史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(李広と司馬遷)

2019-03-15 | 漢武帝
武帝も晩年になると、漢帝国の発展も既に終息し、帝自身が歴史的な役割を終えていたこともあって、臣下にとって忖度すべきは帝の政治方針などではなく、単に主君の個人的な趣向に過ぎないことが多くなっていました。
一見すると臣下の方では基本的に同じことをしているだけなのですが、決定的に似て非なるところは、主君の所信に従い、これを実現すべく尽力するのが忠臣であるのに対して、主君の欲望を見抜き、これに迎合して媚び諂うのは佞臣だということです。
そして所謂佞臣の得意とするところは、劣情や私欲といった主君の悪徳から発した行為でさえ、尤もらしい理屈を設けて正当化し、良心から発する主君の罪悪感を鈍化させてしまうことであり、これを巧みにやられると、次第に常識的な是非善悪の区別すら付かないようになります。

同じく武帝の治世も晩期になると、帝の望むことが必ずしも国家にとって良いことではなく、帝の決定がそのまま漢の進むべき道とは言えなくなっており、帝の我意を通すことが却って国家の害になることも多くなっていました。
要はこれも武帝は同じことをしているに過ぎないのですが、帝と時代が合致しなくなったという点は別にして、やはりその似て非なるところを見てみれば、かつて帝の思考の中心にあったのは祖国漢であり、あくまで君主という公人としての意識が全ての基準だったのに対して、晩年の彼には公私の区別が殆ど無く、むしろ公の領域だけが極端に減少していました。
にも拘らず全知全能のような感覚だけはあるため、自分の思い通りに行かないことがあると、それを客観的に受け入れることができず(と言うよりそんな発想すらなく)、その責任は尽く臣下が押し付けられることになりました。

基本的に君主というのは、始皇帝や武帝のような専制君主ばかりでなく、唐の太宗や宋の高宗のような創業の名君であっても、君主自身が政策を立案するようなことは殆どありません。
政策面で君主が為すべきことは、大所高所から全体の指示を出すことと、上奏される案件に決裁を下すことであり、あくまで立案や実行は臣下の領分となります。
そして君主の命令が公明正大であれば、努力が報われることは分かっているので、臣下の方も正心誠意職務に励むでしょうし、君主の決裁が常に英明勇断であれば、臣下は競って良案を献策するでしょう。
逆に上意の多くが恣意や欲情から発していれば、臣下は誰しも吾身に害が及ぶことを恐れて、言われたことだけを無難にこなして責任を逃れるようになるでしょうし、その決裁が尽く暗愚独断であれば、国のために敢て建策する者など誰も居なくなるでしょう。
そして武帝の治世もまた前半と後半とでは、これとよく似た様相を呈していました。
 
また武帝が親政を始めた頃は、重臣の殆どが父親ほどの年齢であり、帝自身が若く柔軟だったこともあって、臣下の方も帝に対して率直な意見を述べることができましたし、帝もまたそれを素直に聞き入れていました。
しかし武帝も壮年期を過ぎると、既に彼自身が未曽有の大功を築き上げていたことに加えて、臣下の大半が年下となっていたため、絶対君主に対して面と向かって意見を言える者などいる筈もありませんでした。
従って年を追う毎に武帝の周りには、何に対しても「御尤もです」と言える者しか居なくなり、官僚の多くは主君の逆鱗に触れることを恐れて、なるべく余計な言動は慎むようになっていました。
要はかつて硬直化した官僚機構を打破して、漢朝の大改革を断行した武帝が、晩年は自分自身が原因で再び臣下を硬直させてしまった訳です。

そうした晩年の武帝と、優秀な臣下との間に起きた理不尽な事件の一つに、司馬遷が友人の李陵を弁護したところ、帝の怒りを買って宮刑に処せられた一件があります。
事の発端は帝の寵姫の李夫人と、お世辞にも有能とは言えないその次兄で、既に衛皇后が中高年期に入っていたこともあり、武帝は何人もの若い女性を愛していたのだが、中でもお気に入りの一人が李夫人でした。
李夫人には二人の兄が居り、長兄は楽人(音楽家)として武帝に仕えた李延年で、もともと妹と主君の縁結びをしたのも延年だったといいます。
そして次兄が弐師将軍李広利で、氏名こそ似ているものの、かつて文帝から武帝までの三代に仕えて、飛将軍と綽名された李広とは何の関係もありません。
因みに李陵の方はその李広の孫に当たり、代々の部門の家柄です。

後年軍人として紹介されることの多い李広利ですが、元来は武人でも何でもなく、かつての衛青と同様に、武帝が寵姫の兄に功名を立てさせんがために、俄に将軍に任じて抜擢したのが始まりです。
要するに武帝は、李夫人のために広利を封候してやりたいのですが、相応の功があって初めて封候するというのが漢の国法なので、まずは将軍として武功を挙げさせようとしたのでした。
無論名目上は李広利の功績となる戦場を、現地で実際に担当して勝利に導くのは、彼の下に配属された歴戦の将兵であるのは言うまでもありません。
しかし衛青が武帝の期待によく応えて、姉の夫でもある主君に空前の戦果を齎したのに対して、李広利には到底それだけの器量はなく、大事を任せても徒に祖国を疲弊させるばかりでした。
そもそも衛青や霍去病のような奇跡の人事を、寵姫の兄というだけの将軍に期待する方が間違っている訳ですから無理もありません。

