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●詩吟(しぎん)

2012年08月21日 16時37分20秒 | 色んな情報
●詩吟(しぎん)
★詩吟(しぎん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
漢詩に節をつけて吟ずること。人によっては、漢詩の訓読を吟ずることを「詩吟」、本来琵琶歌(びわうた)の一部であった和歌や漢詩の訓読を吟ずることを「吟詠」、そのほかの俳句、今様(いまよう)、新体詩などの詩型をも含めて吟ずることを「朗詠」として区別することもあるが、これらは同義的に用いられることが多い。
詩歌を吟ずる習慣は古く、平安中期には漢詩や和歌を歌詞とする宮廷歌謡「朗詠」が盛んになり、のちには和歌を読み上げる「歌披講(うたひこう)」も行われた。江戸中期ごろに儒学や国学が盛んになるにつれて、多くの漢詩がつくられ、学習者の間で吟じられるようになった。これが江戸後期に「詩吟」として流行するに至る。流派には、肥後(熊本県)の時習館流、江戸・湯島の聖堂流などがあった。明治になると、これらの流派ものは衰退し、それにかわって幕末からの剣舞の流行とともに、剣舞にあわせて行われた活発なリズムの詩吟が広く好まれるようになり、また琵琶歌のなかの悲憤慷慨(こうがい)調の吟詠部分も一般に支持されるようになった。大正以後には錦心(きんしん)流琵琶と結び付いた優雅艶麗(えんれい)のものも現れた。昭和になると、多くの女性が近代琵琶の諸流派から詩吟に転向し、芸能的な要素が高められる結果となった。現在では、ときには笛、尺八などの伴奏楽器が用いられることもあるが、基本的には無伴奏である。琵琶歌のなかで行われる場合には琵琶は間奏に用いられる。近年では、健康増進の方法の一つとして詩吟愛好者が増えている。[ 執筆者:卜田隆嗣 ]
★訓読(くんどく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
漢字、漢文についての読み方の一つ。
音読(おんどく)の対で、倭読(わどく)(和読)ともいう。次の二つの場合がある。
(1)一字一字の漢字について、その意味にあたる大和詞(やまとことば)で読むこと。訓読みともいい、「山」を「やま」、「川」を「かわ」と読む類(たぐい)である。このように、その字について定まった日本語の読みを「訓」という(対して、「サン〈山〉」「セン〈川〉」と読む類を音読みともいう)。訓は、中国語である漢文の日本語への翻訳の過程で、一字一字の読みとして定着したもので、『万葉集』の借訓仮名によって、奈良時代にはかなりの字について訓の成立していたことが知られる。また、訓は、漢文の訓読によって生じたものであるから、その字の文脈上その他の意味によって、多数の訓をもつものも出てくる。鎌倉初期の辞書『字鏡集』では、「行」という字について42語の訓をつけている。また、今日、訓とされているものについても、「うま(馬)」「うめ(梅)」などは古い字音に基づくとされ、「かわら(瓦)」「てら(寺)」などは梵語(ぼんご)や朝鮮語から入ったものといわれる。このように、訓とされているものについても、出自のうえでかならずしも明確とはいいがたいものもある。
(2)訓読のもう一つの場合は、漢文を日本語の語法に従って読み下すことをいう。たとえば、『論語』の「有朋自遠方来、不亦楽乎」を「ともゑんぱうよりきたるあり、またたのしからずや」と読む類である。中国語の文章である漢文と日本語とは、言語の構造が異なっている。そのため、語順の差を返読で調整するために返点(かえりてん)を付し、助詞・助動詞を補ったりするために、ヲコト点(乎古止(おこと)点)や仮名をつけ、漢字の読みを示すなどして、日本語の語法に従って対訳的に読めるようにくふうされた。その場合、語はすべてが訓読みされたのではなく、先の例の「ゑんぱう」のように字音語として読まれたものも含むが、それも日本語の文構造のなかに収められたもので、全体としては日本語ということになる。漢文訓読の資料は、奈良時代末以降のものなどが残っており、当時の言語資料として貴重である。また、漢文訓読は古代における学問の基本的方法であり、ヲコト点図や訓法に、それぞれの仏教宗派や博士(はかせ)家の伝統的個性が反映されている。訓読の文体は、平安時代の平仮名文とは別個の位相言語をなし、中世の和漢混交文体の成立や、近代文章の文体の成立にも大きな影響を与えた。[ 執筆者:白藤幸 ]
