
これらは、夢の中で夢だと自覚可能な夢。


過去には、以下のような(夢と自覚不能だが不思議な)夢があった。

誰かとケンカで怒って思い切り蹴ったら(殴ったら)…足(手)が壁に当たり目覚めて「夢と知った」夢見。

気付くと…なんかイヤ所にいて、「夢と気付き」イヤで我慢不能になり起きたい「ウォーと叫んだら目覚めた」夢見。

最近、2024年4月12日(金)に見た夢は~
子供ともめていて、突然その子に噛み付かれて(どこか不明)とても痛い…
余りにも痛いのに噛み続けて(止めない)ので、私は食いちぎろうと思いっきり力を入れたら…
痛くて目が覚めた…なんと目の前に歯形がついて自分の一指し指が…

夢なのに、夢の中なのに…ここまで自分意志が影響するとは…


さて…今日の今回は、昨夜読んだ
「自由学藝[第四号]の
「弁証法的ものの見方考え方(4)」
の終わりの数ページの記述内容今朝の夢が追加され、その影響?!…
以下の私の想像・創造・見解が~

過去・大昔の我々人類が、まだまだ本能的だった
「ヒト的サル・サル的ヒト」の時代の「夢」とは何だろう?という問いが…

その答えは、
「サルの本能レベルの夢」を サル的ヒト・ヒト的サルが見ていた…という事を思い付いて。

その時代のサルの本能レベルなら、大自然の変化・運動を本能的に感覚可能…
それらを自覚・認識?してなんらかの形で伝え・表現したのでは…


そう~人間がまだまだヒト的・サル的…動物本能的だった時代の「夢」には実現・現実性があった…のだろう。

それら?彼ら!~
見えている大自然現象の像を、夢見で雷神像・風神像…
自然の背後にある見えない本質を「神様」…と夢見していたのかも…

そんな時代のヒト的サル達・サル的ヒト達・そして(ヒト的?)ヒト達は、
雷神様・風神様…神様…を本当の存在と(動物的な本能的部分から)本当の存在だと信じ切っていた…

過去の宗教が…学問的だった理由も以上、然り…
過去・大昔の学問?は、動物の本能には敵わなかった…のだろう。
というか…その大昔・時代は学問はなく、思い付き・工夫(技術・方法)の時代ですかね…


そうそう…
「夢のお告げ」とは、まだまだ本能的だったヒトが、
見た本能的な現実…だったのでしょうかね…


そんな動物的本能的だったヒト達が…星読みや預言者…教祖…だったのかもね…
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