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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「音」について…

2022-06-12 10:33:33 | 悟得びと認識論


今、再度、以下の記述を読み直したら…


<【イラストで解説】耳の仕組みと聞こえの仕組みって?わかりやすく解説します | Oh!みみなび (ohmiminavi.co.jp)>

音がどんなふうに耳から入り音として聞こえるのか
耳がどのようにして音を聞き取っているのかについて考える前に、
そもそも「音」とは何なのでしょうか。
その正体は、音がするスピーカーや声を出しているときの喉に触れてみるよく分かります。
ビリビリとした振動を感じると思いますが、その振動こそが「音」の正体です。
何かを叩いたり擦ったりしたときに空気中に振動が発生し、
これが耳に入り込むことで音として認識されています。


>これが耳に入り込むことで音として認識されています。<

上記の言葉に違和感が生じた。
私の中の「認識」とは、(南郷氏が定義している)「五感覚・感情像」(南郷氏の定義)。
人間の認識とは、視覚を中心に他の四感覚を統合・総合(ここが正確に思い出せない)した像・映像のようなモノ。

ならば、「音として認識」ではなく、「音としての感覚」だろうか?。

例えば、テレビに夢中のなっている時、母親から話しかけられても聞こえない。
でも、肩を叩かれて気付くと、そう言えば何か聞こえていたかも…と思う時がある。

この「聞こえていた」と思うのは、
頭脳内では、鼓膜から電気信号を受け取っていた。
それでも、他の事に夢中で聞こえていない、という事。

ならば、夢中になっている時、
「現実界に音はあっても、内界には音がない」

テレビに夢中だから、
「現実・隣に母親の音声もあった」でも…
「私の内界には前からのテレビからの音声だけ…」が…


テレビに夢中になっている時、私の認識している音は、テレビからの音だけである。
という事は、空気中の振動で鼓膜が振動させられて、
その刺激信号が頭脳に到着しても、感覚しない・認識しない限り、「音」ではない。

>これが耳に入り込むことで音として認識されています。<

外界の空気振動が、外耳内の空気に伝わり、鼓膜・小鼻骨を振動させ…
神経信号に変換され、それが頭脳に到着して感覚して、認識したモノが音。

耳に入り込んでも、まだ音ではない。
鼓膜を振動でも、まだ音ではない。
頭脳に到着でも、まだ音ではない。
信号・刺激を感覚しても、まだ音ではない。
その感覚が耳からのモノと認識して初めて「音」。

因みに、テレビに夢中の時の像とは、
テレビの映像と音を中心に描かれたモノ。

この時、認識は、テレビの映像と音声を中心でも以外の感覚もある。
しかし、当人は、テレビ以外のモノには、気付いていない・無自覚である。

人間にとって、外界の全ての音を自覚・認識する事は至難である。

本能は、全ての刺激を一瞬に感覚して、外界像を描く。
人間は、外界の全ての刺激を感覚していても、その時々の思い・感情で、自覚できない感覚もあり得る。







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「音・光」と「変化・運動」について…

2022-06-12 09:00:49 | 悟得びと認識論
今朝、寝床の中で、ふっと思った!
『「音」って、何だろう?』
『「声」って、どこから出ているのだろう?』
『舌?口?…喉?…お腹?…』

舌を動かさずにも音は出せる…でも、言葉にならない。
口を閉じても、音は出せる…でも言葉にならない。
口を閉じて、鼻をつまんだら音は出せない。
そもそも…口を閉じて、鼻をつまんだら、息ができない。
息が出来ない…そもそも空気を吸えない・出せない…

そこで思い出した
『そういえば…以前に購入した「新しい国語の教科書」が本棚にある…』

そこで、探し出し開いて読んだ。
そこには、音について色々な事が書かれていた。が…「音とは何か」を明確に書いていない。




そこで、今ネットで検索したら、
<「音」とは何だろうか? - 「音」とはいったい何だろうか!?



- Cute.Guides at 九州大学 Kyushu University (kyushu-u.ac.jp)>に

…前略…
「音」とは…   空気の揺れ(振動)  です。
……後略……
と書かれていた。




確かに「音とは、空気の振動」…と言える。
しかし、本当に、この説明だけで…いいのだろうか?

