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河野景子「相撲部屋のおかみを卒業し、人生の第3章で感性の合うパートナーと出会った」

2021-07-13 13:30:00 | 日記

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

横綱・貴乃花関(当時)と結婚後は、マスコミに追われる生活を送っていた河野景子さん。2018年に離婚して以来、穏やかな日々を過ごしていたそうですが、先頃、週刊誌に隠し撮りされた男性とのツーショット写真が掲載され、「再婚」の文字が躍りました。ご本人に真相とお気持ちを尋ねてみると──(構成=内山靖子 撮影=大河内禎)
過去は変えられない。明るい未来にするには?
2018年の秋に相撲部屋のおかみを卒業し、約2年半が過ぎました。今は、当時とは比べものにならないくらい、ゆったりとした時間を過ごしています。幼い頃から憧れていたアナウンサーになり、結婚するまでの時期を第1章。結婚後、夫や家族を支えることに徹してきた23年間を第2章とするならば、今は人生の第3章と言えるのかもしれません。
離婚して第3章の扉を開いたことは、まったく後悔していません。後悔したくないからこそ、次のステージに進んだと言いますか。いくら悔やんだところで過去は変えられない。変えられるのは未来だけ。だったら、明るい未来にしていくにはどうしたらいいんだろう? 泥沼にはまる前に、自分で自分を救う方法を常に考える性格なんですよ。
子どもたちも、「ママが笑顔でいられるのが一番!」と賛成してくれました。私がこれまで一所懸命にやってきた姿を見てくれていたのだと思い、本当に嬉しかったです。
ご存じのとおり、私には息子と2人の娘がいます。娘たちはそれぞれ学生ですが、私の生活が変わっても、母親という役割は変わらず続いていく。その役割があることを今、あらためてありがたいなぁと感じています。
でも、娘たちのほうが私よりしっかりしているのでしょうか、娘の友人が遊びに来ると、「この家で一番年下はママみたい」って。それくらい今の私はリラックスして緊張感も抜けている。等身大の自分でいられることがこんなにラクだったのかと、実感しています。
長男はすでに独立し、社会人として自分の道を歩んでいるため、私のほうからマメに連絡はしませんが、妹たちとは大の仲良し。2人はなんでもお兄ちゃんに相談しているようで、その流れで息子が家にやって来ることもあります。息子が訪ねて来るときは、さも偶然という体で好物のビーフシチューやきんぴら、浅漬けなどを作っておき、帰りに持たせたりも。こんな形でささやかなエールを送ることができたら、と思います。
人生の大きな選択は全部、自分で決めてきた
正直なところ、息子についても、娘たちについても心配は尽きません。でも、彼らが自分で決断し、進んでいくしかないと思うのです。私自身、就職、退職、結婚、離婚という人生の大きな選択は全部、自分で決めてきました。両親に意見を聞くことはしませんでしたが、報告すると、父は「景子が決めたことなら」、母は「念じていれば、必ず叶うよ」と背中を押してくれたものです。
それで私は、自分が願ったことには思い切ってチャレンジしてきました。挫折も味わったけれど、どれも必要な経験だったと思います。だから子どもたちにも、本当にやりたいことならば、自分で決めた道を、責任を持って歩んでいってほしいのです。その姿を、少し距離を置いて見守っていくのが親の務めだと思います。たとえ失敗しても、いくらでも軌道修正はできますから。
昨年来のコロナ禍のため、16年から主宰している「河野景子のことばのアカデミー」の仕事や講演などで外に出かける機会が少し減ったため、子どもたちのことを思いながら家でゆっくり料理を作る時間も増えました。
思えば、こんなに穏やかに流れる時間を経験するのは、テレビ局に就職して以来、まったくなかったように思います。スケジュール帳は常に真っ黒。おかみ時代は、5色のペンを使い分けて毎日の予定を書き込んでいたくらい。その頃に比べたら、のびのびと深呼吸しながら穏やかな日々を過ごせる今は、なんてありがたいんだろうと感じています。
更年期には円形脱毛症になったことも
あらためて振り返ってみると、おかみを務めていた時代は、それこそ1年365日、時間に追われていました。3人の子どもたちを育てながら、力士たちや部屋の運営にまつわること、各種行事など、さまざまなできごとへの対応が必要です。いつも必死で、子どもたちが成長するまでは、自分自身の時間なんてまったくありませんでした。
いくつもの役割をこなすのは確かに大変でしたけど、人間って、求められると頑張れるもの。これをやれば形になる、喜ばれる――。完璧にできなかったこともたくさんありましたが、精一杯頑張った結果がその都度、明らかになっていくので、なんとか走り続けることができたのだと思います。生まれつき丈夫な私ですが、次々と難題が降りかかり、更年期のころには円形脱毛症になったこともありました。
それでも、忙しいこと自体はそれほどストレスではなかったんですよ。自分の思いを自分の言葉で語れなかったのがつらかった。
結婚するまでの私は、マイクを向けて相手の言葉を引き出す仕事をしていたのが、結婚後はマイクを向けられる側になりました。しかも、裏方の立場である私が自分の言葉で語ることはよしとされない。何事も軽はずみには口にできなかったし、伏せておかねばならないこともたくさんありました。下手な伝え方をしたら一大事。だったら、何も言わずに黙っているのが賢明だろうと。
でも、自分も取材する側にいたからわかるのですが、相手が黙っているとますます聞きたくなるものです。沈黙を守っていると、些細なことを大げさに膨らませて書かれたり、苦渋の思いで口にした一言が曲解されてしまったりも。
一番苦しかったのは、事実と違う報道をされたこと。おまけに、独り歩きしていく誤解を訂正することさえできない。たとえ言い返せる場があったとしても、当時の私は真実を伝えられる立場にはありませんでしたから。
そんなことが重なって、一時期は完全に人間不信に陥りました。仲良しだった友人たちにもだんだん本心を言えなくなって。そうして本来の自分とは違う自分がどんどんできあがっていくことが、私にとっては大きなストレスだったように思います。

