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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

月研ぎさんの「距離」について…

2020-03-11 11:32:08 | 認識論
副題~「~二重化の為の距離の解消~」~

「距離」とは、「両者間の隔たり」である。




今朝、メールに
昨年の今日に、書いた記事が届いていた。
これは、「goo blog」のサービスである。

それは、
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/11b005c1ecd3a296b1041aa2ee0ee768 である。


~~~~転写~~~~

久しぶりの更新である。
家内と私の確定申告、父の準確定申告、
相続による不動産登記の移転手続き…等が終わって、
残るは相続税の申告書ひとつとなり、少々心の余裕が生じた。
だから、やっとのブログ更新である。

そこでそれなら、やっぱり月研ぎさんの約束だろう!と思い書くことにした。

以下は、月研ぎさんのコメント、である。

~~~~~~~~~~~

距離 (月研ぎ)
2019-01-19 23:24:03
せっかく自由びとさんが「教育」を
整理して列挙してくれたのですから、
その一つ一つのそして多重化する
具体的な過程(的構造)
を掘り下げてみませんか。

1)教師が学生に対する教育
2)教師が教師に対する教育
3)学生が学生に対する教育
4)学生が教師に対する教育

例えば、1)の過程で言うと、
教師と学生の間はあまりに
実力の相違という距離があるので、
一方向的になりがちですが、
教師と学生の間に日常よくある
「先輩」をはさみます、
すると途端に
1)と2)と3)と4)が重なり多重化します。