…空気は自分で振動するのだろうか?
…プールで水中にいる時も、音は聞こえる?!が…

人間が音を聞き取る感覚器官は「耳」。
そこで、「耳の構造」で検索したら、

<【イラストで解説】耳の仕組みと聞こえの仕組みって?わかりやすく解説します | Oh!みみなび (ohmiminavi.co.jp)>
音がどんなふうに耳から入り音として聞こえるのか
耳がどのようにして音を聞き取っているのかについて考える前に、
そもそも「音」とは何なのでしょうか。
その正体は、音がするスピーカーや声を出しているときの喉に触れてみるよく分かります。
ビリビリとした振動を感じると思いますが、その振動こそが「音」の正体です。
何かを叩いたり擦ったりしたときに空気中に振動が発生し、
これが耳に入り込むことで音として認識されています。
耳の構造
耳の構造は大きく3つ「外耳」「中耳」「内耳」からできています。

……
ここで改めて「耳には鼓膜がある」と思い出した。

すると…過去の以下のような体験が想起された。

ある日、突然に頭を動かすと…耳の中で「ゴソゴソ?」・ザワザワ?」…と音がする。
そこで耳鼻科病院へ…

今思い出した、
同じくある日・ある時、突然に目の玉が動く・動かすと「目の中に違和感」が…
「ザラザラ?」・「チクチク?」そんな感じ。そこで、眼科病院へ…行った。

耳鼻科では、耳の中に入っていた「髪の毛」をピンセットで取り出してもらって…耳の中の音は聞こえなくなった。
眼科では、睫毛を向いてもらって、違和感は消えた。

話はそれたが…
私は、音を以下のように考えた。
音とは、物体の運動が、周囲の水・空気…を運動させ、
その運動が人間の鼓膜を振動させた時、
人間は、その運動を「音」として感覚する。

待てよ…風の音は?「風」も音がする。
では、音とは、人間の鼓膜が、運動・振動させられて…どうなる?
耳の構造が不鮮明…





<耳の機能と構造 www.tanaka-ent.or.jp/mimi-kozo.html>

耳の構造と機能

ここでは、耳の構造(つくり)と機能(はたらき)について勉強しましょう。
耳の病気を理解するには、その仕組みについて知ることも大切です。

まずは耳の構造についてお話します。
“みみ”といいますと通常、耳介・外耳道・鼓膜までは知られています。
しかし、その奥には図のように中耳・内耳があります。


〈耳の構造と機能〉


私たちは音をどこで聞いているんでしょう?
そう、耳ですね。上の図を見てください。これは耳の構造です。
私たち耳鼻科医は耳を、外耳(がいじ)・中耳(ちゅうじ)・内耳(ないじ)という3つの部位に分類して考えるようにしています。

[外耳]
音は空気の振動です。まず、耳介(じかい)は音波を集めます。外耳道は音波を中耳(ちゅうじ)に伝える部分です。外耳道はラッパの管のように音を増幅させる効果があります。音波は鼓膜(こまく;外耳の奥にあるうすい膜:下図参照)を振動させます。この鼓膜の振動が中耳に伝わります。
ちなみに耳介は皮膚と軟骨からできています。外耳道の外側の3分の1は耳介とつづく軟骨からできており、内側(奥)の3分の2は骨からできています。これは外耳炎と中耳炎の痛みの鑑別に有用です。外耳道軟骨部をおおう皮膚には、耳毛や汗腺の一種である耳垢腺があり異物が入るのを防いでいます。耳垢(みみあか)もお役に立っているんです。


[中耳]


鼓膜の奥には鼓室(こしつ)があり、鼓膜には3つの耳小骨(鼓膜に“ツチ骨”・次に“キヌタ骨”・最後に“アブミ骨”)がつながっています。鼓膜に音が当たって振動すると、鼓膜に付着している耳小骨を経由して内耳に伝わります。耳小骨は、てこの原理で鼓膜の振動を約3倍にして内耳に伝えます。増幅器の働きですね。

