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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

言葉による表現について…

2020-05-26 10:58:25 | 認識論


昨日、近くのダイソーへ買い物に行った。
商品のアラビアのりと木工ボンド、それにスティックのりを持って、
レジに並んでいた時に、以下のような放送が流れ・聞こえた。

…当店では、コロナウィルス感染症拡大防止の為に…
現在、最小人員で営業しています…
電話による在庫確認…、
店内での在庫・商品確認…は、
極力ご遠慮お願いします…

これを聞いて思った。
『これって、人員が少なく手が回らないから、なるべく黙って買い物しろ!って…』
『感染拡大予防なら、客だって同じ!』
『前もって電話で在庫確認するのも、外出を控える為…』
『店員に聞くのも、買い物時間の短縮…』
『全部が、こんな状態だから必要なのに…』
『それを「こんな状態だから極力遠慮しろ」とは?』


売る側・ダイソーとして、新型コロナウィルス感染拡大防止の為に、
人員を減らした事は、当然で間違いない事。

また、その為に電話・売り場での対応に手が回らない事も理解できる。
だからって、買い手に電話・店内での話しかけを遠慮しろ!とは…
どうなのだろうか?

買う方だって、店内での人との接触を最大限に控えるのは、
新型コロナウィルス感染症感染予防の為であり…

店内での買い物時間を最小限にする為に店員に聞くだろう…
電話による問い合わせ、もするだろう…

売る側・店の…予防対策遂行の為に、
買う側・客の…予防対策を止めろ!とは、

自己の利益しか考えない、なんという…自己中心的な思考。


ならば、自己・店と他者・客の実施対策実行を否定する事無く、
店側の思いを言葉にしたなら…以下のようになろうか


…当店では、コロナウィルス感染症拡大防止の為に…
現在、最小人員で営業しています…
電話での在庫確認…、
店内での在庫・商品確認…の際は、
行き届いた・適切な対応ができ難い場合があるかもしれません。
お客様には多大の迷惑をおかけする事もあるかもしれません。
当店としては、極力・そのような事がないように…


自分の対策・努力と相手の対策・努力を認めた上で、
その結果発生する自分側の問題点・サービスの不足を分かってもらう表現、
となろう。

共通の目的達成の為に、
相手に、××をしろ!、ではなく、

自分が、○○しているから
結果的に、迷惑かけるだろう…
それでも、お互いに頑張ろう!




初めのダイソーの言葉は、
店・自分の対策・努力を肯定・強調して、
客・相手の対策・努力を否定させる行動を要求している、事になる。

店は、客の予防・対策を直接否定してはいない。
しかし、客自身に予防・対策を否定するような行動を要求している。

勝ち⇔負け、成功⇔失敗、…の関係は、世の常であろう。
それでも、ウイン・ウインの関係もありえるのも事実である。


自分の立場・気持ち・思いを言葉で表現するのに、
直接的な表現でも、間接的な表現でも、
可能であろう。

そのどっちを選択するかは、
その言葉を発する者の認識次第であろう。


ダイソーは人ではないので認識がない。
だから、ダイソー○○店の認識は、直接は店長の認識であり、
間接的には、ダイソー経営者の認識となろう。













続・問題の捉え方と解き方」

2020-04-19 16:36:40 | 認識論
これは、「問題の捉え方と解き方」の続編である。
続編とは言っても、今回も数学。幾何…の問題に関わる訳ではない。

事実的な続編であれば、当然に数学・幾何…の問題であろうが…
ここでは、論理的な関り・関係性を問題としたいので…


「今回は、先ずは『障害について』から始める事とする」と
書いて、記事を書き終えたら、以下のような結論を得た。


問題の捉え方で、その解き方が変わる。
解き方が変われば、その問題に対する認識が変わる。

問題に対する認識を浅いままで終わるか、
深くするか、は問題の捉え方次第である。





以下が、続編で考えた事である。

「発達障害」とは、
どのような「障害…」なのか?
そもそも、「障害」とは何か?

それは、私は、ずっと「発達障害とは何か?」を分かりたくて、
ネット・書物を視たり・読んだりして~
また、現実的に彼らと関わり続けてもきた~

にも拘わらず、今一つ、分かり得ない、からである。



当初からの疑問とは、以下のようなモノである。

発達障害とは、
正常・普通な発達の邪魔をする何か?
それとも、
発達の結果であり日常生活での障害として現象している何か?

