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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「自由なココロ、そしてアタマ」の話

2025-01-07 10:18:56 | 自由論


「自由なココロ、そしてアタマ」の話

コメント欄に以下のように書いた。


そもそも…
一流になりたい「欲求」と
一流になりたい「思い」とは違います。

「欲求は感情」でも「思い(は)認識」です。
「欲求は、感覚・感じる事」
「思い・認識は、自分の意志で像を描くモノ」

私とお宅⇒「一流認識」vs「一流欲求」⇒「同じ一流」でも、その中身が異なっていますね…
これじゃ…私の「一流」がお宅には、「意味不明」だという事の「意味明確」になりましたね。




上記の内容について再考してみた!


そもそも…「思い」は認識・意志なのだろうか?
私は、勘違い・思い違いをしていないだろうか?



師範の御著書に「ココロ・アタマ」は、ともに認識・頭脳活動だから分ける事は至難?・意味がない?、
いったような事が書かれていた事を想い出した!が…続けよう!


一番下に転写したネット情報から以下のように考えてみた。

「腹が減った」は「空腹感」。
「何か食べたい」は「欲」。
そこで「ご飯が食べたい」は「欲求」。
更に「デザートも食べたい」は「欲望」。


そう~「思い」を抱く事は「ココロ」!?
そして~「思い」を明確にする事は「アタマ」!?




「何となく不快感」(ココロ)⇒「空腹感」(アタマ)。
⇒「ご飯(アタマ)」を「食べたい(ココロ)
⇒もっと何か食べたい(ココロ)⇒「デザートを食べたい(アタマ)

↑~このような交互の働き・運動かも…(私の感覚的な推測)


ここで「自由について」上記のように思惟するなら~
「自由なココロ」と「更なる自由を求めるアタマ」。
そして「自由について」書いているのは「アタマ」。

ココロの働きは「自由」に、その自由をアタマで認識したなら
ココロは「更なる自由」を欲し(ㇾべアップした「欲望」。
アタマの働きは、「更なる自由獲得」の為に「自由について思惟・表現しいる(意志)。

「自由」そのものを思惟して認識する事で、より目的・意識的に「自由の駆使」が可能。
    


端的には「自由なのは、感情ココロ」。
それを「表現し続けるのは・意志アタマ」


ここで「ココロ感情の自由度」と「アタマ表現・実行の自由度」の不一致格差が問題なのだろう。
それは、その時々の「ココロ感情の自由とアタマ表現の自由」(心と頭)の一致を求めから発生する問題。


この「二つの一致」の為の方法が「必然性の洞察」であり、
その手段が、「カン・コツ」や「科学的知識」の活用と言えよう…



「ココロの自由とアタマ表現の不自由」の解決法。
「アタマの不自由をココロの自由へ一致させる」
「ココロの自由をアタマの不自由に一致させる」

~転写~


人間の欲求とは、ある特定の状態や対象を求める心の状態を指し、生きる上で基本的な要求です。欲求は、生理的欲求や安全欲求、愛情欲求など様々な形で現れます。

心理学では、欲求が人間の行動を促し、目標を達成する原動力となることが研究されています。欲求が満たされることは、個人の幸福感や満足感に直結し、生活の質を向上させる重要な要素となります。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、人間の欲求は五つの階層に分けられるとする心理学理論「マズローの欲求5段階説」を提唱しました。この理論は、経営学やマーケティング戦略、マネジメントなど、ビジネスにおいても幅広く活用されています。



欲と欲求の違いは、欲は本能にそって自己の欲するところを求めるのに対し、欲求は何かをしたいという願いであることです。

欲求は、心理学において「動因」とも呼ばれ、目標に向かって行動を開始してその行動を続けようとする一連の働きを指します。たとえば、お腹が空いた(ご飯が食べたい)とか、恋人が欲しいといったものが欲求です。

一方、欲は、過去に欲求が充たされたという記憶があることで、その欲求をふたたび充たしてもらおうとして起こる幻想によってかきたてられるものです。たとえば「大金持ちになりたい」は欲望です。

動機づけのフロンティアへ #研究コラムVol.2|株式会社TALENT - note

2023/12/03 — 欲求の定義 人はなんらかの目標に向かって行動を開始して,目標を達成するためにその行動を続けようとする。 この一連の働きが動機づけmotivationである。 動...



note

意欲と欲と|通信大学の八洲学園大学[司書ほか

2009/10/26 — 欲は本能にそって自己の欲するところを求めることです。 また、意は心ですから、意欲とは心を働かせて自己の欲するところ求めることでしょう。

yashima.ac.jp

欲求と適応の心理学:欲求不満の解消法(心理学総合案内こころの散歩道)

何かをしたいという願いを「欲求(動因)」といいます。 たとえば、お腹が空いた(ご飯が食べたい)とか、恋人が欲しいとか。 心の中に欲求が生まれ、その欲求を満たせそうな「目標(誘因)」...