つまり、「距離」という概念で
教師と先輩と学生が相対化されます。

学生からは遠い教師像が
先輩からのより近い教師像を介して
学生により鮮明な教師像が描かれ、
教師は、その学生の距離の変化で、
学生像が更新される。

自由びとさんの展開
楽しみにしています。

………む以下省略………


~~~~転写終了~~~~


昨年、上記のコメント・記述を読んで時、私は「理解出来た、分かった」と思っていた。
でも今、再度読み進めたら、去年の私には分かっていなかった事に
気付き、その事が分かった。



それは、変化・運動について…であり…
それは、師範の全集第三巻を読み始めて気付いた事…
それは、「真理は二つ」について思い考え気付いた事…



そもそも、
「変化」が、変化と分かる・認識し得るとは?
「運動」が、運動と分かる・認識し得るとは?


変化とは、「あるモノ・コト」の様子・状態が、異なる・異なった事。
運動とは、「あるモノ」の位置が、異なる・異なった事。


ここで、変化にしても、運動としても、
対象は、同じ「あるモノ(コト)」の必要がある。

しかし、あるモノ・コトが、別のあるコト・モノに変化しているのに、
どうやって、その二つが同じモノと気付ける・知り得るのだろうか?


あるモノから別のあるモノへの変化が小さいのであれば、
あるモノ≒変化したあるモノ、ならば、同じ「あるモノ」と認識可能であろう。
運動における位置の移動も同様である。


変化を認識するには、
対象―今のそのモノ・コトと今以前のそのモノ・コトの比較・検討が不可欠である。

今の…とは、
今の眼前の、そのモノ・コトであり、

今以前の…とは、
自分の記憶の中、
または、他人の記憶の中…の、そのモノ・コトである。


今の…と今以前の…の
統一の結果を、そのモノ・コトの変化・運動と認識するのだろう。


さて、上記の


教師が学生への教育のポイントは、
教師が如何にして、どれだけ、学生との距離を縮め得るか!である。
その時の問題点は、教師一人に対して、数十人の学生…という事である。
もっとも…授業では多数であっても、個別もあり得るが…


教師が教師に対する教育のポイントは、
その両者が、互いに、どれだれ相手との距離を縮め得るか!
教員同士・大人同士なら、二重化の能力は、それなりにある筈…

学生が学生に対する教育の場合。
その学生二人の求める目標・到達点が、
確りと教師の求めるモノであるか否か?がポイント。


相互間の距離を縮める意義は、
それは、互いに同じモノ・コトを見る・感じる…為だろう。


教師⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒学生⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒目標………到達点・理想
学生⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒教師⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒目標………到達点・理想
学生⇒⇒⇒教師⇒⇒⇒教師⇒⇒⇒学生⇒⇒⇒⇒目標………到達点・理想



論理的に具体化するから、上記のようなパターンが考えられる。

教育成果達成の為には、
その相互間の距離・隔たりを可能な限り近付けられるか?であろう。
そして、その延長線上に、目標、到達点、理想…があり得ている事。

学生と教師の間に先輩・学生を…
学生と学生の間に教師を…
教師と教師の間に学生を…


全ては、
二重化の為に…
困難な二重化を容易なモノにする為に…
二重化の結果が、道を外れてしまわない為に…

その両者間の距離・隔たりを縮める為に、
変化を変化と認識し得る為に、
運動を運動と認識し得る為に、

変化を変化、運動を運動と自覚・認識し得たなら、
次からは、自力で、求める良き変化・運動を求めて…
認識活動を始められる、のだろう。




そのような事を「月研ぎ」さんは、言いたかったのだろう…と~
私は、自分勝手に納得・実感し得ているのだが…


前回のテーマが「~一体化の為の二重化~」だったので、
今回のテーマは「~二重化の為の距離の解消~」かな…















分からないのに、分かるつもり

2020-03-09 17:00:17 | 認識論



以下のコメントこそ、
分かっていなのに、分かったつもりコメントである。


>虚心に考えても真理はいくらでもあるものですから、
>そこを言語表現したならば「真理は無数、無限」でしょうけれど


↑~

無限にあるのは、事実であり、
現象論レベルの真理なのに…

やっぱり、分かっていないね!


構造レベルなら「真理は二つ」
本質論レベルとなると、「『真理は二つ』である」という、「一つの真理」となる、のでしょう。
「二つの真理」を統一した時、そこに「一つの真理」が生じる、のでしょうね。



こう書いても、無論理くんには、理解し難いだろうが…
どうぞ、阿呆な自由びとの戯言だと思って無視して下さいな!


これ以上、阿呆な自由びとブログに、書き込み続けるなら、
