Carpe Diem

シンシナティ大学で都市計画を勉強していた、ある大学院生の物語。現在はマンハッタンで就活。

大学院留学 -回想-

2012-05-25 12:57:45 | study abroad
アメリカに来たのが去年の9月の中旬で、もうあっという間に1年目の大学院生活も終わろうとしている。ブログでも、生活の一瞬、一瞬について切り取って書いていったけど、なかなかまとめて書くチャンスというものがなかったので、いくつかのジャンルに分けて書いていく。ただここに書いてあることはかなりその都市や大学、そしてどんな人かでかなり異なってくると思うので、一般化は難しいと思うけど、できるだけ留学の性格が分かればと思い、書いていこうと思う。

そう言えば、何でアメリカの大学院に行こうと思ったのか、それについてちょっと話したい。実はそれは大学に留学する前から留学はしたいと思っていた。そのきっかけというのは長かった受験勉強が終わって、親戚がいる上海を久しぶりに訪れたときのことだった。とにかく受験勉強で体力的にも、精神的にもかなり消耗しきっていた為に色んなことに敏感になりすぎていたんだろう。そんな時に上海の一番にぎやかな通り、(日本なら渋谷のはち公前ぐらいかも)を歩いていた時に通りすがりの人から、「Are you Japanese?」と聞かれた。今だったらきっと何とも感じないような一言がその時はそのときの僕を大きく揺さぶった。ちょうど18、19歳のちょうどモラトリアムまっただ中だったのかも知れない。ずっとその一言が頭から抜けなくなってしまった。自分は中国人なのだろうか、日本人なのだろうか、半分中国人で半分日本人なのか。そんなことをひたすら悶々と悩んでいた。そのときその通りにいた中国人全員が大学に合格した自分より自分に自信があり、堂々としているように見えた。その時に「もしかしたら日本以外のところで勉強したら、もっと自分に自信の持てるような人になれるかもしれない。」そこから僕は大学で留学をしようと決意した。そのときは海外といったら漠然とアメリカと中国を思い描いていた。そして大学にもその両方への交換留学のプログラムがあった。その心境の変化と同時にその場で大学で習う英語以外の第2言語を以前から考えていたスペイン語から中国語に変えた。ただなぜ大学に入ってから交換留学は結局しなかった。交換留学だと授業料が安い、を初めとして多くのメリットがあった。それはうちの大学では交換留学すると理系、とくに建築をやっていたので留年は免れなかったのが大きなネックだった。もう大学に入る時点で浪人して一年遅れているのにさらに留学して、もう一年遅れる訳にはいかなかった。以前にこのことをアメリカの人に言ったら、一年遅れることをそんなに重大に捉えているのかと驚かれたことがある。今だから分かるけど、これって本当に日本(たぶん中国や韓国もそう)的な感覚なのだろう。そこで他のチャンスも余りなかったので2年の夏休みに1か月間だけ、ニュージーランドに短期の語学研修というのに参加してみた。その時はそんなに感じなかったのだけど、その経験が今のアメリカの大学院に来るのを大きく後押ししているのではないかと思う。特にはじめて空港に着いたときに話した英語がスムーズに現地の人に通じたのは大きかった。またその大学には日本人も多かったけどみんなオープンで海外にすごい関心を持っている友達を一緒に過ごせたのは次の一歩に進むモチベーションをくれた。僕みたいに大きな決断をいきなりできない人は何かきっかけのような一歩があった方がうまくいくのではないかと思う。その後の2年間半は建築の勉強が始まったこともあり、大学生活はとてもラフだった。建築をやりながら英語の勉強というのはなかなか難しかったし、なかなか周りにも海外の大学院に行きたいという人もいなかったので、ほとんど一人でTOEFLの勉強をしたりしなくてはいけなかったのは、大変だったし、心が途中で折れそうになったりした。ただ建築がそんなにできる方ではなかったので、少なくても人よりも優れているものを持ちたいという気持ちが英語の勉強に向かわせていた側面もあったりなんかするのかも。そんな孤立奮闘しているなか、3年の夏に行った山本理顕設計工場も大きなモチベーションになった。その時にちょうど割り振られたチューリッヒの空港に隣接する複合施設の国際コンペのチームに割り振られた時に5人ぐらいのスタッフの中で2人はドイツ人、そして2人の日本人の英語はかなり流暢で、その中でプロジェクトをできたことは多くのやる気を与えてくれ、もう一度海外の大学院で学びたいということを再発見させてくれた。それからこつこつとやって、4年生の時に研究室に配属されたときも色々とモチベーションと危機感を与えてもらった。研究室にアメリカの大学院で学んできた先生がいたのと、工学部にとても献身的にサポートしてくれた先生がいたことが今回の留学に大きな影響を与えてくれた。特に奨学金を応募する時に、そして推薦状を書いてもらった時は忙しいのにも関わらず時間を割いてくれた。またインターネットを通して知り合えたアメリカの大学院で国際開発を勉強していた人のブログで多くの情報を得ることができ、カナダに留学していた北大の先輩から色々なサポートをしてもらうことも大きな留学をする上でのサポートとなった。そして一人で立ち向かっていったことだから、途中で何度も心が折れそうになったときに、陰ながら信じて支えてくれた家族には本当に感謝でしかない。特に家族の支えがなかったら最後の、最後で心が折れて留学するのをやめようかと思っていた時に心配してくれ、励ましてくれたのがなければ今頃はまだ日本にいるかもしれなかった。留学する過程で自分の信念も確かにあったけど、多くの人たちの叱咤激励がなければ絶対に叶うことがなかった。本当に色んな人たちに支えられていると感じた時だった。でもその大変だった経験は絶対に活きている、そう感じる時が多々ある。