中耳は空洞になっていて、内腔は粘膜で裏打されています。聞こえという機能を保つために粘膜はとても重要な働きをしています。まず換気機能(空気の入れ替え)です。空気圧が適正な圧(鼓膜の内外が同じ圧)でないと、鼓膜がうまく振動しません。太鼓の中の空気を吸引してしまったら、太鼓の皮がペコンと凹んでしまい、うまく鳴りそうな気がしないでしょう。それから排泄機能です。粘膜は粘液を出し再吸収します。その時、細菌の死骸なども吸収します。細菌は感染を起こしますし、その死骸は毒素を出し、粘膜を傷害します。この分泌・吸収のバランスが崩れると中耳腔が水浸しになります。また、太鼓を想像してください。中に水を入れたら太鼓はうまく響くわけありませんよね。中耳粘膜の大切さをわかっていただけましたでしょうか。

中耳腔は耳管で鼻の奥(上咽頭)とつながっています。中耳の粘膜の喚起・排泄機能は長時間・持続的な働きですが、耳管は短時間・断続的な働きです。


[内耳]
内耳は聴覚(聞こえ)を担当する蝸牛(かぎゅう)と平衡感覚(バランス)をつかさどる前庭(卵形嚢・球形嚢・三半規管)からできています。グルグル・クニャクニャしていますので、迷路とも呼びます。英語ではラビリンス。神秘的でしょ。

蝸牛とは“かたつむり”のことで、その形から名前が来ています。蝸牛にはリンパ液が入っていて、耳小骨の振動でリンパ液が揺れ、その揺れを感覚細胞(有毛細胞)がとらえて電気信号に変え蝸牛神経に伝えます。神経は電気で伝わります。
有毛細胞は蝸牛の内側に並んでいて、その場所によって担当する周波数(音の高さ)が違います。つまり、それぞれの持ち場があるということです。

電気信号は、蝸牛神経を通って大脳に伝えられ、大脳皮質の聴覚をつかさどる部位がその信号を認知・処理した時『音が聞こえた』と認識し、それが何の音なのかを識別します。

さて、内耳には聞こえだけでなくバランスもつかさどっています。卵形嚢・球形嚢は耳石系(先に石が載っている短い毛が密生しています)と呼ばれ、直線方向の動き・重力・遠心力を感知します。三半規管は回転運動を感知します。この信号は前庭神経に伝わります。センサーが過敏であればちょっとした頭位の変化を大げさにとらえてしまいグルグルまわりますし、鈍感であれば適切に頭位の変化を捉えることができずにバランスがとりにくくなってしまいます。また、前庭神経自体が傷害されても平衡障害をきたします。

蝸牛神経と前庭神経をあわせて、聴神経または内耳神経と呼び、8番目の脳神経です。平衡機能についてはまた別のページでお話いたします。

外耳・中耳・内耳のはたらきをわかっていただけたでしょうか?

ちなみに、外耳・中耳は音を振動としてキャッチしそれを伝えるはたらきをしますので、伝音系と呼びます。また、内耳は振動を電気信号に変換させるはたらきがあり、それを神経・脳へとつたえ音として感知・認識しますので感音系とよびます。


↑…

何て事ない…

ネットで検索すれば…「耳」と「音」についての事実的な事は一発で了解。


音とは、外界の運動・変化が、
人間の鼓膜を振動させ、それが神経を介して、
頭脳に到達した刺激・信号を音として感覚する。

そうそう…目の痛みは、
「逆さ睫毛」が、目の動きで、目玉の表面が擦られた、刺激でした。

ここまで、キーボードを打ちながら、考えてきて…気付きました。

感覚と感情、認識について、

感覚とは、聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚…それぞれ感覚。
人間は、認識とは、これら五感感覚の総合・統合・統括体。

音とは、モノの運動⇒運動エネルギーの結果を「音」として感覚する。

なら、光とは、素粒子の物質間の移動で生じる化学的変化・運動を「光」感覚する。

そうそう…
人間に聞こえないが、犬には聞こえる音がある。
人間に感覚不能でも、猫には見える光がある。

ならば、
物体の運動レベルの音、物質の運動レベルの音、分子・原子運動レベル動の音。
人間には、光と感覚不能な化学変化もあり得る?