そもそも…「障害」とは?
辞書を調べるなら、
「障害」とは、何かをする時に、それを妨げて、邪魔をするモノゴト。
と書かれていた。



そこで、「身体障害」を思い描いた。

例えば、交通事故で右腕を失っていたなら、

右手で何かを持とうとする時、その右手がない事が「障害」となる。

でも、初めから「右手」を使おうという意識がないなら、右手がない事は障害とはなり得ない。
それでも、両手のある健常者同様な生活を欲するなら、右手なしは障害となり得る。

この時、右手を失って無くても、事故で神経が切断されて、使用不能なら
「右手なし」、と同様な障害が生じるだろう。

また、右手あり、神経の切断なし
それでも、何らかの理由で、右手が使えない場合…


これを足指の例で説くなら、私の知り合いに、
足指を手の指と同様に広げられて物を掴めたり、
足指を握って拳を作り、物を足指拳で殴れる者がいる。

このような事が、出来る事は、普通ではないが…
もし仮に、彼のような者が大勢であれば、
彼のように足指を駆使できない人は、障害者と言えよう。


現実的に、五体満足に誕生した人間には、
両足を両手と同様に駆使できる可能性を持っている。

でも…現代の社会生活では、その両足の発育・発達を阻害している。
もし…現代人が猿の同じように樹々でも生活を強いられていたなら、
両足を、両手同様にに駆使出来ない者達は「発達障害者」となり得る。

ここで、障害には、
①  身体・実体障害、
②  認識・機能障害、二つに分けられる。

大人なら、上記の二通りであろうが…
小人とくに、成長期の子供なら、
ここに「発育・発達障害」が加味される、から…

改めて書き直すなら、

五体満足の人の障害なら、

①  身体・実体の発育障害。
②  認識・機能の発達障害。


または、一般的な障害なら

①  身体的欠損による障害。
②  機能不作動による障害。




ここで、「認識の障害」が、
結果的に「実体の障害」(変形になり得る)


私の父親は、子供の頃から、洋裁店に小僧として見習いにいっていたそうである。
子供の頃から、洋裁ばさみを使用したからだろう…
父親の右手の小指は、変形していた。

(この説き方は、事実とは逆である事に気付いた。)

私が、子供の頃に、父の右手の小指の形が変な事に気付き
その理由を聞いたら、上記のようなに教えてくれた、でした。





ここで、今までに私が関わってきた「発達障害」児達を見るなら、
みんな五体満足・身体欠損はなかった。

初めの四年間は、知的障害がある「自閉症児」の「特別支援学級」勤務で、
その後二年間は、知的障害がない「情緒障害児」の「特別支援学級」である。


「知的障害」とは、
知能指数検査の結果が、70か60以下の児童で、
通常級での一斉授業について行けない児童達。

「情緒障害」とは、
知的障害はないが、集団・学級では
トラブル続きで一斉授業の妨げになり得る児童達。


「発達障害に」ついては、
自閉症スペクトラム・情緒障害以外にも、
様々な分類があるが、

現在、問題化している、子供達の「発達障害「の「障害」とは、

①  学校の一斉授業・集団活動の障害になり得るモノ、
②  その個人・児童の学習の障害になり得るモノ、

の二つが考えられる。


彼らの家庭生活を視るなら、
今の学級には、対照的な二人がいる。

一人低学年、賢く運動神経の抜群、母親は手に負えず、
よく担任に相談や話を聞いてもらっている。
学校では、彼がキレると、二十代の男性教員が二人係で抱きかかえ、
職員室へ連れていく程である。

本来は、説教・叱る…等の指導であるべきモノだが、
彼の場合、一度、キレると相手の学年にも関わらず、
我武者羅に向かって行き、蹴る・殴るの応酬…で
他の児童の怪我防止の為にである。

相手が逃げたり、その場にいない時は、周囲の机・椅子の蹴りまくり…
それは、もう大変なモノである。


もう一人は、高学年の児童で、
家では全く問題なく、良い子である。
ただ、その中身は、家ではいつも自分の好きな・やりたい事をやっていて、
両親は特に、その事に問題を抱いていない。

学校でも好きな教科は、積極瀧にり組むが、
嫌いだと、全くやろうとしない。

教師に対しても、好き。嫌いをハッキリ言うし、
いちいち彼の言い分目彼の理屈を主張し続ける。
知識は豊富だが、頭が固くね他人の理屈・言い分を売れ入れ難い、
運動神経もよくなく、走るのも遅く、真面目に走らない。

………さて~さて~………

長々と書き綴ってきたが、
ボチボチ結論的事を書かねばなるまい!