長い前置きになったけど、ここからは今のことについて書いていきたい。アメリカに来たのは2011年の9月11日、何でわざわざ911の10周年目にアメリカに来たのか、別に特別な意味はなくちょうどホテルなどの予約をしていたらこの日が一番都合が良かったのだ。ただ出発間際になると少し心配になってきたりもしていた、自分の乗る飛行機がシカゴ行きなだけに何かあるかもって心配していた。結局はそれは杞憂に終わった。乗った東京初の飛行機の乗客はみんな、アテンダントも含めて日本人だけだった。心配していたのが少しバカらしくなってきた。飛行機に乗っている間は本当に良く寝た、もとからどこででも寝れる体質なので。そして12時間ぐらいの飛行が終わり、シカゴのオヘア空港に着いて、乗り換えの為に空港で色々準備をしていた時にアメリカに着いたという実感が沸いてきた。みんな僕より横にも、縦にも1,6倍大きかった。このとき感じた「Welcome to America!」ってことを。飛行機を変えて、1時間半の飛行の後にシンシナティ空港に無事に着いたけど、いくら待っても荷物が出てこない。一緒の飛行機に乗っていた人たちは荷物を取るなり空港を後にしてそれぞれの場所に散っていった。ついに30分して僕とあともう一組だけのこされて荷物はついに出てこなかった。担当の職員に聞くと、荷物は違う空港に飛ばされたかもしれないとのこと。この時、感じた「Welcome to America2」だった。なぜか、その荷物は洋服などがほとんどだったのと、まぁアメリカだからと、どうにかなるでしょと考えていたのでそんなに重大にものごとは捉えていなかった。結局、荷物は次の日にモーテルに送られてきた。そんなこんなで始まったアメリカ生活の最初の3、4日は時差ぼけで昼間に眠くなったりしたりなど、思ったより体力的に大変だったのを覚えている。そんな中、大学の準備をする為に入寮、携帯の購入、学生カードの作成とか多くのことに時間を取られてあっという間に終わってしまった。英語はジェスチャーを使ったり、何度も繰り返していたりなどであまり会話ならば問題は多くなかった。しかし食べ物は出される度に量が多くて食べられなかったりなどした。そういう些細なカルチャーショックはあったものの、以前に何度か海外に行っていたこともあるせいか大きなものはなかった。少し間違えたなと感じたのは寮だったかもしれない、入寮の時に手続きしているのは周りを見回したらみんな白人だったこと。かなり場違いだったのかなと、少し後悔したりみたりした。案の定、ルームメートの3人とも白人で、中でもテーラーは格闘技をやっていて横にも縦にもかなり大きかったのが慣れるまでかなり掛かった。でも今ではルームメート同士で悩みなども相談出来る本当にいい友達だ。

