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●今日は何の日 3月4日  江戸幕府が一里塚設置(1604年 - 慶長9年2月4日)

2014年03月04日 20時35分56秒 | 色んな情報

●今日は何の日 3月4日  江戸幕府が一里塚設置(1604年 - 慶長9年2月4日)
◆一里塚(いちりづか)http://p.tl/6_sN
大きな道路の側に1里(約3.927キロメートル)毎に旅行者の目印として設置した塚(土盛り)である。塚の側に榎の木を植えたり標識を立てたりしていた。

マイルポスト・キロポストと同様であり、一里塚は中国にも存在する。

日本では、平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。室町時代の一休(或いは一休に近しい遊女・地獄太夫)が「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」との歌を詠んでいる。

一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である
・一里塚の樹種
一般的に榎を植えた一里塚が多い。19世紀末の天保年間の調査による「宿村大概帳」によると、榎が一番多く、過半数を占める。次に松が4分の1強、ついで杉が1割弱で他の栗、桜、檜、樫は数本程度しか植えられていない。
 
◆距離標(きょりひょう)http://p.tl/7AVc
鉄道や道路等の起点からの距離を表した標識の一つ。キロメートル単位で表しているものが多いことから、一般にはキロポストと呼ばれる。
 
◆道路元標(どうろげんぴょう)http://p.tl/eARx 道路の起終点を示す工作物である。
日本では1873年(明治6年)12月20日政府は 太政官日誌により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている。1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置され、1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。

設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。

現行の道路法では道路元標は道路の附属物とされているだけで特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。道路元標の設置義務がないため、取り壊されたり工事などでいつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくない。

日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていたが、都電廃止後1972年(昭和47年)の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。文字は佐藤栄作によるものである。日本国道路元標の直上の首都高速の高架橋上にも、東京市道路元標に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。
 
◆道路元標が行く(現存する道路元標の一覧がある)http://901.st/901dg/index.html

 
◆どうろ-りていひょう  【道路里程標】
道路元標からの距離を表示してある標識。
 
◆ひょうせき 【標石】
水準点や三角点の標識として地面に埋められた花崗岩製の角柱。一等水準点標石・二等三角点標石など。
 
◆標石    測量用語辞典
読み方:ひょうせき
地上の位置又は高さを永久に表すために設置されるもので、昔からの花崗岩の他、コンクリート柱、金属標などがある。基本的な形は、測量法のほか、国土交通省公共測量作業規定に定められている。
 
◆たていし  【立(て)石】
(1)庭などに立てて据えてある石。
⇔伏せ石
(2)道しるべや墓の標として立ててある石。
(3)メンヒルに同じ。
 
◆メンヒル  [menhir]
〔ブルトン語で、長い石の意〕巨石記念物の一。ほとんど加工を加えずに長大な石を単独で地上に垂直に立てたもの。新石器時代の墓標・記念碑と考えられ、ヨーロッパ西部などに分布。立て石。りっせき。
 
◆メンヒル(menhir)http://p.tl/riO7
ヨーロッパ先史時代に立てられた、単一で直立した巨石記念物(モノリスまたはメガリス)。
「メンヒル」という単語は、フランス語経由で19世紀の考古学者に採用されたもので、ブルトン語の「長い石」を意味する単語に基づいている(現代のウェールズ語では「長い石」は「maen hir」)。現代のブルトン語では、「peulvan」と呼ばれる。
 
現存するもっとも大きなメンヒルは、ブルターニュのロックマリアケール(en:Locmariaquer)にある「Grand Menhir Brisé」(大きな壊れたメンヒル)で、かつて約20メートルの高さがあった。壊れて4つの部分が横たわっているが、約330トンあったと見られており、機械によらずに人間が動かしたもっとも重い物体と考えられる。ほかの地域では、巨石はキリスト教徒によって組織的に倒された。北ドイツでは、かつて多くのメンヒルが立っていたが、今日ではほとんど1つも残っていない。メンヒルの列石も知られており、もっとも有名なのはブルターニュのカルナック列石(en:Carnac stones)で、3000以上のメンヒルが3つのグループに並べられており、数キロメートルにわたって整列している。
 
フランスで2番目にメンヒルが集中しているのは、花崗岩の多いセヴェンヌ(en:Cévennes)にある石灰岩の高原に立つ「Cham des Bondons」である。現在はセヴェンヌ国立公園の中で保護されている。遊牧が確立された時期から、この場所は計画的な焼畑や放牧によって開けた土地にされてきた[1]。一組の球形の丘のように、この場所の自然は女性的な形を思わせる。
 
メンヒルの形は、頂点に向かって四角く先細りになる傾向がある。一般的には荒く刻まれた形である。垂直方向に溝があるものもあり、カルナックではそうした溝は部分的に平らにされている。
 
メンヒルがどのような文化的意味のもとに立てられたのかは、実際的には解明されていない。メンヒルを立てた人々の言語も分かっていない。近年までメンヒルはビーカー人(en:Beaker culture)と結び付けられていた。紀元前3000年代後期の後期新石器時代や初期青銅器時代にヨーロッパに定住した人々である。しかし、ブルターニュのメガリスの時代に関する近年の調査では、起源はもっと古く、6000年から7000年前に遡る仮説が示されている。

スカンディナヴィアでは、メンヒルは先ローマ鉄器時代やその後にも立てられ続けた(en:Menhir (Iron Age)を参照)。通常は死者の灰の上に立てられている。鉄器時代のメンヒルは、孤立して立てられることも、ストーン・シップやストーン・サークルの形で立てられることもある。1世紀には、その伝統はおそらくゴート人によって北ポーランドにもたらされた(en:Wielbark Cultureを参照)。

スノッリ・ストゥルルソンの『ノルウェー諸王列伝』(en:Heimskringla、例:ヴァンランド)によれば、メンヒルは偉人の記念のために立てられた。巨石を立てる伝統は、en:Björketorp Runestoneなどを中間として、ルーンストーンに発展した[2]。

メンヒルは、擬似考古学の思索の題材として好まれている。

メンヒルは先史時代の文化とよく結び付けられるので、漫画『アステリックス』で顕著に取り上げられている。

芸術や文学におけるメンヒルについては、パウル・ツェラーンのドイツ語詩「メンヒル」を参照(英訳はJonathan Skolnik, "Kaddish for Spinoza: Memory and Modernity in Heine and Celan" NEW GERMAN CRITIQUE 77 (1999))。


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