★倭読要領 上 http://p.tl/3lCO 中 http://p.tl/_zN1 下 http://p.tl/NcDY
★わ‐どく【和読/×倭読】
 漢文を日本語の語法に従って読むこと。訓読
★論語(ろんご) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/ueHQ
孔子(こうし)(前552/551―前479)の言行録。10巻20篇。儒家の通説では、孔子の死後、弟子たちがそれまでに書き留めていた師匠の語を論纂(さん)してつくった。ただし実際は、直(じき)弟子ではなく、弟子の弟子の手になる。その証拠に、『論語』のなかに出てくる弟子の称呼は呼び捨てが原則であるのに、曽参(そうしん)と有若(ゆうじゃく)だけは、曽子・有子と、敬称の「子」をつけてよばれる。これは、『論語』が曽参・有若の弟子によって編まれたことを物語る(唐の柳宗元(りゅうそうげん)らの説)。さらに、『論語』の前半と後半とでは文体がやや異なること、後半には小説的ストーリーもあることから、後半は三伝または数伝の弟子の手になるものであろう〔清(しん)の崔述(さいじゅつ)、日本の伊藤仁斎(じんさい)の説〕。[ 執筆者:本田 濟 ]
★字音(じおん) [ 日本大百科全書(小学館) ] . http://p.tl/uSHJ
固有の文字をもたなかった中国の近隣諸国が、漢字を書記用具として輸入した際に、それぞれの漢字に伴う中国語の発音を同時に取り入れて、自国語のなかに定着させたもの。「漢字音」または単に「音」ともいう。本来の中国語の発音を「中国(漢)字音」とよぶのに対して、「日本(漢)字音」「朝鮮(漢)字音」「越南(ベトナム)(漢)字音」などが区別される。中国字音自体に時代や方言による変動があり、各国字音もその受け入れた時期と方言に対応して異なり、かつ各国語の音韻体系も異なるので、それぞれ独自の変化を遂げている。[ 執筆者:沼本克明 ]
★位相(いそう) [ 日本大百科全書(小学館) ] .数学と物理学の二義がある。http://p.tl/W-_n
(1)数学用語 集合の点の間の遠近を表すのに、距離や近傍(きんぼう)などを用いるが、問題に応じてこれらの概念が定義されたとき、位相あるいはトポロジーtopologyが定義されたという。位相は、位相数学あるいはトポロジーとよばれる数学の新しい分野の略称としても用いられる。その発生は20世紀になってからである。二つの図形A、Bの間に1対1の対応があり、これが双方から連続なとき、AとBは同位相であるという。位相数学は同位相な図形に共通な性質や量を研究する学問であるといわれている。最近は代数学や解析学とも関連して、位相代数学、関数解析など新しい分野としても発展している。
(2)物理学用語 単振動において、経過した時間に比例して増大する量で、時間が1周期だけ経過して同じ運動が繰り返されるたびに、振動の位相phaseは360度だけ増大する。x軸上で単振動する点の時刻tにおける位置xは、コサイン(余弦(よげん))関数を用いて、
 x=Acos(ωt+α)
と書ける。ここに、Aは振幅、右辺の括弧(かっこ)内の量ωt+αが振動の位相である。ωは角振動数で、360゜×振動数に等しい。αは時刻ゼロにおける位相である。x方向に進む平面波においては、波動を表す関数uの位置x、時刻tにおける値が、
 u=Acos(ωt-kx+α)
と書ける。右辺の括弧内の量ωt-kx+αが波動の位相である。kは波数で、360゜÷波長に等しい。この平面波では、x軸に垂直な平面上では位相の値が等しい。このような同一位相の曲面(波面)が速度=ω÷kで進行する。この速度は振動数×波長に等しく、位相速度とよばれる。[ 執筆者:洲之内治男・飼沼芳郎 ]

★和漢混交文(わかんこんこうぶん) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
