縄文人の反乱 日本を大事に

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法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたもの

2011年11月24日 20時04分39秒 | 色んな情報
法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたもの
●聖徳太子 - http://bit.ly/rARV2V 抜粋
山岸涼子氏の「日出処の天子」を読んで聖徳太子に興味を持ち、次に読んだのが、梅原猛氏の「隠された十字架」。
法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたものだ、とする大変ショッキングな内容でした。
それ以後太子に取り憑かれたように太子にのめり込んでいきます。


私はこの文で初めて知り昔の人はいろんな伝説を持つものだと思った。
特にこれだけ日本国民に愛される人たちは特別なのかとも。


一時は流行った聖徳太子はいなかったという陰謀説の前に調べてみると色いろ有るものだ。


●聖徳太子 - Wikipedia http://bit.ly/vuROn1
●聖徳太子 - 飛鳥の扉 http://bit.ly/vE4siw
 592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ-「聖徳太子」)が皇太子となった。
廐戸皇子(うまやどのおうじ)は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣,冠位十二階や十七条憲法を制定した。
また,四天王寺・法隆寺などを建立した。

 飛鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。
 大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。
蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり,大陸の文化を多くとりいれようとしたり,仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。
物部氏は石上神宮を氏神とし,中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。
この動乱の中で廐戸皇子が登場し,大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。



「聖徳太子」は個人名ではなくは、後世「厩戸皇子」につけられた称号(諡号)です。厩戸皇子が推古天皇の摂政として活躍した時代には「聖徳太子」という称号はありませんでした。

「聖徳太子」と呼ぶとき、それは「厩戸皇子」以外の誰でもありません。ただし、「聖徳太子」の称号が一人歩きし、様々な伝説・信仰を生みだしてしまったのは確かです。

と書いてあったけれどもそれが事実とすれば安倍晴明や空海や役行者の様に死者を蘇らせて使役として使った。


伝説とは面白いもの。
蜂須賀小六が一夜城を作ったのも似たものなのかな。
実際にはシテイない起こっていないことをさも有ったように創作してその人の伝記に塗り固めていく。
事実ブラス創作が多いのかな。

●【聖徳太子謎紀行】 http://www.shoto9taishi.com/

●聖徳太子とは誰のことか http://bit.ly/rs3nq0

●聖徳太子と法隆寺 http://www2.biglobe.ne.jp/~t-iwata/horyuzi.htm

●聖徳太子 http://bit.ly/vbekbg 抜粋
 「聖徳太子とはどんな人?」と問えば、多種多様の返事が返ってくるでしょう。

逆に言えば、聖徳太子を知らない人はいないと云っていいのでしょう。

こういう人って他にどんな人がいるでしょう。

「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」ッてところですかネ。

次のレベルに行くと「卑弥呼」、「神武天皇」、「中大兄皇子」、「藤原道長」「平清盛」、「源義経」、「足利尊氏」、「徳川慶喜」でしょうか。

それにしても聖徳太子の知名度はなんなんでしょう。私のようなちょっと歴史好きの人間を始め、一般的にいってイメージや知識といえば以下のようになるのではないでしょうか。

   1.馬小屋で生まれた。
   2.推古天皇を助けて、冠位十二階、憲法十七条を作成。
   3.仏教を保護し、広めた。
   4.一度に十人の話を聞いた。
   5.法隆寺を建てた。

こんなところではないでしょうか。

このHPは聖徳太子に対する知識やイメージをさらに深いものにしていただくために稚拙ながら作ってみました。


このページなどは面白かった。

最近では 坂本龍馬の方が知名度は高いと思うけれども、
空海なども知名度は高い。

こんな人が現代に一人でも蘇ったらどうするかな。


●聖徳太子陵 http://inoues.net/tenno/shoutokutaisi.html
●聖徳太子墓/太子町ホームページ http://bit.ly/tSYidt
●聖徳太子像摂政像(仏像事典写真画像付き) 仏像ドットコム・東洋仏所 http://bit.ly/uWIh41
● http://bit.ly/txgUu3


いろんな説もあり 色んな名所有るようだけど金と時間のない私などはネットで上のようなサイトを巡り楽しんでいる。

どうも子供の頃から言われて聞かされた事から抜けられなくて系統立てて頭の中では整理しきれていない分が多分にある。

それでも先に書いた空海などと一緒で生活の一部になっているのは間違いない。

日本人て素晴らしいとつくづく考える今日この頃です。

弘法大師・空海(774-835) 凡才らはつかみ所のない大人物

2011年11月24日 17時22分16秒 | 色んな情報
弘法大師・空海(774-835) 凡才らはつかみ所のない大人物
●空海 - Wikipedia http://bit.ly/vK1hA1