人間に聞こえなくても、犬には音がある。
人間に見えなくても、猫には光がある。

↑~
因みに、今日の今回の記述は、

「外界・ネット(界)のパソコンでの検索」と「内界・頭脳内の思考・思惟・思索」の私的な結論でしたね。

↑↑↑
上記の記述は…思考過程の方法としては、まあまあかな?
この結論・書く方…まだまだ未熟で未完でしたね…

思索の中身について~
南郷氏の感覚・五感・認識…記述・内容の想起がまだまだ…でした。

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「像」で考えるなら~

2022-06-05 11:04:38 | 悟得びと認識論



以下のようなコメントから~



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
算数の計算は何の為~


・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
私がここで思ったのは、自由びとさんが私の「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」だというコメントを読んで新たに書いた記事に
「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさんと「像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別なんですよね。

まあ、そんなところなんですけどね。



↑~
私は、上記の記述を読んで思った!
『このお宅は、本当に… 』
『>像で考えるのと言葉で考える(文字や数字という記号で考える)のと」という区別<が…』
『分かっているのだろうか?』と…

そもそも
>「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」<…
この記述自体が像ではなく、
言葉で考えている事に、気付けているのだろうか?

例えば以下のような「像」で考えるなら…

ミカン3個とリンゴ3個、全部で何個? 

式は、  3個+3個=6個   (答え) 6個

これを、同じ数の3だから「3×2=6」で、正しい式と言えるだろうか?



では、ミカン三個とミカン三個、全部で何個? 
これなら、3×2=6で、よいと言えるだろうか?
掛け算で、計算するのは、正しいのだろうか?

掛け算を用いる場合とは、
一袋にミカンが3個、2袋では何個?

これなら
一袋+一袋⇒一袋×2⇒ 3個/袋×2袋=6個  6個~正解であろう。



以上のように…
「掛け算とは同じ数字を足し合わせた特殊な足し算」という事にはならない。
確かに「九九表」は、「1から9までの同じ数の足し算」と言えるだろうが…

掛け算の計算である「九九(表)」と「掛け算の適用場面」とを区別すべき…であろう。
この区別には、現実・場面の像で考える必要があるが…



またコメントの記述である~
>「同じ数字」ということから「では0×0は?」とか「0÷0は?」という方向にいった自由びとさん<

↑これは、間違いである。


算数の授業で黒板に書かれていたのが、
「同じ数の同士の割り算」と「0の入った掛け算」であり~

子供達が、「同じ数の割り算の答え=1」で、
「0の入った掛け算の答え=0」…  と記憶していたので…

「同じ数字」だからではなく、
「0」の特殊性から、0と0の計算を考えた…なら。


「0÷0」と「0×0」なら…子供達ならなんと、答えるだろうか…と、
想像してみたのである。


そもそも…算数の「0」とは?

人が3人で、腕は何本?  2本/人3人=6本
魚が三匹で、腕は何本?  0本/匹×3匹=0本

ミカンが三個入っている袋がない、ミカンは何個ある? 3個/袋×0袋=0




ならば…「0×0」とは?
初めの「0」とは、何もない「0」なら、
後ろの「0」とは、何もないモノが「0」個ある。

何もないモノを数える事は、不能である。
何もいないのに…それが人間(腕二本)か魚(腕0本)か、
どのように判断するのだろうか?

従って…「0×0」も数学的には兎も角…
算数問題・計算としては、可笑しい事になる…のだろう。


「0÷0」とは?

そもそも…a÷0とは、
a個のミカンを0人で分けると何個?

分ける人数が0人という事は、
全く分ける必要がない・分けられない…のに~
「割り算」で計算しようとしている…これは可笑しい!!!


