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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

目的意識(の二重性)について~

2019-11-23 12:27:50 | 認識論


「目的意識」とは、目的を意識する事。

このブログの目的は、
「書く事は考える事を実感・痛感」する事である~

ならば、「書く事」を意識し、「考える事」を意識し続けて、
ブログを書き続ける事が、「目的意識」の達成への道であろう。

しかし…
本当にそれだけの目的意識で満足してよいのだろうか?


先ほど洗濯物を干しながら以下のような事を思った。

この洗濯物干しの目的は、
濡れた衣類…等を乾かす事、である。
この目的を達成にするなら、早く的確を干せれば完了。


いつもなら、(こう考えて・思って?)
無自覚にサッサと急いでハンガーに掛けて終了の私だったが…

しかし今日は、旧・心に青雲ブログの読後だからだろうか…
『ここは膝を意識して張りつつ…』と思いやってみた。


これは、目的意識の二重化である。
一つは、洗濯物を干す為の目的意識行為。
一つは、その行動過程での膝・下半身を鍛える為の目的意識。

もっとも…効率的な洗濯物干しの為なら、
一つ、洗濯物干しの目的意識。
一つ最短・最速を目的とした手足の動作意識。だろうが…


これは、言うなれば
全体的目的意識と部分的目的意識。

生きている人間の目的は、
一つ、生存の為に今を生きる
一つ、未来創造の為に今を生きる。


一つ、生物として今を生きる事。
二つ、人間的(or動物的)に今を生きる事。



洗濯物干しを目的としたの行為にも、

① 、効率的な洗濯物干しの為の行為・動作。
② 、身体の部分的鍛錬を目的した動作。

の二通りの意識が可能である。



ただし…②を選択した場合…
例えば、
下半身なら膝や足首…等の部分を意識する必要から、
全体的にぎこちない動作になり得るだろう。


最近の私は、加齢・運動不足の為か、
身体の固さを痛感するようになった。

そんな私は、日常生活・勤務中に可能な限り
五体・手足を伸ばす動作をしている。

しかし…忙しい日常では、
「『身体・五体を伸ばそう』と意識する事」
を思い出すのはなかなか難しいモノである。









禅問答の正解について…

2019-10-20 17:31:26 | 認識論


ここ最近は、公案と縁遠かったが…
過去のブログ「悟りを求めて…」の
1916年の記事を再読して気が付いた。


それは、禅問答の正解について、である。

南郷先生が以下のような事を書いている。
「禅とは、問題を問題とする己を問題にして…」


ここから類推して、

禅問答の正解とは、
「全ての禅問いへの即答である」

それが、客観的に、正解・不正解は無関係であり、
己が、全ての解答を正解と確信しての即答である。

そこで、
少しでも迷ったり、躊躇したりすれば、
それは、不正解となり得る。


問題を問題としない認識とは、
全ての禅問いに瞬間的に返答可能な認識である。


問題ではなく、普通事なら、当然に迷いもなく、躊躇もない筈であろう。
問題ではないなら、考える事無く、普通に瞬時に返答・対応可能なのだろう。

全ての事柄が問題となり得ない認識こそが、禅的悟りと言えよう~

しかし、禅としての正解が、社会的には不正解になり得てしまう。
または、禅としての正解が、学問的には不正解になり得てしまう。
そして、禅としての正解が、道徳的には不正解になり得てしまう。


ここで、禅問答の正解が分かったところで、
日常生活で発生するのすべての事柄に対して、
瞬時に普通に対応可能になり得るのは至難であろう。


現代社会での「悟りとは、
宗教的悟り、学問的悟り、武道的悟り、
の統一なのだろうか?!


それは、全ての問いに対して学問的正解、武道的正解の即答であり、
「禅的感情」と「学問的頭脳」と「武道的実技」との三位一体化だろう…







続・「問題」とは何か?

