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●詩吟(しぎん)の発声法

2012年08月21日 17時29分56秒 | 色んな情報
●詩吟(しぎん)の発声法
★詩吟(しぎん)http://p.tl/NpPN
日本の伝統芸能の一つ。漢詩や和歌などを独特の節回しで吟ずる(歌う)。
吟詠(ぎんえい)、吟道(ぎんどう)とも。
いわゆる歌のように、詩文をリズム、メロディに乗せて歌うのではなく、詩文の素読(朗読)を基本とし、素読の後に特有のメロディ(節調という)を加えることで、より効果的に詩情を表現する。
具体的には、「はーるーこーおーろーおーのー、はーなーのーえーんー」と歌うのではなく、「はるゥーー(節調)こーろーのォーー(節調)、はなのォーー(節調)えんンーー(節調)」というように、語尾の母音を長く引き、そこで節調を行うことになる。
詩吟が、その吟詠(吟ずること)の対象とするのは、その歴史的経緯(下記参照)から主として漢詩であるが、和歌や俳句、新体詩を吟ずることも少なくない。ただし、あまり長いものは好まれず、漢詩の吟詠であっても七言絶句が一般的である。
★絶句(ぜっく)http://p.tl/CfFH
漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。4句から成る。
原形となる詩型は、六朝時代に作られはじめている。時代が下るにつれて韻律の規則が次第に整備されて、唐代に入って詩型として完成された。一句が5文字の五言絶句と7文字の七言絶句がある。起承転結の構成を持つ。
絶句は、(1)平仄の規則を厳密に適応した律絶と、(2)制約が比較的緩い古絶に分類される。(2)古絶は五言詩のみである。(1)律絶は格律という点から言えば、律詩の前半4句に相当し、「小律詩」とも呼ばれる。
・平と仄
第1句第2字が平字であるものを平起、仄字であるものを仄起という。五言では承および結、七言では起、承および結の句で押韻する。起句で押韻しないのは踏落しという。押韻は平韻が多く、まれに仄韻である。
律詩と同じであるのは、五言の二四不同、七言ではさらに二六対(同)にすること、各句第2字を横に見てゆき平仄仄平(または仄平平仄)とすること、「孤平」、「下二連」を避けることなどの粘法である。
ふつうの平仄式、粘法に合わないのは「拗体」という。六言絶句は数は多くない。
★平仄(ひょうそく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国古典詩において、音律を整えるための作詩法上の規定。平他(ひょうた)ともいう。中国語に声調があることは、六朝(りくちょう)に入って自覚され始め、5世紀の末、南斉(せい)時代に、沈約(しんやく)らの「四声八病説(しせいはちびょうせつ)」が出て定まった。平声(ひょうしょう)(たいら)、上(じょう)声(下から上がる)、去(きよ)声(上から落ちる)、入(にゅう)声(語尾が詰まる。「にっしょう」ともいう)の四声である。当初は、五言詩の初めの二句十字の構成に、これらの四声の配列を細かく規定したが(八病説)、しだいに、たいら(平)と、たいらでない(仄)ものの2種に分けて配列を問題にするようになった。つまり、平声が平、上・去・入声が仄である。唐になって近体詩が成立し、その平仄の配列法も定まった。五言絶句に例をとれば、次のようなことである(細字は平、太字は仄)。
白日依山尽
黄河入海流(韻字)
欲窮千里目
更上一層楼(韻字)
(王之渙(おうしかん)「登鸛鵲楼」) 第一句の二字目が仄であるものを仄起式、平であるものを平起式という。五言の場合、二字目と四字目は平仄が反対にならなければいけない(二四不同という)、また下の三字が平平平・仄仄仄となってはいけない(下三連という)、仄平仄のように平字が仄字に挟まれてはいけない(孤平(こひよう)という)などの禁忌がある。七言の場合は、六字目が二字目と同じ平仄になる(二六対(つい)という)規則が加わるだけで、あとは五言の場合の平仄式に準ずる。[ 執筆者:石川忠久 ]
★沈約(しんやく) [ 日本大百科全書(小学館) ] .(441―513)
中国、南朝梁(りょう)の文人。字(あざな)は休文。呉興郡武康(浙江(せっこう)省)の人。武官系の寒門の出身であるが、学問と文才によって、宋(そう)、斉(せい)、梁の3代に仕え、斉梁文壇の第一人者となった。斉の竟陵(きょうりょう)王(蕭子良(しょうしりょう))の文学サロンに出入りした「竟陵の八友」(沈約、蕭衍(しょうえん)、王融(おうゆう)、范雲(はんうん)、謝(しゃちょう)、任(じんぼう)、陸(りくすい)、蕭(しょうちん))の詩風は、年号によって「永明(えいめい)体」とよばれる。典故、対句、声律などを駆使し、形式的な言語美をより洗練させた。沈約の四声八病説は、中国語の音声的特徴である四声を組み合わせて音律美を構築しようとしたもので、繁雑すぎて試論にとどまったが、唐代の近体詩成立に寄与した。ただその詩は没個性的で、遠く謝に及ばず、技巧に走った「永明体」の弊害をも代表する。文学仲間の蕭衍(梁の武帝)のブレーンとして梁王朝の実現に尽力し、高官となったが、むしろ文壇で重きをなした。南朝宋の断代史『宋書』を著した歴史家でもあり、仏教信者としても知られる。『沈隠侯集』2巻がある。[ 執筆者:成瀬哲生 ]
