~学問的な解釈記述~
昨日の以下の過去の記述について~
>そして、ある時にズボンをはいていたら、ズボンは見えていて、穿いている感覚もあるのに、でも…私は「このズボンは見えているが…きっと本当は存在していないし、穿いてもいない!に違いない!のでは?」と自分の視覚、触覚を否定して、感覚に疑いを抱いてしまった…のである。<
外界・感覚情報⇒>ズボンは見えていて、穿いている感覚<
内界・認識感覚⇒>ズボン…存在しない…穿いていない!<
上記二つの対立に対して、私の「問い掛け」的認識が~
⇒「変だ!」(感情的)「どうして(変)なんだろう?(理性的)」「どっちが正しい現実・事実(思考)?!」
この「どっち?」⇒「穿いているor穿いていない」の選択を、
私は、認識感覚情報ではなく、外界の感覚情報を優先して「穿いている!」にした!
その理由は、
「視覚情報-見えている」だけではなく…
「手での確認・触覚情報-ズボンのようなモノ感覚」があったから…
上記の「問い掛け」的認識―「何故・どうして?」―は「比較から生じている」~
たぶん私の認識中に「元認識像」(原風景)があり…
「見えているモノはある・存在する」・「触って感覚可能はモノはある・存在している」
これが、たぶん私の原則・元認識・原風景なのだろう。
それは、私が三歳の頃の遊び~
「金槌とクギ」で、毎日「ニー・トントン」と手当たり次第に、モノに釘を打ち込んでいた遊び~
母が生前に時々話していれた事。
叔父さんの革靴にクギを~
一度は、横になっている叔父さんの頭にクギを打ち込もうとしていた…そうです。
これは、進「視覚と触覚」を駆使した遊びだったのでしょうね…
「その時々の外界・対象」との相違に何故・どうして?」という問い掛け…
その「何故・どうして?」の解決法には「観念論」的・「唯物論」的があり得る。
観念論的とは、内界の認識・感情・情報優先…
唯物論的とは、外界からの現実的五感覚・情報優先…
上記の「ズボンの存在問題」に対して私は、
両目からの視覚情報・手の触覚情報を優先して「ズボン穿いている!」を信じた。
そもそも…ズボンが見えている・触った感じがあるのに…
「ズボンを穿いていない」という認識が変だ!おかしい!
初めにも「変だ!「おかしい!」と思わずに、「穿いていない!」思う事が異常事態だ!
この異常事態の発生が、日常心(平常心)が、普通のような生活なのに「非日常心(非常心)・異常状態の心状態)」…
しかし…そんな異常状態の「心」なのに…それでも私の中に正常な「理性」が存在していた。
それは、自分の内界認識ではなく外界の感覚情報・認識を「本当だと強く思えた・信じられたモノ(理性)」
どうですか?
「内界・感覚・感性と外界・感覚・理性」と「観念論的と唯物論的」~
「外界認識と内界認識」の対立物の統一から「問い掛け的認識の発生」~