2019-10-20 16:45:02 | 認識論
前回の記事<「問題」とは?>に、

例の如く、例のお宅から、
以下のようなコメントが~。


>……前略……「問題とは何か」との表題で綴られた文章の内容が「問題とは外界の実体でなく頭の中の観念である」みたいな、なんとも「ニンジンは鍋の外の調理器具ではなく鍋の中のカレーの中にある」みたいな「で、色々はいってますけど、どれがニンジン?」みたいな物言いで。……後略……




「問題」を「ニンジン」に例えるとは、
なんと的外れなのだろう。

そもそも「ニンジン」という言葉は、
ある特定の植物の事であり、
それは現実に存在してするモノを表している。

それに対して、
「問題」とは、以下のような意味・概念である。

問題とは~
①  学力や知識などを知る為に出す問い。
②  解決しなければならない、または、解決をせまられている事柄。
③  たくさんの人の話題になっている事柄。


問題の辞書的意味は、上記の三通りである。

① の「…出す問い」とは、実際に存在しているモノではあるが…
それでも、その問いは、特定の一つの問いではない。

② と③は、「…事柄」であるから、
この場合は、
初めから「問題」があるのではなく、
特定の個人、不特定多数の人々が、
特定ある事柄を「問題」とは感じ・思い・捉え「問題」が生まれたのである。

今、目の前に「問題」が、あったとしても、
人が変われば、「問題」の中身が変わる。

例えば、
ハムレットにとっては、
「生きるべきか?死ぬべきか?」、「それが問題だ!」

でも、別のある人にとっての問題とは、
「生きるか死ぬか」ではなく、
「どのように、生き抜くか」だったりもする。


このコメントを寄越したお宅の問題は、
分かっていないのに、分かったつもりで、
コメントを寄越している事なのだろう。

では、「分かっていないのに、分かったつもり」のどこが問題か?
それは、
己の認識を知らないのに、
己の認識の通りに生きている、
と確信している事であろうか…




小人と大人の違い

2019-10-10 11:10:16 | 認識論

「小人と大人の違い」、言い換えるなら、
「初心者と経験者の違い」。

小学校の児童達を観ていて思う事。
低学年から中学年、そして高学年の児童達の相違。
通常級から特別支援学級の児童達の相違。

先生の注意や指示に直ぐ従える児童とそうでない児童の相違。

それは、最近、私の始めたスマホのゲームを
やり続けている私の認識変化・成長と似ている。

そのゲーム、家内がやっていて、面白そうだから始めた。
当初は、全く訳も分からず、家内の真似や言う事を参考にやっていた。

だんだんと、クリヤーできた。クリヤーできなかった。
その違いから、
『こうすればクリヤー成功』⇔『ああしたから失敗』…
そんな事が分かってきた。

しかし、さっき成功したやり方が、今は失敗…となったりして…
なかなか、絶対に成功するクリヤー方法が修得でき難い。

自己のゲーム体験と他者(児童達)の成長観察で以下のような事を思った。


失敗は、初めから、その人の頭の中に「ある」モノではない。
失敗は、その人が、ある行為・行動から
心底、悔しい・悲しいといった不快感を実感した時、
それが失敗と認識されるモノなのだろう。

逆に、ある行為・行動から嬉しい・喜びといった快感を実感したなら
それは成功と認識される。

成功は、感情として人間の共通認識である。
しかし、その成功の行為・行動は中身は、
十人十色・千差万別であろう。


論理的には、己の目的と、その結果が合致したとき、
そこに快感・成功感が生じる。
目的と結果の合致がない時、それは失敗感となる。

例えば、テストを受ける時に、
その目的が
「満点を取る」
「確り勉強をする」
「休まずテストを受ける」
「前回より高い点数を取る」
「テストを楽しむ」
「テストに参加する事で実力を付ける」……

色々な目的の設定が可能である。
この時、極論として、
99点でも成功感のない児童、
0点でも。成功感のある児童、もあり得る。

もっとも…現代の学校では、
児童が0点を取って。褒める教師はないだろうから…
0点で成功感は、ありえないのだろうが…


私のやり始めたゲームのクリヤー状態とは、
ゲーム作成者が決めたモノである。

だから、私の成功感は、その製作者の認識に合わせる必要があろう。
それでも、「例えクリヤーできずともゲームを楽しむ」快感は持ち得る。

しかし、それは、ゲームの初心者の頃だけで、
そのゲームの上達を望むなら、
「ケームを楽しむ」てはなく、
「ゲームをクリーする」と目的を変更せざるを得ないモノであろう。


小学一年生が、学校での日々を楽しそうに笑顔で過ごす姿から、
高学年の児童達から、その笑顔が見られなくなっていく変化でもあろう。