欲求と欲望の違いは、次のような点です。

哲学では、自分が満足して終わりという欲が「欲求」、決して満足しえない欲が「欲望」と区別されます。

心理学では、欲望は「何らかの目標を得ようとする際の内的状態」と定義され、要求や欲求とほぼ同義の用語です。ただし、無意識的なものではなく、意識されていることを強調する場合に用いられることがあります。

また、欲求と意志の違いは、次のような点です。

意志は行動に移っていなくても問題ないのに対し、欲求は何かしらの行動と結びついている必要があります。

欲求とは何か(心理学の捉え方) - 神戸松蔭女子学院大学

一応、心理学辞典(有斐閣)にも「欲望(desire)」は見出し語になっており、「何らかの目標を得ようとする際の内的状態。 要求ないし欲求とほぼ同義の用語であるが,この状態が無意識的...

神戸松蔭女子学院大学



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今年の抱負に足りないモノ~

2025-01-05 16:53:45 | 自由論
今年の抱負に足りないモノ~

自由びとの「今年の抱負」には「自由自在に私の思いを思い通りに表現・体現!」する表現力…と書かれている。
でも…その「自由自在に描いた自由びとの思い」の出所、そのような「表現力」求める理由が書かれていない。

そう~それらの表現力を求める理由は以下のようなモノ。


例えば、人が自分自身を見たい時、手や足…なら直接目で見える。
でも、自分の顔・表情…といった目で直接に確認不能な部分は、鏡を使って見ている。


それと似たモノに「自己の認識・観念」を確認する場合…がある。
頭脳内の認識・観念は、像として描かれている。
でも…観念像を肉眼で直接見る事は出来ない。


そこで、その認識像を言語化して、言語像として表現する~
その言語表現を肉眼で読んで感覚して認識して、
その言語表現から反映された認識像と その自己の頭脳内の観念像との一致・不一致の確認…。

その確認には、辞書・ネットの言葉の意味との比較・確認。
または、他人に話して、その他人的な認識・像を聞いて確認…


それは、言うなれば、我が全身の姿形を鏡に映して「確認」するように、
主観的な認識像を客観的な言語化・像して、
それと、その言語の理解・反映像として客観的像にして再確認する事。


その確認の為には、私の自由自在の思いを、
その思い通りに表現しなければ・出来なければ…である。


その表現の為の手段の一つに言語表現があり、
自分の思いを 思い通りに言語表現する為には
「言葉⇒語彙の意味・文法…」の規則・ルールに知り、それに則って書く・話す必要がある。

ただ…問題がある!
例えば、自分の思い通りの「やり方の思い」があり、
その思いの通りの「やり方」で実践した結果があり、
全てが思い通り…なのに、その成果・結果が「思い通りでない」事もある…


その場合は、目標も手段・方法も自由なのに…結果は不自由…という事。
この場合はどうする?



この不自由な結果を自由に変えるには、思いを変更すればいい!

一つ当初の目的・目標の変更。
一つ、その目的・目標到達の為の方法・手段の変更。である。
一つ、求める結果を変更する。


この場合に難しいのは、「求める結果」を変えるであるが…


例えば、
有名な野球選手になりたい…と思い、
頑張った結果当初の思いに反して「有名なテニス選手」になったとする。
ならば…野球選手ではなかったけど…「有名なスポーツ選手」になれた…だからOK!


でも…目標・目的を絶対の「変更は絶対に嫌!」の場合は、
その方法・手段の変更が必要になる。その時に必要なのが「自由とは必然性の洞察」。
その為に、有名な実力ある「野球選手」に、その方法・手段を求める…


その「必然性の洞察」に必要なのは、
その選手の生い立ち、環境、性格・体格、考え方・価値観…
可能な限りの「その選手の個別性」・「環境」・「体格・認識・精神」を知り、
彼の学校・過程・習い事…社会的な環境…

彼の練習法から直接~
彼とは違う「別人の自分が有名な野球選手になれる必然性ある練習法」は知り得ない。



で…私の「今年の抱負に足りないモノ」は?
それは、初めに「自由自在に描いた自由びとの思い」・「目的・目標の思い」あり、
次の「自由自在に描く方法・手段は、
目的・目標が達成可能な(自由・自在な)「方法・手段」を描く必要がある。

初めの「目的・目標」の自由度に対して~
次なる「方法・手段」の自由度は狭くなり~。
更には「結果・成果」に至っては一段と狭い自由度。


自由自在な自由度⇒狭い自由度⇒より狭い自由度~
そんな「自由度」の変化に耐え忍ぶ自由を求める事!