これが、「引き算」で考えるならば、
8÷2⇒

8-2=6
6-2=4
4-2=2
2-2=0

8÷2=4(回)

8÷0=
8-0=8
8-0=8…
……永久に
「8-0」が、「0」になる事はない…

だから…割る数が「0」の割り算は、出来ない(割り算ではない)という事にもなろう。






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「勝ち」と「負け」について…

2022-05-07 12:27:47 | 悟得びと認識論
「勝ち」と「負け」について…

算数では「+」とは、足し算で、「-」とは引き算である。
でも、数学では、「+」と「-」には、加法・減法記号と、正・負の記号となる。

まず貯金なら~
貯金の増加(加法)は快感で「プラス感情」。
貯金の減少(減法)は不快で「マイナス感情」。

でも…借金なら
借金の増加は不快「マイナス感情」。
借金の減少は快感「プラス感情」。

それでも、
事業での借金の結果が利益拡大なら、「マイナス感情」と「プラス感情」となり得るだろう。

私の「勝ち・負け」の概念も「プラス・マイナス」と同様である。


さて私の上記のような基本概念を前提に以下のコメントから考えるなら~



以下のコメントについて…


理学でいう「リフレーミング」とは同じ事実、同じ事柄を別の(好ましい)フレームで考えるということですから、何かをした自分なり他人なりの評価を「勝ち負け」というフレームから別のフレームに移行することでしょう。

けれど、自由びとさんの考えでは「勝ち負け」という評価には拘泥するものの、それに対応する事実・現実を変えることですから。


私は全ての事柄を「勝ち負け」で考えることには賛成できかねますし、それは南郷先生の「私が何かを述べるときには科学的武道論の次元で説いているのではなく、學一般の次元で説いている」というのにも通じると思いますけど、
「勝ち負け」という評価で考えるべき事柄は世の中でそれほど多くはない気がするんです。


>「勝ち負け」という評価には拘泥するものの、それに対応する事実・現実を変えることですから。

私が、ここで「勝ちと負け」という言葉を使い続けるのは勝負論を論じるからであり、
「勝負論」なら、その勝負における「勝ち・負け」を決める必要があるからである。

ただ…その物事を「勝負」事の決めるのは、その者の認識である。
唯の練習・交流試合なら、楽しめればOKで、勝ち負けのなし…
もあり得る「ゲーム」でなり「勝負」ではない。

ケーム・試合に客観的な「勝ち・負け」はあっても、
そのゲームを当人が主観的に勝負と考えないなら主観的な「勝ち・負け」はなくなる。


勝負論で論じるなら、全てを勝負と捉えて論じるのが学問的な勝負論の使い方。「勝ち・負け」を設定しない・無くても、主観的・個人的に心の中で

「自分も相手も楽しめれば勝ち(++)」。
「自分だけ楽しめれば引き分け(+-)」。
「相手だけ楽しめたら引き分け(-+)」。
「相手も自分も楽しめなかったら負け(--)」。

~なんて主観的な
「勝ち・負け」を設定すれば、
それは勝負論で論じられる、だろう。



主観的な勝負から「勝ち・負けをも主観的に自由に決定可能である。
しかし、その主観的な「勝ち・負け」概念がコロコロと変わっていては、自己観念の一貫性を無くすだろうから…

これが、客観的な勝負なら、その「勝ち・負け」は私の主観の外にあるので、それに従えば問題ない、だろう。

私の「勝ち・負け」概念で捉えて書くなら~


ある考えが、学問(的な論理レベル)として正しい事は学問としての「勝ち+」。
でも、法律・規則違反なら、法律・規則として「負け-」。
それでも、個人的に容認可能なら、個人的に「勝ち+」。
でも、周囲の家族に迷惑をかけるので家族的には「負け-」。


辞書に載っている語彙には、その語彙の意味がある。
言うなれば、これが言葉の基本技といえよう。

そして、私の記述・発言した語彙は言葉になり、
そこには私の思い・考え…思考・思惟・思索・思弁の過程・結果・認識が表現されている。
それは、基本技の変化的な駆使であり、変化技とも言えるモノであろう。


