恥を知れ

サディスティック・サディーの生かさず殺さず日記

12/24

2023-12-24 10:21:20 | Weblog

親がカトリック教徒だったので幼い頃は教会に通った
土曜学校や日曜日の朝のミサ
待降節は神父様や侍者の服装やお御堂の装飾も変わって少しワクワクした
特別な大きな赤いロウソクが4本登場して
毎週1本ずつ灯す数が増えていく
ミサが終わると侍者が消灯用の金属の器具をカポッとかぶせて火を消して
煙が天井に立ちのぼる
あの光景がなぜか妙に好きだった
12月24日の夜ミサにも行ったことがある
いつもの日曜日の朝の明るい空気とはうってかわって
照明も落として暗い通路を小さな白いロウソクに火をもらってゆっくりと歩いた
いつもはにぎやかにおしゃべりしている大人たちが
仄明かりのもと俯いて祈る姿
荘厳な雰囲気は子供心にぼんやり残っている

私は洗礼を受けなかったし
もったいないことに教わったはずのたくさんのこともほとんど覚えていない
それでも幼い頃になんとなくキリスト教文化に触れたおかげで
のちに宗教曲を歌ったり聴いたりするとき
わりとすんなり入れたのは地味にありがたかったと思う
あ、この名前知ってる、とか
あ、このエピソード聞いたことある、とか
そんな程度でも

土曜学校は楽しかった
低学年の頃はおやつをもらって遊ぶだけだったから
学校とは違う友達と会えるのも新鮮だった
敷地内の草むらに秘密基地を作ったり
塀の上を歩いて一周したり
ドイツ人の神父様の鼻の高さを定規で測らせてもらったりした
子供とはいえ失礼かつアホな遊びをしたものだ
ドイツ人の神父様はとても優しかったので快く測らせてくれた
ちなみに3cmあった
秘密基地は草刈りの日にあっけなく消えた

学年が少し上がると厳しいと噂の日本人の神父様に代わった
特に叱られたことはないが
おちゃらけたりするのは許されない雰囲気だった
土曜学校も今までのおしゃべりおやつタイムから少しずつ勉強にシフトした
最初はウヘェと思ったが
現金なもので一度だけ褒められたことを今でも覚えている
イエズス様はなぜ犯罪者や娼婦や徴税人などをすすんで許して回ったのか
罪人や嫌われ者こそ救いを必要としているから
というようなお話だったと思う
「ああ、健康な人に医者はいらないっていう……」となんとなく知ってる慣用句を呟いたら
「そう。今日あんたが一番いいこと言った」とビシッと言われて背筋が伸びた

同じ日だったかどうかさっぱり覚えてないが
常々疑問に思っていたことを聞いてみたことがある
イエズス様は優しい人のはずなのに
どうして悪魔にはあんなに冷たいんですか
悪魔には優しくしてあげないんですか
こっちはかなりうろ覚えだが
つまるところキリスト教を信仰すれば救うべき人であって
信仰のない悪魔は人じゃないからみたいな答えで
あっ(なるほど)と
あっ(ドン引き)を
同時に感じた

高校生になって
熱烈なトルコ推しの地理教師が教えてくれたのは
イスラム教徒はキリスト教徒のことも啓典の民として許容してくれるらしいこと

もう少し大人になって
どうして戦争を起こす人たちにキリスト教徒がたくさんいるのだろうと
根本的な疑問を抱いた
宗教なんて建前に過ぎないのはいくら世間知らずのお花畑でもわかる
未熟すぎて恥ずかしいくらいの疑問だが
それにしてもどうしてこんなに堂々としていられるのか
神の祝福を求めたその口で戦争を正当化する
少しでも引っ掛かるところはないのかと
どう折り合いをつけているのかと

それである時ふとつながった
つながってしまった
ああ、人じゃないんだ、って

宗教的な見方がすべてではないけど
むしろ本質から大きく離れた微々たる要素だけど
人を人と思わず切り捨てる方法がある
考え方がすでにある
それだけで
勝手に気付いて勝手にぞっとするには十分だった

あの教会もだいぶ昔になくなった
少子高齢化は信者数の減少に直撃して
隣町の大きな教会に統合された
そこさえ残っているかどうか私にはわからない
小さな秘密基地も
塀一周旅行の思い出も
頼りない記憶の中に
おぼろげな灯が残っているきり
それもいつかカポッと円錐の蓋をかぶせられて
煙になって消えていく


 

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