★四声(しせい) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
中国語の各語の音節に伴っている高低抑揚(声調)のこと。とくに、隋(ずい)・唐代を中心とする中古漢語の平声(ひょうしょう)、上声(じょうしょう)、去声(きょしょう)、入声(にっしょう)の4種の声調をいう。中国南北朝期の仏典漢訳の盛行に伴い、梵語(ぼんご)との比較から声調が認識され、梁(りょう)の沈約(しんやく)によって四声の説がおこったといわれている。日本にも、漢字音の伝来とともに四声説が将来されたと思われるが、伝来の古い呉音においては、四声の認識はあいまいであったらしい。日本字音の四声は、とくに漢音において詳しい議論が展開されてきた。入唐僧安然(あんねん)(841―915ころ)の著『悉曇(しったん)蔵』には、平安初期の漢音の四声体系に、旧来のもの2種、新来のもの2種があったとする。そのおのおのがどのようなものであったかは不明の点もあるが、新来の2種は、平上去入の各声がさらに軽(けい)と重(ちょう)に下位区分され、合計8種の型に分かれた八声体系であったと解釈されている。現在伝えられている天台宗の漢音読声明(しょうみょう)や各種の古文献によれば、平声=低平調、上声=高平調、去声=上昇調、入声=もと-p・-t・-kで終わる入破音字であり、軽は各声のなかでやや高く始まるもの、重はやや低く始まるものであったと考えられる。なお、平安時代以後残っている具体的な声調史料によれば、漢音は平声と入声のみに軽・重を区別する六声体系を主流とし、八声体系は多分に理論的なものであったと考えられる。日本字音の四声において、とくに注目すべきは、呉音と漢音との関係であって、両者を比較すると、漢音の平声字は、呉音では上声か去声になり、漢音の上声字・去声字は、呉音では平声になる傾向が著しい。これは、両者の基盤となった中国語の差を反映するためで、おそらく方言的な相違に対応するものであろう。また、最近の研究によれば、古い時代の呉音史料では上声字がなく、呉音本来の声調体系は、平去入の三声のみから成り立つ三声体系であったことが指摘されている。[ 執筆者:沼本克明 ]
★五言詩(ごごんし) [ 日本大百科全書(小学館) ] .
一句が5字、つまり5シラブルの句からできている中国古典詩の総称。四言を基調とする『詩経(しきょう)』、三・六言の『楚辞(そじ)』のなかにも、すでに部分的に五言の句はみられるが、全体が五言の句からなる詩は、後漢(ごかん)の班固(はんこ)(32―92)の「詠史(えいし)詩」あたりが初めである。従来は、前漢の李陵(りりょう)と蘇武(そぶ)の唱和した詩(前100ころ)が五言の始めと伝えられていたが、今日ではこれは偽作とされる。前漢のなかば過ぎから、民間の歌謡に五言の形をとるものが現れており、後漢の初めになって、文人が手がけるようになったものであろう。その発生の源を『詩経』や『楚辞』に求める説もあるが、前漢武帝ごろから盛んになった外来音楽の流入の刺激によって、新たな5シラブルの歌がおこったとする説が有力である。
文人の手すさびの域を脱して、本格的な五言詩の形成をみるのは、後漢なかば過ぎ(2世紀)の「古詩19首」の出現を待たねばならない。無名の詩人たちの残したこの十九首の詩は、きわめて優れたものであり、五言詩の基を開いたものとして、後世に与えた影響は多大である。後漢末の建安年間(196~220)には、魏(ぎ)の曹操(そうそう)・曹植(そうしょく)父子を中心に多くの詩人が五言詩の時代の幕を開け、以後の六朝(りくちょう)時代350年は五言詩の全盛期となった。五言詩は、四言詩が表現が重々しく、淡々とした味わいであるのに対し、より複雑な感情をより流動的に歌うのに適し、修辞の面でも洗練の度を加えていった。六朝末に七言詩がおこり、やがて唐に入って五言詩と肩を並べるようになると、七言の華麗な趣(おもむき)に対し、五言は典雅な趣を特色とするようになる。唐のなかば、8世紀以後、律詩・絶句の近体詩と古体詩の形式が定まると、五言と七言とはともにそれぞれの形式を二分する形で、五言絶句・七言絶句、五言律詩・七言律詩、五言古詩・七言古詩の各体が固定し、後世へと受け継がれていった。[ 執筆者:石川忠久 ]

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