過去の今までの私は、仕事の対象であり、
自分が、知り分かる必要がある「発達障害」について、
ネット・書物に書かれた「発達障害」そのモノから分かろうとしていた。

しかし、それでは、日々私の目の当たりで展開している事実とは関連つけられず、
結局、書かれた言葉・記述は、役立たずに忘れ去られていく日々であった。


そこで、「発達障害」を「障害」から、
人間の障害から、考える事にした。

人間の障害を問題にするなら、
障害とは、

①  人間の目的達成の障害・邪魔のなるモノ、
②  自己の目的を達成できない人間・状態にするモノ、

ここの、
①  人間外部の環境・状況の問題
②  人間内部の発育・発達の問題

更には、
社会と、その目的との関係性?
そこから正当性・不当性…


で…取り敢えずは、

現代の日本社会で問題化している「発達障害」とは、
何の障害かと言えば、「集団活動・学校・学習」における「障害」だと分かった。
その理由は、単なる身体的障害なら、過去から現在までずっと問題視され続けているから…。


ここで、
新たな問題が、「発達障害」は、
薬を使用して、治せるモノだろうか?
薬の使用で、治してよいモノだろうか?


そもそも…
今、問退視している「発達障害」は、本当に「障害」足り得るのか?
その目的(学校での学習・集団生活)が変われば、
それらは、何ら「障害」として現象しないモノなのて゜は…


自閉症的ある児童、四六時中「自閉状態」ではない。
情緒障害であっても、いつもいつも暴れている訳でない。

彼らが、自閉的・暴れる…には、彼らなりの理由がある。
問題は、子供自身が、その理由・訳を自覚する事である。

仮に、どんなに、その理由・訳が正当・妥当であっても、「
だから、そこで「自閉する・暴れる」…では、

真の(自己の未来・将来に続くだろう)問題解決に至らない事を
自得・自覚する事であろうに…









問題の捉え方と解き方

2020-04-16 18:52:17 | 認識論


今朝、寝起きに、布団の中で、フっと思った。
『多角形の対角線の本数は?』…と。


三角形⇒0本。
四角形⇒2本。
五角形⇒5本。
六角形⇒9本。

上記の数字から、

N角形の対角線の数は、

「N×(N-3)÷2」という公式を思い出した。

ここで、(N-3)の「3」は、三角形の「3」だと納得していた、事を思い出した…
三角形では、対角線は「0」だから、「ひく3」だと納得していた。

しかし、フっと思った、
『全ては疑いうる』と…

そして思った、
『今の私は、この問題を多角形の問題として捉えている』と…

そこで思った、
『ならば、これを点と点しで作る直線の問題と捉えるなら』と…

点と直線では、
「ひとつの点では、直線が引けない」

直線は
「ふたつの点」以上で初めて引ける」
二点で一本、
三点では、一点と他の二点で、直線は六本引ける。


具体的には、点A、点B、点Cで書くなら、
AからBとC⇒ABとAC、
BからCとA⇒BCとBA、
CからAとB⇒CAとCB、

ここでは、
AB=BA、BC=CB、CA=AC


なので、三点で引ける直線は

3(点)×<3(点)-1(点)>(他の二点)÷2=3(本)


ならば、A、B、C、Dの四角形・四点では、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

4(頂点)×<4(頂点)-1(頂点>)(他の三点)÷2、

4×3÷2=6(本)


五角形ABCDEならば、
同様に、
AからB、C、D、E
BからC、D、E、A
CからD、E、A、B
DからE、A、B、C
EからA、B、C、D


5×4÷2=10(本)


ここで、3本,6本,10本とは、
以下のような各辺数と対角線の本数
の合計であるから、

三角形では、三本+0(対角線)=3
四角形では、四本+2(対角線)=6
五角形では、五本+5(対角線)=10
六角形では、六本+9(対角線)=15


三角形の対角線数⇒三本-三辺=0本、
四角形の対角線数⇒六本-四辺=2本、
五角形の対角線数⇒十本-五辺=5本、


これが、N角形なら、
N×(N-1)÷2-N となる。

今、これを通分して一つの式にするなら、

N×(N-1)÷2-N となる。
=N×(N-1)÷2-2N÷2
=<N×(N-1)-2×N>÷2
=(N×N-1×N-2×N)÷2
=(N×N-3×N)÷2
=N×( N-3 )÷2


ここで、問題の「3」が浮上してきた。

因みに、ネットで検索した、公式は以下である。




(頂点の数)×(頂点の数 – 3)÷ 2


上記の式は以下のように考え導かれた。


三角形では対角線は引けない。
三点では対角線は0本となる。

これは、左右隣に引かれた直線は多角形の辺となり、
対角線とはなり得ない、という事である。


四角形ABCDならば、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

AならAB、AD
BならBC、BA
CならCD、CB
DならDA、DC

全て多角形の辺となる。
四点全て。二点少なくなっている。

なので、
N角形の対角線の本数は、

N×(N-1-2)÷2
=N×(N-3)÷2




ここで結論を書くなら以下である。


この問題は二通りの思考法で解ける。
① 多角形の対角線の問題を、対角線の問題として解く。
② 対角線の問題を点と点を繋ぐ、直線の問題から解く。


さて~
だから何なの?
それはまた次回!