どうやら…この一村氏は、「変化技」という言葉は使えても、
私の言葉を基本技(辞書・語彙的な意味)と変化技(私的認識の表現)として理解できていない…ようである。



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勝負について~

2022-05-05 12:58:27 | 悟得びと認識論

勝負について~

勝負とは、辞書によると「スポーツやゲーム等であるルールに従って勝ち負けを決める事」。

「勝ち」とは、辞書には「勝つ事」…しか書かれていない。


勝負を二重化するなら、
一つ、自分と他人との勝負。
一つ、自分と自分の勝負。

自分と他人の勝負なら現実的客観的に存在できている。

では、自分との自分の勝負とは何か?
それは、自己のアタマ(常識)と自己のココロ(感情)との勝負と言える。

客観的な勝負なら、どういう事が「勝ち」であるか決まっていての勝負。
でも、自分vs自分の主観的な勝負なら「何が勝ち」を自分で決められる。

例えば、時々に合わせて「何が勝ち」であるか変えられる。
時には、常識的に行動できたら「勝ち」、
または、非常識的でも思い通りに行動できたら「勝ち」


他人との勝負の過程でも、自分との勝負はあり得る。
例えば、『ここでシュートしたら失敗するかも…感情的な思い』という思い、
『イヤ!勝つ為には、ここでシュートだ!~勝つ為の考え』。

そして、シュートが決まれば成功=勝ち点となり得よう。
もっとも…このように考えるか否かは、当人の自由であるが…

また、現実のゲームでも、
例えば、個人的な目標として「今日はシュート10本決める」として、
試合では対手に負けても、自分の目標を達成できたなら、「主観的な勝ち」とも考えられる。

上達の為の勝負論では、その時々の「現実の勝負・勝ち方」中で、
「主観的な勝負・勝ち方」を上達に即して自由に決定可能である。

これが、勝負論と上達論の重層関係でもあろう。

何故に重層関係か、と言うなら、

そもそも、勝負は、時々の勝負と最終的な勝負が考えられからである。

例えば、
プロ野球選手になる事を目的に実力を披露する為の甲子園(勝負)での優勝…
とにかく甲子園へ行きたい、甲子園参加が目標の試合…
とにかく野球が好きで可能なら甲子園への試合。
楽しい野球をして行けたら甲子園の試合。

この場合、甲子園での多くの勝負もあれば、地区予選での多くの勝負もある。

その時々の勝負で、「勝利」を目標としていても、勝ち方・闘い方の目標は自由に設定可能である。
練習試合なら、時に守備強化を目的に試合で負けても、守備の強化に成功から、負けての勝ち。

プロ野球を目指して、甲子園で無理して優勝しても、
それで身体を壊したなら、試合に勝っても、プロにはなれない負けとも考えられる。


例えば以下の一村氏のコメント

>自由びとさんが言っている「勝負は結果で上達は課程」というのも「言いたいこと」は分からなくもないのですが、
ならば自由びとさんの専門?の教育(義務教育の小学校教育)では「教職課程を経て教員免許を取得するまで」が上達で、「教師として採用されてからの教室内での一時限、一時限」が真剣勝負、と考えていいですか?


そもそも人間の上達とは、生まれてから死ぬまである。

教師に必要な実体力~身体力・感覚・感情力の向上・上達と使い方の向上・上達。
教師に必要な認識力学力・知力…の向上・上達。


教師への道を歩む過程での上達・勝負(論)。
教師(として)のを歩む過程での上達・勝負(論)。



「教師として採用されてからの教室内での一時限、一時限」が真剣勝負、と考えていいですか?


ある行為・言動が
教師としての力量の向上の為のモノ(上達)か、
教師としての、この場を収める為のモノ(勝負)か、


こう考えるなら、
児童が騒がしくて教師が怒鳴る事は、
その場を静かにする事が全面でているモノと言えよう。

騒がしいなら、
静かに誰々さん聞こえますか?とか、
騒がしい中では、聞こえにくい音量に下げ話す…とか、
急に黙って児童達を見詰めるとか…
その為の方法は工夫次第で如何様にも可能であろう。


去年の一年生の担任は以下のような事を言っていた。

「怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣き、誉めたい時に褒める…」
「そんな感情的なのが人間的な教育でしょう」なんてね…

これは、人間の感情を教える・示す勝負論的な感情教育であり、
ここには、上達論的な観点での感情表現教育がない。
それは学校教育の目的の一部であろう。





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