空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれました。
幼名は佐伯 眞魚(さえき の まお(まな))。
といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学びます。

正式に出家したのは20歳の時。
はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗ります。
「空海」の名は、四国の室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとのことです。

彼は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なことも学んでいますが、22歳か25歳のころ経蔵の中で「大日経」を発見、内容に興奮します。
しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいませんでした。
彼は中国へ渡ることを決意します。

●大日経【だいにちきょう】http://bit.ly/vQS3WA
百科事典マイペディアの解説.
大乗経典の一つ。
7巻。唐の善無畏(ぜんむい)が漢訳。
真言宗三部経の一つ。
大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来(大日如来)が自由自在に活動し説法する様を描いた経典。
教理は第1章で,他は実践行の象徴的説明である。
7-8世紀頃成立したと考えられている密教経典である。

●【真言系の流れ】http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/singon.html
【宗祖】弘法大師空海
【本尊】大日如来
【経典】『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』
【総本山】金剛峯寺

●大日如来 - Wikipedia http://bit.ly/s60Q0e
大日如来(だいにちにょらい)、梵名 マハー・ヴァイローチャナ (महावैरोचन [mahaavairocana])は、密教において宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。
その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。

三昧耶形は、金剛界曼荼羅では宝塔、胎蔵曼荼羅では五輪塔。種子(種字)は金剛界曼荼羅ではバン(vaM)、胎蔵曼荼羅ではアーク(aaH)またはア(a)。



25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていません。
また渡航に必要な巨額な費用をどうやって調達したかも分かっていません。
ともかく、空海は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でした。

当時遣唐使は「よつのふね」とも呼ばれ、4艘の船で渡っていましたが、この時一行は嵐に遭い、第3船と第4船は沈没し、多くの留学生が命を落としました。
空海はこの時第1船に乗っており、第2船には彼の生涯のライバルとなる最澄が乗っていました。
最澄は空海と違って当時既にかなり名をなしており、身分も国費留学生でした。
この時はまだ二人は出会っていません。

●「よつのふね」【四つの船】 遣唐使の船。通常、一行が4隻の船に分乗したところからいう。提供元:「デジタル大辞泉」
全盛期は400人以上の船団もあった。


中国についた空海はまず梵語を勉強します。
それは仏教の聖典が多くはもともと梵語で書かれており、それをマスターしておくことは教えの深い部分を知るためには必須と思われたからです。
彼はそのほかにも当時中国にあった種々の文化を修得しました。
儒教や道教はもちろん、キリスト教・ゾロアスター教・マニ教なども勉強したといいます。
その一方で彼は多大の資金を投入して、日本に持ち帰るための仏典の筆写をやらせ、多数の仏教の法具を購入しました。


●いろは歌 - Wikipedia http://bit.ly/u8Ayhc
●『いろは歌の意味 仏教 のお経がもとそれとも暗号文?』 http://amba.to/vCphJc


これで解るように空海といろは歌とキリスト教を結ぶ暗号の道が繋がって来る。
短期間に良くもこれほどのものを勉強したと思う。
モノによっては超人扱いした表現のあるのも頷ける。
龍馬や聖徳太子とはマタ違った超人ではなかったか。



中国についてから1年近くたった時、彼は満を持して青龍寺の恵果のもとを訪れました。
恵果は密教の大きな二つの流れ「大日経」系と「金剛頂経」系を共に継承した、中国密教の頂点に立つ僧でした。


●恵果 - Wikipedia   http://bit.ly/uyH7Wg
●真言密教の伝持の八祖 http://bit.ly/uFPlCn


●金剛頂経 - Wikipedia http://bit.ly/uqk82B
『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)は、『初会金剛頂経』(sarvatathāgatatattvasaṃgrahaṃ nāma mahāyānasūtraṃ:『一切如来の真実を集めたものと名付ける大乗経典』略して『真実摂経』(しんじつしょうきょう)ともいう)を編纂したグループが次々と生み出していった「金剛頂経」系テキストの総称である。
「金剛頂」(vajraśekara)という名前の由来は、『金剛頂タントラ』(vajraśekharatantra)にあるといわれている。


この伝授は3ヶ月後の恵果の死によって終了しますが、その間に彼は10年かからなければ普通伝えられない程のものを恵果から学んだといいます。
恵果の法嗣を受けたのはこの空海と中国僧の義明の2人だけでしたが、義明はその後若くして死んでしまい中国側の法灯は途絶えてしまう。
そのため、密教の正統はこの時、中国を離れて日本に渡ることになりました。