そう、本格的な大学生活は学部のオリエンテーションから始まった。ちなみに全部の大学院生で集まったオリエンテーションや、学部生を交えたオリエンテーションはついに行われなかった。ここではじめて50人のクラスメートに会うことができた。以前にイベントなどで偶然会っていた友達もいたりしたので余り緊張することもなく先生たちの話を聞いて、そしてシンシナティをバスに乗って案内してもらったりした。この時はどちらかというと新しい友達を作るよりは、自分の担当教員に会ったり、自分たちがこれから2年間いるシンシナティについてのガイダンスのような意味合いが強かった。もう一年前のことであまり印象には残っていないのだけど、曇り空だということと、バスツアーの時の先生の英語が半分ぐらいしか聞き取れなかったことぐらいだ。そのオリエンテーションの2、3日後からいきなりクラスが始まるので授業についていけるかどうか心配だったけど、予想通り着いていけなかった。特にリスニングが余りできなかったので理解出来たのは全体の50パーセントぐらいで、先生が黒板を使って授業をすることはないのでノートの取り方とかも最初は慣れるまでかかった。また莫大な量のリーディングは最初はまるで歯が立たなかった。特に1回の授業で100ページ読んでこい、という授業があったり、50ページ読んでこい、という授業もあったりと。一番すごかった時は1週間で計200ページ出されたこともある。最初はやっきになり、1ページ目から最後まで読もうと試みたけど、ある時は途中で挫折し、ある時は最後まで読んだのにも結局全体で何が言いたかったのかメインのポイントが掴めなかったりと散々だった。しかし次第に1か月、2か月と時間が経っていくとリスニングも向上して先生の言っていることも大体分かってきたり、ノートもどこを取ればいいのか分かったり、リーディングもたくさん出される中でどこを押さえれば大丈夫かというのが分かったりと自然にしてきたので、特に心配する必要はないというのが僕の思うところ。ただ未だにクラスでのディスカッションでの発言というのはまだまだうまくいっていない。その理由としては専門の知識が浅いことと、アメリカの情勢についてまだ把握していないことが多いことなどが挙げられる。専門の知識というのは、クラスの多くの友達が大学を卒業した後に一度実社会に出て実践的な知識があるので、その友達に対抗しようとするのにはまだ知識が浅く、発言にもまだまだ説得力に欠けるということと、アメリカの経済や政治の話となると色々な専門用語、例えばVoucher、HOPE、Section8などその場所のコンテクストを知らないと全く議論についていけなくなる。逆に言えば、アメリカ人にとっても、留学生にとっても同じぐらいの知識しかない国際開発の授業などはしっかりとリーディングで準備をすれば発言のチャンスはあるということだ。この授業中にしっかり内容のあり、説得力のある発言することが次の課題になりそうだ。