・つづく・















「弁証法」について…

2020-04-14 13:18:08 | 認識論


例えば、今、目の前で、A君とB君が取っ組み合いの喧嘩を始めた、とする。

ここには、三つの弁証法性が見て取れる(だろう)。

一つ、互いが喧嘩に至った、その気質・性格・精神の弁証法性。
二つ、それらを創り上げた家庭・学校・社会の弁証法性。
三つ、取っ組み合いで発生する物理的打撃による傷・怪我…の自然の弁証法性。




それら三つの弁証法性は混然一体的に働いているモノ。
それを一つ一つ分離して自覚・認識するのは至難であろう。

眼前の事実だけから弁証法性を見て取る事は不可能。
弁証法性は過去・現在・将来へと続いている・いく「性質」だから、
眼前の現在の事実から弁証法性を見て取るには、
その事実に関連する過去の事実想起が不可欠。

しかし、
現在の、その三位一体的事実に関連する
過去の事実があり得るだろうか?



上記の例なら、

違った二人同士の取っ組み合いの喧嘩ならあり得る。
同じ二人同士の口論ならあり得る。

しかし、
その二人が、過去に同じような取っ組み合いの喧嘩をしただろうか?
したとして、その時も、現代と同じように目撃出来ているだろうか?

また、いつもいつも取っ組み合いの喧嘩をしている者同士なら、
それは、それで、
初めての取っ組み合いの三位一体的な弁証法性と
取っ組み合いが日常化した後の三位一体的な弁証法性とでは、
それら三つのバランスに相違があるのだろう…

本当に、「三つのバランス」の問題だろうか?


AとBが、親しくない当時の取っ組み合いと
親しくなった現在の取っ組み合い、とでは、
個々の弁証法性は同じであっても、
二人の相手への思い・感情に相違があり、
現象する事実は同じであっても、
その心理・感情・認識…に大きな相違があり得る。

その時、
そこに精神と社会の弁証法性の相互浸透が見て取れる…かも?
喧嘩を通して、親しくなった者同士か…
減加ょ通して、憎しみを強くした者同士か…


そう~同じような状況で、同じような喧嘩をしているのなら、
そこに、精神・認識の弁証法性による量質転化化が起こり得ている。

「弁証法」とは、
見て取った過去の事実と現在の事実から、
それら事実同士の区別と連関から法則性を導き出し、
弁証法性を法則化いたモノであろう。






「二つ」について…

2020-03-11 12:12:02 | 認識論

どこかの原住民が、
「1、2、たくさん」と数えている・いたとか…


「たくさん」のモノ・コトを一つに集約可能である。
しかし、一つのモノに集約したら、そこに変化・運動はなくなってしまう。
そこで、変化・運動を可能にし続ける為には、一つでない方がよい。

ならば、「たくさん」をたくさんのままにしていていいだろう!
確かに、人類は「たくさん」いるから、たくさんをたくさんのままでもいいのかも知れない…

それは、たくさんの人類が集まれば、変化も運動も起こり得る、から…

それでも、人類の中の一人の人間が、
たくさんをたくさんのままで満足出来ずに、
一人でたくさんを把握しようと試みた、のだろう。

「たくさん」を少量ずつ集めて・纏めて、
少なめの「たくさん」にして、
その少なめの「たくさん」を集め・纏めて、より「少ないたくさん」

最終的に「一つ」に纏める前の「二つ」で止める。


それは、言うなれば、「二つ」と言う「一つ」の事である。
「二つ」であるから、変化・運動を起こし得る、のだろう。

「真理は一つ」とは、とても落ち着く言葉である。
「真理は二つ」とは、少々落ち着かない言葉である。


しかし…考えてみれば、人間が生きている事は、
変化・運動の真っ只中で、落ち着かないのが人間でもあるだろう。


落ち着かないから落ち着く為に「真理は一つ」を納得する人間もいるだろう。
確かに、死人なら「真理は一つ」=俺は死んだ、で問題もなかろうが…

生き活かしている人間が、より善き人生の為に、
「真理は一つ」では、真に役立たない、のだろう。


「真理は一つ」とは、「神(精神)が全て)」だろう。
「真理は二つ」とは、「全ては実体(モノ)と精神」だろう。


「真理は二つ」とは、構造論であるから…
現実生活で役立たせる為には、生活過程での、
その二つの具体化が必要なのだろう。


果たして、私は如何程に、
その二つの真理を、
一つずつ具現化可能なのだろう?
私の生活過程で…!


自分の真理と、対象の真理、
私の真理と、奴の真理、
教師の真理と学生の真理、
補助員の真理と子供・児童の真理、
自分の真理と世界の真理、
私の真理と家内の真理、
私の真理と息子の真理、
親の真理と父親の真理、
父親の真理と子供の真理、
社会の真理と世界の真理、