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自由から更なる自由への道

2024-12-29 12:17:05 | 自由論
今回は以下の「問い」「答え」から始めよう♪♪♪



問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」


そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。


人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。



でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!

人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!


自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。

生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。


そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。


人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。


ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。


ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた

他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…

という思考・思惟…で解決可能なのだろう…


私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。


結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」


例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。

または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。



人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。



ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…


ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~


コメント (7)
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「人生の終点」の話

2024-12-28 16:42:59 | 自由論
「人生の終点」の話


人生の終点は、全ての人間みな同じ「死亡」である。
誰かが言っていた!
「どうせ…死ぬなら毎日楽しく生きよう!」
「どうせ…いつか死ぬなら、今死んでも同じ!」
「人間、大金を稼いで大金持ちになっても…あの世には持って行けない!」
「人間、貧乏人も億万長者のゴールはみな同じ死だね!


人は何故お金を欲しがるのか?
それは、金があれば欲しいモノを変える豊かな生活が出来るから~?!
欲しいモノが、手に入る事で生活が豊かになる?!
欲しいのモノが手に入らない生活は豊かではない?!


原始人の生活は、豊かではなかった?!
人は何故に「豊かに生きる」事を求めるの?
そもそも…「豊かな生活」とは、どんな生活・どんな日々の過ごし方?

確かに「日々の生活」=空気を吸って、食糧を食べ、運動・休息して生きて行く事は生活事実。
では、「豊かな生活」とは、どんなモノ?
美味しい空気を吸って、美味しい食糧を食べ、楽しい運動をして、いつでもどこでも疲れたら休息して…そんな事実かな?

「美味しい」から豊か?
「楽しい」から、豊か?
「好きな時に休息できる」から豊か?

好きな事・食べたい物・やりたい事をして・やりたくない事をしない生活を求めて…
人は「お金」を求めい稼ぐのだろうか?

確かに「お金の為に働く」人々もいる…
しかし「お金は、働いた結果で、働く事に意味がある!」という人もいる。
野球選手の大谷は、金に為・金を稼ぐに野球選手をしているのだろうか?
否!彼は、彼の人生目標の達成為に野球選手を続けている…
彼は、普通の人々が、普通の生活では、一生かかっても使い切れない程「大金」稼いだ…ようである。
そんな大金持でも…
何回も身体的な怪我・故障…で手術を繰り返しても…
それでも~彼は「野球選手」を続けているのは…何故?



自分の思い達成を望んで、その為にお金を欲する者。
自分の思い描いたの実現の結果、「お金」が入って来る者。
お金なんか…どうでもいいし、持っていないのに…
自分の望んだ豊かな生活が出来ている者。


人は言う~
「お金があれば幸せ!」
「お金が無いけど幸せ!」
「お金があれば幸せが買える!」
「幸せは金が買うモノではなく、自分で創るモノ!」


では…「幸せ」って何?

その人が「幸せ」と感じた時が、その人の「幸せ」。

その「幸せ」に~
「自分の思い通りにできる」・「思い通りの結果が得られる」がある、
と私は思っている。

辞書によると~自由とは「他から制限されたり、邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできる事。」
そう~この「思い通りにできる事」が、自由だと辞書に書かれている。


ただ…
「自分の思い通りにできた!」から、と言って、
「自分の思い描いていた結果」が、得られるとは限らない。

そう~「~する・できた自由」に満足できても、
その「自由の成果」に満足できるとは限らない。

自分の思い通りにできる事が「幸せ」でも…
その自由の成果が「不幸」と言う事も起これ得る…だろう。


ここから始まる・始める自由びとの「自由な物語」かな?


その方向性は、以下を一読してね♪♪♪




http://satoritaihito.seesaa.net/
2024年12月: (旧)悟りを求めて…


2024年12月27日
ここから・今日からの始まり!


この自由びとブログ「悟りを求めて…」の始まりは以下~

開設の挨拶
2011-09-08 22:33:26

開設の挨拶
本「悟りを求めて」は、9月7日に開始予定であった。 そう、「善は急げ」と立ち上げたはいいが…論説が…まだであった。 そう、私は「悟りを求めて」、本ブログを開設する事にした、のである。 何故なら、新たな行動による体験は、今までに無かっただろう感情を呼び起こし、 その感情は今までになかった、新鮮な行動を誘発する!?かもしれない!からである。 そう、その感情、その行動から悟りへの道が拓かれるかも?!であるから…。 さあ~みなさんも、新たな一歩を踏み出..