無論理くんも自由びとと仲間と思われ、「更なる激しい憤り…」ですよ!








▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「真理は二つ」とは?

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/2c16a9d2ff060c7544cf79492e79a5f0

・コメントを書いた人


・コメント
「真理が無数」ではなく「真理が二つ」というところがポイントでしょうね。
虚心に考えても真理はいくらでもあるものですから、そこを言語表現したならば「真理は無数、無限」でしょうけれど「2」という数字がポイントです。すなわち「南郷さんにとっての2という数」というのを読み取る必要があると考えますよ。
それで南郷さんに纏わる数で「2」といったなら「カントが世界を二本柱まで収斂させた」という南郷さんの「いわゆる」「構造論」というわけです。
南郷さんの学問体系は武谷三男の三段階論から拝借した「本質論、構造論、現象論」なわけで、そこから演繹したならば「無数、無限」というのは「現象」だという解釈となり、「2」という数字は「本質にあと一歩の「構造」」だという理屈になりますね。
ですから真理を「二つ」と述べたのは持説の「本質論、構造論、現象論」というフレームに呼び込むための「蟻地獄」というか「知的フェイント、知的罠」だと考えますよ。

・コメントの管理


動物の真理は一つ、それは本能のままに…
人間の場合は、本能と認識の二つの真理、となるのでしょう。


今だけを生きている本能主体の動物には、変化・運動を感覚し得ない。
変化も運動も、過去と今の比較から生じるモノだから、


「即自」とは、今だけを生き、今の自分しか認識不能なモノ…
「対自」とは、今を生きつつ、過去との対比が可能なモノ…






そう思い・考えたのは何故どうして…

2020-02-29 12:26:53 | 認識論



私は、何故・どうして、
『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』
と思ったのか?

私は、何故・どうして、
初めに「その時の解答が、『十進法だから!』」が
正解あると確信したのか?


これは記事・「論理・論理的について」で書いた、
その記述の中身への問いである。


コメント欄での、
無ソクラテスとのコメントの応酬で
気付い事は、以下のようなモノである。


1+1=2、2+3=5…
1を9個以下足した時の答えと、
1を10個足した時の答えを、
私は異なっていると認識していた。

しかし、無ソクラテスは、全て同じと認識している。
その私と無ラテスの認識の相違は何故?どこにあるか?  


ここで、奴の当然・当たり前が、
私には、そうでは、なかったという事に
私は気付かされた、という事である。


 

私は「十進法」だから」と結論している。
それは、十進法とは、十個足すと、
「位が上がる」、「桁が増える」、
「一桁が二けたになる」という事・意味であった。


1から9までの数字と10の違いは、
桁数の違いであり、その数字・記号の質の相違である…
そんな当然の・当たり前の事を文字化・表現し得ていなかった。
そんな事にも気付けた。

十進法では、1から9までの数字と0を組み合わせて、
全てのモノ・コトの数量表現を可能にしている。

これが二進法なら、1と0であり、
五進法なら、1から4と0である。

十進法が、
人類にとって有効な理由・生まれた理由は~
人類の指が10本だった、からだろう…


それは、それとして…
数字「1」とは、
事実ではなく、論理的である。

その理由は、
「1」 という数字は事実・現実であっても、
「1」=ひとつというモノ・事実・現実はないから、である。

あるのは、「1」ではなく、
1個のリンゴ、1個の果物、1個の食物、1個の果物…であるから、

では、「2」は?  それも「1」と同様である。
1個がリンゴなら、2個のリンゴ、
1個が果物なら、2個の果物…  であろう。


1は、ひとつの何かを1・「ひとつ」の数字で表現しているが…
2は、少々違う、2は1と1を合わせたふたつを2という「ひとつの数字」で表現している。
ひとつの数字での表現するとは、「ひと纏まり」・「ひと括り」という事なのだろう。


これは~
人類の脳細胞の集合体がひとつの頭脳であるから、
多種多様な世界・現実を認識・記憶…するには、
多くを全体を「ひとつ」として、認識する必要があったから、
なのだろう。


それに対して「10」は、ふたつの数字で十個を記して、
そのふたつの数字で、ひとつの数字としている。


だから「1」ひとつの表記と、
「10」と書かれた中の「1」とでは、
同じ「1」でも意味・中身が異なっている。



ドラえもんの「もしもボックス」があり、
「もしも世界が二進法だったら」~

二つが「10」であり、
モノを数える時は、
1、2、3、4、5、6…ではなく、
1、10、11、100、101、110…となり、

「1をふたつ足すと何故に10となるの?」という問いは生まれず、
ここは、同じく
「1を10個足すと何故「10」になるの?」


五進法の世界なら~