ジャッキー・ウーさんに惹かれた一番の理由
ずっとそんな思いを抱えてきたからこそ、先日、週刊誌の突撃取材を受けておつきあいしている彼のことを聞かれたとき、はっきり真実をお話ししようと決意したのです。
長年、週刊誌の取材を受けてきましたから、質問をかわす術も、ちゃんと身につけていたんですよ(笑)。ニッコリ笑顔で、何も言わずにお辞儀をして、その場を後にすればいい。でも、お互いの気持ちが通じ合っている素敵な方と交際しているのは事実ですし、そもそも悪いことはしていません。
ここで逃げたら追いかけられて、またしてもコソコソと生活するはめになる。そんな経験をこれまでさんざんしてきたわけですから、もう二度と同じ思いはしたくない。それで、マイクを向けられたときに、「結婚を考えている方とおつきあいしています」と、潔くお話ししたのです。そうしたら、すごく気持ちがすっきりしました。
映画監督で実業家でもある彼(ジャッキー・ウーさん)とは、彼が経営するボディスタジオで出会いました。《これからの人生を一緒に歩んでいきたいパートナー》と意識したのは19年の終わりごろ。いつも自然体でいる彼と徐々に親しくなりました。
海外を飛び回り仕事に明け暮れていた彼ですが、この先の人生はマイペースでゆっくり生きていきたいと、考えが一致したんです。そのときに2人一緒なら楽しいし、お互いに自分らしくいられるねって。
彼に惹かれた一番の理由は、感性が合うこと。好きなものや人生に対する姿勢も似ているし、今、私が関心を持っている仕事や活動にも共感してくれるので、それこそ話が尽きないんですよ。
彼というパートナーができて私が朗らかに過ごしていることを、子どもたちも喜んでくれています。公になる前から、彼のことは子どもたちに伝えていたので、報じられることになっても特に驚きや戸惑いなく、受け止めてくれました。そんな子どもたちに感謝しています。婚姻届はお互いにとっていいタイミングで出すつもりです。

いくつになってもあきらめないで
目下、私のライフワークになっているのは「河野景子のことばのアカデミー」の活動です。このスクールを立ち上げたのはまだおかみだった頃。あまりにもいろいろな役割をこなすことに必死になっている自分に気づきました。
花田景子としてはフル回転だけど、「私でなくてはできないことは何だろう?」と考えたとき、アナウンサー時代から培ってきた「言葉」の使い方や「コミュニケーション」の方法をお伝えすることで、誰もが自分らしく生きていくためのお手伝いができたらと考えたのです。
今はコロナ禍で何かと制限がありますが、マンツーマンや少人数のクラスで、その人に合ったベストなコミュニケーション方法を指導しています。
20年には『コトバノケイコ』という本を執筆しました。若い頃の私は海外に目が向きがちでしたが、結婚して日本の国技や伝統文化に携わりながら生活してきたことで、日本文化や日本語、日本人の心に興味が湧いてきて。
自分が気になる言葉、好きな言葉の語源や意味を調べて考えを掘り下げてノートに書き留めるのが習慣になっていたのです。親しい編集者にお話ししたら、「面白い」と興味を持ってくださって、このたび上梓することができました。
河野景子さんの著書『コトバノケイコ』学研プラス
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気がつけば、私も50代半ばを過ぎました。とはいえ、いくつになっても、何事もあきらめたくない。私がそう思うのも、素敵な70代の女性のお友だちが大勢いるからです。バリバリのキャリアウーマンもいれば、趣味やお孫さんの世話を楽しんでいらっしゃる方もいる。生き方は違っても、どなたもキラキラ輝いているんですよ。
その方たちに共通しているのは、それぞれに大変なご苦労を経験しながら、40代、50代、60代を全力で生きてこられたこと。だからこそ、70代の今、人一倍輝いているんですね。
輝くためには影が必要です。影が暗いほど、光はいっそう輝きを増していく。今がどんなにつらくても、それはこの先、自分が光り輝いていくために必要な時期なのだと思えば、どんな苦労だって乗り越えられます。
今の私があるのも波瀾万丈な時期を経験したおかげ。この先はとことん自分らしく、肩ひじ張らずに自然体で生きていけたら幸せだと思っています。
河野景子
こうの・けいこ
1964年宮崎県生まれ。88年上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、フジテレビにアナウンサーとして入社。94年よりフリーに。95年に横綱・貴乃花関と結婚、2004~18年は相撲部屋のおかみを務める。



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