南米のウルグアイ東方共和国 モンテビデオ市の住民より

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都市伝説 マシロッティ編その1

2009-08-13 | 社会 政治


禁断の子?マシロッティの遺言 その1

モンテヴィデオ市内にある中央墓地の前を車で通る度に、とある都市伝説化したお宝事件を思い出す。
そのお宝事件は、国内で数冊の書物が出版され、テレビやラジオの番組で未だに取り上げられ市民で知らない人はいないくらいである。

事の始まりは、1824年にミケーレ・マシロッティ氏がモンテヴィデオ市で出生、その子供のアンジェロ・マシロッティ氏(イタリア生まれ・アメリカ移住)が、父の遺言として生前、「モンテヴィデオの中央墓地内にお宝を埋めてきた」と聞き取ったことから。そしてその内部地図まで書き残して亡くなった父の遺志を継いで、1874年、1904年の2度のわたり、移住先であるアメリカから、内戦中であったウルグアイへ遺産探しにきたのであった。が、その当時、政治・治安が安定せず、内乱の銃撃戦に巻き込まれたりなど思うように事が進まず失意の内に息子も死去。しかし彼には、その様子を幼少から見てきた娘がいた。娘クララ・マシロッティ女史が初めてモンテヴィデオに到着できたのは、第二次大戦が終了し世界が落ち着き始めた頃。


(写真・その当時の新聞記事・発掘開始とクララ女史・トンネル・風刺画)

クララ女史が1951年に、モンテヴィデオ市民がすっかりその存在を忘れていた地下トンネルを発見した時は、国中の期待は絶好調に達したが、決められた市役所との発掘許可はその5年後1956年の2回目の調査へと持越しされる。がそして1971年にも。通算3度に渡る調査の結果発見されたトンネルには、19世紀の落書きらしきものがみつかった他に痕跡はなかった。

お宝の内容は、聖杯、15-6世紀の歴史的書物、古代インカ時代の金の装飾品などなど。マシロッティ家には、クララ女史の祖父が言い残したそのお宝の一点一点の詳細が伝えられている。3世代100年以上に渡って、モンテヴィデオの墓地に眠るとされるお宝を追い続けたマシロッティ家には何があったのか?
この続きは次回に・・・・


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