和文と漢文との両面の要素をもつ文体。鎌倉時代以降の『平家物語』『太平記』等の軍記物や『海道記』『東関紀行』等の紀行文にみられるものを代表的なものとする文体。平安時代の和文・漢文訓読文の両様の性格を取り入れ、当時の口語や武士詞(ことば)を交えてなったもの。和文のもつ情緒的なやわらかみに、漢文特有の力強さ、明確な論理性等が加味され、武家の台頭した当時の社会風潮によくあっていた。簡潔で、韻律的な文章となり、後の時代の人々にも名文として迎え入れられたものが多い。平安時代後期に、漢文の色彩の濃い『三宝絵詞(さんぼうえことば)』『打聞集(うちぎきしゅう)』『今昔物語集』のような説話が文章として残され、和文を基調とした『大鏡』などのなかにも漢文の強い影響がみいだされる。これらを経て鎌倉時代の和漢混交文はできあがっている。鎌倉時代以降は、和漢混交文が文章の主流となり、謡曲、物語類をはじめ、江戸時代の国学者たちの記した、いわゆる擬古文(ぎこぶん)においても和漢混交文から影響されたものは大きい。[ 執筆者:山口明穂 ]
★武士詞(ぶしことば) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
武士階級に特有の語彙(ごい)や表現法をいい、武者詞(むしゃことば)ともいう。院政・鎌倉期から文学作品に登場するようになったが、それ以前にも存在したか否かは明らかでない。戦場での表現が特徴的で、「退く」といわずに「急ぎいづ方へも御開き候ふべし」(保元物語)というように「開く」を使ったり、受け身にすべきところを「家の子郎等多く討たせ我が身手負ひ」(平家物語)というように使役表現を用いたりする。幕についても、味方の場合は「幕をうつ」といい、敵には「幕をひく」という。これらは、敗北を嫌う武士の負けじ魂の表れで、味方については力強く表現しようとするものである。江戸期に入ると、武士階級のことばと町人階級のことばとの間に差が生じ、「拙者」「それがし」「貴殿」など、武士特有の代名詞や「さようしからば」「――でござる」といった言い回しが用いられるようになった。[ 執筆者:鈴木英夫 ]
★平家物語(へいけものがたり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .  http://p.tl/Jny7
中世初期の軍記物語。12巻。[ 執筆者:梶原正昭 ]
★歴史物語(れきしものがたり) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
日本文学史上の一ジャンル。歴史に取材した物語の総称。作品としては、『栄花(えいが)物語』『大鏡(おおかがみ)』『今鏡』『水鏡』『増(ます)鏡』などがあり、これに『秋津島(あきつしま)物語』(作者不詳)、『月の行方(ゆくえ)』(荒木田麗女)、『池の藻屑(もくず)』(同上)を加える説もあり、これらをあわせると、神代から1603年(慶長8)まで一貫した物語となるが、『秋津島物語』以下の三作品は、鏡物の体裁を模倣して書かれているものの、厳密な意味では、歴史物語とはいえない。
歴史物語は、摂関政治から院政へ移行していく時代を背景に発生した。当時の作り物語は、『狭衣(さごろも)物語』や『夜(よる)の寝覚(ねざめ)』などのように、『源氏物語』を模倣しながらも、それぞれに新生面を開いたものもあるが、総じて『源氏物語』を皮相的に模倣した作品が多く、非現実的、退廃的傾向を強め、衰退の一途をたどりつつあった。このような時代に、新しい物語の世界を開拓したものとして、歴史物語が登場してきたが、その発生を促した要因の一つに、『源氏物語』の物語論がある。それは、事実そのものよりも虚構世界にこそ人間の真実があるとする主張で、これを受けて、『栄花物語』の作者は、虚事(そらごと)でない事実=歴史を物語の世界に全面的に持ち込んで、人間の真実を描こうとしたが、歴史と物語とを性急に統一融合しようとしたため、作者の考えたようにはいかなかった。しかし、『栄花物語』の出現は、人間を描いて歴史の真実に迫ろうとする『大鏡』成立の契機となり、さらに『今鏡』以下の作品を簇出(そうしゅつ)させた。
歴史に取材したとはいえ、歴史物語はかならずしも史実を忠実に客観的に叙述したものではなく、作者の意図によって、事実を歪曲(わいきょく)したり、虚構を用いたりしていて、これを歴史書と同等に扱うことはできない。概していえば、慈円(じえん)が史論書『愚管抄(ぐかんしょう)』のなかでいっているように、歴史物語は「ヨキ事ヲノミ」書き記したものであり、王朝貴族社会とその文化に対する賛美と憧憬(しょうけい)の精神を基調として書かれている。[ 執筆者:竹鼻 績 ]