そして…その思いは以下~

窮屈いっぱいの現代社会で。
自由に生きて行く為の悟りを求めて…
今この瞬間を共に生きてみませんか!?…

であったが…

そもそも「自由とは?」「悟りとは?」…
そして「自由と悟りり関係は?」…
それらの考察が足りないように今!感じ始めている…


自由について思考する為には「自由を識る事」
言語表現としての「自由」を識る為には、この言語の意味を知る・分かる・理解する事。

このように言語表現としての「自由」を知って分かって理解して…
初めて次に進める~それは現実の自由を考察して、そこから自由を識る事。

自由を求めているのに…その始まりが~
「自由を識る」事から!とは~如何に人間が不自由な存在かの証明であろう…



では「自由・じゆう」の意味とは、
例解新国語辞典[第四版]によると~
「他から制限されたり、邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできる事。」

この「自由」とは、「モノ」ではなく「コト」と言えよう。

その「現実の自由」には、初めに「自分の思い」があり、
次に、その思い通りに「出来る・する言動・行為」がある。


ただ…問題はこの辞書に書かれている「自由の意味」から考察を始める時点で…
既に自分の思いではない「自由の意味確認がある事」=不自由という事になる。
辞書に書かれているような「自由の意味・思い」は私にはなかった。
なのに…自由を求めてのブログ開設とは…
自己の強い思いなき自由は、自由とは言えない
自分に「自由という認識なき」行為・言動を「自由とは言えない」。


この事は、
自由についての自由な思考は不可能!という事。
自由とは、社会的に「自由」と思われる「コト」
自分自身の「思う・思っている自由」は、(辞書に書かれている)社会的な自由とは限らない。



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「勉強(する)」の話

2024-10-06 11:54:09 | 自由論

「勉強(する)」の話


以前から「勉強」について興味・関心があった。
そんな中、ブッタお宅のコメント「これもまた、勉強になりますね。」を頂き…
改めて、昨日ネット検索して以下の記述に遭遇した。


~~ネットから転写~~

「勉強」と「勉強する」は、意味が異なります。

「勉強」は、知識や技能を習得するために取り組む作業を指します。学校だけでなく、実用的な知識や技能を学ぶ場合にも広く使われます。

「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。

「勉強」の語源は「勉め、強いる」で、本来は気の進まないことを無理にするという意味でした。江戸時代には商人が頑張って、商品の値段をまける意味で使われていました。

~~転写終了~~


勉強とは、「勉めて強いる」事は、分かっていたが…
「勉強」と「勉強する」の意味の違いは、あまり意識していなかった。


学校の教科である「算数・国語・理科…」が、
勉強だと言われる理由を以下のように考えていた。


教科学習でも、
特に座学的に静かに解説・説明・知識…座って聞く教科は、
成長期の児童達にとって「座って静かに聞く授業」は、勉めて強いて静かに座りに続け聞く、事が必要。
だから、勉めて強いて勉強する必要があるから、、名詞で「勉強なのだろう」と考えた。


>「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。

この「ニュアンス」は、何となく分かっていた。
「面倒でやりたくない事」を、敢えてワザワザ勉めて強いる意味・意義は?
それは、その事を修得したなら、今ではなく、将来に役立つだろう!の予想され得る事だから。
それが「将来の為」という事だろう。

ここで問題が、
保護者・教員・大人達の予想する「将来の為のモノ」、
児童・生徒・学生・事も達の予想する「将来の為のモノ」…
その予想され得る「将来」像・「役立つ」像の異同であろう。


ユーチューバーになりたい小学生の将来に役立つ事は、
タイピング・パソコン操作…の技術的モノであり、
彼の勉強には、算数・理科・社会…は、入っていない。


最近の私は、児童が「めんどくさい!やりたくない!」と言うと、
必ず~
「めんどくさい!やりたくない!事をやるのが学校の勉強!」
「学校に来たら、確りやって下さい!勉強して下さい!」
と言う事にしている。



因みに、他人の言説・言動・行為・行動…を
「他山の石」・「反面教師」としての勉強もあり得る。

なので「これもまた、勉強になりますね。」が果たして
直接に手本・見習える(将来の為の)「勉強になります」なのか?
それとも、絶対やらない・マネしない「悪い手本の勉強になります」なのか…

言うなれば~
ブッタお宅の「勉強になります」の中身、
どうような形での勉強になったのかを知り得たら、
その時は、自由びと、もキット「勉強になり得る」のに…残念・無念…








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