ちょっとここまで来たので、専門の話をしたいと思う。シンシナティ大学でいま勉強している都市計画、それは最初に思い描いていたこととはかなり違う。まずアメリカに来るまえに大学院に期待していたのは、都市計画の専門の中でアメリカでもトップ10に入る国際開発という専攻の勉強を勉強して将来国際機関で働こうというかなり漠然とした感じのことだった。もちろん入学の時に提出したState of Purposeには色々としっかりした言葉を並べたけど、主な動機はこれだった。国際開発にしたのも、上海に生まれて、日本に来てという、一般的な日本人より国際性はあることと、どうせアメリカに行くんだったら日本にはない専門をやった方が面白いという天の邪鬼のような考え方と、できたら途上国に住んでいる貧しい人たちに少しでも協力していけたらと言う考えからだった。そして実際に入ってみてどうだったか。一言で表すなら、とても実践的。例えば大学院で習うことは、社会に出てすぐに使えるようなスキルを学べる機会が多い。例えばいまアメリカの多くの都市計画の分野で使われているGIS(地理情報システム)や、統計的なデータの処理、IllustratorやPhotoshopなどのスキルを身につけるクラスが多くを占めている。また大学のプログラムがデザインよりもアカデミック寄りなので毎回莫大な量のリーディングを課されて、その度に毎回5ページのペーパーを書いてこいといったものが多い。僕はこのプログラムに今でも抵抗を感じることがある。最初から思っていたのだけど、ここを卒業すれば技術や知識はある程度学ぶことができるけど、一番肝心の”心”、つまり何のために今の勉強があるのかということは誰も教えてくれない。実践的な知識や技術が手に入るけど、それを誰の為に、何の為に役に立てるのか、そこが一番肝心なのにそれは個人の裁量に任せるということ。ハーバードみたいに正義についての授業を思い描いていたのに全くそれらしきのはない。大学はみんなにエリートに使われる人を養成しているのだろうか、そう出ないでいてほしい。その人間として一番重要な部分を置き去りにしてほしくはない。大学院に来る目的が将来の人生の安泰や、高い給料がもらえるようになるだけならそんな大学院は遠慮したい。大学院に求めるのは知識や技術もそうだけど、一番重要なのは色んな人との出会いの中でもう一度自分を見つめ直す機会であってほしい、その為に本来は大学院がサポートする場所であってほしい。残念ながら、今の大学院の授業ではそういうことは学べないから、課外活動を通して、そして素敵な人たちと出会うことで学ぶしかないと考えている。ちょっと話が脱線したので、また専門の話に戻ると色んな意味で実践的だ。
日本で勉強する多くの都市計画なる授業がこちらでいうとほとんどが都市デザインに分類されるのではないかと思う。こちらでいう都市計画とはもっと幅が広く、経済や政治、文化に大きく依っている傾向がある。特にはじめてこちらの大学で履修した都市計画家の為の経済学では、都市計画で経済の原理がどのように働いているかということを理論的に分析したりした。この時にタームペーパーで書いたアフォーダブルハウジングに関しての考察では、簡単にいうと家を購入する人にとって嬉しい制度だけど、その背後にそれをサポートする為に一般の人から税金を取ったり、そしてそれは経済的に非合理だったり、またはそれが家の質にどう影響するのかなど、一般的には良さそうに聞こえる言葉や制度の裏には多くの矛盾が生じているということを実感することができたのは大きな勉強だった。またずっと夢にまでみた国際開発は本当にすごかった。何がすごかったかというとタフだったのと、学んだことも多かった、ということだ。この授業では毎回の授業で5、6つの20ページ以上の論文を予習で読んできて、それについて当日に指名された数人が要約し、そしてディスカッションするという授業で、それに加えてタームペーパーが最低20ページ、さらにTake Home Testというのまで課されてこの授業で読んだ量と書いた量は相当のものがあった。ただその分学んだことも多くて、読んだ論文は途上国を主に題材としていて、理論的な国際開発のパラダイムの変化というものから途上国のインフラの課題など多くの分野をカバーした。中で一番印象的だったのは、国際開発という専門を勉強するまでは何か一つの絶対的な正解が、数学の問題のように存在し、それを行えば世界は良くなる、そう言う考えが一度にひっくり返った。国際開発も、都市計画と同じようになるべく正解に近くなるようにと色んな方法を探っている段階である、そして何かをしたらそれに伴ってよい影響も、悪い影響もでてくるので絶対的にこれだという手法がないということだ。例えば、コロンビアの政府が国民に住宅を供給しようとして政府の金庫を開放して支援していたが、結局それは自分たちでも住宅を購入することのできる住民にまで支援が渡ってしまい、経済的に非効率的だったことと、それがさらに国の財政を圧迫する原因となり長続きしなかったという歴史がある。もちろん、これによってある程度の国民は国のサポートを得て、住宅を得たのも事実だけど。一見良さそうな制度や政策も、違った視点から見たら、違ったものが見えてくるというのが大学院で勉強して得られたもっとも大きなことかもしれない。また今学期はPlanning Theoryという必修授業では、ハワードのGarden CityやライトのBroadacre Cityなどのモダニズムの時の都市計画を勉強するのかと思いきや、先生の意向でPlanningのTheoryとPracticeのGapを橋渡しするクラスにしようとなり、プランナーの役割について勉強している。そこではモダニズムの都市計画家は地図を作製したり、模型を作ったりしていたことが多かったが、ポストモダニズムの都市計画家はもっとAdvocacyやCommunicatorになるべきではないのかという所から議論がスタートしているのは面白い。都市計画家がこれからの新しいパラダイムの中でどのような役割を果たしていくのか、そこは興味が尽きない分野である。そう、こういう授業は大学の都市計画学科がデザインよりなのか、アカデミック寄りなのか、またそれぞれの大学によっても大きく特徴が変わるということを友達から聞いたので、もしいくつかの大学院に合格したらぜひ説明会に行くことをお勧めしたい。