★鏡物(かがみもの) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
歴史物語のなかで、『大鏡(おおかがみ)』の創始した問答、座談形式の歴史叙述を用いたもの。『大鏡』『水鏡』『増鏡(ますかがみ)』を三鏡(さんきょう)とよび、これに『今鏡』を加えて四鏡(しきょう)ともいう。『秋津島(あきつしま)物語』『月の行方(ゆくえ)』『池の藻屑(もくず)』などは体裁だけ模倣した擬古的な作品である。これらの作品では、まず序文で語り手と聞き手を設定し、それらの人々の問答、座談によって物語が展開し、作者はかたわらでそれを観察しながら筆録する体裁になっている。とくに『大鏡』は、この問答、座談形式が首尾一貫し、歴史の表裏明暗を多角的にとらえて、歴史の真実を照らし出すのに効果をあげているが、『今鏡』『水鏡』は形式的で、問答、座談形式の機能が十分に生かされず、『増鏡』は形式的にも不完全である。
なお、作品名に共通の「鏡」の語は、『今鏡』では亀鏡(きけい)の意で、歴史を鑑戒(かんかい)の資となす考えがうかがえるが、それ以外の作品では、真正なものを映し出す明鏡の意である。[ 執筆者:竹鼻 績 ]
★大鏡(おおかがみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
平安後期の歴史物語。文徳(もんとく)天皇の850年(嘉祥3)から後一条(ごいちじょう)天皇の1025年(万寿2)まで、14代176年間の歴史を描いたもので、1025年を現在時として叙述しているが、これは藤原道長の栄華の絶頂で擱筆(かくひつ)しようとした作者の作為で、実際は1025年以後40、50年から90年の間の成立とみられる。作者は男性で、諸説あるが不明である。『大鏡』では歴史を叙述するにあたり、雲林院(うりんいん)の菩提講聴聞(ぼだいこうちょうもん)に参詣(さんけい)した大宅世継(おおやけのよつぎ)、夏山繁樹(なつやまのしげき)、若侍(わかざむらい)の3人を登場させ、歴史はこれら3人の座談、問答によって語り進められ、作者は純粋な聞き手として、それを傍らで観察しながら記録する趣向になっている。これは歴史の表裏明暗を多角的にとらえ、公正な歴史叙述の展開を意図したものである。その構成は、まず序があり、次に文徳天皇から後一条天皇までの14代の天皇について記した帝紀(ていき)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)から道長までの摂関大臣の列伝(れつでん)、藤原氏の繁栄の跡を系譜的に総括した藤原氏の物語、最後に風流譚(たん)、神仙譚などを収めた昔物語が置かれていて、中国の『史記』などにみられる紀伝体(きでんたい)であるが、これは、人間の動きを凝視し追跡することによって歴史が顕現すると考えた作者が、人間を多角的、立体的に把握できる有効な方法として採用したものである。
このような歴史叙述の方法を用いて、政治世界に生きる男たちの織り成す凄絶(せいぜつ)なドラマを、瑣末(さまつ)的な説明や描写を切り捨てた簡潔な文体によって、生彩ある筆致で描いている。作者の透徹した歴史認識によって選択された事象は、多く説話を用いて語られているが、それらの説話は、作者の豊かな想像力と創意によって形成され、変容されたもので、虚構や事実の錯誤や誇張による歪曲(わいきょく)などもある。しかし、それらは、事実性を拒絶した虚妄の話ではなく、事実を包摂した虚構の世界であり、それによって、善悪、正邪、美醜などのさまざまな矛盾をもったものとして人間を描き、歴史の本質に迫ることができた。『大鏡』は歴史物語のなかでも傑出した作品で、その問答、座談形式は後代の歴史物語に大きな影響を与え、確かな史眼と鋭い批評精神は『愚管抄(ぐかんしょう)』などに継承されていった。
現存本は、写本として建久(けんきゅう)本、千葉本、池田本(いずれも欠けている巻のある零本(れいほん)。天理図書館蔵)、東松了枩(りょうしょう)氏蔵本、京大付属図書館蔵平松本、書陵部蔵桂宮(かつらのみや)本、蓬左(ほうさ)文庫本などがあり、刊本として古活字本、整版本などがある。[ 執筆者:竹鼻 績 ]