武帝が李広利に大功を立てさせるための御膳立てとして、彼に与えた機会は大苑征伐でした。
もともと大苑は遥か遠方とは言え、漢帝国に比べれば国力そのものは微々たるものなので、それなりの才器を持った将帥が漢の精鋭を率いて行けば、それほど困難な戦役とは思われませんでした。
しかし未知なる地での過酷な行軍は、やはり李広利には荷の重過ぎる大役だったようで、結局彼は数万の大軍と共に西域へ向かったものの、然したる戦果を挙げることもなく、多くの兵士と食料を失って敦煌まで引き揚げてしまいました。
この失態に武帝は激怒し、玉門関から中へ入ることを許さず、再度の大苑征伐を命じると共に、国内からは無尽蔵とも言えるほどの大量の物資と、二十万人近い増援部隊を送らせるなど、文字通り国を挙げての後方支援を与えることで、ようやく大苑を降伏させました。

辛うじて勝利を得たものの、大苑からの帰路もまた困難な行程だったため、李広利が長安へ凱旋する頃には、彼に従って帰国できた兵は僅か一万に過ぎず、大苑が献上した三千頭の名馬は千頭にまで減っていましたが、武帝は敢てこれを咎めることもなく、李広利は晴れて封候を許されました。
しかし元より余り褒められた勝利ではなかったのに加えて、この戦争に費やした国庫の負担も甚大なものだったため、その汚名を返上して封候に見合うだけの功績を与えるべく、武帝は次なる戦場として李広利に匈奴征伐を命じました。
確かに衛青等による対匈奴戦の勝利以降も、国境付近での紛争そのものは続いていたとは言え、果してここで匈奴遠征をする必要があったかどうかは不明です。
そして先に匈奴の地へ進軍していた李広利の支援部隊として、数千の歩兵を率いて出立したのが李陵でした。

しかし李陵は李広利と合流する前に、数倍の匈奴兵による迎撃を受けてしまい、敵兵一万を討ち取るなど孤軍奮闘したものの、最後は衆寡敵せず匈奴に降伏しました。
実際にはそこへ至るまでの間に様々な経緯がある訳ですが、李陵降伏の報せを受けた武帝は激怒し、群臣を集めて彼(とその親族)の処分を議論させました。
そして多くの臣下が主君の喜怒に迎合して李陵を非難する中で、ただ一人彼を弁護して無実を主張したのが司馬遷だったのです。
確かに公平な立場で見れば李陵に罪はなく、もし死力を尽くした上での降伏まで罪に問われるならば、自軍の何倍もの大軍と遭遇した部隊には、始めから無駄な戦闘などせずにさっさと降伏するか、さもなくば降伏を拒否して玉砕する以外に道はなくなります。
無論少ない兵力で敵を破ればそれに越したことはないでしょうが、それは戦法として常に求めるべきものではありません。
しかし司馬遷の弁論は武帝の賛同を得るどころか、却ってその怒りに火を注ぐ結果になりました。

もともと老いたりとは言え武帝は英主なので、その潜在的な意識の中では、李陵に罪がないことくらいは百も承知なのです。
そして心の底で武帝が怒りを覚えている相手は、他ならぬ李広利その人なのであって、彼に怒りの矛先を向けることができないため、それを李陵や司馬遷へ転嫁しているに過ぎません。
群臣の多くは既にそれを弁えているので、敢て主君の意向に逆らおうともしないのですが、司馬遷のような万世に名を残すほどの才人は、却ってそうした人間の機知に疎かったのかも知れません。
李陵を弁護したことにより司馬遷が被った罪状というのは、その行為が弐師将軍を誹って陥れようとするものだという無茶苦茶な内容で、司馬遷は武帝の命により投獄され、正規の司法の手順を経ることなく死刑が決定しました。

結局司馬遷は宮刑を受けることで死刑を免れ、宦官となった後も生涯漢朝に仕えましたが、そもそも今回の李陵弁護の一件は、武帝の方が群臣に意見を求めたもので、司馬遷が主君の決定を不服として上書した訳ではありません。
言わば司馬遷は他の廷臣も居る前で自分の率直な考えを述べたに過ぎず、その発言が(たとい正論であっても)武帝の不興を買ったというだけで有無を言わさず死刑というのは、もはや国家が正常に機能していないことを意味していました。
何より君主によるこうした横暴が日常的に発生するようでは、本来ならば手放すべきではない賢良で忠実な人材ほど武帝とは距離を置くようになります。
かつては渇したように人材を求め、郷挙里選を施行して帝国全土から有徳者を集めた武帝が、晩年は自分の不徳が原因で次々に人材を失ってしまった訳ですから、何とも皮肉な話です。

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