1、2、3、4、10、11、12、13…となり得るのだろう。
同様に
「1を10個足すと何故に「10」になるの?」であろうか…


私達は、二進法・五進法も十進法から捉え返したいるので、
1を10個たしたら、十進法だから「10」となる、は正解でも、

二進法だけで考えるなら、1を「10」個足したら、同じく「10」になり、
五進法だけなら、1を「10」足したら、同じく「10」になる。



そもそも、
「…進法」とは、その数だけ足したら、
「位が進む法」であり、
そのようなルール・規則でつくられた
数の体系だから…である。


だから、初めの問いである以下の~

『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』の
完璧な正解は~
人類が、そのように「十進法」の体系を創り上げたからである。

この場合の「十個」とは、
図で書けば

◎◎◎◎◎◎
◎◎◎◎◎◎

であり、
既に、ここは十進法表記である事は致しかたないが…
























問いと答えから~……

2020-02-24 11:13:01 | 認識論

問い、「1-1は?」
答え、「H!」}

問い、「1-1=?」
答え、「日!」

問い、「1+1=?」
答え、「田!」

問い、「1-1は?」
答え、「零!」

問い、「1-1=?」
答え、「0!」

問い、「1+1は?」
答え、「2!」

問い、「1+1=?」
答え、「二!」



問題、「Ⅰと-とⅠを横に続けて繋いで書いたら?
解答、「Ⅰ-ⅠでH です!」


問題、「Ⅰ-Ⅰ=を横と上下の組み合わせたら?」
解答、「Hの上下に=で田!」


問題、「Ⅰ-Ⅰを計算すると?」
解答、「0また零!」

問題、「Ⅰから1を引くと幾つ?」
解答、「答えは零です!」


問題、「右の計算をせよ、『Ⅰ-Ⅰ= 』。」
解答、「Ⅰ-Ⅰ=0」


以上のように書かれた事実から、

何を読み取りますか?
何が読み取れますか?

書き手のどんな意図・思い・認識…
を読み取りましたか?
が読み取れましたか?

ヒマな人は、お付き合いを~
忙しい人も、お付き合いを~
興味ある人、お付き合いを~  してもらえたら有難いですね♪♪♪








概念の概念化…について~

2020-01-09 12:45:04 | 認識論
概念の概念化…について~


「概念」とは、表現としての言葉であり、
「概念化」の概念とは、認識である。

なので、
概念の概念化を、
言い換えるなら、
概念の認識化である。

概念という言葉は、認識の表現である筈なのに、
その認識である「概念」の認識化とは、変に思える。



その理由を考えるなら、
私にとって、「概念」という言葉は、
他人の言葉・認識だからである。

他人の認識の表現である「概念」という言葉…
そんな言葉を私が使用しても、
その概念と言う言葉は、
私の認識の表現とはなり得ない。

だから、「概念の概念化」である。

「概念」とは、ある対象に対する五感情的な認識である。
この「五感情的」の中身は、

がい ねん [1] 【概念】
① ある事物の概括的で大まかな意味内容。
② 〘哲〙 〔英 concept; ドイツ Begriff〕 事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現(名辞)の意味内容。
㋐ 形式論理学では、個々の事物の抽象によって把握される一般的性質を指し、内包(意味内容)と外延(事物の集合)から構成される。
㋑ 経験論・心理学では、経験されたさまざまな観念内容を抽象化して概括する表象。
㋒ 合理論・観念論では、人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め、これによって初めて個別的経験も成り立つとする。 〔西周(にしあまね)「致知啓蒙」(1874年)にドイツ語 Begriff の訳語として載る〕 → 観念(補説欄)


概念:物事に対する共通の思考内容、またそれを言葉にしたもの


「概念」とは、上記のような言葉で表現可能な五感情的認識である、と言える。


概念は、直接に概念化はでき難い。
概念の概念化には先ずは、
個々の言葉の概念化から始め…

個々の言葉の、個々の概念を、
概念として概念化する必要があろう。


概念化=五感情化の為には、
その対象との関わり方が、
視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚を
バランスよく駆使され続ける必要があろう。


その対象の現在的な関わり、歴史的な関り、そして未来的な関り、
例えば、「犬」という概念の概念化には、
犬を飼う、子犬から老犬まで飼う・関わる。
他人の犬と関わる、犬の歴史を学ぶ。


「犬」の概念、「猫」の概念…から「ペット」の概念…
「親」の概念、「子」の概念…から「肉親」の概念…


生活の中で、
形成され続けている個々の「像」を概念として再認識する事で、
「概念」の像が、観えてくるようである。


「意味」の概念、
「規定」の概念、
「概念規定」の概念、


因みに、「概念の概念化」を「再措定」とも言うようである。