★水鏡(みずかがみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
鎌倉初期の歴史物語。3巻。作者は中山忠親(ただちか)と考えられている。成立年代は文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)(1185~99)のころと思われる。『大鏡』に先行する歴史物語で、神武(じんむ)天皇より仁明(にんみょう)天皇までの1510年間を編年体で記す。平安末期に書かれた『扶桑略記(ふそうりゃっき)』等を材料にしている。形式は、老尼が大和(やまと)国高市郡の竜蓋寺(りゅうがいじ)(岡寺(おかでら))に詣(もう)でた際1人の修行者に出会い、ある夜つれづれの話を聞くが、そのときに修行者が葛城(かつらぎ)で会った仙人から聞いた話を老尼がまた聞きして記録したという形をとる。作者は「いにしへをほめ今をそしるべきにあらず」「目の前のことを昔に似ずとは世を知らぬ人の申すことなり」といっているように、「いにしへ」のなかに「このころあひ似たる」歴史の相をみようとしたところに特色がある。また作者の仏教的世界観を当時の歴史と重ねてみようとしている。『大鏡』『今鏡』『増鏡』に比べると文学作品として価値は低い。[ 執筆者:祐野隆三 ]
★今鏡(いまかがみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
平安末期の歴史物語。1170年(嘉応2)成立説とそれ以後とする説とがあり、作者は藤原為経(ためつね)(寂超)説が有力。『大鏡(おおかがみ)』を受けて、1025年(万寿2)から1170年までの歴史を、座談形式を用い、紀伝体で叙述したもの。巻1~3は後一条(ごいちじょう)天皇から高倉(たかくら)天皇までの帝紀(ていき)、巻4~6は藤原氏、巻7は村上源氏、巻8は諸皇子の各列伝で、巻9、10は風流譚(たん)、霊験譚(れいけんたん)などからなる。宮廷貴族社会の朝儀典礼や風流韻事に多くの筆が費やされ、現実の政治的・社会的変動には意識的に深く立ち入っていない。これは、当時危殆(きたい)に瀕(ひん)していた王朝とその文化を、依然として確かに存在するものとして描こうとしたためで、ここに『今鏡』の独自性がある。[ 執筆者:竹鼻 績 ]
★増鏡(ますかがみ) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
南北朝時代の歴史物語。3巻。作者は二条良基(よしもと)が最有力視されている。成立年代については諸説があり、上限を1338年(延元3・暦応1)、下限を1376年(天授2・永和2)とするなど幅は広い。記載年代は後鳥羽(ごとば)天皇誕生の1180年(治承4)7月から1333年(元弘3・正慶2)6月後醍醐(ごだいご)天皇が隠岐(おき)から京都に還幸され、建武(けんむ)新政が樹立するまでのほぼ150年間を編年体で記す。形式は作者が嵯峨(さが)清凉寺に詣(もう)でた際に100歳を超える老尼が語った歴史を筆録したというもの。内容は承久(じょうきゅう)の乱と元弘(げんこう)の変を両極にして、その間の後鳥羽院の隠岐(おき)配流をはじめ、順徳(じゅんとく)上皇(佐渡)、土御門(つちみかど)上皇(土佐、阿波(あわ))の遠島配流のようすや南北両朝迭立(てつりつ)に揺れ動く公武社会のようす、蒙古(もうこ)の襲来等を描く。とくに宮廷における行事や公家(くげ)の文化的生活についての記事は詳しい。鎌倉時代の歴史的な大事件にはほとんど触れているが、その史実の選択と視座に偏りがみられる。それは朝廷中心に描かれており、公家の目で世の中をみているところに特徴がある。公家社会から武家社会へと推移していく歴史の必然性に背を向け、幕府の独裁政治下にあって貴族社会時代の甘美な夢をみたとする説や、艶(えん)とあわれに満ちた文化的な生活が鎌倉時代の宮廷に一貫して存在し続けたことを立証しようとした気持ちが作者にあったとする説などがある。文章は『源氏物語』の影響を受けて優艶(ゆうえん)である。各巻名は「藤衣(ふじごろも)」「草枕(くさまくら)」「むら時雨(しぐれ)」など優雅な名がつけられている。[ 執筆者:祐野隆三 ]

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