次に友達のことについて、ちょっと話をしたい。うちの都市計画学科の修士1年はおよそ50人のクラスで大体半分がアメリカ人の学生で、残り半分が海外からの学生という感じになっている。友達が数えた所によると13の国からやってきているというとてもバラエティに富んだクラスの構成となっている。何かそれが特別かと聞かれたら、そうでもないんじゃないかと答えると思う。例えば中国からの学生は9人いるけど、一人一人パーソナリティも違うし、あくまでどこの国からの学生というよりは、一人一人で捉えている気がする。とにかくうちのクラスは一緒にいるだけで楽しくなれる、そんな素敵なクラスなのが何よりも嬉しい。もちろん普段は課題に、仕事に、そして家族と時間を過ごしたりと色んなことに追われている人が多いからなかなかゆっくりと時間を取って話すこともできないけど、パーティになって人が集まるとお酒がなくても全然話が止まらないぐらいみんなノンストップで話すから、楽しくてしょうがない。僕は比較的何かをしゃべるよりはその場の雰囲気を楽しむタイプなのでとても楽だし、そういう素敵な友達に囲まれている時が幸せでしょうがない。またクラスメートも本当に多種多様でいろんな論理を持ったり、美学を持ったりしている人がいて驚きに耐えない。例えばドミニカ共和国から来たイコは、慎重が190cmもあるすらっと体型で、ドミニカで既に建築の修士まで持ち、大学の教授もしていたのに関わらず、アメリカ留学をしている友達。また自国ではセレブレティだったらしく、Facebookの友達も4900人というリミットぎりぎりというなかなか出会える人ではない。そういった世間から見たら成功者というレッテルを貼られているような人が近くにいて、一緒に勉強して悩みを共有出来るのは本当にこの大学に来てよかったと思う。周りから見たらすごい経歴で華やかに見えるけど、近くにいるから見えるそう言う人たちの悩みや苦労が垣間見えるのもとても勉強になる。またバングラディッシュから来たエミンは、バングラディッシュの東大と言われるダッカ大学を出て来ている。また数年、政府の機関で都市計画を担当していたかなりのエリート。そのエミンの都市計画の知識は半端ない。本当に何でも知っているのではないだろうか、そう思えるぐらい知識の引き出しが多い。他にも多くのすごい人たちがいるけど、本当に一人一人から学べることは勉強に限らず多い。またシンシナティ大学には日本人は今まで知っている中で20人ぐらいだろうか、その中の多くの人はモチベーションが高く、一緒にいるだけで頑張ろう、そう思える友達が多い。本当にこんな多くの素敵な人たちに囲まれて過ごせるこの2年間は大きな財産になるのではないかと思う。この一瞬が今までの人生の中で1、2番に楽しい。