高雄山寺で真言宗の法灯をかかげることができた彼の許には最澄も自分の弟子を連れて入門しました。
(二人はその後理趣経の扱いで対立、袂を分かつ)


●最澄 - Wikipedia http://bit.ly/seq1DV
神護寺 - Wikipedia http://bit.ly/uKdN2I  高雄山寺
神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院。仏塔古寺十八尊第七番。
神護寺(じんごじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前、神社に付属しこれを管理した寺のこと。神宮寺または別当寺と同義。


中国で学んだ知識を活かして各地の土木工事の指揮を取ったり、また庶民教育のための学校を設立するなど、非常に精力的な活動をしています。

四国での治水事業は云う有名な話で先日も四国の人に現在で使われているものだと聞かされた。

また、彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に彼は嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆と呼ばれることになりました。
また絵画や彫刻の才能もあったということで、彼は宗教家としてのみでなく、社会事業家・芸術家としても精力的に活動をした。

先行きが短いことを知った空海は京を離れ、高野山に籠ります。高弟の一人の真雅を法嗣として指名(東寺を実慧,神護寺を真済, 東大寺真言院を真雅に託した)、伝法灌頂を授け、最後の力を振り絞って衆生済度のために万灯万華会をした。


●真雅 - Wikipedia http://bit.ly/rUpsdY   空海の実弟
●法嗣 - Wikipedia http://bit.ly/tAHSty   法嗣(ほうし、はっす)とは、師匠の教えを受け継いだ人のこと。
●東寺 - Wikipedia http://bit.ly/uOS1vI   東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院
●実恵 - Wikipedia http://bit.ly/tZdyrz   実恵(じちえ/じつえ・実慧)空海の十大弟子の一人。
●真済 - Wikipedia http://bit.ly/s1bi4c   真済(しんぜい)空海の十大弟子の一人。
●東大寺真言院 http://bit.ly/uNegEk http://bit.ly/uX4dnp
●伝法灌頂 - Wikipedia http://bit.ly/rT6WAK 伝法灌頂(でんぼうかんじょう)とは、阿闍梨(あじゃり)という指導者の位を授ける儀式である。http://bit.ly/srROvm
●阿闍梨 - Wikipedia http://bit.ly/sf1p2T 阿闍梨(あじゃり、あざり、サンスクリット:ācārya アーチャーリャ、阿闍梨耶とも音写)とはサンスクリットで「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり法を教授する師匠のことである。
●万灯万華会http://bit.ly/vZOPBb http://bit.ly/ts1pyC http://bit.ly/shcXVR  
●サンスクリット - Wikipedia http://bit.ly/sfutpr サンスクリット (梵: संस्कृत; saṃskṛta, Sanskrit) は古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。


そして結局2年間の闘病生活を経て承和2年(835)3月21日死去しました。
そして多くの伝説が生まれた。

空海の伝説は全国各地にあり、しばしば温泉を見つけたり仏像を刻んだりまた各種の奇跡を起こしたことになっている。
日本の温泉の3分の1くらいは、伝説で空海か役行者(えんのぎょうじゃ)が見つけたことになっているかも知れない。


●役小角 - Wikipedia http://bit.ly/vQr2m7
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。

実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)といい、修験道の開祖とされている。


天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈しました。
そして、更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号を贈り、彼の遺徳を讃えました。


●文徳天皇 - Wikipedia http://bit.ly/t4hwir 日本文徳天皇実録 - Wikipedia http://bit.ly/rWdUYj
●僧正 - Wikipedia http://bit.ly/sEY2iA 僧正には大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の4つがあり大僧正が僧官制の頂点に位置づけられた。
●諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。
「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。http://bit.ly/u1kKDq
●号 (称号) - Wikipedia http://bit.ly/vXuYpt 号(ごう)とは、名や字以外に人を呼ぶ際に使われる称号。


最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになった。

●大師 (僧) - Wikipedia http://bit.ly/uePCMZ
大師(だいし)は、中国・日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の 一種で、多くは諡号である。


当初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていたが、正法をひろめて人々を救済 する「弘法利生」の業績から「弘法大師」の諡号が贈られた。
大師号を贈られた僧は他に もいるが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師をさす。


この人はヤハリ超人の一人だ。
調べれば調べるほど凡才の頭では理解出来ない大きな人物像になっていく。
お大師様と言われる所以かな。