最後に文字数もかなり限られてきたので、課外活動について触れて終わろうと思う。はじめてシンシナティ大学に来た時の印象は課外活動が少ないということだった。もちろんフリーピザとか、フリスビーのゲームみたいなものは多かったけど、僕が探していたのはあくまで自分を成長させるチャンスのようなものだったと思う。初めは全くなさそうに見えたのも、アメリカの生活に慣れて色々と友達つてや先生から伝ってくるのは色々とチャンスに溢れていた。最初の学期に参加した学校の環境について考えるSustainability Student Summitはシンシナティ大学でもモチベーションの高い学部生に多く会えたのが嬉しかった。特にこの時に感じたのはアメリカの一部の学生は意識が高く、自分たちでキャンパスや地域を良くしようという人がいて、そして大学側がやってくれるのを待つのではなく自分たちで団体を組織して、大学側や地域を巻き込みながら物事を進めていくという草の根的なリーダーシップのあり方を見せてもらった。さすがアメリカというのを見せられたというのはみんなで真剣な議論の後の夜は、ガンガンの音楽をかけた他人の結婚式に乱入してダンスをしたり、こじんまりとした部屋でお酒をみんなで飲みながらパーティをやったり、みんなでハグをし合ったりなど本当にアメリカ的なものを見ることができたのも面白かった。この時までハグには抵抗があったけど、この時を境にあまり抵抗がなくなった。次の学期ではシンシナティが地域を活性化する為の一般の人を対象としたCore Changeをいう3日連続のイベントに参加した。もともとシンシナティという街が工業化で繁栄をおおかした後の停滞に苦しんでいたこと、アメリカ人の傾向として一人一人が自分の住んでいる地域に何かしらの貢献をしたいという意識があるのもあり、ダウンタウンにあるミレニアムホテルに300人という人が集まり、これからのシンシナティという街はどうあるべきかということについて一人一人の意見を尊重しながら議論していた。イベントのテーマが都市計画にすごく関係するにもかかわらず、参加者のほとんどは都市計画の専門ではない人がほとんどで、その人たちの中から色々な面白しろい発想が出てきたりして、都市計画を勉強している一人の人間としてどういうことをしなければならないかということを考えさせられるきっかけとなった。そして今学期の初めにやったAct for Japanという東日本大震災のチャリティーボランティアはもしかしたらアメリカでやった受け身ではない行動だっただろう。それまでのイベントに参加してできていた問題意識に、多くの素敵な日本人の仲間のやる気が混ざり合わさってどうにか5日間で1000ドルの募金を募ることができた。アメリカでは一度誰かが走り出したら、それをサポートしてくれる体制ができているように感じるので、行動を起こすことへの抵抗が余りないというのは事実かもしれない。

そして本当の最後に、これから一年の抱負を。今までの一年が色んなことに手を出しすぎて全くfocusで来てなかったので、これからは何か一つのことに対して集中してしっかり結果を出していきたい。もちろん、次の一年はタイのインターンシップから始まり、就職活動、修士論文、そして普段通りの授業とすでに色々なものが予定されているけど、その合間をぬって今しかできないことに全力以上で取り組みたい。いつも常に思うは、将来もっとゆとりができたらやるって言うのは自分への言い訳でしかない。やりたいことがあったら今やろう、これからの人生で他にやりたいことができるだろうから。みんなと同じ人生はつまらないし、自分の人生が映画よりもつまらないなんてそんなのも許せない。今この一瞬を最大限に楽しんでいこう、そしてポジティブな連鎖を周囲にも及ぼそう。Carpe Diem。これで10000字。

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